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死者の言い分

 幼馴染の少女は、いや、幼馴染だと思っていた少女の姿はすぅっと小さな扉にすいこまれていった。

 つながれていたはずの右手は、なにか見えない力に弾かれて、気づけばなにも掴んでいない。

 さわさわとざわめく木々の音も、頬をなでる風も、光射す太陽も、踏みしめた大地も、自分をとりまくものすべてが現実味を帯びているというのに。自分がすでに失われた身であるということに、彼自身がいちばん実感を持てなかった。

 右手にほんの一瞬視線を落とし、アキサリスはふっとため息をついた。

 彼が考えていたよりもずっと早く、追っ手がやってきたらしい。背後に、複数の気配があった。

 アキサリスをとり囲むように、女王とその配下の兵士たちが立っている。女王は黒いドレスを優雅にさばいて、彼に近づいた。

「おぬしは、けして逃げられない。おとなしく、わらわに従え」

「残念だけど、あんたが欲しがってたものはここにはないぜ」

 彼は木の幹に背中を預け、女王と相対する。この場を切り抜ける手段を探すために、いまは少しでも時間を稼がなくてはならない。

「ほお……?」

 女王はすぐに、アキサリスがほんとうにひとりだということに気づいたようだった。

「神の子は逃げたか。しかし、まだこの場には首飾りがあるようだ」

「ねーよ。首飾りはあいつに持たせた」

「ふむ。嘘はよくない」

 女王は赤い唇を弓なりにして、アキサリスの胸のあたりにその白い手を伸ばした。とっさにアキサリスは身をかわすが、すぐにつかまった。女王の力は強く、小柄なアキサリスはいとも簡単に押さえつけられる。

「おぬしの胸を切り裂けば、すぐにでも手にはいりそうだ」

 女王の目は冷たく、とても冗談を言っているようには見えなかった。アキサリスはぎりぎりと首を締め上げられる。じょじょにかすんでいく視界の端で、兵士が女王にナイフを手渡していることが分かってもどうしようもできなかった。

 アキサリスが強烈な恐怖と痛みを覚悟したとき、異変は起こった。

 つんざくような叫び声が、あたりに響き渡る。

「夜だ……死の夜がきたぞーーー!!」

 叫び声はまるで病が伝播するようにそこかしこに広がった。

 アキサリスを締め上げていた強い力も、突如として消え失せ、彼は地面にしりもちをついた。げほげほと咳き込み、涙でにじんだ視界が捉えたのは、さきほどまで彼を傷つけようとしていた女王の取り乱した姿だった。

 彼女は、すっかりアキサリスのことを忘れて、まるで見えない恐怖と戦うように中空にむかって必死でナイフを突き刺していた。涙を流しながら、歪んだ表情で大声をあげている。彼女とともにアキサリスを取り囲んでいた兵士たちも、尋常ではない様子だった。笑いながら走りまわる者、がたがたと震えて縮こまっている者、ナイフで自分の腹を突き刺し倒れている者もいた。

 さきほどまで明るかった空は暗く濁り、うねるように渦巻いている。

「……。なんだこれ……」

 そのとき、ぐにゃり、と視界が揺れた。一瞬、めまいを起こしたのかとアキサリスは思ったが、そうではなかった。彼が揺れたのではなく、彼の座る地面が急にやわらかなものに変わったのだ。

 つま先から、地面についていた手から、ひんやりとした泥のようなものの中に沈んでいく。抜け出そうと必死にもがいてみるが、よけいにまとわりつくだけで徒労に終った。

 このまま、なすすべもなく地面に飲み込まれてしまうのかと絶望するアキサリスに、更なる異常な事態が襲い掛かったのは、彼のからだが半分くらい沈んでしまったときだった。

 ふいに、頭の奥から声が聞こえた。それは知らない男達の声で、けれどアキサリスは、その声にはっきりとした恐怖を覚えた。

 満足に動かないからだに、にぶい痛みが走る。途端に、濁りきった空は木目の天井になり、冷たい泥は固い木の床になった。けれど痛みが治まる気配はなく、じんじんと全身に広がっている。

 アキサリスは泣いていた。恐ろしい怪物が、アキサリスのたいせつなものを容赦なく壊してしまったからだ。小さなからだを丸めて、アキサリスは母の名を呼んだ。しかし、返事はない。

 テーブルの上におかれたランプの明かりに照らされて、かつては母だったものが無残な姿で倒れていた。

 アキサリスは父の名を呼んだ。しかし、返事はない。父は遠い町へ出かけてしまっていた。怪物たちは父の不在を狙っていたのだ。

 にたにたと奇妙な笑みを浮かべて、怪物は小さなアキサリスの首を持ち上げた。苦しくて声が出ない。足をばたつかせて、渾身の抵抗を試みる。が、無駄に終った。ぽきりと軽い音が鳴り、アキサリスの意識は落ちていった。

 どんどん、どんどん。底のないまっくらな落とし穴に落ちていく感覚と、心臓を締め上げる浮遊感に、めまいがする。

「……っ!」

 声にならない悲鳴を上げて、アキサリスは目を見開いた。誰かが、アキサリスの手を握っている。あたたかい手だった。

「リ……ン?」

 無意識にこぼれでた名に、彼自身おどろくほど動揺した。口にしたことをすぐに後悔し、手の主を確かめればその後悔はより一層深まった。

「やあ。神だよ」

 場にそぐわない、のんきな声だ。こういったところは、なるほど、たしかにリンに似ている。

 自称神の青年に手をひかれて、地面に沈んでいたはずのアキサリスからだは、泥もつかずに宙に浮いていた。めまぐるしく変化する状況についていける気がしない。

 疲労を覚えながらも考えをまとめようとしていると、およそひとの声とは思えない低い叫び声が聞こえてくる。女王やその兵士達の声だった。彼らはアキサリスよりもずっと早く地面に飲み込まれていき、やがて姿は見えなくなった。

「君、こちら側に残ったんだね。首飾りが身の内にあるとはいえ、夜は苦しいだろう」

 ぐにゃりと渦巻く夜空に向かって、上昇していく青年を止める術はない。彼に手を引かれて、アキサリスは苦しげに息を吐いた。先ほどの光景がまぶたの裏に蘇る。なぜ、いままで忘れていられたのか不思議なほど、強烈な記憶だった。母と、自分自身の、おそらく死の間際の。それから。父が生前おこなったであろうおぞましい儀式の正体を知ってしまった気がした。

「空が渦巻きよどむのは、夜がはじまる合図なんだよ。夜がくると、この国の住人は死の記憶に苛まれる。こちら側に囚われる魂は、不思議と悲惨な死に方をしたひとたちばかりみたいでね。繰り返しおとずれる、拷問みたいな死を前に、彼らが必死になるのは分かるだろう。彼らは本気で、生者の国を欲しがっている」

「他人事のように語るんだな。あんただってこちら側にいるのに」

「私自身は、どこにいようとなんの影響も受けないからね。ただ見守るだけだよ。けれど、見守ることにも疲れてしまった。いまはこの世界をあのこの手にゆだねて、私自身が消えてしまってもかまわないと思っている」

 神を名乗る青年に手を引かれ、アキサリスは宙に浮かぶ小島に降り立った。暗くよどんだ風景の中に浮かんだ小島には、場違いなほど明るい、生き生きとした芝生が一面に広がっている。島の中心には、こじんまりとした赤い屋根の家が建ち、小さいながらも石造りの庭や噴水あった。そこでは季節の花々が一斉に咲き乱れ、生命の賛歌を奏でているようだった。

 家の前には、白いテーブルと白い椅子が一対並べられていた。椅子の上には、人形のようにかわいらしい服をきた少女が、目を瞑って腰掛けている。少女をひとめ見て、アキサリスは懐かしさを覚えた。どことなく、リンに似ている。おそらく、彼女が、リンの母親なのだろう。

 青年は少女の座る椅子の後ろ側に周り、彼女の両肩に手を置いた。少女が目覚める気配はない。おそらく、この先もずっと。

「ここは、あのこがくれた小さな楽園なんだ。私と、彼女の」

「楽園?ここが?」

 たしかに、美しいところだと思った。

 青々とした芝生、咲き乱れる花々、明るい日差し。けれど、まったく生き物の気配がない。鳥の声も、虫の羽音も、聞こえない。

 この島は、本当の意味で青年と少女のためだけに作られたのだ。この島において、アキサリスだけが異質だった。

 ふいに、地鳴りのようなうなり声が、響いてきた。暗く深い沼底に、引きずり込まれてしまいそうになる錯覚にとらわれ、アキサリスはよろめいた。その様子を、青年が不思議そうにみている。

「ああ。いよいよ、近いみたいだ。もうすぐ、切り離されていたふたつの世界がぶつかるだろう。そのとき、こちら側とあちら側の境界は曖昧になって、それから……どうなるかは君次第かな」

「無責任だ。なんで、俺が決めなくちゃならないんだ」

 すべてを放棄したような青年の物言いに、アキサリスはむしょうに腹が立っていた。自分が神だというのなら、それらしいことをするべきだ。

「決めないというのも、ひとつの選択肢だよ。私はもう、いいんだ。これ以上あのこに負担をかけたくないし、彼女とはもうじゅうぶん別れを惜しんだ」

 そう言って、青年は眠る少女の頬を撫でた。いとおしむような、優しげな仕草だった。

「そう思うなら、これからは直接、あんたがリンを支えてやれよ」

「こどもは巣立つものだよ。いつでも、どこでだって」

 自分勝手な男だと思った。のしかかる責任をするりとかわして、すべてを自分の娘に肩代わりさせる気なのか。すまないと謝りながらも、手助けひとつする気はないらしい。

「このまま、世界のありようを傍観するのも、生者の国、死者の国、どちらかに肩入れするのも、君の自由だ。それだけの力がいまの君にはあるし、やり方もわかっているだろう。君には創生の記憶を垣間見せてあげたからね」

 原初の記憶、創生の記憶。そしてからだの中に埋められた神の力を宿した首飾り。

 はじめから、仕組まれていたかのように、すべての材料がそろっていた。

「俺でいいのか」

「君でないとだめなんだよ、小さな魔術師。あの子が選んだ君でないと」

 その言葉を最後に、青年は少女とともに眠りについた。

 彼らのもとを立ち去り、アキサリスは暗い夜空に浮かぶ島の淵に立つ。

 底の見えない泥のような闇が足元に広がっている。吹き上げてくるなまぬるい風からは血のにおいがした。断続的に聞こえる死者たちの悲鳴が、アキサリスのからだに響いた。

 目を瞑り、深呼吸をする。

 選ぶまでもなく、はじめから答えは決まっていた。

 魔術師は世界の真理を探求する者だ。少なくとも彼の父はそう言っていた。歪んでしまった世界の理をそのままにしておくわけにはいかない。

 そして、アキサリスは、空に浮かぶ島から飛び降りた。

 まっすぐに落ちていく。

 落ちていく。


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