657 慌てる鼬
ファルウィーゼルは恐るべきニンゲンに背を向けて、まるで本物の鼬のように地を蹴り、草の影を走り抜けた。
そんな彼が足を止めたのは、走り始めてからおおよそ5分も経ってからのこと。
<<<ひッ、ひッ、ひッ......>>>
恐る恐る......呼吸音を必死で抑えようとした結果として、ぎこちなく息を吐きながら振り返った彼の視界に、ニンゲンは映っていなかった。
どうやら、逃げきれたらしい。
<<<ひッ、はぁーーー......ふぅーーー......>>>
それを確認したファルウィーゼルは、ようやく安堵の息を吐き、ふわりと空中に浮かびあがった。
<<<キ......キキキッ!所詮はニンゲン!闇夜駆ける疾風の如きオイラの走りには、追いつくことはできなかったようだなッ!キキキキキキッ!>>>
そして途端に調子に乗って、空中で輪を描くようにくるくると回りながら、大笑いした!
息つく間もない、大笑いだ!
......そもそも精霊であるファルウィーゼルには、呼吸は必要ない。
<<<でも......一体何なの、あのニンゲン。大精霊すらぶっ殺すとか、ありえないでしょ>>>
しかしその上機嫌さにも、すぐに影が差す。
同胞の仇である、あのどす黒いニンゲン。
その姿を思い出すだけで......ファルウィーゼルの体は震え、くるくる回る気力すら萎えてしまうのだ。
<<<あれは......オイラの手には、負えないよ。あんなのに戦いを挑むなんて、馬鹿のすることだ。それは、オイラの仕事じゃない。オイラにはもっと、馬鹿な他の精霊たちを指揮手配してやるような仕事こそ、相応しい>>>
それなのに、自分は中精霊だから、そんな役割は与えられない。
全く忌々しい、精霊の森の年功序列問題!
適正を全く無視した人事配置!
ファルウィーゼルは延々と、一柱で愚痴をこぼし続けた。
◇ ◇ ◇
<<<はああーーー......これからどうしよう?>>>
さて、ファルウィーゼルの独り言が終わったのは、それから5分後。
ここに来てようやく彼は、これからの自分の身の振り方について考え始めた。
<<<あのジジイが死んで【衆号】の効果は切れた。もはやあのニンゲンとの戦いを強制する何物も存在しない>>>
それは、喜ぶべきことだ。
せっかく生まれた持った自分の素晴らしい頭脳を活かすことなく、無駄死にせずに済む。
<<<だけど大前提として、オイラたちは森の精霊王様から、この森にニンゲンを入れるなって命じられてる......だからジジイがいなくても、本当はあのどす黒いのを、無視するわけにはいかないんだよ、ううーーーッ!>>>
しかしファルウィーゼルは、精霊の森の警戒任務を王から命じられている以上、森に入りこんだニンゲンを無視することは許されないのだ!
ファルウィーゼルは体を丸めて、短い前足で頭をぐしゃぐしゃとかきむしった!
<<<ううーーーッ、ううーーーッ......逃げる?森から逃げる?ダメだ、精霊王様が、お許しにならない。きっとすぐに見つかって、何か恐ろしい目にあわされるに決まってる!ううーーーッ、どうしたら良い?どうしたら、オイラは助かる?オイラはニンゲンを、どうしたら良い?ううーーーッ!>>>
ファルウィーゼルは、悩んで、悩んで、悩んで......。
<<<........................あーーーーーーッ!!!>>>
突然、目を真ん丸に見開いて、叫んだ!
<<<そうだッ!あいつが、いたじゃないのさーーーッ!!!>>>
そう!
ファルウィーゼルはようやくここで、嬲るだけ嬲って放置していたもう一人のニンゲン!
狂犬姫ルクトリアの存在を、思い出したのだ!
<<<そうだッ!オイラは侵入者であるルクトリアに、対処しなければならないッ!でも、さすがは狂犬姫ッ!最強賢獣中精霊たるオイラと言えど、思わず手こずる強さだったッ!だからオイラは、あのどす黒いニンゲンに構っていられなかったんだッ!ああ、残念だなーーーッ!オイラが本気を出せば、あのどす黒いのもイチコロなのになーーーッ!狂犬姫を放置するわけには、いかないんだもんなーーーッ!キキキキキキッ!>>>
自己保身のためのストーリーを組みあげたファルウィーゼル、甲高い笑い声をあげながら、風のような速さで飛んだ!
目指す先は、先程ルクトリアを置いてきた地点である!
思いの他時間も経ってしまったから、きっと食べようと思っていたあの少女の魂は既に身体から抜け出て、輪廻の輪に戻ってしまっているだろう......。
でも!
もはやそんなことは、どうでも良い!
ルクトリアの身体さえあれば、ファルウィーゼルは森の精霊王に『こいつと戦ってたんですー、どす黒いニンゲンと戦ってる暇、なかったんですー』という言い訳ができる!
しかも、そういえばどす黒いのとの戦いで、軒並み同胞はいなくなっている!
つまり、生き残るだけで大出世は間違いなしだ!
ファルウィーゼルの賢さを前にして、馬鹿な小精霊たちや“森の精霊王が飼っている”ヒュプエト精霊国のニンゲンたちが、皆ひれ伏す!
そんな時代が、待っている!
まさに、完璧な計画!
土壇場でこんなことを思いつけるなんて、さすが自分はかわいらしくスマートで賢くクレバーでジーニアスな天才最強賢獣の中精霊ファルウィーゼルだぜーーー!
そうやって自画自賛を続け、ニヤニヤ笑いながらファルウィーゼルは飛び続けた!
彼にはもはや、栄光の未来しか見えていない!
......どんなに穴だらけのアイデアも、思いついた直後は輝いて見えるものだし。
どす黒いニンゲンから与えられた極限の緊張状態から抜け出した直後であったこともあり。
ファルウィーゼルは、とにかく......未だかつてない程、必要以上にご機嫌だった!
◇ ◇ ◇
<<<はあああああーーーーーーッ!?>>>
......だがしかし、物事はそううまくは転ばない!
ファルウィーゼルが、ルクトリアと別れたその場所にたどり着いたその時!
そこには!
......誰も、いなかった。
<<<は!?は!?は!?>>>
ファルウィーゼルは目を真ん丸に開いて、困惑の叫び声をあげながら、あたりをキョロキョロと見回した。
しかし、残念ながら。
そこに、転がっていたはずなのに!
どこを見ても......ファルウィーゼルが見た目だけは気に入っていた、あの金髪碧眼の少女の姿はなかった!
この森には、ニンゲンを襲うような危険生物は、精霊以外は存在していない。
ガウーガブを筆頭に、精霊たちが狩り尽くしている。
だから、魔物やら何やらに食われた、というわけではないだろう。
【衆号】による強制動員があったので、他の精霊がちょっかいをかけたわけでもない。
つまり。
<<<あのガキ......逃げやがったッ!死んだふり、してやがったなーーーーーーッ!?>>>
......そう、それが真実である。
【風膜】によって捕らわれ、徐々に空気が奪われる中......ルクトリアが選択したのは、死んだふりをするという、実に単純明快な欺きだった。
落ち着いて生死を確認すれば、意味をなさないその欺きに......ファルウィーゼルは、まんまとひっかかったのだ!
<<<キ、キ、キーーーーーーッ!!!ニンゲン、如きがーーーーーーッ!!!>>>
賢く尊ぶべき己をそのような子どもだましで愚弄したルクトリアへの怒りが、ファルウィーゼルの顔を真っ赤に染める!
血走った目で周囲を見回すと、一区画、光り輝くはずの下草が折れ、萎びている箇所があった。
それこそは、空すら飛べない下等なニンゲンであるルクトリアの、足跡である!
<<<キ......キキキッ!!!バーカバーカッ!!!ニンゲンの浅知恵など、このファルウィーゼル様には......って!?>>>
と、ここでファルウィーゼルは、さらなる事実に気づく。
ルクトリアが、進んで行ったその方向。
その先にあるのは......精霊たちの聖域!
森の精霊王様がおわす巨木に......お花畑!
断じて、ニンゲンを近づけて良い場所では、ない!
<<<なんでなんでなんでッ!?なんで、そっちに向かっちゃうかなーーーッ!?>>>
ファルウィーゼルは、今度は真っ青な顔で叫んだ。
聖域にニンゲンを近づけた!?
それはまずい、己の、責任問題に発展する!
......実を言えば、ルクトリアが聖域に向かって進んだのは、ファルウィーゼルが【衆号】の効果を受けた直後、その方向に向かって罵詈雑言を並べ立てていたからだ。
『その先にはきっと、精霊に号令を下す中枢が存在している』。
そう見抜いたからこそルクトリアは、聖域に向かって進んだ。
精霊に、復讐を果たすために。
少しでも、爪痕を残してやるために!
つまりは、『己の責任問題に発展する』どころか、そもそも徹頭徹尾ファルウィーゼルの責任なのだが、そんな事実に彼の頭脳は思い至らないのでそれはともかく!
<<<殺すッ......!!!殺す殺す殺すぅーーーーーーッ!!!>>>
こうなるとファルウィーゼルの思考は、もはやルクトリアへの殺意で満ち満ちていた!
狂犬姫ルクトリアの、速やかな殺害!
それこそが、問題解決のための、最善かつ必須の一手であると、ファルウィーゼルは確信した!
<<<ぶっ殺ーーーーーーすッ!!!>>>
鬼ような形相を浮かべ、涎をだらだらと垂らしながら!
ファルウィーゼルはルクトリアの足跡を追って......猛烈な勢いで飛び出した!




