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海のキャンバス  作者: 魔桜
22/28

道標


 宗旨変えしたのか、放課後連行されたのはいつもの自習室ではなく、職員室内にある四畳という広さの 小さな部屋、教育指導室。

 座り心地の良さそうな、高級感漂うソファーが向かい合っている。その間にはガラスの机があり、その上には何も置かれていない。

 一方のソファーに腰掛けた狩野は、片桐に座りなさいと命じる。

 二人掛けの黒く光沢のあるソファーに座すと、その低反発感に驚く。そして、二人掛けのソファーに一人で座ると、妙に寂しい気持ちになる。

「片桐くん、最近どうしたの? 元気ないようだけど?」

「別に、なんでもないっすよ」

 本当に何もない。

 全て元通りになっただけだ。

 あれから、海野と宮崎がどうなったのかは知らないが、相変わらず、宮崎とは別の席で昼時を過ごしている。

 だが、それ以外は、俺が第二美術室で海野に出会った以前の状態に戻った。何もおかしいことはない。

「海野さん、絵画のコンクールで最優秀賞を取ったそうね。知ってる?」

「いえ……」

 知らなかった。

 あいつが、今何をしているのか。何を考えているのか。今の俺にはどうでもいいことだ。

 それよりも今、どうして海野の名前がいきなり出てくるのかが不可解だ。

 俺は狩野の前で一言も海野の名前を出した覚えはない。そんな俺の疑念が顔に出ていたのか、狩野はしたり顔をする。

「あのね、私はあなたの担任なのよ。生徒一人一人のことを把握してなくてどうするのよ」

 なんて、嘘。ちょっと、強がってみたけど、生徒全員平等に気を配るなんてできないわ。先生だって神様じゃないしね。と、ウインクされる。

「私は立派な教師とは言えないけれど、あなた達生徒の人生の先輩よ。私にとって特別な生徒の悩みぐらいは解らないとね」

「特別って、不良って意味ですか?」

 慣れない敬語に身震い。

 矢張り俺には敬語は似合わないな。

「ううん、そんなの一つの個性に過ぎないわ。特別っていうのは、あなたみたいに誰かの助けを求めている生徒のことよ」

 そんなの求めていない、と明言しても、この思い込みの激しい人には何も響かないだろうな。

 俺は今何も求めちゃいない。

 ただただこの平穏が久遠に続くことを切に願っている。

 それだけだ。

「絵画のコンクールで最優秀賞を取ってから海野さん、クラスにもっと馴染めるようになったわ」

 担任以外にも数学を担当する狩野には、他クラスを指導する義務がある。海野のクラスにも、この先生は、数学の教鞭をとっている。それと合わせて、教師間のネットワークもあるから、生徒の内情も筒抜けなのだろう。

「正直、入学してから海野さんは他の人とあまり馴染めていなかったわ。前の学校で一緒だった人たちが固まって、グループを作っていたからかも知れないけれどね。……ああ、女子は基本的にグループを作るもんなのよ。面倒くさいわよね、ほんと」

 男だって、グループみたいなもの作る。

 異端な人間を作り出し、輪から弾く。

 それは、男だろうが、女だろうが関係ない。

 そうやって、どうにかして自分より下位の人間をでっち上げないと、気が気じゃないんだろう。

 自分がその立場にならないようにする為に、誰かを貶める。そして、その標的になるのは、いつだって協調性のない人間。

 周囲の人間と同調できない奴だ。

 つまりは、俺みたいな奴ってことだ。

「でも、それだけじゃなくて、海野さん自身にも問題というか、改善しなきゃいけない点があるのは事実でしょ。片桐くんなら解るでしょ? 海野さんって、ほらちょっと強情な所あるじゃない。それが他の人の反感を買ったみたいでね」

 確かに、あいつは頑固な所がある。

 オブラートに包まなくたって、それはあいつのアイデンティティの一つだ。どんな状況でもブレないで、自分の意志を頑として曲げない。その才能は、まさに一級品だ。

 有沢にあれだけ嘲弄されても、あいつは美術部を辞めずに、コンクールで最優秀賞を取るような作品を描き上げた。

 どんなに周囲が邪魔しても、あいつは立ち止まることはないだろう。

 大地にしっかり根を下ろした樹齢百年の樹のように、自分というものがどんなものか解っている。

「だから、けっこうクラスでは浮いていたの。でも、ある日を境に、少しずつだけど態度が柔らかになっていったわ。どうしてだが、解る?」

 何一つ、塵一つ何も頭に過ぎらなかったと言えば、嘘になる。だが、自惚れれば、一縷の可能性に縋ってしまえば、それはなんて見っとも無いことだろう。

 俺はそこまで自分のことを好きになれない。

 だけど、

「あなたと出逢って、海野さんは変わったのよ」

 ――それは、俺が求めていた言葉だった。

 けれど、言い切るに足る証拠でもあるのかよ。どうせ、ただの出任せなんだろ? 

 だが、自信満々な狩野の顔を見ていると、悩んでいるのがどうでもよくなって、そうなのかも知れないという気持ちになってくる。

 決して長いとは言えない俺たちの関係。だけど、重要なのはスパンではなく、それこそ中身が重要。

 密度ある時を過ごしたさ。例えば、鬼ごっこや、かくれんぼ、マンツーマンでの授業。

 ……ああ。

 過去は美化されるというが、それは間違いだ。こいつと過ごしてきた思い出の中で、ろくなことが思い出せない。

「ああいう殻に篭ってしまうタイプはあなたのように無理矢理、土足で相手の土俵に踏み込むタイプでないと駄目なのよ。天岩戸のようにじゃなく、北風と太陽のようじゃなく、図太い片桐くんじゃないと駄目なのよ」

 貶しているのか、誉めているのか、どちらにせよ説教臭い言い方になるのは、職業柄か。

そんなこと分かってるさ。

 俺がどれ程の莫迦でも、狩野が俺を心配して、こんなことを言ってくれているってことぐらいは。

 こんなお人よしで、偽善的な教師なんて、滅多にお目にかかれない。今の教師は、生徒や親の反抗を恐慌して、なんの意見も発さない。それが当たり前になっている。

 まったく、こいつのお節介には、あほらし過ぎて涙が出そうになる。

「そうして……あなたのような不良に手駒にされた海野さんは変わっていったのに、最近、元気をなくしてるわよ」

 本当に、こいつのあほらしさに泣きそうになる。

 少しでも見直した俺が莫迦だった。

 手駒ってなんだ、手駒ってっ!!

 そんな関係だと思ってたのかよっ!!

「おかしいと思ったのよ。私の予想なら、絶対最優秀賞を取った時に、歓喜の余りあなたにハグすると思ったのに、どうしてかしらね。あなた達、喧嘩でもしたでしょ?」

 どこの外国人だ、なんて突っ込む気力はない。

 喧嘩したかと訊かれたら、そんなの有り得ないと答える。

 なぜなら喧嘩とか、そんなことに発展すらしていない。

 一方的に頬を叩かれただけだ。

 あの時の俺の言動は間違っていたのだろうか。

 けれど、自分で決心して、それで、自分の本心を叫んだ。それを、あいつは拒絶したんだ。どうしようもないだろ?

 それにしたって、教師という人種は面倒臭くて敵わない。

 最初から核心を話せばいいのに、本題に入る前に迂遠する。始業式の校長の話がいい例だ。

「いったい、何が言いたいんですか? 仮に俺と海野が喧嘩していたとします。けれど、それがどうしたっていうんですか?」

 俺がそれを言い出すのを待っていたかのように、狩野は満面の笑みを惜しげもなく、全力で俺に見せ付ける。髪を横に流す仕草ですら、まるで練習したかのような、きな臭さを感じる。

「私は、こういうことが一度してみたかったのよ!」

 カブトムシを採ってきた子どもが、親に対して自慢するように高らかに宣言する。

 狩野の言葉をじっくり飲み込む。熟考する。そして、結論。

 全くこいつの意図がわからない。

「ほら、こうやって指導室で生徒と二人向き合って、どうしてこんなことしたの? みたいなことを言い合うのが夢だったのよ! うーん、今の私ってかなり教師っぽいわよね」

 熱に浮かされているように熱弁する狩野とは、反対に、片桐の熱は冷めていく。

 ここまで職権濫用を清々しいまでに、口外する教師に、俺は生まれて初めて出逢った。

 そして、お別れだ。

 とっととこの場から離脱したい。とんだ茶番劇につき合わされ、無駄な時間を過ごした。

 ソファーから勢いよく立ち上がり、教育指導室から退出しようとする片桐を、狩野は呼び止める。

「片桐くん」

 止まるつもりはない。いつものように俺は狩人から逃亡を図るだけだ。

 なぜなら、俺の理解の遥か外界に在住する異世界人とコンタクトを取るは無駄で、もう疲れた。こいつとはまともに言葉のキャッチボールができる気がしない。あっちは、剛速球。しかも俺に向かって投げていない。

「数学の良い所、私が好きな理由はね、答えが一つだから。だから、問題を解けた時に凄く嬉しいの。たった一つの答えに私はたどり着いたんだなって! 難しい問題になればなるほど、その快感は強くなっていくの」

 今度は剛速球ですらない。魔球だ。大リーグボールを投げられても、俺は花形じゃないから打ち返せない。

 バカらしい。

「それから、大学院までいって、私は数学について研究し続けたわ。それでも私は、勉強し足りないって思った。そしたら、いつの間にか教師になってた」

 なにか良い事を言っているような気がするが、到底その境地に至ることはない。

数学は俺の、昔から不得意分野だからな。難解な問いを見ただけで眠気がする。算数すら危うい。

「だけど、人生において、誰もがいつかはぶつかる、自信の壁の越え方の答えは、一つじゃないわ」

 殴ったり、蹴ったり、跳躍したり、よじ登ったり、もしくは、諦めて迂回したりね。と狩野は俺の背中越しに言ってくる。

「それに、眼に見える範囲の答え全てが正解とも限らない。結局、全部のルートが不正解かも知れない。死に物狂いで取捨選択したって、後悔することなんてざらよ。もっと言えば、後悔しない選択なんてゼロかも知れない。そう考えてみると、理不尽な話よね」

 片桐は足を止めて聞き入っていた。

 もしも、もしもだ。狩野の台詞が、根拠のない輝かしい未来の展望を持ちなさい。だとか、自分の過ちを否定してくれる聴きざわりの良い、ただのきれいごとだったら、耳を塞いでいただろう。

 だが、現実を滔々と述べる、少なくとも自分よりは人生というものを知っている狩野の言葉に、片桐の足は石化状態になっていた。

 それに、狩野はこう言いたいのだと思う。

 片桐くんは、海野さんと出逢った事を、そして今まで話していたことを後悔しているのかと。

 今まで、いろんな困難があって、それでも今の未来に到達する為に、自分の歩む道を選んでいった過去を悔いているのかと。

 そうなると、回りくどく、抽象的な発言だ。だが、なにしろそう思い込みでもしないと、狩野がいきなり全く関係ない話をし出したアホだということになる。

 まぁ、真剣な話をする違和感ばりばりの狩野よりは、アホの方が似合っているけどな。

 だけど、そうは思いたくなかった。なんでかって聞かれれば、自分の都合のいいほうに考えたいから、 そう俺は答えるぜ。

「それで、あなたはどうするの? このまま、海野さんとの関係を終わらせていいの? 海野さんと何があったかは知らないけれど、最近の片桐くんを見ていると、現状で満足しているようには見えないわよ」

 口惜しいけど、その通りだ。

 海野が絵を描いている横顔を、俺が見つめる。

 つい最近まではありえないことだったことが、いつの間にか俺の日常になっている。

 工藤や宮崎と一緒に居て楽しかった。けれど、それと同じぐらい辛かった。

 どうして、俺はこんなにも、こいつらと劣っているんだろう、って。そんな俺の胸中を察して、二人は俺に優しくしてくれていた。そんな、友情という名のぬるま湯に浸かっていた。

 けれど、異分子が俺達のところに舞い込んできた。

 海野と一緒に居ても、やはり辛かった。そいつは俺が欲しいと思っているものを持っていた。だけど、あいつは真正面から俺にぶつかってきた。

 素の自分を曝け出しても、あいつは一歩も引かずに、噛みついてきた。そんな変人で、面白いあいつと、このまま終わらせるのは、なんだか勿体ないんだよな。

「片桐くん、今のあなたの答えを、あなたが今何をしたいか聞かせてくれる?」

「わかんねぇな!」

 自分が今何をしたいかなんて、自分自身解らない。海野に会って、何がしたいのかなんて解らない。ただ、俺は今のままじゃ、ただ突っ立っているだけの案山子でしかない。

 怒鳴るような口調になったが、狩野は真顔から急激に、いつもの憎たらしいにやにや顔へと移行する。

 うん、いつもの片桐くんに戻ったわね。という、囁き付きだ。聞えるか聞えないか微妙なラインの音量だったが、ばっちり聞えていたぜ。

 なぜなら、一言一句てめぇの言葉を聞き逃さないように、しっかり聞き耳を立てていたからな。文句あるかよ。

 狩野はまた、教師用の能面に戻り、人差し指を俺に突きつける。……うざい。

「それで、私の話を聞いて、片桐くんはこれからどうするの?」

 あいつに、海野に会う。そして、俺の今考えていることを、嘘偽りなしの本音を言う。それ以外のことはまだ解らない。だけど、今はそのままでいい。

 片桐は、肩の荷がおりたかのごとく、軽快に走る。足に羽根が生えたように、足枷がとれたように軽快に走る。

 そして、走っている場所は当然、職員室。

 放課後の職員室には今日中に採点しなければならない小テストや、明日の授業の準備などでほとんどの職員が残っている。

 不良として名高い片桐が走れば、当然の如く叱咤や怒号に包まれる。

 あっ、やばい。何も考えていなかった……。

 だけど、ここで立ち止まって説教受けていたら、確実に何かが終わる。そんな、気がするんだ。

 と、バカのように格好つけながら、とにかく教師から逃げる。

 教員たちの制止を振り切り、廊下へと飛び出すが、腕を掴まれる。

「片桐くん、あなたは何を考えているのですか!」

 銀縁眼鏡の似合うバリバリのキャリアウーマンの印象を受けるその人物。よりによって、説教マシーンである教頭先生に捕獲される。このまま捕まっていれば、二時間正座コースは免れない。

 どうする? 本体である眼鏡をかち割るか?

 がしゃーん!!

 破壊音が廊下に響き渡る。

 振り向けば、高級そうな花瓶がものの見事に粉砕され、ジクソーパズルのように欠片が散らばっている。花瓶の水で水浸しになった廊下や、均等の長さに切られている色鮮やかな花は無残な姿に。

 そして、その傍で、途方に暮れたように立っている狩野その人だった。

「か、狩野先生! それは、霊堂学院の理事長から戴いた花瓶ですよ! 何をやっているんですか、あなたは!」

 怒り心頭し、裏返った声で教頭は狩野を責め立てる。掴んでいた片桐の腕を無意識に放し、ハイヒールを鳴らす。

 後姿からでも視認できる程の怒気を、周囲に撒き散らす。

「すぃませーん、きょーとせんーせぇ。そろそろ水を入れなおした方がいいかと思ったんですけど、落としちゃいましたー」

「あなたは余計な気を回さなくて結構です。まったく、狩野先生は学生気分が抜けきっていないから、こんなことになるんです。とりあえず、モップを――」

 嘆息交じりの教頭に見咎められないように、狩野は俺にアイコンタクトを取る。いいから、行きなさい。片桐くんは私の獲物。私以外の人間に捕獲されちゃダメよ。というメッセッジーを口の形だけで伝えてくる。

 ……はっきり言って迷惑この上ない。

 月並みの台詞に寒気すらした。

 そして、俺は苦笑しながら、海野と邂逅する為に駆け出す。


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