【14】ライダー若夫人02 (“ブロック”視点)
次の日、美術館の入口に立つ警備員が、ライダー侯爵家の馬車が訪れた事を館内に通達した。貴族の出入りはこうして職員たちに周知され、共有される。何か問題が起こった時に「把握していなかった」というだけで大騒ぎになってしまう事もあるからだ。
ライダー夫人が再訪した事は、驚くことではなかった。何せ彼女は昨日、まともに作品を見ていない。いつもの彼女なら一つの作品について、最低でも十分ぐらい熱烈に見つめていた。昨日の滞在時間では足りないのは当然の事だ。
だが、いつも通り付き添いの従者と共にカンクーウッドに足を踏み入れた彼女の姿に、職員たちは驚き、硬直し、或いは二度見した。そんな職員の反応にライダー夫人本人は気付かず、入館後すぐに展示会会場西四番ホールに歩いていく。入館料についていつも通り手続きを行う従者は職員たちの反応に目はやれど、何も言わずに主を追っていったそうだ。
展示会場に待機していた私は、四番ホールに足を踏み入れてきたアナベル・ライダー夫人に驚いた。
彼女のスタイルは昨日までの物から一変していた。
今までの、少し古臭いドレスではない明るい青地のドレスは、彼女の体のラインを綺麗に見せていた。普通の女性よりも背が高い彼女のそのスタイルを、見事に美しく仕立てている。
胸元から腹部あたりまでは殆どは青一色。ところが腰のあたりから花柄の刺繍が広がりだす。刺繍はそのまま花畑が広がっていくように、ドレスの裾まで余すところなく、けれど詰め込み過ぎにより目が痛くない絶妙なバランスでドレスを彩っていた。夫人が動く度に光に反射して煌めく。刺繍に使われている糸によるものだろう。
刺繍以外も、ところどころに差し色として入れられた黒と緑の線や模様も美しい。あまり目立ちたがる性格ではなさそうなライダー夫人に似合った、落ち着いた外出用のドレスと言えた。
高貴な身分の女性のドレスらしく、首元や腕の肌の露出を避けるために装着した手袋などは品のある黒で、こちらも良く見れば刺繍が施されている。
ドレスの雰囲気に合わせて、彼女の顔を彩る化粧も雰囲気が変わっている。今まではある程度健康さを示しつつも、服に合わせた落ち着いたトーンの化粧であった。
今日の化粧は、青の明るさに合わせたように若々しく、化粧を施した使用人の気合の入りようが伝わってくる。まだ二十に満たない筈の若き女主人が初めて年相応の装いをした事に、さぞ興奮し、力が入った事だろう。
ライダー夫人は従者を傍に控えさせながら、いつもの通り入り口の作品から見始めた。私は彼女が作品を見つめる目に、何かいつもと違うものがあると感じた。言語化は難しいが、普段の彼女の視線が絵画や彫刻を通して内に向けられていたのに対して、今日の彼女の視線はそのまま、芸術作品そのものに向いているように感じたのだ。
もしかすれば、昨日共に来たアボット若夫人が絵画を購入しようとしたのに触発されたのかもしれない。私は展示会場にいる職員たちに、もしライダー夫人が作品についての説明を求めたり、購入を希望した時は、彼女を驚かせたり不安を感じさせたりしないように対処するように通達をした。
展示会には彼女以外の客も多い。他のお客様たちにも目を配りつつ、私の意識からライダー夫人が外れる事はなかった。
会場を半分ぐらい進んだ彼女は、アルトゥールの『王都の歓声』とオートレッドの『ビーツ海』という絵画の前で立ち止まった。一瞬彼女がこのサイズも大きな二つの絵画に目を取られたのだと私は思ったが、すぐに違う事に気が付いた。
アナベル・ライダー夫人が見つめていたのは、その二枚の間に哀れにも飾られた0号の絵画。ガーデナーの『デイジー』だった。
彼女の目は、作品を品定めするような目ではなくなっていた。深く深く自己を掘り下げるような真摯な視線だった。
それを受けた『デイジー』は己が出来る最大限でもって、彼女の言葉に耳を傾け、返事をしたように思う。いや、もしかすれば、『デイジー』は返事をしたのではなく、ライダー夫人を呼んだのかもしれない。
今まで誰にもまともに見られる事も無かった。それでもただ咲き続け、つぼみを広げて光を得て美しい姿を見せる事こそが己の最大級の働きと知る花の、切実な呼び声。誰もが気が付きもせずに忘れ去られていったその声に、ライダー夫人が初めて気付いたのだ。少なくとも私にはそう見えた。
そっと彼女から見て、一番近い位置に私は移動した。ガーデナーの絵を説明するのなら、他の職員では力不足だ。私が対応する事こそ、この出会いに関わった全ての人間に対する最大限の敬意ある対応となる。
ライダー夫人がゆっくりと、周囲を見渡す。そして傍にいた私に目を止めた。ヘーゼルの瞳は柔らかく暖かい色をしていた。
「ごめん下さいな」
「はい、なんでございましょうか」
私が近づくと、ライダー夫人は次に伝える言葉に迷って言葉をしまい込んでしまった。何とかひねり出した言葉も、続きが作れずに崩れて消えていく。
私は彼女の反応はさほど気にせず、作品の説明を行う事にした。
「こちらの『デイジー』はガーデナーという絵描きの描いた絵なのですよ。ガーデナーは自然、そして花を愛する画家でございましてね。色々な花や自然の風景を描いております」
「…………そうなのですね」
自分で言葉を発するより、相手の言葉に相槌を打つ方が遥かに楽だ。ライダー夫人は少し落ち着いて、少し沈黙しながら自分の中で情報をゆっくりと整理していた。
そんな彼女の斜め後ろから、従者が声をかける。
「購入なさいますか」
それに少し驚いた様子を見せて肩を少し揺らしながら、夫人は頷いた。
「そ、そうね。ええ、そうしたいわ」
「ありがとうございます、夫人。ガーデナーも喜びます」
心からの言葉だった。
その後は従者と会話をしたが、どうやらこの従者も絵画を購入する経験は今まで無かったようで、私は一般的なこのサイズの作品の相場を伝えた。それを聞いた従者は少し考えてから、その相場の二倍の値段を書き記し、ライダー侯爵家を示すサインと己の名前を書き記した。
主人であるライダー夫人との間に相談はなかったが、出発前に話し合っていた可能性はあるし、そうでなくても常に付き添う従者ならば、普段から主人が出せる額というのは把握しているものだ。必ず手に入れたいという主人の心に従い高めの値段を提示してくる従者も多い。なので私は何も言わず、そのサインされた紙を丁寧に懐にしまった。
私たちがそうしたやり取りをしている間も、ライダー夫人は『デイジー』を見つめている。その姿を見ながら私は、一人の男の元に向かう予定を組み立てていた。
■
展示会の開催期間を終えると、職員たちは全ての作品を作者毎に集めることになる。
基本的にカンクーウッドで行われる展示会の作品は存命の作家の新作が多いが、中には亡くなった作家の作品を、手放したいと預けに来る事も多い。
どちらにせよ、出品元毎に集め、次にどの作品にどの値段で誰が購入を希望したかの情報を集める。それらの情報が整理し終われば、作者の元に報告を行い、購入希望者がいなかった作品は手元に返すか、或いは画廊などにそのまま送るかなどをの話し合いをする。購入希望者がいた作品は、そのままその人物に作品を渡すかどうかの話し合いを行う。
基本的には職員たちに任せる仕事であるが、一部の作家は私が直接出向いている。芸術家というのは気難しい人間が多いので、そうしなければならない人もいるというだけの話だ。私としては交友のある芸術家が無理な生活で体を崩していないかなどを確認できるので、むしろ喜んで行っているが。
そんな中で、私はある貴族の屋敷に馬車を走らせた。
王都にある屋敷の広さだけでかなりの広さがあるその貴族の家の土地に馬車が入り、その後も馬車を走らせる。本邸は後で顔を出せばよいだろうからと素通りし、馬車は走り続ける。
大分走らせた後、池が見えてきた。元々あった水源を、人工的にも整えて造られた池。その池を見渡せる位置に、本邸に比べれば遥かに小さな家が建っていた。屋敷と呼ぶのは、流石に難しい。ただその家の用途は人間が暮らしていく……という物ではない事を加味すれば、十分すぎるほどに広い家だった。
馬車が止まり下りれば、見慣れた顔があった。
家の前に立つのはこの家の維持管理も行っている男だ。私が会いに来た相手に仕えている事もあり、彼が幼い頃から交友がある。
「ようこそおいで下さいました、館長」
「やあパーシヴァル」
「わざわざ館長においで頂き恐縮なのですが……主は本日、虫の居所が良くないのです」
「気にしないとも」
私を出迎えたパーシヴァルの言葉から、あまり会わせる事に前向きではないのは分かっていた。彼には悪いが、だからといって帰る予定は私にはない。これでもそれなりに忙しく、日々日程が詰まっている。彼との話し合いは、さっさと済ませるに越した事はないのだ。
パーシヴァルは私を案内した。この家にも何度も通っているので、歩く内に目的の人物がいるのは普段絵を描いているアトリエだと想像ついた。……まあ、そもそもこの家自体が、広いアトリエみたいなものなのだが。
「ジェレマイア様、館長をお連れしました」
パーシヴァルが室内に向かって声をかけるが、中からの返事はない。数度ノックと声掛けを繰り返すが返事がないので、パーシヴァルは軽く首を横に振ってからドアを開けた。
普通であれば許されない行動であるが、それが許されているのは、室内の人物とパーシヴァルが深い友情を築いているからにほからない。
アトリエの真ん中に、目的の人物はいた。
画家ガーデナー。――本名、ジェレマイア・コーニッシュ。
今はジェレマイア・コーニッシュ・ウェルボーンと名乗る事もある。
とはいえ、ここではガーデナーと呼ぶべきだろう。今日は幼い頃から顔見知りの“おじさん”として彼に会いに来た訳ではないのだが。
ドアの開く音は聞こえていたはずだが、彼は振り向きもしなかった。ただただキャンバスに向かっているが、その絵の進捗が良いようには全く思えない。両手は膝の上にいっており、近くにはパレットもない。彼が長い事絵具を使っていないのが見て取れた。少なくとも、今日は使っていない。アトリエそのものには染み込んだ絵具の匂いがあるが、真新しい匂いは少しもないからだ。
パーシヴァルは何とも言えない顔をしている。機嫌が悪いのは確かに分かった。無言で、話しかけないでくれというオーラを発しているのが分かる。
だが、不機嫌を表現するのが、この程度ですむのはマシだ。
芸術家にしろ音楽家にしろ、何か一つを極めている人間というのは精神的に不安定な者が多い。うまくいかない苛立ちに、物を破壊したという話はよくある事だし、なんなら暴力に出てしまう者だっている。勿論全員が全員ではないし、自分の精神を落ち着かせる術を学んでいる者もいる……全体的に見れば、理性よりも感性で仕事をしている分、突発的に動いてしまう率は高いように思う。……私が個人的に知りあってきた者たちを見るにという話なのだが。
そんな中で、無言でアピールするだけ……まるで駄々をこねる子供のような態度を取るだけなのは、全然マシであった。
「ガーデナー。『デイジー』に購入希望者がいたよ」
その一言にパーシヴァルは明らかに表情を変えたし、ガーデナーも振り返らないものの、僅かに顔を上げた。
「館長、本当ですか?」
「勿論。今日はその件について相談に来たのだから。うちの展示会では、どれだけ購入希望をする人がいても、元の持ち主が認めないなら売買契約は成さない方針だからね」
私はガーデナーの横まで歩いていく。
ガーデナーはゆっくりと顔を上げた。少し眠れていないのか、目元には隈がうっすらと出始めていた。
「……かわれた? えが?」
少し虚ろな声に私は頷いた。
「ああ、君の絵が欲しいとね。希望額は十二万デル」
「十二万……!?」
ガーデナーは僅かに目を見開き、パーシヴァルは金額を声に出した。
今まで絵がまともに売れず――ハッキリ言えばほぼ無価値のような値段でしか売れなかったことを思えば、十分すぎる金額だ。そういう反応にもなるだろう。
「どなたが購入を希望されたのですか、館長」
「パーシヴァル。落ち着いて。それも説明するとも。……購入希望者の名前は、アナベル・ライダー夫人という」
「アナベル…………ライダー? ライダー侯爵家にそのような名前の人はいたか?」
ガーデナーは声の調子を取り戻した。恐らく絵の事から離れ、貴族の話題になった事で意識が画家から貴族男性として切り替わったためだろう。
どうやら彼はライダー夫人について覚えがなかったようだ。仕方のない事だろう。ガーデナーの、社交界離れは私よりも酷い。絵に傾倒し描きまくっているため、滅多な事では社交の場に現れないと言われている。
貴族の人間関係図も、少し古い情報で止まっているらしい。
一方でパーシヴァルは顔をゆがめた。
「……それは、ライダー侯爵子息ブライアンの妻の名前ではありませんか?」
「ええ。流石パーシヴァル。よく知っている」
私が褒めれば、パーシヴァルは苦笑した。
「主がこんな調子ですからね。……ですがそうですか……」
「何か問題があるのか」
ガーデナーの問に、パーシヴァルは少し私の顔色を窺いつつ答えた。
「あまり良いものはない、と言いますか……。確か、その夫人の生家はブリンドル伯爵家です」
「あの?」
「ええ、ジェレマイア様が思い浮かべた家で間違いありません。そこの長女がブライアン子息に熱烈にアタックされて結婚したというのは、当時かなり話題にもなりました。どんな美女にも靡かなかったブライアン子息を一目惚れさせた、と」
「彼がそんな事を……」
ガーデナーはとても親しい……とは言えないが、一応ブライアン・ライダーともお互いに名前と顔を一致させる程度には関わりがあった。そのためガーデナーの中のブライアン像と、パーシヴァルの口から出てくるブライアン像の僅かな隔たりに違和感でも感じたのかもしれない。そんな複雑な心境が垣間見える声だった。
「ただ、結婚後が異様な夫婦ですね。結婚後、妻は一切の社交に出てきませんでした。どこの家の夫人が誘いを出しても、全てブライアン子息が断りの手紙を送ったというのです。一部ではブライアン子息が奥方を熱烈に愛するが故に外との接触を断ったとも、体が弱いとも言われましたが……そんな訳はないと思うのですよ」
「なぜだ」
「王都内でよく外出されているのです。貴族夫人としての責務でもある社交には一切出ないにも関わらず、王都内の美術館、劇場、音楽会等では姿を見かけるため、体が弱い訳はありません。ブライアン子息が外との接触を禁止しているというのなら、外に出掛けているのもおかしいでしょう。そんな風ですから、あまり良い噂はありませんね……」
「そうか。……ブロック館長。貴方の意見は?」
ガーデナーが従者から私に視線を移していたので、素直に答える。
「訳アリではあるかと思うけれど、そのあたりを深掘りする理由は私にはない。ただカンクーウッドによく訪れる一客としての印象を述べれば…………最近、やっと花瓶に水を注がれて息を吹き返した観賞用の花、という感じだろうか」
言ってから、中々に的を射ている気がしてならない。特に、『デイジー』を買いに来た日の彼女の姿を見たら、そう言い表すのが正しかったと思うのだ。
ああでも、花瓶ではなく鉢植えの花で例えても良かったかもしれないが。
「人格的な話をすれば、侯爵家の夫人には不足な所のある性格はしていらっしゃるが、芸術への思いが偽物という事はない。何せ一枚の絵画の前で一日をつぶしたり、カンクーウッドを半月近くかけて、全ての作品を観賞するぐらいだから。カンクーウッドだけではない、王都の主要な美術館は全て回っているよ。今回の…………ふふふ、『デイジー』の前で立ち止まった彼女の様子は、是非ガーデナーにも見せたかったものだ。すぐ横に目立つ絵画があるにも関わらず、『デイジー』だけをずっと見つめていたよ。金額を定めたのは従者だが、従者が、主人のために物を手に入れたいと思う心境は君にもよくわかる事だろう、パーシヴァル」
前半はガーデナーに。そして最後はパーシヴァルに向けて言えば、パーシヴァルも複雑そうに黙った。確かに社交界での、ライダー夫人の噂は良いとも言い難い。
まさに人々が想像する王子のようなルックスをし、多くの令嬢から人気のあったブライアン・ライダー令息。彼と結婚したというだけでも羨望と嫉妬の的だというのに、結婚後は一切仕事をしていないという状態にしか見えないのだから。
ただそのあたりの事情はライダー家独自の話なので、踏み込んだりはしない。
「さて、ガーデナー。どうする。決定権は君にある。『デイジー』をアナベル・ライダー夫人に売り渡すのか。それとも、画廊にまた安く買いたたかれるか。好きな方を選ぶといい」
ニコリと微笑んで言うと、ガーデナーは眉間に目立つ皺を寄せてみせた。何かを言われると眉を寄せて皺を作るのは、本当に幼い頃から変わらない癖だなと思いながら、私は一人の画家の選択を大人しく待った。




