第17話 イオナ
薬品の匂い――K病院のろうかを、俺は歩いていた。
なつかしい夢をみたな。そんなことを思いながら、病人たちのそばを通り過ぎる。
受付につくと、それまで書類をかいていた男性の看護士が、顔をあげた。
「面会のかたですか?」
「はい」
俺は、にせの住所と氏名――ハッキングで入手した個人番号――を告げた。看護士はパソコンにそれを入力して、モニタに映った画像と俺の顔をみくらべる。瓜二つだ。病院のサーバの画像をさしかえておいたんだからな。
「津田香織さんのご親族ですね?」
「はい」
「ここにご記入ください」
俺は、面談カードに、これまたウソの情報を記入した。看護士は、とくにうたがう様子もなく判を押して、首からさげる携帯用のネームプレートをくれた。
「面会時間は、いまから一時間です」
「ありがとうございます」
看護士は、そこの緑色のラインにそって進めばいいと教えてくれた。俺は、もういちどお礼を言って、そのとおりに歩いた。階段を使い、三階へあがる――そう、三階というのは、重篤患者のフロアだった。めざすは、三〇四号室。
とちゅうで、幾人かの医師と看護士とすれちがったが、俺には目もくれなかった。透明人間にでもなったかのように、俺は三〇四号室をみつけた。ドアをノックしようとして、俺は一瞬だけ躊躇した。そのまま、ドアノブをまわす。
「失礼します……」
若さのせいだろうか――どこか気兼ねしてしまう。だが、その気兼ねを吹き飛ばすような光景が、俺の目のまえにひろがった。うつくしいレースのカーテンが、南向きの窓から陽の光をうけとめ、少女の一室を照らす。窓から風が吹き込み、それに揺らいで、うすい影をなびかせていた。いろとりどりの花束――ここは、ほんとうに病院なのだろうか? 少女の寝室にはいりこんでしまったような、べつの感情が、俺のなかに芽生えた。
春の風が、俺のほほをなでる。俺は、遠くから運ばれる土の匂い――むかいの緑に深い森から運ばれていた――をかいで、それから息をついた。目的をはたすため、少女のベッドに近寄る。ショートヘアの黒髪がつややかな、少女のベッドに。
「きみが、津田香織かい……?」
聞こえるはずのない質問を、俺はつぶやいた。少女は、まだあどけないやすらかな表情で、寝息をたてていた。ただ昼寝をしているようにみえるだろう――彼女の髪が短く刈り込まれ、頭部にコードがつながれていることを除けば。
俺は、ネームプレートをたしかめて、ドアが閉まっていることを確認した。これからどうすればよいのか――ほんとうに見舞いにでも来たかのように、丸椅子に腰かけた。
津田香織。一五歳。中学一年生の春に買ってもらったVRMMOのなかで、サーバ障害に巻き込まれた。ヴァーチャル人格とリアル人格の分離が不可能になり、昏睡状態が続いている。サーバへ転送された彼女の意識が、脳内へもどらなくなっているのだ。
以上は、当時の新聞などのメディアで事前に調べておいた。そのほかにも、いろいろと調べた。まず、家族構成は、兄がひとり。両親は、自動車事故で他界していた。自動運転のミスが原因だった――とはいえ、自動運転が普及してから、事故は世界中で激減していた。死亡事故が、ニュースのトップにくるほどにまで――多額の保険金がおりて、そのときにちょっとした話題になったらしい。俺は、全然知らなかった。
だが、彼女はこうして、病院のベッドに横たわっている。目覚めない。宇宙は――俺は無神論者だから、あえてこう言う――彼女の家庭を滅ぼそうとしているのだろうか?
「すべては、ただの偶然なんだよな……」
「あら、お見舞いのかたですか?」
俺はどきりとして、ふりかえった。すると、ドアのところに、若い女性の看護士が立っていた。やさしそうな笑顔で、俺にほほえみかけた。
「めずらしいですね、お兄さん以外のかたがいらっしゃるなんて」
彼女はそう言って、窓辺によった。
「換気をしていたんです。香織さんが、春風に当たりたいと思って」
彼女はそういいながら、窓を閉めようとした。
「いえ……そのままでお願いします」
俺は、そう懇願した――懇願したのだ。この雰囲気をこわしたくなかった。ただの病室にしたくなかった。息苦しい。看護士は、ふたたび笑った。
「そう言っていただけると、うれしいです」
彼女は、少女の脈をたしかめたり、いろいろとデータを確認した。
そのあいだ、俺は少女ではなく、看護士さんの横顔を見ていた。
それに気づいたのか、彼女はふと、タブレットの操作をやめた。
「どうか、なさいましたか?」
「いえ……なんというか……」
俺は、言葉に迷った。
「あまり、事務的になさらないんですね。こういうと失礼なんですが、病院にお勤めのかたは、もっと事務的に病気やケガと向き合う印象がありました」
看護士さんは、一転して、すこしばかり影のある表情をつくった。
「ここによく、香織さんのお兄さんがいらっしゃるんです。あのひとは、香織さんのまえでは、とても明るく振る舞われます。おそらく、それをマネしてしまうのでしょう」
「……そうですか」
俺は、なんと言ってよいのか、わからなかった。看護士さんは、すこし口が滑ったとおもったのか、また笑顔になった。
「すみません、医療関係者としては、失格ですね……ところで、香織さんとは、どのようなご関係で?」
「いとこです」
俺はさらりと嘘をついた。さすがにリハーサルしてある。
ところが、この嘘はあまりいい結果を生まなかった。
「そうですか……はじめて拝見しました」
彼女の言葉には、とげがあった――なぜいままで見舞いにこなかったのだ、と。
俺は無意識のうちに、
「大学がいそがしくて……これからは定期的に来ます」
と、よくわからない嘘をかさねてしまった。なおさら気まずくなって、室内に視線を泳がせる――すると、患者の枕もとのそばに、キャスター付きの棚があった。俺の腰ぐらいの高さだろう。そこに、ぬいぐるみと、一冊のノートがみえた。
「それでは、失礼いたします」
看護士さんは、一礼して、部屋をあとにした。俺は丸椅子をこっそりと、少女の枕もとへ近づけ――ノートに手を伸ばした。
「日記帳……?」
市販の、よくあるダイアリーだった。俺は、ドアが閉められたことを確認して、それをひらいた。最初は、三月二三日――小学校の卒業式から始まっていた。それから春休みになって――
三月二五日 きょうは、お兄ちゃんがプレゼントをくれた。香織が欲しがっていたVRMMOのカプセル! やった! 中学校の入学祝いだって。お兄ちゃんにいっぱいありがとうを言った。ほんとうにうれしい。
三月二六日 お兄ちゃんにてつだってもらって、いろんなゲーム会社をみた。どこもおもしろそう……自分じゃ決められない。あした、友だちにきいて、どこのゲームがおもしろいか教えてもらうことにした。
三月二七日 恵子ちゃんとクルミちゃんは、オブデロードきょうの復しゅうっていうRPGをすすめてきた。どうしようかなあ……RPGって、あんまりやったことない。でも、恵子ちゃんとクルミちゃんもやってるらしいから、わたしもやろう。
三月二八日 お兄ちゃんにてつだってもらって、ようやく登録できた。キャラは、どうしようかなあ。恵子ちゃんは魔法使いで、クルミちゃんはおどり子さん。ふたりに電話したら、「たたかうひとがいないから、香織ちゃんがなって」だって。もう、ふたりとも勝手だなあ。あとで、お兄ちゃんに相談しよう。
P.S.お兄ちゃんに相談したら、すてきなオオカミさんのキャラをえらんでくれた。耳としっぽがふさふさして、すっごくかわいい。さすがはお兄ちゃん。名前は、イオナにした。お母さんの名前。とってもすてき。ぼうけんに出発だ。ガオー!
……………………
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………………
俺は、ふるえていた――イオナ――あの狼少女の言動が、フラッシュバックする。なにかがおかしいと思っていた。そして、なにかがおかしかった。どうして、もっと真剣に考えなかったのだろう。いつも、そうだ。俺は、他人に関心がないようなフリをして――俺は、日記帳を閉じた。ねむりに落ちる少女をみやる。
なにもかもが混乱していた電嵐城のなかで、ただひとりだけ真実を語っていた。それがイオナだった。そのことをあらかじめ知っていれば、俺はまたべつの推理ができたかもしれない。イオナとふたりきりで、犯人を――いや、これは、たらればだ。もしあのとき、そうしていれば――リアルでもヴァーチャルでも、このいいわけはきなかい。無意味なのだ。時間は、どちらにおいても流れているのだから。過去へは帰れない。それは、イオナに、津田香織にVRMMOをすすめた兄にも、おなじことが言えるだろう。俺よりもふかく、過去に帰りたいと思ったにちがいない。
俺は、少女のほうへ、さらに椅子をちかづけようとした。
「おい、そこでなにをやってる?」
俺は、パタリと日記帳をとじた。入り口に、見知らぬ青年が立っていた。俺と同じくらいの年で――雰囲気は、全然ちがう。すらりとした、スポーツ系。日焼けはしていないから、屋内競技だろうか。
「なにをかってに入ってるんだ?」
「いや、俺は……」
相手は、俺が首からかけているカードに気づいて、表情を変えた。
「見舞客……? だれだ?」
いとこだ、とはさすがに言えない。俺は脳みそを必死にしぼって、
「恵子の兄です」
と答えた。相手は、ようやく顔をゆるめた。
「ああ……恵子ちゃんのお兄さんでしたか。はじめまして」
「は、はじめまして……すみません、診療ノートかなにかとまちがえて、つい……」
俺は、日記帳をもどした。
「恵子ちゃんにお兄さんがいるとは、知りませんでした」
ああ、俺も初耳だ。
「ところで、今日は、なんの御用ですか?」
俺は、単に様子をみにきただけだと答えた。
「妹さんは、ずっとこのままで……?」
相手は――瞬と名乗った――つまらなさそうな顔で、くびをたてにふった。みれば分かるでしょう。そう言いたげだった。
「もうしわけないですが、あまり病室には入らないでいただけますか? ここは、香織の部屋なんです。そっとしておいてください」
瞬は、買ってきた花束を交換しながら、窓辺の風に吹かれていた。そして、
「それに、もう長くはいられませんから」
とつぶやいた。
「どういうこと?」
「あなたも、ごぞんじでしょう。この国は、医療費をもう払えないんですよ。昏睡の期間が一年を過ぎたら、自動的に安楽死が選ばれます。もう一ヶ月ないんです」
俺は息をのんだ――まるで自分の死亡宣告をくだされたかのようだった。
「それまでに、意識が回復する可能性もあるんだろう?」
瞬は、俺をにらんだ。
「気軽に言わないでください。妹の意識は、ヴァーチャルに転送されたまま、もう帰ってこないんです」
「でも、ヴァーチャルに転送されているということは、サーバのなかに保存されているって意味じゃないのか? 会社は、なにしてるんだ?」
「問題があるのは、妹の脳のほうなんですよ。サーバからデータを返送しても、拒否するんです……サーバのクラッシュで、脳の認識パターンが変化して、データと一致しないんです……データを加工しないと、二度と復元できないと言われました……」
じゃあ、データを加工すればいい。俺は、そう答えた。瞬は、さきほどよりもさらにキツいまなざしで、俺をにらんだ。
「いくらかかると思ってるんですか?」
俺は、自分が請け負ったときの金額を思い浮かべて、
「一〇〇万くらいで」
と答えた。瞬は小馬鹿にした調子で返す。
「五〇〇〇万です」
「五〇〇〇万!?」
ぼったくりだ。俺の指摘に、瞬はくびを左右にふった。
「ほんとうです。どこの会社にあたってみても、それくらいの見積もりでした」
「でも、瞬くん……いや、僕はよく知らないんだけど、保険金があるんじゃないのか?」
あんなのは、ふたりの生活費と学費で消えたと、瞬は答えた。
「それに、ニュースで報道されたような額は、ほんとうは出なかったんですよ。保険会社にごねられて……」
だろうな――俺は、冷静に分析した。こどもふたり相手なら、ごねるに決まっている。
「どうして、そんなに高額なんだ?」
「人格データの加工は、プロジェクト・レベルの作業だと言われました……専用部門を作らないといけないほどの……」
瞬は、なにかをあきらめているようにみえた。なにかを。
「ボランティアとして引き受けてくれるところも、あるんじゃないか?」
俺は、ちょっと遠慮がちに言った。
「そんなに腕の立つひとは、ボランティアなんかしませんよ」
瞬は、はき捨てるように答えた。
そして、俺を邪魔そうにみつめた。
「すみません、お見舞いにきていただいたのはありがたいんですが、これから妹の世話をしますので、また今度に……」
「あ、ああ……」
俺は、席を立った。最後に少女の寝顔をみて、部屋を出る――あの少年、何歳だったんだろうな。うっかり、敬語を忘れてしまっていた。なんとなく、一、二歳くらい下のような気がしたからだ。
俺は、今年で二十歳になった。




