第八十二話 祖国の異変22
ルクレツィアが再びレッチェアーノに帰ると、空に白い月が戻っていた。
月光とかがり火の明かりに照らされた、王都前の草原では、兵士達が慌ただしく戦いの準備を進めている。そこに死者の姿はない。
城門の前にカルロの魔力を感じて、彼女は口元に笑みを浮かべた。
おそらくサウロも一緒だろうとの、ルクレツィアの推測は正しかった。
二人は、城門前に腰かけて、しばしの休息を取っている様子である。
カルロの方は出現と同時にルクレツィアに気づき、手を振ったが、遠すぎて彼女にはよく見えなかった。
空を見上げれば。
――暗闇の中、静かに佇む銀白色の満月。
知らず、ほう、と息を吐き、ルクレツィアはしばし月へ見入った。
「見事な月じゃろう?」
いつの間にかルーナが彼女の傍らに立っていた。
二人の間を通り過ぎる夜風が、さやさやと草木を揺らす音がする。
その音に耳を澄ましながら、ルクレツィアはルーナに微笑みかけた。
「楽しそうですわね」
「うむ。悪くない。そうじゃ、先ほどホフレとやらに会ったぞ」
ルクレツィアの視線を受けてルーナの深い紫の瞳が、きゅうと細まる。そうして、ルーナは機嫌のよい猫のような笑みを形作った。
己と同じ顔の、性質が異なる笑みに戸惑いつつ、ルクレツィアが聞き返す。
「ホフレ先生に?」
「あやつらは、人にしては強い。此度の難局を凌ぐのに重要な役割を果たすじゃろう。故に、少しばかり肉体の寿命を延ばしてやることにした」
ホフレとその愉快な仲間たちを思い浮かべ、ルーナは鷹揚に頷く。
寿命を延ばすとは、一体どういうことだろうか。
延命か、若返りか、いずれにしても、ルクレツィアの理解の範疇外にある事象である。
「……それはどういう意味ですか」
「見た目は変わらんがの、最盛期の力を振えるように、少しばかり祝福をくれてやったのじゃ」
知識の足りないものにも分かりやすく説明しようと、ルーナは詳細を省いて、結果のみを教えた。
見た目は年寄りで、力は最盛期など、矛盾している。
老化するから、力も衰えるのであって、若返らずに力を取り戻すことなど、可能なのだろうか。
これまで学んできた理の外にある事象への疑問が、ルクレツィアの脳内をうずまく。
「そんなことをしてよいのですか?」
奇跡の大安売りとでもいうのだろうか。
そのように気軽に行使してよい力なのか、疑問をぶつけるルクレツィアへ、女神はこれまた頷いた。
「もちろん、良くない。だが、わらわはまだ女神の位に戻ってはいない。力は制限されておるが、それゆえ、適度に人の運命へ干渉することができる」
「女神じゃないから、干渉できるということは、女神は干渉できないのでしょうか」
「在るべきものを然るべく、戻すことはできる。じゃが、基本的にヒト一人の運命へ干渉することはない。しても良いのだが、加減が難しくてな。うっかり過度な祝福を与えると、世界の理が一人の人間のせいで歪んでしまうのじゃ」
人知を超えた神の力を、人が手にすれば、それだけで争いが起きる。
人々が争いを起こさぬ程度に祝福を与えるというのもまた、難しいのだ。
ルーナは過去を振り返るようにそう言った。
「わたくしにはよく分かりませんが……ホフレ先生さえ、満足しているのならばそれで結構です」
「そこは問題なさそうじゃの。一部の者は、見た目も若返らせろなどとうるさかったが……」
中にはオレは良いから、壊れた店を元に戻してくれ、などと珍妙な願いをする者もいた。
しかし、ルーナはさらっと無視した。
あまりうるさく騒ぎ立てるので、元に戻したところで、どうせまた壊れる運命にあると告げさえした。
これで少しは静かになるだろうと思ったルーナだったが、男の闘志に火がついたらしい。
「オレは運命に抗って見せる!」と暴れ始めたので、結局、土地の記憶を読み取って店を再生してやることとなったのだった。
果たしてあの男は店を護り切ることができるのか。
無関係なはずのルーナですら、妙に気がかりだった。
「おまえの師の仲間達もまた、ずいぶんと個性的じゃったのう。まあ、若返りに関しては、寿命が延び、見た目が若返れば、欲深な権力者が放ってはおかぬと諭したら納得したぞ」
ほんの少し前の出来事なのに、遠くを見るような目でルーナが言った。
何か大変な出来事があったらしいと察したルクレツィアは、ホフレの仲間の話にはあえて触れず、別の話題を拾う。
「権力、名誉、財ときたら後は若さと寿命、ということでしょうか」
「いつの世も、人間が求めるものは変わらぬという事じゃな。さて、わらわはそろそろ城に戻る。これ以上魔力を消耗するわけにもいかんからの」
「それもそうですね。わたくしもそろそろ、戻らねばなりません」
「ああ。そうじゃ。月が紅くなってきたら、気を付けよ。わらわの魔力で止まっていた流れが動き出し、多くが蘇り始めるからの」
「ええ、ありがとうございます」
「真に危険が迫れば、遠慮なく呼ぶがよい。わらわはもう、二度とお前を失いとうないのじゃ」
ルーナがきりりとした凛々しい表情で言う。
なぜそこで気合を入れるのか、ルクレツィアにはよく分からなかった。
「頼れる夫がおりますので、ご心配なく」
彼女が無難な断りの言葉を告げると、ルーナがたちまち肩を落とす。
「夫か……戻ってきたら、既に嫁に行っていたとは、わらわは寂しい。たまには頼って欲しいものじゃがのう」
数瞬前までは、自信に満ちた輝きを放っていた瞳は、地面へと向けられている。
感情表現が豊かすぎる女神の態度に、ルクレツィアも口元をゆるませた。
恐らく学園長の娘の形見であろう、古い物語に書かれていた女神とはまるで印象が違う。
死の象徴として恐れ忌み嫌われた女神と、彼女が愛した人間の物語。
世界が元に戻ったら、神話の時代、実際に起きたであろうその物語を、ルーナの口から聞いてみたい。
ルクレツィアの脳裏にふとそんな考えが過った。
「わたくしにはルネッタの記憶はないのです。あなたの存在に慣れるまで、少し時間を下さい」
忘れてしまったのならば、これから新たな関係を築いてゆけばいい。
そんな前向きな考えで、彼女は言った。
「うーむ。意思の疎通が取れぬほど嫌われるのも辛かったが、良い子過ぎるのも辛いといったところか」
ルーナは微笑むルクレツィアを見て、眩しそうに目を細めた。
子の成長を喜び、愛おしむような温かなまなざしだった。
「今回は、わらわの方が折れるとしよう。じゃが、なるべく早く慣れてくれ。でないと、わらわは在るべき場所に戻ってしまうから」
「地上には降りてこれないのですか?」
「これぬこともないが……それが叶うのは、わらわの怒りをかうものが現れた時か、お前が死を迎えた時くらいじゃろう。神の座に戻ったわらわが無理に下りると、魔力も土地も荒れるからなあ」
「それは、」
「じゃからの、帰る前にわらわはお前に母と呼ばれてみたいのじゃ。一度だけで良い。考えておいておくれ」
言うが早いか、ルーナは吹き抜ける、強い風と共に闇に消えた。
否定の言葉は聞きたくないという、彼女なりの意志表現だったのかもしれない。
実母であるクラリッサとですら、母娘らしいことをしたことがないというのに、いきなり現れた女神を母と呼べとは。
偽りを嫌う女神のことだ。心の底から呼ばねば、たちまちに、機嫌を損ねる事だろう。
しかし、女神も無理なことを言うものである。
「そもそも、普通の母娘は互いに何を思い、どういう風に接し合うのでしょう?」
ルクレツィアはしばし、ルーナが居た闇を睨み付けるようにして、この難題にどう対処するべきか頭を悩ませる。
「今は、少し、体を休めるべきですわね」
王都の結界の状態を確認し、カルロ達としばしの休息を取った後、ルクレツィアはソフィアへ伝言用の使いの鳥を送ることにしたのだった。




