海のキャンバス
海野のクラスメイトに訊くと、あいつは狩野の言うとおり、今日も学校に登校していないらしい。本当に何も言わずに、学校から去るつもりなのか。今から俺が何をしたって、どうにもならない。これ以上藻掻いたところで、過去をなかったことになんてできない。
それでも、俺が足を運んだのは第二美術室だった。
埃っぽいその部屋は、海野と初めて会った頃と少し変わっていた。
雨の気配を、全く感じさせないカラッとした天気。そして、太陽の光はどの絵画にも差し込んではいなかった。どこかの美術館に運ばれたらしく、そこには海野の絵は飾られていなかった。並んでいる絵画の中でぽっかりと、その部分だけ間が空いていた。
まるで、そこには最初からなにもなかったかのようだ。
だけど、何もかもどうでもいい。
海野がいなくなって、肩の荷が下りたように気が楽になったぐらいだ。工藤とは良好な関係を築けているし、宮崎とも挨拶ぐらいは交わす。もう、何も不都合なことなんてない。
なんだ、こんなもんか。
海野がいなくなってしまったら、それこそ失意のどん底に落ちると思ったが、意外に耐えられるもんだな。いや、耐えられるという言葉自体、語弊がある。俺はもう、海野なんかいなくても、どうも思わないぐらいに冷静だ。
机を見やると、クロッキー帳が置いてけぼりにあっていた。
見誤ることはない。
海野が後生大事に抱え込んでいたクロッキー帳だ。あいつがこれを置いていくなんて考えられない。どうして、こんな所にあるんだ。
片桐がクロッキー帳を手に取ろうとすると、
「触らないでください!」
つい最近聞いた筈なのに、なぜか懐かしい声が後ろから聞えてくる。……そんな気がした。試しに振り返っても誰もいない。
なにをやってるんだか、俺は……。
海野、お前はもう本当にここには居ないんだな。
クロッキー帳を壊れ物のように扱いながら、ページを開いていく。
前半部分は、以前に見たものと同じ。工藤、宮崎、俺の三人を遠くから描いた絵。昔は当たり前だった構図だったが、今ではもう描けない。三人とも、昔のように仲良くはなれない。
俺のやったことは正しかったんだろうか。
海野とかかわり合ってから、俺の周囲は変動した。
もしも、もしも俺が積極的に海野と関わりあいさえしなければ、宮崎の言うとおり三人はずっと仲睦まじく居られたかもしれない。
だけど、それは時間の問題だっただろう。
だって、海野が俺の前に登場しなかったとしても、きっと俺は耐えられなかっただろうから。自分を偽ることを。最も信頼する友達を欺きながら、生活していくことを。
だから、俺は後悔なんてしなくて――。
後半部分に進んでいくと、片桐の手が止まる。
「これって、」
俺だ。
妙に格好つけた奴が海を背景に棒立ちになっていると思ったら、それは俺だった。何枚も何枚も、俺の絵が描かれていた。
片桐くんは、どうも不良じゃないらしい。
「あ……?」
そして、気づく。丸っこく可愛らしい海野の直筆で、絵の端に一言、一言、なにか小さい字で書いてある。俺は心臓が妙な鼓動を鳴らしているのを自覚しながら、凄まじいスピードで、眼で追っていく。そうしなくてはならない。そんな気がした。
遠くから見ている時は、近づきづらいなって思ってたけど、会話してみると意外と話しやすい人だった。今度は自分から話しかけてみようかと思う。たまに、言動が荒々しくなって冷たく感じてしまうから、ちょっとイライラしてしまうけれど。
片桐くんは、有沢部長から私を庇ってくれた。ずっとずっと辛くて、誰からも気がついてもらえなかったのに、片桐くんは私のために声を荒げてくれた。本当は凄く嬉しかったけど、恥ずかしくてお礼が言えなかった。
誰かに自分の夢を告白すると、その夢は叶わなくなってしまいそうで……。だから、誰にも自分の大切な夢を語ることなんてできなかった。けれど、片桐くんには言えた。なんで言えたのか自分でもよく分からないけど、やっぱり嬉しかった。
今日も泰助くんと一緒に海に来た。私が海を描いているのを、ずっと、ずっと、黙って待っていてくれる。こんな風にゆっくり絵を描くのは楽しい。人物画も以前よりずっと上手くなったのは、誰かさんの協力があったからだ。けれど、夏はやっぱり、一緒にこの海で泳ぎたいな。
「……おい、ふざけんなよ」
なにが泰助くんだ。一度もお前、俺のこと名前で呼んだことないだろ。しかも、海で泳ぎたいだ? そんなもの全く興味ないって顔してただろ。ほんと、ふざけんなよ。どうして、一言でいいから言ってくれなかったんだよ。そしたら、少し肌寒くても、俺は一緒に泳いでやったんだ。
こうやって俺の前からいなくなるって、そんなことが分かってたらさ、もっとお前とやりたいことを、やりたい放題できたはずなんだよ。こんな所にこそこそ書き込まないで、俺に直接言ってくれればさあ。それで、俺は、少しでもお前とさ……。
誰かに迷惑をかけるのが一番嫌で、だから今までずっと一人でいいやって思ってた。塞ぎ込んでいれば、それでいいやって。寂しいけど、誰かに裏切られるよりはずっといいって。だけど最近、誰かと一緒にいるのも悪くないなって思えてきた。
宮崎くんに告白しようと思う。だけどきっと、振られる。だけど、勇気をだして彼に告白したい。駄目だとしても、私は胸を張りたい。どんな結果であっても、私は笑って泰助くんに報告しよう。そう思えるようになったのは、きっと、泰助くんのお蔭なんだ。
有沢部長に呼び出された。恐いけど、泰助くんも来るって言ってたらから、仲直りするためにも、有沢部長とのいざこざに終止符を打つためにも、私は行く。行かなきゃダメなんだ。でも、泰助くんが一緒にいてくれるなら、私は頑張れる気がする。
そこからのキャンバスには、黒一色に塗りつぶされていた。海野の傷が描かれているように、痛々しく、見るに堪えない。クロッキー帳を閉じると勢い余って最後のページが開かれる。そこにはたった、一言――。
泰助くんに会いたい。
海野の涙で滲んだその文字は、震えて書いたのか、ぐにゃぐにゃで汚かった。いつもの可愛らしい文字の面影は一切ない。それがとても痛々しく、とても愛おしかった。
「くっ――そおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
床に拳を叩き付ける。
全部手遅れだろうが関係ない。どうして転校する前に、たった一言でいい、このクロッキー帳に書かれているお前の言葉を聞けたなら、全力でお前を引き留めていたはずなんだよ。なんで、俺に言ってくれなかったんだ? そんなに俺は頼りにならなかったのか? 言えば俺が困惑するとでも思ったのかよお。
ああ、確かに俺はどうしようもなく、動揺して気の利いたことなんて、一言もいえなかったのかもしれない。
だけど、だけど、こんな最悪な状況になることはなかったんだよ。
クソッ。
なにしてんだよ、俺。
海野が学校に来ない間、何でもいい。些細なことでもいい。何かできていたはずなんだ。
それを、海野に嫌われたから、もう話せないなんて感傷的になっていた。言い訳にしてた。格好つけてたんだ。お前が目の前にいなくても、それでも自分からみっともないまねをしたくなかった。それが一番カッコ悪いことだということにも気がつかずに、ただ俺は無為に時間を潰していただけだった。
嗚咽が漏れだす。
眼の端から流れた涙は、滴となって、握りしめた拳に数的落ちる。
なあ、海野。お前は知ってるかよ。
「――とっくの昔から、俺は……お前のことが好きだったんだぞ!!」
初めて会った時から、今ままで、ずっと。だけど、それを認めてしまったら、工藤への想いは全て嘘になる。だから、自分自身を騙し続けていた。仮面を被り続けていた。ずっと拒んでいたはずのことなのに、それしか自分を保つ方法を知らなくて、ずっと偽っていた。
宮崎に諌められた時。
お前と喧嘩した時。
工藤に振られた時。
お前と仲直りしようと駆けていた時。
どんな時も、お前に好きっていう感情は表面化することはなかった。だけど、こんな時に俺は知ってしまった。本当の気持ちを。
いつだってそうなんだ。気が付いた時にはもう手遅れなんだ。この感情を伝えるべきお前は――もういない。
片桐はそのまま、いつまでも悲しみに打ちひしがれていた。




