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第八十四話 祖国の異変24

 煌々と輝く銀月に、僅かな朱がさし、徐々に広がってゆく。

 まるで月が血を流しているかのように、じわりじわりと侵食してゆき、ついに月を紅く染め上げる。

 鮮血の月だ、と誰かが言った。

 これから流れる血を連想させるような、不吉で不気味な色の月だった。

 遅れて、地鳴りがやってくる。

 地を見れば、たくさんの青白い手がそこら中から、生えていた。

 もがくように宙を掻きながら、徐々に姿を現す、死んだはずの人々。

 生者はその中にかつての知り合いがいないことを願いながら、剣を取った。


 王都全体に張った結界を護るべく、前へ出る兵士たち。

 彼らは、向かい来る数多の魔物の群れを迎え撃つべく、守りを固めていた。

 王都の門前にはルクレツィア、カルロ、兵士達のほかに、イレーネ達、ホフレ達、サウロ、そしてなぜかアマーリエ達まで出ている。

 遠目に桃色の髪の少女を発見して、ルクレツィアは嫌な予感がした。

 まさか、ジュリオまで参加していないだろうか、と。

 そこまで迂闊うかつな王位継承者だとは思いたくなかったので、視界の端のうつった金髪を、彼女は見なかったことにした。


 やがて、それは現れる。

 紅い月に照らされて、大小さまざまにうごめく闇たちが、粉塵ふんじんをあげながら迫ってきたのだ。

 地鳴りはまだ止まない。

 大地そのものが揺れているような感覚に、怯え、足がすくむものもいた。


「ルクレツィア。こいつは、ちっとばかりまずいかも」


 蠢く闇の、さらに向こう側を眺めながら、カルロが言った。

 彼の視線は常にない緊張感をはらみ、口元は引き結ばれている。


「どうしたのですか、カルロ。あなたがそんなことを言うなんて、珍しいですわね。いったい、何がやってくるのでしょうか」


 カルロが緊張するほどの相手である。

 聞くのは恐かったが、今から相対するとなれば、ルクレツィアも聞かずにはいられなかった。


「神話の時代の、古い生き物が蘇るってルーナが言ってたろ?」


「え、ええ」


 不穏な前振りに息を飲むルクレツィア。

 カルロは相変わらず前方の空を睨み付けたまま、その身に魔力をまとわせた。


「それならば、竜だって例外じゃない」


「ッ……そんな、まさか……!?」


 ルクレツィアも思わずカルロの視線を追って、空を見上げた。

 黒い闇の中、遠くに浮かぶ白い何か。

 近づいてくるにしたがって、その全容ぜんようが浮かび上がる。


「ああ。そのまさかだ。魔力こそ失っているが、この気配は忘れねえ。忘れるわけがねえッ!」


 闇を切り抜いたような、真白な翼。

 光はなく、その空間だけが、ぽっかりと空いているかのような白。

 ひび割れた長い爪も、翼と同じく、空間を切り裂いたかのような空白の色である。

 ――全ての色が抜け落ちたかのような、純白の竜。

 よくよく見れば、鱗や体の一部が溶けてしまっていることがわかる。

 けれど、そんな些細なことなど気にする余裕もないくらい、巨大な竜だった。 


「――なあ、じーさん」


 かつて、一番長い時間を共にした、始まりの竜に向かってカルロが呼びかける。

 この距離ならば、どんな小さな声でも聞き取れるというのに、白い竜の挙動は変わらない。

 このままでは、王都に突っ込んでくることになるだろう。


「なんだ。なかみはカラッポじゃねえか。体だけ戻ってくるとか、どんな嫌がらせだよ」


 記憶の中にある穏やかな黒瞳を思い起こし、カルロはぼやいた。

 そうしてしばし、瞳を伏せる。


「カルロ、大丈夫ですか?」


 心配して顔を覗きこむルクレツィアに一つ頷いて、カルロは笑った。


「ん? ああ、悪い。心配させたな。けど、俺は大丈夫。一度でいいから、じーさんと闘ってみたいと思ってたんだよな。じーさんは全く相手にしてくれなかったけど。……だから、ちょっと行ってくるな。こればかりは、誰にも譲れねえんだ」


 きっとあの竜はカルロにとって、とても大事な竜だったのだろう。

 過去を振り返るように、優しい声音で紡がれる、カルロの言葉。

 彼の言葉に耳を傾けながら、ルクレツィアはそう思った。

 だからこそ、いつも彼が向けてくれるような、とびきりの笑顔で彼を送り出すことにする。


「ええ。地上ここは任せて、あなたはそちらをお願いいたします」


 明るく、はきはきとした口調で言って、ルクレツィアはカルロの背を押した。


「いい嫁さんをもって、俺は幸せ者だな。それじゃ、また後で」


 カルロはそんな彼女の考えを察して、愛おしげに見下ろすと、その頬に唇を落す。


「ちょっと!? カルロ!?」


 まさかの襲撃に、ルクレツィアが顔を赤らめて慌てふためいた。

 周囲を見回し、向けられる揶揄の視線を掌ではらいつつ、彼女は夫をきつく睨み付ける。


「なんだよ。人間はこうやって伴侶を見送るんだろ?」


 カルロは悪びれなく、微笑んだ。

 その笑みを見ていると毒気も抜かれてしまい、ルクレツィアは肩から力を抜いて少し背伸びをする。


「全く。あなたは見送られる方でしょう?」


 呆れたような囁きと共に、今度は彼女がカルロの頬に口付た。

 羽のように柔らかで慎ましい感触に、思わず、カルロの頬が緩む。


「うん。やっぱり俺の嫁さん最高!」


「当然です。あの竜があなたにとってどれだけ大切なのか、わたくしには分かりませんけれど、必ず勝って戻って下さい」


「わかってる。じーさんも、きっとそれを望むだろうからな」


 ルクレツィアの髪をひとすくいして、カルロが自身の魔力を放出する。

 空の月よりも鮮烈な閃光とともに、彼は飛翔した。

 一瞬の後、空に現れたのは赤い巨竜。

 まるで太陽が現れたかのように闇を照らすその巨竜は、それでも純白の巨竜より一回り以上小さく見えた。

 互いの首を噛み付き、鱗ごと皮膚を裂こうとする竜達。

 二匹の竜はもつれ合うようにして、遥か上空へと昇ってゆく。

 一番の脅威が眼前から去ったところで、兵士たちは地上の魔物へ向けて、剣を構えた。

 夫の雄姿の押されたルクレツィアは、用意された馬に乗って、軍の先頭へと転移する。


「まず、わたくしが大規模な陣を紡ぎ、敵を蹴散らします。あなたたちはその後に続いて下さい」


 それは事前の打ち合わせ通りの内容だった。

 まず始めにルクレツィアが、次いでホフレが大規模な陣により、敵を粉砕し、残ったものを各個打破。

 作戦と言うほどの作戦ではないが、相手は矢を浴びても怯まず前進してくる。

 ならば、大規模な魔術で体を砕いた方が、より効果的であるとセヴェリオも判断したのだ。


「我々が言うのもなんだが、どうか答えてほしい。あなたは、自分をおとしいれた国のために、どうしてここまでできる?」


 ルクレツィアが話しかけたのは、裁きの間にいた兵士だった。

 作戦に参加する兵士たちには、既に彼女が無実であったことが通達されている。

 中には懐疑的なものもいたが、決して間違えないとされている王家が、非を認めたとあれば信じるほかない。


「その質問は、聞き飽きました」


 何度となく問われ、答えた問いかけに、ルクレツィアは辟易へきえきした。

 自然、彼女の声音も冷たくなる。

 正直な答えに、兵士が面食らったようにたじろいだ。


「し、失礼いたしました」


 見れば、その兵士は近衛兵の中でも、団長だけが纏うような立派な装束をまとっている。

 近衛兵は城を護っているはずであり、その近衛兵をまとめるのが、団長の役目のはずだ。

 見事な葦毛の馬に乗った兵士を見上げて、ルクレツィアは笑みこぼす。


「単純な話です。わたくしが自分の意志で、救うと決めたから、救う。それでは、いけませんか」


 立ち姿は優雅で気品溢れる貴人であるが、その心根は強く勇ましい。

 揺るぎない自信に裏打ちされた返答に、兵士の全身に鳥肌が立った。


「いいえ……!」


「城に居るはずのあなたがここにいる理由も、きっとわたくしと同じことでしょう」


 魔力を纏った髪がふわりと宙を流れ、唇から流れる銀の魔力が地を走る。

 銀光の中に浮かび上がるルクレツィアは、戦場に立つ白銀の戦姫といったところであろうか。

 彼女の言動には、人を奮い立たせる何かがあった。


「貴女と共に剣を振えることを、光栄に思います!!」


 緩く弧を描いた唇から、膨大な量の魔力を目にもとまらぬ速さで編み上げていく、ルクレツィア。

 彼女の横顔を斜め後ろから見つめ、兵士は剣を抜いた。

 

「さっきまで、信じないとか言ってたくせに。先輩ってば、掌返し早すぎませんか」


 感動に打ち震える兵士――近衛兵団長に、巻き込まれた部下が呆れた口調で言った。

 確かに国王は、戦場に出ると言ってきかないジュリオを護れと命じた。

 しかし、団長自ら出て行けとは言っていない。

 城に残された副官と駆り出された自分を憐れみながら、部下も剣を手に取った。


「う、うるさい! おまえは黙っておれ!!」


「はいはい。そろそろ備えた方が良いですよ」


 まだ少し距離が残っているが、後にはホフレが控えている。

 横合いでなされる、そんなやり取りを聞きながら、ルクレツィアは丁寧に紡ぎあげた陣を起動した。

 白銀が前方に現れた異形の生き物を照らし、大地がうねる。

 ルクレツィアの魔力によって、瞬時に灼熱の焦土と化した大地とその中を泳ぐ影。

 紅く溶けた土で構成されたそれは、長い体を咢をもち、異形の魔物を襲い喰らう。

 まだ馬十頭分以上離れた場所で繰り広げられるそれは、まさに地獄絵図であった。

 地の底には罪を犯した魂をさいなむむ場所があると言うが、きっとそこはこのような場所であろう。

 顔に吹き付ける熱風を感じながら、味方であるはずの美女に震える兵士達。


「地上の光景とは思えぬな」


 馬上の近衛騎士団長がごくりと息を飲んだ。


「あら。わたくしにとっては、日常でしてよ」


 涼しげに微笑むルクレツィア。

 彼女の艶やかな紅い唇からは、魔力が流れ続け、陣は紡がれる続けている。

 敵対すれば、見るも無残な最期を遂げるだろう、実力者であった。


「さて、ホフレ先生もお待ちかねのようですし、そろそろ譲りましょうか」


 ルクレツィアの口から銀の光が途絶える。

 すると、赤々と燃える大地と、その上を歩く死者のみが残された。


「ふむ。このままでは、わしらも戦いにくいのう」


 音もなく、闇と共にかたわらまで転移していたホフレが言った。


「相変わらず、唐突に現れるのですね、ホフレ先生」


悪戯いたずらが成功したようで何よりじゃわい。放って置いても、敵の足止めには十分じゃろうが、駄目押しの一手を紡ぐとするかの」


 笑うホフレの唇から、黒く濃い靄のようなものが流れ、空へと溶けてゆく。

 闇の溶けるその色がどのような陣を紡ぐのか。

 地上からはよく見えなかった。

 しかし、ホフレが陣を紡ぎ始めたすぐ後に、空に雷鳴がはしる。

 この大群で、雷鳴を呼ぶなど狂気の沙汰であった。

 しかし、天より降り注ぐ雷鳴が自軍に落ちてくることはない。

 灼熱の大地を歩く、蘇った魔物の大軍を的確に貫いてゆく。


「いったい、どのようにしてこんなことを……」


「自分で考えてみる事じゃ。我が"娘"ならば、すぐにたどり着けるじゃろうて」


「たどり着くと言わず、すぐに追い抜いてみせますわ」


「ふぉっふぉ。ぬかしおるわい!」


 独特の笑い声と共に、次から次へと雷を落していく老魔術師。

 通常の人間の倍は生きているであろう風貌であるのに、衰えることを知らぬ、魔力。

 微笑ましい会話をしながらも、容赦なく陣を振う姿に、兵士たちは戦慄せんりつした。


「さて、だいぶ距離も近づいてきたことじゃし、ここからは各個撃破といこうかの」


 仕上げとばかりに、ホフレは灼熱の大地を急速に冷却する。

 それによって、溶けた大地が固まり、魔物たちの足を大地に縛り付けた。

 たった二人の魔術師によって、目に見えてごっそりと数を減らした異形の生物。

 倒れた魔物の後ろから、更なる魔物が押し寄せる。


「全軍襲撃に備えよ! なんとしても、城門を護り切れ―ッ!!」


 後方で全指揮権を任された将軍が、兵士たちに指示を飛ばす。

 鎧や鞘など、金属がすれ合う音が響き、緊張が走る。

 ルクレツィアとホフレはいったん下がり、槍を構えた騎馬兵たちが一歩前に出た。

 入り乱れて戦う以上、派手な魔術は使えない。

 ルクレツィアとホフレの役目は城門と結界を護る事である。

 気性としては先陣を切って戦う方が向いていた。

 けれど、門を護る事の重要性は承知していたので、彼女に不満はなかった。


「うーむ。ここでただ眺めているというのも、つまらんのう」


 兵士たちの背を眺めながら、ホフレが言った。


「わたくし達の役目は、最後の砦でしてよ。先生」


「分かっておるが、これではわしの自慢の魔術を振う機会がなくて、つまらん」


「……魔術ならさきほど、存分に披露なさったでしょう?」


「いいや。わしがいっている魔術とはこっちのほうじゃ」


 問われるのを待っていたとばかりに、ホフレがローブを脱ぐ。

 ルクレツィアはとても嫌な予感がした。

 ローブの下には、貴族らしいフリルのシャツを着こんでいたホフレ。

 彼の纏う服は、上下とも、全体的に大分ゆるく作られているようであった。

 彼の唇から流れる黒い魔力が陣として連なり、顎の下から首を伝い、全身に入れ墨のように広がってゆく。

 最初に紡いだ陣と最後に紡いだ陣がつながった時、ホフレの魔力が体内で波打った。

 腹以外は細く枯れた体が倍以上膨れ上がる。

 太く筋の張った首筋。

 胸板は厚く、二の腕から腕にかけて隆々とした筋肉が浮かび上がる。

 引き締まった腹部に脂肪の痕跡はない。

 野性の肉食獣を連想させるような太く堂々たる太ももと、ふくらはぎ。

 いわおのような筋肉を纏った巨漢の老人が立っていた。


「ホ、ホフレ……先生……?」


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