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55:幸せの終わり

「は?」


 帰宅したアーネスト様をお出迎えして、今日の魔術訓練の成果をお伝えした反応は芳しくなかった。訝しげに眉を寄せられて、褒めてもらえるかもしれないという微かな期待はあっけなく散っていく。

 ありのままを正直に伝えただけなのだけれど、まるで間違った答えを口にしてしまった気分だ。なんだかすごく悲しくなってきた。


「あの……」

「まぁ、また後で詳しく聞く」


 言葉を迷っていると、アーネスト様はぽんと私の頭に手を置いて、そのまま2階へと向かってしまった。猫達とマリアがそれに続くのを、ぼんやりと眺める。


 なぜだろう。

 ここに来てからずっと、まるで夢の中で幸せに過ごしているような気分だったのに。その幸せの終わりが突然目の前に現れたかのような、訳のわからない不安が胸に湧き上がってくる。

 無意識のうちに、何かとんでもない間違いを犯してしまっていたのかもしれない。でも今の私には、何が間違いだったのかさえ分からないのだ。でもたぶんマリアやアーネスト様は分かっていて、今日それを確信させてしまった。 


 私が魔術を学ぶのは、間違いだったのだろうか。でもマリアは最初私に学ぶことを勧めていたし、アーネスト様も強くは反対しなかった。雷魔術は学んだ方がいいとさえ言ってもらっていたのに。

 それに今日。いつもはみんなでアーネスト様をお出迎えするのに、なぜか私とマリアとエーゼルの3人だけだった。なぜ今日に限ってそうなのだろう。悪い想像しか浮かんでこない。


 仄暗い思考の渦に落ちていると、ふと足に重みを感じた。はっとして下を見ると、私と同じ色の瞳がまっすぐにこちらを見つめている。


「ノワ」


 思わずその小さな身体を抱き上げた。温かさが心に染み入るようで、ほんの少しだけ気分が浮上する。


 そうだ。

 アーネスト様はまた後で詳しく聞くと言ってくれた。悪いところがあったら直せばいいだけ。きっとそれだけのことだ。深刻にならなくていい。大丈夫。


 すうっと深呼吸して、なんとか不安を心の底に沈める。

 そして不思議そうにこちらを見つめるまん丸な目に、なんとか笑みを向けた。


「お部屋で遊びましょうか」


 それを期待して近くに寄ってきたであろうノワにそう言うと、ペロッと顔を舐めてくれた。いつもと変わらないノワの様子に励まされて、固まっていた足を動かす。


 でもその優しい温かさは離しがたくて、猫部屋へ着くまでずっと、ノワを腕に抱いたままだった。








「えっ、よ、よろしいのですか!?」


 夕食時。

 てっきり重苦しい雰囲気になることを予想していたのに、アーネスト様の言葉に驚いて、色々なものが吹き飛んでしまった。


「ああ。もともと下の者が休み辛いから、もっと休めとは言われていたからね。既に連休は申請してきた。君もだいぶ回復してきたし、ちょうどいいだろう」

「ありがとうございます! 祖母にはずっと会えていなかったので、とても嬉しいです」


 思わず笑み崩れてしまう。

 アーネスト様はなんと、来月あたりサバスティ領へ私を連れて行ってくれると言うのだ。これを喜ばずにはいられない。痩せこけた姿を祖母に見せるのも、アーネスト様のお休みを潰すのも憚られたので今まで言い出せなかったけれど、やはり祖母には会いたかった。


 アーネスト様も連休を取られるらしいし、来月には私ももっと体調は万全になっているはず。すごく楽しみで仕方がない。それにできれば、両親達のお墓参りにも行きたかった。


「一度訪れれば、次からは魔術で転移することも可能だ」

「サバスティ領は遠いですし、ご負担になるのではないですか?」

「1日に何往復もさせられるとさすがに堪えるが、そうでなければ君と2人で移動するくらいはどうと言うこともない」


 ミリアーナから転移はかなりの上級魔術で使える者も限られるのだと聞いて驚いたのは、つい最近のこと。アーネスト様が気軽に転移を使うのでよく分かっていなかったが、確かにあの術は文様が緻密で複雑だ。こんな提案をなんでもないように口にできるのも、アーネスト様の凄まじい実力があってこそなのだろう。


「アーネスト様は格好いいです」

「君は相変わらずだな」

「ふふ」


 にやにやがとまらない。

 若干呆れた眼差しをもらうけれど、こういうやりとりも日常と化している。先程落ち込んだ反動もあって、余計に心が浮き立っていた。


「きっと祖母はアーネスト様の美しさに驚くに違いありません。驚きすぎて体調を崩さないように、手紙で忠告しておきます」

「美しさねえ。君はそんなに僕の見た目が好みなのか?」

「見た目もとても素敵ですが、優しいところも聡明なところも、自分を持っていてぶれないところも、真面目で誠実なところも、とてもとても好きです」

「っ、よくそんなことが恥ずかしげもなく言えるな!」

「事実ですので」


 アーネスト様が手元に視線を落として黙々と食事を詰め込み始めたので、私も倣って手元のお皿を攻略にかかる。

 もやもやと黒い不安が胸に巣食っていたのが一掃されて、とても爽やかな気分だ。単純な自分に自分で呆れてしまうけれど、でもいい。


 アーネスト様は、来月の予定を私に示してくれた。私に対して思うところはあれど、でもそばに置いてくれると捉えていいのだろう。そういえば婚約して立場が固まる前も、私はアーネスト様からもらう未来の約束を心の支えにしていた。


 顔を上げてアーネスト様を視界に入れる。

 こうして近くに置いてもらえるように、頑張ろう。魔術のことも魔爵家のことも、まだ分かっていないことがたくさんある。それを少しずつでも埋めていきたい。そうやって努力していれば、いつかファンセル家の人間として相応しくなれるはずだから。


 上機嫌のまま食事を終えて、やがてアーネスト様に誘われて2階へとあがる。そして私の部屋の前まで来て、いつものように足を止めようとした。

 けれどアーネスト様は私の背中に腕をまわしたまま、歩みを止めなかった。


「?」


 一緒に歩きながら疑問が浮かぶけれど、すぐに帰宅時のアーネスト様の言葉が脳裏に甦った。また後で詳しく聞く、の後でが、今からということなのだろうか。

 そして私はもしかして、アーネスト様のお部屋に連れて行かれるのだろうか。


 色々な意味でどきどきしている私の気も知らず、アーネスト様は当たり前のように自分の部屋のドアノブに手をかけた。開かれた先には、ファンセル家当主の部屋としては装飾品の類が少なく無駄のない、どこか寂しさすら感じる空間が広がっている。微かにアーネスト様の纏う香水の香りがして、落ち着かない気持ちに拍車がかかった。


「あ、の……」


 何か言って欲しくて見上げた顔からは、なんの感情も読み取れない。ドアの閉められた音にどきっとしながらも、促されるままソファの方へと向かう。


「座れ」


 大人しくそこへと腰掛けると、アーネスト様は隣に座ることなく、そのまま私に覆い被さるように顔を近づけた。その手は私を囲うようにソファの背もたれにかかり、まるで猫に捉えられた鼠のような気持ちになる。


「さて、セリーナ」


 形の良い唇が、ゆっくりと弧を描いた。


「君が僕に隠していることを、この際すべて教えてもらおうか」


 そして僅かな嘘も許さないというような強い眼差しが、私を貫いた。

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