命令
「牛乳買ってきて。今日の夕飯はシチューがいい」
自宅に帰宅した弟に向かって、姉貴が開口一番に発した言葉だ。玄関先で寝転がりながらファッション雑誌を閲覧している。そんなに怠惰な生活を送っているぐらい暇なら、自分で買ってこい。
「はあ? こんなにも綺麗な姉が、ちょー健気に、使えないグズな弟の帰りを待ってやってたんだから、褒められはすれど、責められる謂れは無いわよ」
太太しさ、ここに極まれり。
どうせ、自分が買いに行きたくないだけだろ。玄関で待機していたのはただ単に、この時期の板張りの床はひんやり冷たく、ひっついていれば、少しは暑さを凌げるからだろ。
しかも、ファッション雑誌に横に置かれているのは、俺が楽しみに残しておいたハーゲンダッツのストロベリー味じゃねぇか! ちょっと、リアルに泣きそうになってきただろうがあああ。
だが、まぁ、実の姉の頼みとあっては断れない。当然だろ? 姉弟なんだから助け合って生きていかないといけない。
なにせ、ちょっと渋っただけで、俺の腕は今にも破壊されようとしている。腕があらぬ方向に螺子まがりそうな程、一切手加減のない関節を極められては、姉に文句の一つも言えやしない。
俺が多少なりとも腕っぷしに自信があるのは、幼少期より姉により、無理やり鍛えられたお蔭だということを再認識する。それと同時に、釘バット製作にどのぐらい時間がかかるか真剣に計算してみる。 だが、計算途中で過去の失敗を思い出し、断念する。
今となっては、遠い昔の出来事のように思えるが、理不尽な姉の仕打ちに、耐え切れなくなった俺は闇討ちを決行した。
まあ、あの時の俺も若かった。
それはもう、聞くも涙、語るも涙の凄惨な結果に終わった。
新月で姉の部屋が完全に闇夜に包まれていたにも関わらず、奴は武道の達人のごとき神業をやってのけた。姉の自室に置いてあった木刀を、布団にくるまっていた姉に向かって振り下ろすと、奴は目を瞑ったまま片手で真剣白刃取りを成し遂げた。
その後のことは俺の記憶からすっぽり抜けている。人間、真の恐怖体験は、忘却の彼方に葬り去ることを知った。
「ぼさっとしてないで、さっさと買ってこい!」
姉に尻を蹴られそうになりながら、片桐は脱兎の如く家を飛び出した。
こ、こわいからじゃないからなっ!!




