601 汚泥 breath
ゆらり、ゆらりと。
“幸福なる汚泥”コルマリャは自らの汚泥で包みこんだデレネーゾ大監獄を体に見立て、そこから伸ばした巨大な腕を揺らし、私のことを手招きした。
なにせ、巨大な腕だ。
それだけの動きで強い風が生まれ、私に吹きつけられる。
灼熱の砂漠の砂の上で散々に温められた空気が、風となるわけだから。
ものすごく、熱い。
そのうえ、途轍もなく臭い。
たまらず、顔をそむける。
<早く逃げましょう、エミー!>
その不快さに、オマケ様は私の頭の中で、悲鳴をあげるようにそう叫んだ。
私も、同じ気持ちだ。
一刻も早く、逃げ出したい。
でも。
「ぐ......」
ダメだ。
足が、動かない。
思わず、膝をつく。
<エミー!?大丈夫ですか!?>
大丈夫じゃ......ないかも。
要は、魔力不足だ。
現在の私の肉体は、飢餓状態で力がでない。
そんな体を魔力で無理やり動かして、なんとか大監獄から逃げ出してはみたものの......。
ここに来て、魔力が切れた。
思うように、体が動かせない。
汚泥が手招きし、バフウと、またしても不快な風が送られて、私の髪を揺らす。
なんだか、頭がぼんやりする。
そして......あれ?
良い香りが......する?
<良い香りは、していません!相変わらず汚泥の、酷い臭いしかしません!気をしっかりともって!>
オマケ様に注意されて、頬を叩いて目を覚ます。
途端に、それまで感じていた良い香りは酷い悪臭に変わった。
まさか、これは......もしかしなくても、汚泥が何か、してるな?
<きっと、コルマリャは魅了系の能力を持っているのでしょうね>
あの悪臭を嗅ぐうちに頭がおかしくなって、汚泥に飛びこみたくなってきちゃうわけだ。
三大獄卒の人みたいに。
それが、『幸福』だと、思いこんじゃうんだ。
<おそらく>
......ってか、オマケ様。
私の肉体は魔力抵抗が高いから、精神干渉は効きにくいって話じゃなかったっけ!?
<今、弱ってますので。あと、相手が分体と言えど災厄クラスですので>
役に立たないな、魔力抵抗......!
「............」
話を戻そう。
とにかく、魔力が足りないんだ。
私は四つん這いになり、砂をかき集めては口に運ぶ。
私の体内に収められた砂という存在が世界からほどけて消え去り、魔力へと変じて私の魂の一部になるのを感じる。
でも、足りない。
とてもじゃないけど、こんなものでは足りない。
おいしくもない。
つらい。
そしてまた、風が吹く。
凄く......良い香りだ。
甘くて、香ばしくて......凄く、おいしそう......。
<エミーッ!!しっかりしてッ!!早く砂を食べてッ!!>
「......はッ!!」
オマケ様に叱られて意識を取り戻し、慌てて砂を飲みこむ作業に戻る。
灼熱の砂が体内を焦がす苦痛が、皮肉にも私の自我を保ってくれる。
どんな地獄だ!
そんな抵抗を続けること、数分。
その間コルマリャは、デレネーゾ大監獄内でやったような......汚泥の津波を起こして私を飲みこむような真似は、しなかった。
ずっとずっと、私を手招きし続けていた。
<もしかすると、灼熱の砂漠というフィールドと、相性が悪いのかもしれません。泥だから水気を奪う砂には、あまり触れたくないのかもしれません>
おっと、それは希望を持てる仮説。
それならこのまま砂を食べ続けて、動けるようにさえなれば......私は逃走を成功させる目が出てくると、そういうわけね!
良し、早く砂を食べよう!
<ええ、早く砂を食べましょう!>
でも。
ことは、そう私に都合よくは運ばなかった。
一向に私が魅了されない様子を見て、業を煮やしたのか。
コルマリャは、手招きをやめた。
そして、首を伸ばし......その巨大な顔を、私に向かって近づけて来た!
その表情は、優しい微笑み。
その顔面は、素晴らしい美女。
だけど、凄まじい悪臭!
「うううーーーーーーッ......!!」
私は、耐える!
頬をつねり、歯を食いしばって、必死になって意識を保つ!
でも。
ぐうううううッ!!
ここで、腹が鳴った。
生理現象だもん、しかたがない。
でも、そのせいで一瞬、集中が途切れた。
すると途端に、悪臭が極上の芳香へと、変じた。
「............?」
私は何を、必死になっていたんだっけ?
頬をつまむのをやめ、へたりこんで、両腕をだらりとおろす。
<エミーッ!?>
ここで、ふう、と一吹き。
コルマリャが、私に向かって吐息を吐いた。
甘く、爽やか。
......天上の、吐息だ!
<エミーッ!!エミーッ!!しっかりしてくださいッ!!>
オマケ様、そう慌てることはないよ。
私はしっかりしているから。
お喋り、できているでしょ?
<いいえ、いいえッ!!正気に戻ってッ!!あなたは......!!>
<<<私は、『幸福』>>>
と、ここで。
オマケ様の絶叫すらかき消す程の大きな声が、聞こえた。
声?
声じゃ、ないかもしれない。
意思?
あるいは、感情?
なんというか......単純で、子どもみたいな。
だけど、確かに『幸福』な。
“心”が。
私に、届けられた。
私は、まっすぐに前を見る。
そこにあるのは、コルマリャの顔。
優しく微笑む、美女の顔。
<<<私は、『幸福』>>>
再度、“心”が、届けられる。
それは、嘘偽りがなくて。
満ち足りていて。
善意に、あふれていた。
......そう、善意だ。
<<<私は、『幸福』>>>
コルマリャは、いつだって善意で動いていたんだ。
だって、コルマリャはいつだって、『幸福』だ。
誰よりも『幸福』なんだ。
そんな『幸福』なコルマリャと、一つになること。
それは、自分が『幸福』になるための、間違いのない道筋なんだ。
『幸福』。
『幸福』に、なりたい。
私も!
『幸福』に、なりたい!
<<<私は、『幸福』>>>
その時、さらに顔を近づけてきたコルマリャが、私に再び良い香りの吐息を吹きかけた。
<エミーッ!!嗅いではいけま>
すると、オマケ様の絶叫が、途中でぶつりと聞こえなくなり。
私の視界は、真っ白に染まった。




