境界をこえて
ふと、目が覚めた。
ゆるゆるとからだを起こす。見慣れない室内は薄暗く、まだ、夜の気配が残っている。隣で眠っていたはずのアキちゃんの姿はなく、ぼんやりとした心地のままあたりを探っていると、こつんと額を手でこつかれた。
顔をあげて、手のもちぬしを確かめる。
「ちゃんと起きたよ」
えへんっと胸をはって、すっかり支度を整えたらしいアキちゃんに自慢してみる。アキちゃんは表情ひとつ動かさずに言った。
「遅せーよ」
昨夜は着の身着のまま寝てしまっていたから、わたしは準備をする必要はない。エルゼさんも同様で、彼女はリスの姿になって、わたしの頭のうえにちょこんっと身を預けた。
わたしはベッドから飛び降りて、アキちゃんと向かい合う。
「なつかしいね」
わたしがそういうと、アキちゃんはわずかに笑みを浮かべた。
そして、アキちゃんは口の中でちいさく言葉をつぶやいた。そのまま、おでことおでこをくっつけて、そこからわたしがぜんぶ、アキちゃんとおなじものになってしまったような奇妙な一体感。浮遊感。
久しぶりの感覚だった。アキちゃんの移動魔法。わたしたちは帰るのだ、あの、懐かしい故郷に。アキちゃんの家に。おじさんとおばさんに会いに。わたしたちのほんとうを思い出すために。
いろんな思いが一瞬で胸を過ぎ去って、気がつけば、視界いっぱいに緑が広がった。
湿った土の匂い、頬を撫でる穏やかな風、揺れる緑の葉っぱ。ひとを守るように腕を広げる木々が生い茂る、しずかな森。
帰ってきたんだ。
「王都にたどり着くまで何日もかかったのが嘘みたいだね」
「そうだな」
はしゃぐわたしとは対照的に、アキちゃんは慎重にあたりを探っているようだった。
早朝とはいえ、まだあたりは薄暗い。感覚をたよりに、転ばないようにゆっくりと、わたしたちはアキちゃんの家を目指した。
それから間もなく、わたしたちはアキちゃんの家にたどり着いた。
見覚えのある、アキちゃんの家の屋根が木々の向こうにみえてきたときは、とてもうれしかった。やっぱり、カナンさんの同僚は、アキちゃんの家をうまく見つけることができなかったんだって思った。
足取りの重いアキちゃんをせかして、わたしとリスになったエルゼさんは駆け出した。
けれど、アキちゃんの家の様子は、わたしの記憶の中のものとはあまりに違っていた。家の壁はぼろぼろだし、木製の扉は壊れて半開きになっている。草は伸び放題で、庭だけじゃなくって、家の中の床を割って生えていた。ひとの住んでいるような気配はなくて、家の荒れ具合から、相当な期間、放置されているのは明らかだった。
問題は、この家が、アキちゃんの家だって、わたしにははっきりと分かってしまったことだった。
カナンさんの同僚はただしかった。けど、なら、アキちゃんのお父さんとお母さんはどこにいってしまったんだろう。ううん、それだけじゃなくて、わたしたちが王都に向かったあとに、ふたりに、この家になにかがあったとして、こんな荒れ方をするだろうか。わたしたちが家を離れてから、一ヶ月もたっていないのに。
呆然とするわたしをよそに、アキちゃんは表情ひとつ動かさずに、室内をぐるりと見回した。
床の上には、くろずんだほこりが積もっていて、その上にみしらぬ足跡がいくつかついていた。たぶん、カナンさんの同僚のものだろう。
アキちゃんは家の中にはさして興味を示さず、そのまま家の扉をくぐらずに、家の裏側にまわった。裏庭も荒れ放題で、アキちゃんのお父さん専用の書斎もわけのわからない蔦や植物に絡めとられるように、緑の中に沈んでいるのが遠目にも確認できた。
書斎にむかうのかな?そう思ってアキちゃんについていこうとしたところで、ふと、アキちゃんが立ち止まった。
アキちゃんの視線の先には、小さな石碑があって、それには短い言葉が刻まれていた。
アキちゃんは、たしかめるように、その石碑に刻まれた文字を読み上げる。
「魔術師、……と、その妻、……」
くぐもった声音で、なにを言っているのかはっきりとは聞き取れなかった。けど、その石碑になにが書いてあるのか、わたしには分かってしまった。
「アキちゃん!」
「その息子、アキサリス、ここに眠る」
石碑は、墓標だった。アキちゃんと、アキちゃんの家族を弔うために立てられた墓石だった。
アキちゃんの表情は動かない。
わたしは気づいた。いくら冷静なアキちゃんだって、ここまで表情がうごかないのはおかしい。アキちゃんは、ひそかに動揺しているのかもしれない。
「これは、きっと、なにかの間違いだよ。たちのわるいいたずらにきまってるよ」
わたしの虚勢は、アキちゃんには届かない。
墓石の存在をたしかめるように、アキちゃんはそれに手をのばす。その指先はわずかに震えていた。
「アキちゃん、だめだよ」
なにがだめなのか、じぶんでもわからない。けど、だめだと思った。
アキちゃんをとめようと、彼の腕に手をかけたけれど、遅かった。アキちゃんの指先が墓石に触れたとたん、かっと白い光が墓石から放たれた。
白い光はみるみるうちにわたしとアキちゃんを飲み込んで、そこから先の記憶は途切れている。
気がついたら、わたしはじめじめとした暗い空間に座り込んでいた。
すえたかびのにおいがする。冷たい石畳の上に両膝をついてわたしは立ち上がった。そう広くはない小部屋のようで、石壁にかけられたランプには明かりがともされていた。
ランプの明かりに照らされた石畳の上には、べっとりと赤黒い液体が広がっている。まだ真新しいそれは、どくどくとながれ続けている。知らないひとたちが仰向けに倒れていた。なんにんかの少女と、男性がひとり。赤黒いそれは、そのひとの血だって認識するのに少し時間がかかった。
「…………」
この出血量では助からないだろう。
男性はのど元にナイフがつきささっているから、即死かもしれない。包帯でぐるぐる巻きの顔から覘く肌は青白く、きっともう、そこにあたたかさはないはずだ。
あれ、けど、この光景って。
いつか、どこかで見たことがあるような気がする。
包帯でぐるぐる巻きの顔。鋭いナイフ。冷たい石畳。かび臭い部屋。あふれ出る赤い血。その奥で冷たく横たえられた少女達。
そうだ。あの日。
アキちゃんのお父さんとお母さんに見送られて、さいはての森を出発した日。
ささいなことでアキちゃんと喧嘩をして、はぐれて、とじこめられて。わたしも、アキちゃんも、この包帯をまいた男のひとに傷つけられそうになったんだ。でも、わけのわからないことを口走って、男のひとは自害した。わけのわからないまま、意識を失って、気がついたら森の中にわたしたちは倒れていた。
この出来事ついて、ふかく考えないようにしていたけれど。いまになって、どうして、わたしたちはまたこの現場に戻ってきてしまったんだろう。
呆然とするわたしの横を、影が横切る。アキちゃんだった。
アキちゃんは血の海を気にもせずに、倒れる男のひとの包帯を乱暴な手つきでほどいてた。
よかった、アキちゃん、無事だったんだ。同時に、なんでそんなことするんだろうって思った。アキちゃんって呼びかけても反応がない。
男のひとの包帯をほどききって、アキちゃんはいっしゅん目をみはった。それから、大きなため息をついて、うなだれた。
「……おやじ……? なんで……」
「え!」
アキちゃんの言葉が信じられなくて、わたしは血の海をのりこえて、倒れている男のひとの顔を確かめた。
まるで現実感がないけれど、たしかに、のど元にナイフをつきさされて倒れているのはアキちゃんのお父さんだった。
とつぜんの、身近なひとの悲劇に取り乱さないほうが難しい。わたしはおじさんの顔を確かめてから、おそるおそるアキちゃんの様子を確認した。
アキちゃんは無言だった。口元をおさえて、難しい顔をしている。
「えと、きっと、なにかの間違いだよ。どっきりだよ」
わらって、わたしはおじさんの顔に手を伸ばした。
けど、強い力で手をはねのけられる。おそろしい形相で、アキちゃんがわたしを睨みつけている。
「触るな。間違えようがない。これはおやじだ。わけわかんねーけど
アキちゃんは混乱しているみたいだった。
さきほどから、わけのわからないことが続いている。
故郷に戻ってこれたかと思ったら、肝心の家は廃墟同然になっていたし、アキちゃんたち家族のお墓までご丁寧にあつらえられていて、その上。変な光に包まれたと思ったら、再びこの惨状。暗いし、かび臭いし、血みどろの死体に囲まれているなんて最悪だ。おまけに、アキちゃんのお父さんが死んでしまっている。そして、記憶が確かなら、わたしたちはアキちゃんのお父さんが自害する場面を目撃してしまっているし、ひとが変わったような彼の行いも、覚えている。推測だけれど、アキちゃんのお父さんは、ひとの命をつかったよこしまな儀式を行っていたにちがいない。すでに事切れている少女達の姿が、それを裏付けている。
なのに、なんで、わたし、こんなに冷静なんだろう。
こころはさめていた。平静だ。くるしむアキちゃんの姿をみるのはつらい。でも、ふしぎとこころはおだやかだった。そうだ。わたし、ずっとこうだった。
エルゼさん。エルゼさんがいたら、きっと、わかってくれるはずだ。いまの心地とその理由も。わたしは無意識のうちにエルゼさんの気配を探っていた。けど、エルゼさんの気配はまったくなかった。当然だ。だって、わたし、境界を越えてしまったんだから。エルゼさんは、こちら側にはこられない。
ちがう。リンには理解できていないはずだ。だから、こんな風に思考してはいけない。
わたしは、アキちゃんに手をはたかれたショックでちょっとおかしなことを考えてしまったけど、すぐに忘れようと思った。と、思うことにした。
「アキちゃん、まずは、おちつこう。深呼吸だよ」
「……」
憎まれ口すらたたく元気はないみたいで、アキちゃんはわたしから目をそらした。
とにかく、この薄暗い部屋から脱出しよう。すべてはそれからだ。アキちゃんのお父さんや見知らぬ少女達の遺体はいずれなんらかの方法で埋葬するとして、まずは、アキちゃんの精神状態をよくするためにも、一刻も早くここから離れないと。
わたしはアキちゃんの手をむりやりとって、入り口らしい扉の前まで彼をひっぱった。いつにないわたしの強引さに、けど、アキちゃんは無反応だった。
そして、わたしは扉をおした。おもったよりあっさりと扉を開いて、その先には、目を疑う光景が広がっていた。
その扉は、大きな街につながっていた。
ちょうどお祭りの真っ最中のようで、いろとりどりの紙ふぶきが舞い、極彩色の旗がいたるところに立てられている。パレードを行っているみたいで、楽しそうな楽曲が遠くから聞こえてくる。街をいきかうひとびともさまざまな格好をしていて、すごく昔の鎧を着ているひとや、身体に布一枚巻きつけただけの格好で闊歩しているひともいる。
なんだか、いろんな時代のいろんなひとびとを一箇所に集めたみたいな、変な街みたいだった。
それ以上に、あの陰鬱な小部屋がこんな明るい場所につながっていることに驚いて扉を振り返ったけれど、わたしの後ろには扉なんてなかった。おもわずアキちゃんの姿があるかどうか確かめたけど、ちゃんとあった。よかった、手をつないでいて。
明るいにぎやかな場所に出てこれたのはよかったけど、とりあえず、ここはどこなんだろう。わたしは目の前を通り過ぎようとしていた、学者風のおとこのひとに声をかけた。
「あのー。すみません、ここってどこですか?」
「え?」
おとこのひとは、すごくびっくりした様子でわたしを凝視した。それから、破願してこころよくこたえてくれた。
「ああ、なんだ。近頃はこういうことがよく起こる。境界が近づいている証拠かな。ああ、そうとも。こんな風に考えること自体が奇跡であり悪夢でもあるんだよ。君もそう思わないかい?」
「え、えっと、あの、ここって」
にこやかにおかしなことを言われて、戸惑う。ちょっと変わった人なのかな?
「ああ、そうだね。ごめんごめん。ここは王都だよ」
「王都……?そういえば、お祭りが近いって馬車おきばのひとも言ってた気がする」
正直、ひとりごとのようなものだったのだけれど、おとこのひとはおしゃべりずきみたいで、わたしのひとりごとにも即座に反応した。
「お祭りが近いも何も、ここは毎日お祭りだよ。なにせ、王様はお祭りが大好きだからね」
それは初耳だ。
「けど、毎日毎日お祭りだと、お祭りがふつうになって飽きてくる。最近はどうもそんな風潮で、よくない。君はお祭りをたのしんでるかい?」
「えっと、まだよくわからないです」
「そうか。じゃあ楽しむといい。こころゆくまで」
そういって、おとこのひとはあわただしく去っていった。
王都にきたのはいいけど、これからどうしよう。
とりあえず、わたしは、無言のままのアキちゃんを休ませることができる場所を探すことにした。




