267 決戦前日
「............」
ライリーンは書類にサインをする手を止め、執務椅子の背もたれによしかかって伸びをしてから、おもむろに立ち上がった。
ここは、ヴェラ・ケヌにあるライリーンの屋敷の執務室である。
午後の暖かな日の光が部屋の大窓から室内にさしこみ、美しく伸びる若草が描かれたカーペットや豪華な装飾の施された艶やかな執務机などをきらきらと輝かせている。
以前はもっぱら冒険者ギルド本部にある執務室で仕事をしていたため、この部屋を使用することはまれだった。
最近ではその状況が一変し、ほとんどの仕事を自宅に持ちこみ、処理するようになった。
何故かと言えばそれはもちろん、エミーと一緒にいたいからだ。
ライリーンはゆっくりと大窓に近づき、気配を消しながら屋敷の周囲に広がる草原を見下ろす。
そこにいるのは、エミー。
愛してやまない彼女の娘。
エミーはそこで、延々を体を動かし続けている。
殴ったり、蹴ったり、跳びはねたりと、一人で戦闘訓練を続けている。
その動きは、日に日に鋭くなっている。
もともと常人にはとらえられなかったその動きが、さらに訳のわからぬ速さを備えつつある。
本気のライリーンに一撃を入れる。
この目標が提示されてからというもの、エミーの成長には目覚ましいものがあった。
おそらく、現時点での彼女のスペック的には、わかりやすく言うなら1000の力を出すだけの基礎があった。
しかし、外界を彼女が旅するにあたり、たまに例外はいたのだろうが、外敵を降すために必要な力は300もあれば十分だったのだろう。
だから彼女は、意図的な全力の出し方を知らなかった。
それが、ライリーンという壁が現れたことで、変わろうとしている。
1000の力を、全力を自分の意思で出しきれるように、彼女の肉体は変わり始めているのだ。
そんなエミーの様子を見て、ライリーンは思わず笑みを浮かべた。
嬉しかったからだ。
自分がきっかけとなって、娘が成長している。
自分が、エミーに影響を与えている。
それが、たまらなく嬉しかった。
◇ ◇ ◇
エミーがこの島から旅立ちたいとライリーンに願ったあの日から、二人の関係性は確実に変わった。
エミーはライリーンのことを明確に拒絶するようになり、食事の席以外ではあまり顔をあわせてくれなくなった。
会話も少ない。
が、これはもとから少なかったので別に良い。
一緒のベッドで寝てくれなくなったり、一緒にお風呂に入ってくれなくなったり。
これが、寂しい......。
しかし、これだけを見ると変わったのはライリーンに対するエミーの態度なのだが、その実大きく変わったのは、ライリーンの内面である。
以前の彼女であれば、エミーがどれだけ自分を拒絶していようと、気にもせずエミーのことを抱きしめていただろう。
何故なら以前のライリーンにとって、世界とは基本的に全て、自分の思うがままになるものだったから。
気に入らないものは、叩き潰す。
そんな彼女を恐れ、全てのものは彼女に跪く。
そうやって生きてきたので、傲慢な彼女にとって他者とのコミュニケーションとは、基本的に全てにおいて“自分を押しつける”ことだった。
だからライリーンは、エミーの気持ちなど考えずに、自分の好きなようにエミーを愛していた。
自分の手元において、ずっとずっと眺めていた。
自分の思う“愛”を、ただただ自分の思うがままに注ぎ続けた。
だがしかし、エミーはそれを、やめろと言うのだ。
お前なんて嫌いだ、外に出せと。
そう言って、ライリーンに反抗するのだ。
ライリーンはその様に衝撃を受け、呆然とし、困惑した。
どうしたら良いか、わからなかった。
こんな経験は、初めてだった。
もちろんこれまでの長い彼女の人生の中で、彼女に反抗してきた存在は掃いて捨てるほどにいる。
だけどそれらは、彼女にとって、至極どうでも良い存在だった。
だから、適当に殴り壊して、それでおしまいだった。
次の日にはそんな連中のことはすっかり忘れて、ライリーンは新しい一日を生きてきた。
しかしエミーは、それらとは違う。
ライリーンはエミーのことを、愛している。
殴り壊して、はい終わり、とはならないのだ。
つまりライリーンは300年以上生きてきて、初めて人間関係に悩んだのだ。
どうすれば良いのか、わからなかった。
自分では良案を、思いつくことができなかった。
だから、譲歩せざるを得なかった。
エミーが望む、『遠くにありて、相手を思う』という愛の形を、受け入れざるを得なかった。
しかし、だからと言って。
今すぐにエミーと別れる気など、ライリーンにはさらさらなかった。
だからこそ、『本気の自分に一撃を入れろ』という条件をエミーに課したのだ。
あの後、この条件を聞いたエミーは、すぐにライリーンに襲いかかった。
......その態度だけ見ても、本当にエミーは素晴らしい子だと、ライリーンは思う。
抑えることをやめたライリーンの力は、ともすれば神に届きうると、そう、冒険神のお墨付きをもらっている。
神足りうる力量があり、なおかつ神と敵対せず、そして神のように世界の維持に携わっていないライリーンのような存在を、この世界のごくわずかな者は“亜神”と呼ぶ。
その亜神たるライリーンに、微塵も怯まず挑みかかってくるのだ。
エミーの胆力は並大抵ではないのだ。
それでも、実力不足はいかんともしがたい。
先ほど、エミーの実力を1000と例えて説明したが、もしその力が2000になったとしても、ライリーンにとってみれば1が2になったようなもの。
それだけ隔絶した実力差が、二人の間には横たわっている。
そしてその差を埋めるのは、ライリーンの考えでは、やはり『技術』などではない。
存在としてのスペックだ。
基礎的な能力値、とも言い換えられる。
そしてそれを育てるには、時間が必要だ。
エミーには毎食、竜の肉などの魔力を豊富に含んだ食材(一般人にとっては劇毒)を与え効率の良い成長を促してはいる。
しかしそれでも、本気のライリーンに一撃を与えるとなると、後数十年は必要だろうというのが、ライリーンの見立てだ。
つまりその間は、多少関係がぎくしゃくしていたとしても、ライリーンはエミーと一緒にいることができる。
◇ ◇ ◇
「ふふ、うふふ......」
窓の下で躍起になって技術を磨くエミーを眺めながら、その微笑ましさに思わずライリーンは笑い声を漏らした。
『本気の自分に一撃を入れろ』とエミーに伝えたあの日、先述した通りエミーはすぐにライリーンへと挑みかかった。
本気を出すとは言え、ライリーンから攻撃してしまえば、さすがにお話にならない。
だから制限時間を決め、その間エミーの攻撃をライリーンが防ぐ。
そういうルールでの戦いだった。
結果は当然、ライリーンの勝ちだ。
時間切れとなったエミーは、ライリーンに軽く小突かれて、戦闘不能となり草原に転がった。
『まだまだ、ねぇー』
動けないエミーを見下ろしながら、ライリーンはにっこりと微笑んだ。
実力差を見せすぎたせいで、心が折れちゃったかな、とも思ったが、別にそれでも良かった。
それならばそれで、エミーをずっと手元に置いておける。
しかし、うつぶせの状態から必死になって顔をあげ、ライリーンのことを睨みつけるエミーの瞳は、闘志に燃えていた。
『あと......一か月だ』
エミーは、叫んだ。
『私は......私の“受け継いできたもの”を、磨きあげて!必ず、お前に、一か月後!一撃......入れてやるからッ!!』
そして、気絶した。
“受け継いできたもの”。
即ち、“死神”の技術か。
この言葉を思い出すたびに、思わずライリーンは忌々しさのあまり、眉間に皺が寄ってしまうのだ。
そう言い放つほどに、エミーは“死神”の技術を買っているというのか。
全くもって、腹立たしい。
エミーは、“死神”など知らないと言うが、間違いないのだ。
あの動きは、“死神”の動きだ。
こんなことなら、アーシュゴーであの男を見かけたあの日に、奴を殺してしまえば良かったのだ。
当時は、少ない魔力を器用に運用するその達人芸に思わず感心してしまったものだが、それが巡り巡って、こんなにも自分の心をかき乱すとは。
何がどうなるか、わからないものだ。
「すぅー......はぁー......」
己の苛立ちに伴う魔力の放出で屋敷が震え始めたことに気づき、ライリーンは慌てて深呼吸をした。
大丈夫。
これからライリーンは、エミーにずっとずっと、寄り添って生きていけるのだ。
長い長い時間をかけて、エミーの心の中を、少しずつライリーンでいっぱいにしていけば良いのだ。
時間は、自分の味方だ。
気持ちを落ち着かせたライリーンは窓から離れ、再び執務椅子に座り、仕事を再開した。
目の前にある仕事の山を、今日中には片づけなくてはならない。
何故なら、エミーが宣言した『一か月後』というのが、明日だから。
エミーの挑戦を万全の態勢で受け止めるためにも、今は仕事をこなすのだ。
しかしそうは思っていても、別のことを考えてしまう。
挑戦に失敗したエミーをどうフォローしたら良いのか、ついつい悩んでしまう。
気もそぞろ、というやつだ。
そんな様子だったから。
ライリーンは、気づかなかった。
ライリーンの姿が見えなくなった執務室の窓を、何故かエミーが草原からじっと、見つめていたことに。




