喧嘩の果てに
どっぷりと日は暮れ、夜の帳が下りた路地裏。
ゴキブリでも出そうな薄汚く、黒くくすんだアスファルトを片桐は駆ける。宮崎と話していたせいで見失ったが、それでも必死で海野たちを探す。
「――――」
微かに片桐の鼓膜を震わしたのは、誰かの不明瞭な声。それは久しく聞いていない、あいつの声によく似ていた。
嫌な汗が背中をつつぅーと流れる。
今は使われていない、倒産した廃工場の中。扉は半壊し、古びた機械や、作業台がそこらに転がっている。
「……えっ?」
片桐が乗り込んだ先に見たものは、後ろ手に手錠をかけられ、後ろの柱に繋がれている海野香織だった。海野の周りには五人の男たちが取り囲み、嘲弄している。
海野は口を塞ごうとして男の手を噛み、号泣していた。
そして俺の姿を視界に収めると、目を眇める。
「片桐……くん?」
気丈で、誰よりも強い心を持っていた海野は、全身を震わせ、失禁していた。ブラウスは強引に力で破かれ、乳房が露わになっていた。
完璧であるはずの海野の容貌は泣き腫らし、見る影もない。
「なんだあ……お前ぇ。ここは今使用中だ、餓鬼はとっと家に帰ってババアの乳でも吸ってな」
下品な笑いを浮かべながら、片桐の一番近くにいた奴が、近くにあった鉄パイプを拾い、俺を威嚇するように突き付けてくる。
「そっか……そういうことかよ」
怯える海野の姿はとても演技しているようには見えなかった。つまり、この男達は海野を無理矢理強姦しようとしていたってことだ。そして、この男達を操って、海野をこんな眼に合わせているのは、おそらく有沢だ。
海野を全く疑っていなかったといえば嘘になる。
疑いは晴れたけれど、この惨状は素直に喜べる状況なんかじゃねぇよな。
ああ、もうだめだ。
俺は、こいつらを屑を芥子粒になるまで潰しても、この憤りは収まり切らない。
「おい、聞いてんのか?」
それが、俺の認識できた最後の言葉だった。
血が頭に上り、目の前が真っ白になる。ドッドッドッと血液が逆流するような不穏な音が、ひっきりなしに鼓膜の奥で響く。
周りの奴らを殴り倒していく。とりあえず、眼前に呆けて突っ立っている奴から順々に。技術も考えもなく、ただ内に潜む動物的な衝動に駆られて、何かに憑かれたかのように。
血管は沸騰しそうなぐらい熱く、全身はどす黒いなにかが駆け巡り、吐き気がする。
こんなに他人に憎しみを感じたのは初めてだ。
武器を使われ、思っいきり殴打されるが、もう避けるのもしんどい。次第に痛覚が正常に作動しなくなる。
周りが急に静かになり、全てがスローモーションに映る。それが愉快で、快感にすら達する。
相手の頬肉を殴った時のえぐい感触、蹴ったときに相手の肋骨が軋む音、鉄パイプが自身の鼻骨を砕く瞬間。――その全てが他人事のように感じる。
それでも、人間の屑を破壊し続ける。
どんなに泣いて謝っても、どんなに苦痛を叫んでも、どんなに顔の原型が崩れても、そいつらを壊すのを止めない。止められない。止められない。
やめてぇええ、としゃくりを上げながら、必死に叫ぶ海野の声でようやく正気に戻る。
男共は死屍累々。
泡を吐きながら失神している奴も居れば、顔を押さえながら耳障りな苦痛を訴える奴らもいる。いっそ、絞め殺して息の根を止めてやろうか。
だが、一先ず海野の手錠を外すのが先決だ。近くの作業台に無造作に置いてあった鍵を手に取り、施錠を外してやる。
海野の手首は、何度も逃げようとしたのか、皮が剥け、血が出ていた。それを見て、男達に対する怒りが最熱するが、ぐっと抑えこむ。
そして、海野に手を伸ばそうとするが、返り血をべっとりと浴びた手に気づいた片桐は、慌ててシャツで拭い、再度手を伸ばす。
「海野、大丈夫か?」
高揚感と鬱屈する感情が、体中で渦巻いていたが、少しだけ救いがあった。
今まで他人を傷付けることしかできなかったこの拳で、大切な人間を守れることが出来た。
今まで、誰かを助けようとして拳を振るった時もあった。けれど、心の内を全て善意が占めていたわけじゃない。他人を殴ることによって、ストレスを解消していた。自分のためだけの為に、無作為に誰かを傷つけていた。
今回は、初めて本当の意味で、誰かの為に拳を握ったんだ。
俺は、どうして暴力を振るうようになったか、きっかけを思い出せない。
暇つぶしだったのか? いや、もしかしたらさ、こうやって海野を救い出すためだったんじゃないかと思うんだ。すげぇ、突飛で、後付けで、不遜で……だけどそれって――ロマンチックだろ?
だったら、本当に良かった。
「い――やっ――ああああ!」
差し出した手は、無情に海野から弾かれる。
この時、俺はどんな表情をしていたんだろう。海野は歯をガチガチにして、俺に心底怯えていた。多分、それはそれはおぞましい形相だったのかも知れない。
「ち――がっ――ご、めっ――ぇえ――ああああっ――」
海野は首を横に振りながら、涙を散らしている。過呼吸になりながらも、必死で何かを伝えようとする海野を、片桐は静かに見下ろす。
俺は誰を守る為にここに居るのだろう。何の為にここに居るのだろう。何を期待していたんだろう。
拒絶されて当然だよな。
暴力を振るうような人間、恐くてしかたがないだろう。嫌で嫌で顔も合わせたくないだろうな。……なにせ、最初会ったときに顔を見ただけであんなに恐がられていたんだからな。
わかってたんだ。
ずっとずっと、他人を傷つけて生きてきた俺が、ちょっとばかしもがいても、結局は元の木阿弥。絶望という底からは、一生蜘蛛の糸は降りてきやしない。どれだけ渇望しても、他人のような真っ当な生き方なんて歩むことなんてできないんだ。
だって、俺にはなにもないから。
将来の夢らしき片鱗も、みんなの御蔭で見つけたような気がした。
だけどそれは気のせいだったんだ。
こんな俺が、誰かのためになんて。
そんなことで、過去の遺恨や罪を、帳消しにできるはずなんてないんだから。
「じゃあな、海野」
恐がらせない為にここから早く立ち去ろう。
俺はもう一人きりでいい。
二度と絆を求めたりしない。
だって、一度掴みかけた幸せが、掌が溢れた感触を俺は忘れたりできないから。もう、そのせいで、こんなにも辛い思いをするのなら、いっそなにもない伽藍堂の木偶でいい。そうしたら、もう、なにも喪失せずに済むんだからなあ。
あれだけボコボコにしたから、男達も起き上がるのに時間がかかるだろう。だったら、もう海野は大丈夫だ。
海野の表情を見るのが恐くて、俺は一度も振るかえることはなかった。




