最終話
「あと僅かじゃ。もうしばらく耐えておくれ」
耳元で、ルーナの声が聞こえた気がした。
あと僅か。
その言葉を聞いた瞬間、ルクレツィアの手はしっかりと手綱を握り、馬の腹を蹴って、地を駆けていた。
目の前に立ち塞がる魔獣を蹴散らし、眼前にそびえ立つ大型魔獣を風の陣で両断する。
両断した獣の体の間を抜け、彼女は一心不乱に前へと進んだ。
「ありがとうございます! どうかお名前を……!」
魔獣を蹴散らした際に、偶然助けた兵士が叫ぶ。
「馬鹿、おまえ! 陛下の話を聞いてなかったのか!? あの方は公爵令嬢ルクレツィア=ガブリーニさまだ!」
別の兵士が倒れた兵士に肩を貸してやりながら、怒鳴った。
「はあッ!? 公爵……令嬢……!? 深窓の令嬢がどうして魔獣を蹴散らしてるんですか!?」
「んなこと、オレが知るかッ!! お前本当に何も聞いてなかったんだな!?」
白き軍馬にのって、戦場を駆けるルクレツィアの姿、そしてその圧倒的な強さに兵士たちがざわめく。
「元です! 今はただのルクレツィアでしてよ! わたくしのことはいいから、今は目の前のことに集中なさい!!」
彼らをしかりつけるように、ルクレツィアは声を張り、振り返ることなく駆け抜ける。
剣を振う兵たちの横を抜けて、空から落ちてくる赤い竜を追いかけるように馬を走らせた。
魔獣の群れも、山ほど大きい巨大種も、彼女を止めることはできない。
今のルクレツィアには、一騎当千どころか、一人で万の魔物を狩らんといった凄みがあった。
立ち塞がれば、その魔力でたちどころに蹂躙されるのみである。
最前線を突き抜けて、単騎で敵陣をつき穿つ彼女へ吸い寄せられるように、一つ、また一つと騎馬が集まる。
「おいていくなよ、水臭い」
国から貸し出されたであろう、軍馬に乗ったイレーネ。
彼女は灰色の髪を風になびかせながら、いつもの笑みを浮かべ、三つ首の魔物の首を全て同時に切り落とした。
仲間がやると決めたなら、命がけで支援する。それは彼女にとって当然のことだった。
「今度は断らせませんからね!」
イレーネの少しあとからやってきたジャンが、細身の剣で蛇に良く似た魔物の眉間を貫く。
命がけの救出を断られたことを根に持っているのか、彼の口からはそんな言葉が出てきた。
無鉄砲で、危なっかしくて、放っておけない。
イレーネに付き従うためではなく、年の離れた妹分のため、彼もまた馬を走らせていた。
「ワシらは仲間だろーが!」
エルモは牛頭の毛むくじゃらな魔物を、斧の一閃で切り飛ばして二人を追う。
出会ったときは小さくて弱そうだったルクレツィア。
そんな少女があっさり死んでしまわないように、エルモは何かとルクレツィアを気にかけていた。
いつしか、その努力と根性、それから規格外の強さに、彼もまたルクレツィアを仲間として尊重するようになった。
エルモはイレーネのような狂戦士ではないし、ジャンのようなイレーネの狂信者でもない。
人の身で竜に向かっていくことがどういう事なのか、良くわかっていた。
それでも、漢には譲れない、譲っちゃいけないものがある!
斧を振り回しながら、彼は一心不乱に銀の光を追いかけた。
「竜ってのは想定外ですが、運命の女神とやらよりはマシですね!」
三人から少し遅れてダニーロが器用に敵を避けながら、馬を走らせていた。
彼の場合、敵に構っていたら先の四人において行かれてしまうので、追いかけるだけで精いっぱいである。
ルクレツィアが幼かった頃には、まさか本当に女神が復活するなんて思わなかったし、竜と戦う事なんて想像もしなかった。
以前の彼ならば、こんな判断は決してしなかっただろう。
しかし、ダニーロはルクレツィアが国から逃げ出すまで、濡れ衣を着せられたことを知らず、肝心な時に力になる事が出来なかった。
幼かった少女との約束と苦い後悔を胸に、ダニーロは唇を引き結ぶ。
こんどこそ、彼女との約束を果たすため、彼は震える足で馬の腹を蹴って疾走した。
「わしもいくぞい!」
ホフレはなぜか、徒歩であったが、馬に劣らぬ速度で追走していた。
太く、逞しい両の足で地を蹴りながら、立ちはだかる魔物をすれ違いざまに殴りつけ、破裂させる。
近場の魔物を腕力と最小限の魔力を込めた陣で、圧倒し、少し距離のある魔物はまた別の陣で打ち砕く。
近距離と中距離、さらには進行の妨げとなるであろう遠距離の敵を、同時に屠り続けるホフレ。
「この年になって、娘とともに伝説に挑めるとはのう! 長生きはしてみるもんじゃわい」
笑みすら浮かべて敵を殲滅する、彼の後ろには、騎乗した四人の仲間たちが続いている。
「馬より早いって、なんなんだ。ジジイの方がよっぽど化け物だろ」
凄まじい脚力で疾走しながら、一人で敵を殲滅していくホフレにマルコが呻く。
「何を言うのです、マルコ。毒をもって毒を制すという言葉を知らないのですか?」
仲間を化け物扱いするマルコをコラートが咎める。
が、コラートもたいがいであった。
「いや、コラート。お前の方がひどくね?」
「マルコ! 白竜なんざ、とっととブチのめして俺ァ店に帰るぞ!」
「ファビオ。お前は本当にブレねぇのな。もっと楽しめよっと。ジイさんたちの竜退治ってのもおもしれーだろうが! なあ、ロリス」
向かってくる大型の魔物の横腹を殴りつけ、弾き飛ばしながらマルコが言った。
「僕に振るな。あんたらちょっと年甲斐もなく、はしゃぎ過ぎだろう」
ロリスは仲間たちの談笑にも関心を示さず、馬で駆けながら陣を紡いだ。
流石に楽器は演奏できなかったが、仲間たちの拳や武器が奏でる打撃音に合わせ、絶え間なく炎や風などの攻撃魔術陣発動し続ける。
「ああ? つまんねーヤツだなァ。今は楽しまなくて、いつ楽しめってんだコラ!?」
「……それもそうだね。マルコにしては良いこというじゃない」
「おい。てめェ、それはどういう意味だ!?」
「いや、わかるでしょ」
楽しげに笑う五人の英雄たち。
最盛期の力を得ても、伝説の竜を相手にすれば、死は免れないだろう。
老人たちはそれを正しく理解したうえで、笑いながら駆けてゆく。
その姿は白竜の登場で絶望していた人間たちに、一抹の希望を抱かせる。
ダニーロもまた彼らに気づき、逸話にたがわぬ勇壮ぶりに瞳を輝かせた。
先の九人よりも遅れて、さらに五体の影がルクレツィアの後を追う。
「君一人を行かせるわけにはいかない!」
ジュリオもまた、弓を背負い剣をふるいながら、彼らを追った。
全ては自身の愚かさと、王家の在り方から始まったことである。
集った面々に比べれば、はるかに未熟な腕であるが、それでもいざという時に盾になるくらいはできるかもしれない。
ジュリオは強く剣を握りしめ、覚悟を決めると魔物の群れに飛び込んだ。
「竜だって、みんな一緒なら何とかなります!」
アマーリエもまた、自身の生きる国を、そして家族を守るべく馬を走らせた。
赤竜が倒れれば、次は人間が蹂躙される番である。
ならば、この身に代えても守らねばならない。
彼女は直感的にそう思った。
痛みも戦争にも慣れていない自分がどこまでやれるか。
自身はなかったが、自らの言葉で勇気を奮い立たせ、アマーリエは走り続けた。
「あー! もう! こうなったら、やってやるッ!!」
オルソはアマーリエ達の壁となるべく、前に出て敵を散らしていく。
力強くはあるが、やけくそ気味な剣筋である。
ジュリオやアマーリエほどの覚悟もないが、オルソには死地にゆく仲間を見捨てることができない。
死の恐怖と仲間を失う恐怖を振り払いながら、彼は力の限り剣をふるう。
「おまえらはどうしてそう、死に急ぐんだ」
キーリはオルソが取りこぼした敵にめがけて陣を紡ぎ、腕や足を落とす。
合間に結界を張り、飛んでくる岩などから仲間を護りつつ、しんがりを務めていた。
……彼も大概付き合いが良い。
「なんかよく分からんが、我もゆくぞ!!」
サウロが叫びながら、キーリの横を通り過ぎていく。
彼もホフレと同じく徒歩だった。どうやら、馬がもらえなかったようだ。
走りながら、時に凄まじい跳躍力で目の前の魔物を両断し、先頭めがけて切り込む。
サウロもまた直感的に、この国の民を救うには彼らを追い、力添えをするべきだと感じたようである。
総勢十四人がルクレツィアを先頭にして、魔物の群れを切り裂き、赤い竜達の軌跡を追ってゆく。
やがて地に落ちた赤竜。
地面が大きくゆれ、馬たちの足も鈍った。
大地に横たわった赤竜を追い、首に噛み付こうとした白竜。
とっさに二匹の竜の間に転移し、白竜の牙を結界で押し返しながら、ルクレツィアは歯を食いしばる。
「そんなに喰らいたけりゃ、これでもくらえい!」
ホフレの紡いだ陣により、地面がせり上がり、白竜の咢に黒い杭が突き刺さった。
一つ一つの杭は白竜からすると細い針のようであったが、数百ともいえる数の針が突き刺されば、流石に動きが鈍る。
無数の棘に縫いとめられた白竜の咢へ、サウロが果敢に大剣を叩きこんだ。
渾身の力で叩き込めば、多少は傷も入るが、きいているのかは分からない。
サウロに続いて、全員が白竜へと刃を向ける。
「ちっ……流石に硬いな」
イレーネが湾曲した双剣を白竜に叩きこむも、硬い鱗に弾かれて傷一つ入らなかった。
「姉貴ッ!? 右だッ!!」
白竜の動きを察して、ダニーロが叫ぶ。
振り下ろされる巨大な爪を、さらりとかわして、イレーネはにやりと笑った。
「わかってるさね、愚弟。下がってな。おまえにゃ荷が勝ちすぎている相手だ」
「そんなことはわかってる。でも、約束したからね。引き下がるわけにはいかない」
背から冷や汗を流しつつも、ダニーロは引かなかった。
そんな弟の姿をみて、満足げに鼻を鳴らすとイレーネはジャンとエルモを呼ぶ。
「ジャン! エルモ! 魔獣を狩るのはアタシらの領分だ。それが神話の生き物だろうと関係ねえ。仕掛けるぞ」
イレーネの右後方にジャンが、左後方にエルモが、それぞれ配置につく。
「鱗をまともに狙っても攻撃は通らない。あの腐りかけの爪の付け根を狙う」
「了解です。イレーネさま!」
「おうともよ」
ふるわれる爪を躱しながら、猛攻を仕掛ける三人。
彼らの戦いを見て、アマーリエ達も反対側の爪を狙いに行った。
「おいまて、ジュリオ。俺たちにあんな器用な戦い方は無理だ」
剣を片手に爪へ向かおうとするジュリオをオルソが引き留める。
「弓を持ってきた。大丈夫だ。問題ない」
ジュリオは背負った弓に持ち替えて、力強く頷いた。
「……問題しかないと思うのは、私だけか?」
二人の会話を聞きながら、キーリが頭を抱える。
「でも、ここでこの白竜を止めないとたくさんの人たちが犠牲になります! 私達は弱いですが、それでも竜の気を散らすくらいの役割は、果たせるかもしれません」
アマーリエは話し合う男三人を背に、陣を紡ぎ始めていた。
「ふぉっふぉ。ならばわしらは尻尾をいただくとするかのう」
まるで散歩にでも出かけるかのような足取りで、ホフレは竜の後方へと転移した。
一緒に転移させられた仲間たちは、またか、と思いつつもホフレに噛み付かずにはいられない。
「オイ、ジジイ。相変わらず気が狂ってんな。あんなデカい竜尾、落せるわけがねェだろ」
仲間を代表してマルコが突っ込みを入れる。
そんな彼を小ばかにするようにホフレは小さく笑った。
「なんじゃマルコ。臆したか? 勇猛果敢で知られたおぬしが、臆病風にふかれるとは、年は取りたくないものじゃのう」
「言ったなジジィ!? 見てろよ、あの無駄にデカい尻尾を引きちぎって酒の肴にしてくれる!!」
あっさりとのせられてしまうマルコ。
その単純さにため息をつきつつ、他の三人もそれぞれの武器を手に、神話の怪物へと向かってゆく。
仲間たちが戦う姿を前に、ルクレツィアは奥歯を噛みしめた。
彼女も戦いたいが、まずは迫る白竜の牙を何とかしなくてはならない。
「ちょっと大きすぎますわね」
ルクレツィアは結界で牙を弾くと、瞬時に陣を紡いで雷を落とす。
そうして更なる陣を紡ぎながら、カルロに呼びかけた。
「カルロ! 早く目を覚ましてください!!」
閉ざされていた、赤竜の瞳がゆっくりと開かれる。
夢か現か、認識していないかのような、ぼんやりとした風であった。
「カルロッ!! いつまで、寝ぼけているつもりですか! 早くしないと、みんな死んでしまいます!」
ルクレツィアが必死に叫ぶ。
爪や尾をちくちく攻撃されていた竜が首をもたげ、大きく体を揺さぶった。
その衝撃に、仲間たちの体が跳ね飛ばされていく。
あちらこちらの骨がいともたやすく砕け、血反吐を吐く仲間たちの姿。
戦況は急激に悪化していた。
白竜は再び尾を振り、地面を抉ろうとしている。
尾の辺りにはまだ、ホフレとその仲間たちが居た。
「そうはさせませんッ!」
たまらず飛び出したルクレツィアに気づき、白竜が彼女を喰らおうと顔を寄せる。
竜の頭部がギリギリまで近づくのを待って、彼女は拳に紡いだ陣で白竜を殴りつけた。
硬い竜鱗に耐え切れず、ルクレツィアの手の甲が裂ける。血が滴り、骨が砕ける音を聞きながら、彼女は竜の顎へ拳を突き通した。
「素手で竜殴るとか、お嬢さまどんだけなんですか……」
ダニーロの呆然とした声が聞こえたその時。
白竜の大きな咢が、再びルクレツィアの眼前に迫る。
このまま咥内に一撃をくれてやろうと、陣を紡ぐルクレツィア。
決死の行動を止めようと、誰もが動いたが、あと一歩届かない。
「やめるんじゃ、ルクレツィアッ!!」
血反吐を吐きながら叫ぶ、ホフレの悲痛な声が響き渡る。
ルクレツィアが覚悟を決めた時、温かくも激しい魔力が燃え上がった。
白竜の咢はルクレツィアを喰らう一歩手前で、静止する。
そして、彼女の拳に描かれた陣が、竜の口内を抉り、風穴を開けた。
全ての魔力をつぎ込んだ渾身の一撃であった。
咢を吹き飛ばされてなお、ルクレツィア食もうとした白竜は、灼熱の炎に包まれる。
焔色の結界の中でルクレツィアは炎の主を見上げた。
それは、起き上がった赤竜による炎だった。
金色の炎によって燃え上がった白竜。その姿が薄青い空に溶けるように、薄らいでゆく。
「見てください。そらが……」
ルクレツィアの声につられて空を見上げた一同が目にしたのは。
遠い山の向こうから上る朝焼けと。
紫に棚引く雲だった。
――夜が、明けたのだ。
長い長い夜だった。
周りを見れば、魔物たちもすでに姿を消している。
膝から崩れ落ちるようにして、彼らは地面に座り込んだ。
「痛かっただろうに。無茶はしないって、約束したろ?」
ルクレツィアは背後からすくい上げられ、横抱きにされた。
砕けた拳は元の通りに治癒されており、遠のく痛みに彼女は緩く、瞼を下ろす。
そうして、体の力を抜くと、背から感じるよく知った気配へ身をゆだねた。
「あれは無効です。夫の窮地を黙ってみているだけの妻だなんて、冗談ではありません」
「うん。ありがとう、ルクレツィア」
「わかればよいのです」
腕の中でふんぞり返るルクレツィアに小さく笑って、頬を寄せると、カルロはぽつりとつぶやいた。
「じーさんな。一番最初に生まれた竜だったんだ」
「カルロにとっての、親のような方でしょうか」
「そうだな。一番長い時間を過ごして、たくさんのことを教えてくれた」
「素晴らしい方でしたのね」
「いまさっき見たのなんて比じゃないくらい、強くて綺麗な竜だった。そんで、すげー、優しいの。ルクレツィアにも、ちゃんと会わせてやりたかったな。俺に伴侶ができたと知ったら、きっとびっくりしただろうから」
「わたくしもお話ししてみたかったです。小さいころのカルロのお話とか、色々楽しいことを知ってそうですもの」
「ええ? んなこと、聞かなくていいって。じーさん、話好きで結構うるさいから。俺の話なんて聞いたら、何十年って話しっぱなしだぞ」
「ふふ。面白い方ですのね」
「うん。竜にしては世話好きで、穏やかなじーさんだった」
その死を悼むように、二人はしばし沈黙する。
二人の会話に耳を傾けながら、仲間たちは地面に横になった。
ちなみに、サウロは気絶しているようで、ぴくりとも動かない。
胸は上下しているので、死んではないようだ。
――夜明けの少し湿った冷たい風が、火照った体に心地よい。
「約束通り、わらわは神の座へと戻った」
聞いていると眠気を誘うような、優しげな声が耳をくすぐる。
同時に、白銀の光が辺りを満たし、仲間たちの折れた骨も、傷も全て癒してゆく。
「ルーナ?」
ルクレツィアが目を開けると、そこには、白銀のドレスを身に纏ったルーナが立っていた。
「……今ならわらわにも、ルネッタの気持ちがよく分かる。愛する者たちを残して、神の座に戻るというのは苦しいものじゃの。あの子がこの世界を憎み、わらわを恨むのも当然じゃったということか」
ルーナは悲しげな瞳でそういうと、悔いるように一度、瞼を伏せる。
そうしてゆっくりと瞼を持ち上げ、慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
「おまえにもう一度こんな思いをさせずに済んで、本当によかった。これより、わらわは理の外へ戻る。しばしの別れじゃ。なんぞ、願い事はないか? 一度で良いから、娘におねだりと言うものをされてみたい」
ルクレツィアは地面へ降りて、ルーナの目の前に立った。
「では一つだけ。……アルシエロの自然と魔力を元に戻すことはできますか?」
「むう。なんとも欲がないものじゃ。わらわが言うたおねだりというのは、もっとこう、違うものなのじゃがの。しかし、よいのか? あれは水精霊の墓じゃろう?」
「水精霊も、許してやってくれと言っていました。わたくしにはルネッタの記憶はありません。だから、ルネッタならば怒るかもしれません。けれど、わたくしは彼らに魔力と自然を返してやりたいのです」
「お前が良いなら、わらわからいう事はない。記憶を封じた人の身で、解ける封印ではないが……祝福をやろう」
ルーナはルクレツィアの額に口付た。
女神の唇から銀の魔力が流れ、ルクレツィアの身の内に溶け込んでゆく。
「これで、人の身に余る魔力にも耐えうるはずじゃ。封印を解く鍵はお前の内にある。望めば放たれるだろう」
サウロはさぞ喜ぶだろうと、ルクレツィアは彼を見やった。
が、彼は白目をむいて気絶している。
まあ、脅威は去ったのだし、そっとしておいてやろう。
彼女はルーナに向き直り、肩から全身にかけてぐっと力を込めた。
「あ、ありがとう、ございます。……おかあさま」
消え入るような声で言った彼女をルーナは思い切り抱きしめる。
人の体温より少し低い体温。
体つきも同じはずなのに、ルクレツィアには妙に細く感じた。
「願い叶のうて、わらわは嬉しい!」
その両目からは、涙が流れている。
涙で紫の瞳が溶けてしまいそうな勢いであった。
流れる涙をドレスの袖で拭って、ルーナが拳を握りしめる。
「嬉しいからわらわ、やっぱり戻るのやめる!!」
「えっ!? いや、それはなりません! 世界が滅びたらどうするんですか!?」
「世界より娘じゃ!」
「わたくしも滅びます!」
「ならば、一緒に理の外へと来るがよい」
むっと頬を膨らませ、子供のようにすねてみせるルーナ。
女神にだって欲はあるのだ、とその表情は言っていた。
ルクレツィアは疲れた体に喝を入れ、しっかりとルーナへの言葉を紡ぐ。
「わたくしは、この世界が好きなのです。人として生を終えるその時まで、後悔しないよう、精いっぱい生きてゆきたく思います。――だから、あなたとともに行くことはできません」
不満ではあるが、生きたいと願う娘を地上から無理やり連れ去るわけにもゆかぬ。
自身を無理やり納得させると、ルーナは唇を尖らせ、大きくため息を吐いた。
「うーむ。仕方ないのう。……わらわは、いつでもお前を見守っておる。困ったら呼べ。神の座に戻ったわらわに出来ぬことはないぞ」
「ふふ。こういうのも、権力の乱用というのでしょうか?」
「神じゃからな。そのくらいの贔屓は許されようて。文句をいうものには神罰を下すまでよ」
「悪神と言われてしまいますよ」
「かまわん。たいそう美化されておるが、本来のわらわたちはそのようなものじゃ」
「神話の時代のお話……とても興味深いです。よろしければ、もっとたくさんの話を聞かせてください」
きらきらと瞳を輝かせながら、かつての物語をねだる娘。
ルーナは頷きかけて、困ったように微笑んだ。
「いくらでも話してやる。と、言いたいところじゃが、これ以上はよくないのう。そろそろ戻らねばならん」
「では、いつか聞かせてくださいね、おかあさま」
「――ありがとう、ルクレツィア。わらわの可愛い娘。母はお前の幸せをいつまでも、願っておるぞ」
ルーナの瞳から、一筋の涙を流れた。
頬を伝うその涙にルクレツィアが見惚れているうちに、ルーナは銀の光となって消え去った。
銀の光が霧散した後には、黒髪の少女の遺体が残る。
ルーナが去ると、急速に太陽が昇り始めた。
まだうっすらと見えていた月は、完全に見えなくなる。
さやさやと流れる風が、草木と甘い花の香りを運んできた。
災禍の爪痕は深いが、プリマヴェーラの日常がようやく戻ってきたのだ。
ルクレツィアは草原に横たわる少女――フィオナの遺体を抱き上げて、驚きの声を上げる。
「この子、息が……!?」
血の通った暖かい肌と、止まることなく拍動し続ける心臓。
慌てて脈と体温を確認して、彼女の全身に鳥肌が立った。
「うそ。人が死から蘇るだなんて……!」
それは、奇跡としか言いようがない。
フィオナのよみがえりについて、ルーナは一言も口にしなかった。
女神も意図しなかった少女の復活。
ティートが知ればどれだけ喜んだことだろう。
己の生涯をかけた、彼の望みは叶ったのだ。
流れた前髪が白い額を晒し、少女のまぶたに朝焼けの強い光が降り注ぐ。
光に刺激されて、フィオナのまぶたとまつ毛が小さく痙攣した。
「……まぶしい……家、じゃない?」
ルクレツィアの腕の中でフィオナがゆるりと瞳を開け、唇を震わせる。
澄んだ黒い眼を忙しなく瞬かせながら、問いかけてくる少女。
よろよろとした足取りで立ち上がる彼女を支えながら、ルクレツィアは質問に答えた。
「ここは、レッチェアーノ王都の近くにある草原です。フィオナ」
目の前に屈んでいる見慣れぬ女性にフィオナは首を傾げる。
「あなたはだれ? どうしてわたしの名前を知っているの? おとうさまとおかあさまは、どこ?」
矢継ぎ早に質問を重ねる少女を安心させるように、ルクレツィアは優しく微笑んだ。
「わたくしはルクレツィア。あなたの父君から、あなたのことを任されたものです」
「まかされた? おとうさまになにかあったの?」
「……フィオナの父君と母君は、遠くへ行ってしまわれました」
「遠くって? どこにいったの?」
「それは、わたくしの屋敷にてゆっくりお話しします。長い話になりますから」
無垢な瞳で見上げる少女。
いつかの約束通り、自分が彼女の庇護者となろう。
ルクレツィアは誓いを立てるように、胸の上で拳を握りしめた。
「おねえちゃん、どうしたの? なんだかつらそうな顔しているけど、たいじょうぶ?」
「ええ、わたくしは大丈夫です。心配してくれてありがとう、フィオナ。さあ、わたくし達も行きましょうか」
ルクレツィアから差し出された手を取ると、フィオナは神妙な表情で頷いた。
まだ十に満たない幼き少女ではあるが、彼女は魔術師の娘である。
ルクレツィアの言葉や態度から、何事かを察したのかもしれない。
「カルロもそれで構いませんか?」
「あ? ああ……それにしても、すげえな。神でもなんでもない、ただの人間が生き返るなんて、いったいどういう事なんだ?」
「わかりません。世界を左右するようなものではありませんけれど、こういう小さな奇跡も悪くないとは思いませんか?」
「そうだな。太古の竜が出てくるぐらいだ、何が起こってもおかしくないしな」
「そういうことですわね」
視線を交わしあうと、二人は地面に転がっている仲間たちへ、再会を誓う短い別れの言葉を告げる。
「それではみなさん。またいづれ」
女神のありがたい魔力も、気力と体力までは元に戻してくれないようで、みなぐったりとしていた。
「うむ。またこの年寄りと遊びに来て下され」
ホフレは仲間たちと周囲の確認に向かうらしく、地面に転がった仲間を引きずって去ってゆく。
元気すぎるホフレの姿に驚きつつも、ルクレツィアの仲間たちは、それぞれらしい返事で彼女を見送った。
「何かあったら、呼んでくれ。アタシらはいつだってお前の味方だ」
「妙な遠慮で呼ばれなかったら、こっちから迎えに行きますからね。覚悟しておいてください」
「インヴェルノから、とっておきの美味い酒を手にいれとくからよ。いつか夫婦で飲みにきてくれ」
「お嬢さま、お元気で――……って。ああ、そうそう、お嬢さまにお願いがあるんですけど。竜で運を使い果たした気がしますから、女神さまと母娘喧嘩だけはしないで下さいよ。たぶん、次こそ僕、死んじゃうんで」
ルクレツィアは仲間たちの返事を聞いて、小さく笑うと王都を振り返る。
あれだけの戦いがあったのに、城門には傷一つ着いてない。
満足して、転移陣を紡ごうとしたルクレツィアをジュリオが呼び止めた。
「ルクレツィア。許してもらえるとは思っていないが、本当に申し訳ない事をした。心から、謝罪する」
ジュリオは跪き、許しを請うように頭を垂れた。
「私は逃げないことにした。この先私の処遇がどうなるかは、分からない。しかし、君がそうしたように、これからの働きで皆の信を得られるよう、努めるよ」
言って、膝の上で拳を握る。
これから多くの苦難が待ち受けるだろうが、彼は逃げないとルクレツィアに誓った。
きっと女神も聞いていることだろう。
破れぬ誓いを立てた彼の意をくみ取って、ルクレツィアもまた地にひざをつき、目線を合わせた。
「国を出たお蔭で、わたくしは自らの道を見つけ、歩むことができました。わたくしがこれから歩んでいく道もまた、決して平坦な道ではないかもしれません」
過去を振り返りながら、ルクレツィアは丁寧に言葉を紡いでゆく。
「けれど、愛する者と共に手を取り合って、歩んでゆける幸せを大切にしたい。そう思っておりますの。ジュリオもまた、苦難の先に幸せが待っていることを願っております。……レッチェアーノを、宜しくお願いしますね」
「ありがとう、ルクレツィア。私も見識を広め、君の優しさと期待を裏切らないよう、努力する。二度と過ちを犯さない、と言えたらよいのだが……」
どうすれば正しき道を歩めるのか。
まだジュリオには良くわからなかった。
彼はためらいながらも、一つの願いを口にする。
「もし、また私たちが間違った道に進もうとしたときは、教えてもらえないだろうか。図々しい願いで、すまない。しかし、私の過ちを指摘してくれる人間は少ないんだ。今回の件でそれを痛感した」
「ええ。もちろんです。わたくしも故郷に生きる家族や友たちのためならば、助力は惜しみません。ルーナがレッチェアーノを海に沈めてしまったら、大変ですから」
朝焼けに照らされた、女神によく似た面差し。それは、慈悲深ささえ感じさせる温かな笑みだった。
もう気にしていないとばかりに、ジュリオの幸せを願うルクレツィア。
彼女のを眩しげに見やって、ジュリオは伸ばしかけた手を強く握りしめ、頭を下げた。
「感謝する」
ルクレツィアはジュリオの腕に手を添え、立ち上がらせた。
そうしてジュリオの礼を受け取ったことを示すように一つ頷くと、傍らに立つカルロを見上げる。
「カルロ」
「ん? もう良いのか?」
「ええ。……手を、繋いでくれますか?」
「喜んで!」
右手はフィオナと左手はカルロと、手を繋ぎ合う三人。
フィオナは背の高く大柄なカルロから隠れるように、ルクレツィアの半歩後ろを歩いている。
ルクレツィアはそんな少女の挙動にくすりと微笑んで、カルロに言った。
「朝焼けを見ながら少し歩きたいのだけど、良いかしら?」
「もちろん! 愛しい嫁さんとなら、どこまでだって歩けるぜ。なんなら、アルシエロの家まで歩いて帰るか?」
「まあ! それも面白そうですわね。そうだ。ソフィアとグイドにも会いに行きましょう。あの二人はお似合いの夫婦になると思いますの」
「ふーん? また生クリーム食えるんなら、それも悪くねえな」
「カルロは好きですものね」
「おう。ソフィアの料理の中で一番好きだしな。……あいつら、仲良くやっているみたいだぜ?」
王都の方を見て、カルロが笑みを浮かべる。
「……カルロのような目を持っていないのが残念ですわね。邪魔しては悪いので、そっと見に行くことにしましょうか」
「いやー。あの人間、ルクレツィアの気配にはもの凄く敏感だから、無理じゃね?」
「いいえ。わたくしにだって、やればできます!」
「まあ、そうかもな」
「ええ。当然です」
主として彼女に負けるわけにはいかない、とルクレツィアは胸を張った。
そんな彼女をカルロは生暖かい視線で見つめている。
「だいじょうぶ! おねえちゃんなら、できるもん!」
服の裾に隠れたままのフィオナがルクレツィアに加勢する。
想定外の援護に、二人は顔を見合わせると声を上げて笑った。
和やかな空気の中、微笑を交わした三人はジュリオを振り返ることなく、歩いて行く。
真昼の太陽の輝きに照らされて、遠くなってゆく二対の背中と、彼らに続く小さな影。
その後姿をジュリオはいつまでも眺めている。
彼らの仲間たちは、城から迎えがよこされるまで、黙ってその背を見守った。
いつか再会することがあれば、彼らに誇れる自分であるように。
誓いを胸に刻んでジュリオとその仲間たちは、ルクレツィア達を見送ったのだった。
後に、ルクレツィアとカルロはアルシエロにて、封じられた大地を解き放つことに成功する。
世界の終りにある大地。
そう呼ばれていたアルシエロの荒野は、かつての緑豊かな大地を取り戻すこととなったのだ。
レッチェアーノでも多くの国民の願いと国王、並びに王太子による史上初の謝罪により、ルクレツィアの無実が公表された。
当然、その罪を問われることもなくなったわけである。
当事者である彼女は気乗りしなかったようだが、王命により、彼女の籍も正式に公爵家へ戻されることとなる。
しかし、二人が国民として、レッチェアーノに戻ってくることはなかった。
女神を復活させ、世界を救った伝説の公爵令嬢と赤き竜は、多くの者たちの嘆願を振り切って旅立ったのだ。
――だが、それは、二人が国を見限ったわけではない。
ルクレツィアとカルロは国の枠にとらわれることなく、世界中を飛び回り、数多の事件や災禍に苦しむ人々を救い続けた。
国や世界規模の禍が起こった時、いずこかより現れ、圧倒的な力を持って、人々へ救いの手を差し伸べる男女。
一人は、赤き竜の化身にして、太陽を連想させる赤髪と金の瞳を持つ男。
そして、もう一人は月の女神の愛し子であり、銀髪と煙るような紫の瞳を持つ女。
手を取り合って、寄り添いながら、自分たちの信じた道を走り続けた二人と二人が慈しんだ一人の幼子。
彼らとその仲間が持つ数多の逸話は国を越え、時代を越えて、絶えることなく人々の間で語り継がれてゆく。
悪役令嬢としての役割を与えられるはずだった少女。
彼女は自らを変えることで、仲間とともに己の道を切り開き、望む未来を手に入れたのだった。
これにて「悪役令嬢、旅に出る~そして彼女は、伝説になる~」は完結です。
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。




