始動
一陣の風が吹く。
「……あ」
「……え?」
思わず口から出てしまったような間抜けな声に、両膝をついていた片桐は顔を上げる。
吹いた風で、第二美術室のカーテンはぶわっと舞い上がり、隠れていた人物が露わになる。いくら学校のカーテンが自宅などの一般的な家庭のカーテンよりは大きいといっても、そんな場所にすっぽり全身を隠せる人間は限られてくる。
例えば、かなり背丈の低い人間。
「う……海野? ……お前」
久しぶりに出会った海野は、恥ずかしそうに赤面しながら、教室の隅に立っていた。ちょうどカーテンが捲れたその場所に。
なんでこんなところにいるんだよ、お前? まだ転校していなかったのか。それとも身辺整理の為にまだ学校に残っていただけなのか?
「あっ、すいません。私、何も見てませんから。どうぞ私に気にせず続けてください」
海野はカーテンを手繰り寄せ、再び隠れようとする。
「ちょっと、待て!」
……あっ。
カーテンの引き裂かれる音が、反響するはずのない教室で木霊する。
片桐と海野の顔が同時に青ざめる。
「片桐さん。前から言おうと思っていたんですが、もう少し考えてから行動して下さい」
「ふ……ふん。これも考えの内だ。これでもう、お前は俺から隠れることができないだろ」
「……そうですか。それでは、片桐さんの目が泳いで見えるのは、私の気のせいなんでしょうか?」
寸劇のような言葉の応酬。
間違いない、海野香織本人だ。
「海野。お前、転校したんじゃないのか?」
海野はきょとんとした顔になる。
「転校? なんの話ですか?」
「はあ? だって、さっき廊下で擦れ違った奴が、美術部の人間が転校するって……」
海野は、ああー、なるほど。と、ようやく得心した様子。
なんだ、この……とてつもなく自分が墓穴を掘ってしまったかのような感覚は。
「それって、有沢部長のことですよ。あの人、何か問題を起こしたとかで、転校しないといけなくなったらしいです。……といっても、転校先は、お嬢様学校でも有名な私立中学の霊堂学園らしくて、ここよりはずっといいところらしいですけれど」
「な、なんだよ、それ」
安堵の溜め息。完全に腰が抜ける。
霊堂学園といえば、ここからそう遠くない場所で、うちの学校とは姉妹校だった筈だ。たとえ、海野がそこに転校したとしても、家を引越しするような大ごとにはならない。
なんだ、ただの取り越し苦労かよ。
安堵した片桐はへなへなと崩れ落ちる。
これ、使ってください。みっともないです。と、海野はポケットからハンカチを取り出す。俺は柄のついた女らしいハンカチを受け取り、勢いよく鼻をかむ。
それを見た海野は慌てて、
「なにしてるんですか! 私は涙を拭いて欲しくて貸したんですよ! これじゃ、汚くて使えないじゃないですか!」
き、汚いだと? 失敬だなこいつ。
「気にするな。放っておけば自然乾燥で使えるようになる」
「なんでそんなに適当なんですか。それ、私のハンカチなんですよ! そんなこと平気でできるなん信じられません。やっぱり片桐さんは、荒っぽくて、自己中で、馬鹿で、不良で、目つきが悪くて、無神経で、自意識過剰で、ナルシストですね」
「少し見ない間に、暴言がレベルアップしてないか!?」
おい、どんだけ俺に不満抱えているんだよ、こいつっ。
「……もう、いいです。ちゃんと洗濯して返してくださいよ」
海野は嘆息する。
そんなに俺の鼻水が嫌だったのか。でも、
「嫌だね」
「なっ、あなたって人は、どこまで――」
憤慨する海野を見て、こいつは本当に怒りやすいタイプの人間なんだと思う。少しは頭を冷やした方がいい。俺みたいにいつだってクールになれよ。
「このハンカチは俺が貰う。だから、返してやらない」
「……そういうハンカチが趣味なんですか? 変わってますね」
「違ぇよ!! ……ただ、こうでもしないと……お前、どっかに行くだろ?」
海野は転校しない。だけど、あの事件から海野は学校に来ていなかった期間に感じた恐怖感はまだ拭えない。こいつがどれだけ思い悩んでいたのかは、俺なんかが想像もできないが、俺だってずっと苦しんでいたんだ。
だからもう、どこにも行って欲しくない。
「すいませんでした」
海野は神妙な面持ちで、いきなり頭を下げた。いきなり過ぎて、何を指して謝罪しているのか分からない。
「なにが?」
「色々です」
色々。
言葉にすればたった一言だが、その一言には幾重にも積み重ねられた想いがある。そう想える程、沈痛な面持ちの海野を見て、俺の心が痛む。今の俺にどれだけのことをこいつにしてやれるだろう。
俺の手を弾いた時、俺は深く心を抉られた。けれど、こいつだって、それと同じぐらい傷ついていたんじゃないのか。俺は、俺だけのことしか考えてなくて、その時海野がどんな顔をしていたのか覚えていない。
こんな最低な俺に、今言えることは……これだけしかない。
「……そっか、海野。俺も悪かった」
俺だけが悪かった。
そう言ってやりたいが、こいつの性格上、その好意を素直に受け取らないだろう。むしろ反発して、私だけが悪いって言うかもしれない。それは、海野にとっても、俺にとっても駄目なことだ。
それに、素直に謝るなんて俺らしくないしな。
海野は俯く。
それはきっと、俺の言葉の意味を理解し、感涙している顔を隠す為だろう。俺達はいつだって以心伝心で、これからはどんなことが起きたって、乗り越えていけるはずだ。
たくさんの擦れ違いで、俺たちの関係は拗れてしまったかもしれない。だけど、こんな風にいつの間にか、普通に話せるようになっている。それでもこれは、ただ一時的なもので、前のような関係には戻れないかもしれない。
でも、だとしたら。
前よりもっと強固な絆を結べばいいだけだ。
「片桐くん。実は頼みがあるんです」
「ああ、どんな頼みだって聞くぞ」
海野の頼みだったら何でも。とか気恥ずかしい台詞は吐けないけど、贖罪する機会があるのならやってやる。そういえば、こいつが俺に頼み事するなんて初めてじゃなかったか? 今俺はお前が望んでいることなら、なんだってやってやれる気分だぜ。
「……本当に、どんなことでもやってくれますか?」
「ああ」
もう、何も言うな。俺はお前が考えていることぐらい分かっている。どうせ、これからもずっと一緒に居てくださいだとか、そんなところだろう。傍から聞けば、それは青臭くて唾棄すべき幻想なのかも知れない。だけどな、俺は喜んで聞き入れるぞ。馬鹿にして、お前の言葉を無下にしたりしない。
「本当ですね?」
「もちろんだ」
海野はポケットから二つおりの、一枚の紙を取り出す。破顔したまま俺に突出し、これに名前の記入をお願いします。と、紙を握らされる。
おいおい、結婚届にはまだ早いだろ。いや、俺たちは結婚できない年齢だから、婚約届か。それにしたって急すぎる。男よりも女の方が結婚意識が高いのは聞いたことがあるが、こんなにも早いものなのか。
くっ。俺は何を怖気づいているんだ。海野の勇気をふいにする気か。ここは笑顔で記入するんだ。
ポールペンを持参しているか海野がポケットを弄っている間に、紙を開く。
さてと。どこに署名をすればいいのかと紙に目を落としていると、婚約届にあるはずのない文字が網膜に焼き付き、片桐は目をぱちくりする。
「……入部届?」
紙を裏返す。
真っ白。
紙を表向きにする。
入部届。
……海野さん? 渡す紙、間違ってませんか?
「あのですね、実は有沢部長が居た時によかったこともあるんですよ。それが規定に届かない部員数でも部活をできるってことだったんです。今までは美術部の顧問の先生もいなかったですし、部員も三人で良かったんですけど、有沢部長が居なくなったら、そうもいかなくなったんですよ」
一体、海野さんは何の話をしているんだろう。
「片桐さん、さっき何でもしてくれるって言いましたよね。だから、美術部の部員になってくださいね。今になって意見を覆したりなんてしたらダメですからね。顧問の先生を探すのに、結構時間がかかったんですから。……あっ、ちなみに美術部の新しい顧問は狩野先生です。私はあまり話したことがないんですけど、片桐さんが入部したら顧問を引き受けてくれるらしいので、助かりました」
ぐはっ。やはり立ちはだかるか、狩野沙耶。
どうも最近、大人しいと思ってたんだ。
さてはあいつ、こうなることを知ってたな。
「それで、部員のことなんですけど、夏休みの間に、あと部員二人を確保しないと美術部が廃部になってしまうので、そのお手伝いもお願いします。これから忙しくなりますね」
「……ああ、悪い。俺、不良だから部活動とか無理」
そんじゃあな、と手を振りながら、第二美術室を後にしようとすると、海野が片桐の裾を掴んで離さない。
ふざけんじゃねぇぞ。言っておくが、俺は絶対部活動なんかには参加しねぇし、七面倒臭い部員集めなんて一切手伝わねぇ。あくまで俺は暇つぶしにここに通っていただけであって、自分自らが特に興味もないことをやる為に来ていたわけじゃねぇんだよ。
たとえ俺はどんな説得をされても、それをはねのけるだけの気概ぐらいは持ち合わせてんだよ。
「泰助くん、お願いします。でないと、汚い鼻水を盛大に垂らしながら号泣してたこと言いふらしますよ」
「やめろおおおおおお!!!!」
片桐は膝をつく。
こいつ、見た目と裏腹に、強引な手を結構使うよな。最初に会った時には、フランス人形のような無機質な印象を受けたのが嘘のようだ。
あ? いま、こいつ……名前で……?
「やってくれますよね、泰助くん!」
海野にしては珍しい満面の笑み。
片桐がその後、海野の部活動加入の勧誘に、どんな返答をしたのかは言うまでもない。
なあ、海野。
もしも俺のことを本気で許しくれているって、わかったら俺はお前に告げたいことがあるんだ。俺さ、ようやく自分の夢を見つけることができたんだ。今は怖くてお前にいえないし、まだまだあやふやで、本当にこんなのが俺の夢なのかって胸を張れるのかも分からない。
だけど、俺料理人になりたいって思えるようになった。
宮崎に連れていったラーメン屋さんや、工藤と一緒に食べたたこ焼き、姉貴に作ってもらったシチュー。それを食ってたらさ、すげぇ自分でも単純だとは思うんだけど元気になれたんだ。たったそれだけのことなんだけど、それでも俺にとっては凄い衝撃を受けたんだ。
誰かが食べて、一瞬でもいいからホッコリするような、そんな料理。作ってみたくなったんだよ。元々調理するのも、飯を食べるのも嫌いな人間じゃない。だったらやってみたいなって思った。海野に俺の料理を食べて欲しいって思ったんだ。
いつか、きっと……。
蝉の声が耳をつんざく。
猛暑の訪れを感じさせる、そのけたたましい音に、例年通りなら嫌気がさしているだろうが、なぜだか今は違う。
いつも客観的にしか物事を俯瞰できない片桐の動悸は激しく、これから過ごす夏休みがどれだけ素敵なものになるのかを想像していた。今年の夏は一人きりなんかじゃない。どうしようもなくワクワクしている自分が、少し恥ずかしかったけれど、片桐はどこか晴れ晴れとした気分になっていた。
続く!!




