朧月夜
「窓は開けておこうか。月が差すよ」
「お?……ああ」
入日の名残が薄れ、街並みは宵の色に霞んでいた。紗の掛かったような群青の空の半ばで夕月が朧に滲んでいる。
上機嫌を装って懸命に酒卓へ誘う息子に、灰髪の男は間の抜けた声で応じた。妻がにこにこと卓に肴を並べていく。白身の魚と棒茸の蒸し焼き。僅かに黄が咲いた菜花の煮浸し。鳥皮の揚げ物。男の好物ばかりである。
月を損なわぬ小振りの灯火が一つ中央に置かれて、酒卓はすっかり整った。
差し向かいに座ったのは初老の男とその息子。職業柄、動揺は顔に出さないが、妻が下がってしまった事に男は些か戸惑っていた。意見の対立で息子が家を出て凡そ十年、何の前触れも無い、久方振りの邂逅である。
「どうぞ。緑桃酒の佳いのがあったんだ。その……強い酒はあまり好きじゃないって聞いたから」
「もう年だからな」
「そんなことないって。五十をちょっと過ぎたくらいで」
緊張の抜け切らない息子がぎこちなく酌をする。家では見た覚えのない、小洒落た酒壺だった。水色の陶器に流麗な銀彩で蓮が描かれている。葉上の蛙と水の波紋も。揃いの杯には蓮花が三輪。
酒を舐めようとした手を止めて、男は息子を制止した。手酌しようとしていた酒壺を取り上げる。いつの間にか飲酒を嗜む年になっていた息子を眺めながら、男は感慨深く、澄んだ緑色の酒を相手の杯に注いだ。
春風がそよりと吹き込み、卓上の火影が流れた。杯の蓮花が銀光を揺らす。二人は黙したまま、暫し酒肴を味わった。
――それで、この酒席は何なのだ。
そんな莫迦を言ってこの場を台無しにしてはならないという事は、いくら仕事一徹で子育てを妻に任せきりだった男でも察しがついた。ぱりぱりと鳥皮ばかりを三枚立て続けに齧ってから姿勢を正した息子を、じっと待つ。
「…………退職したって聞いた。その、今まで長い間……お疲れ様、でした」
濃茶の瞳が男を向いた。妻と同じ色の。
「僕、小審院に勤めることにしたんだ。裁判官になる心算だよ。……あなたと同じように」
とうとう男は驚きに目を瞠った。心を表情に反映するのは久し振りだった。
下級貴族である男の家系は、法曹系の仕事に代々就いてきた。不思議なことに二、三世代に一人、画家を輩出するのだが。裁判官になるのは別段珍しい進路ではない。
しかし息子は十年前、その道を嫌って出て行ったのではなかったか。あんたのような法典だけが大事な、冷たい大人にはなりたくない、と。当時は真実子供であったが、あの濃茶に宿った赫怒と軽蔑は本物だった。
切っ掛けは一つの裁判だった。ある母子家庭で少年が母親を殺した事件だ。少年はずっと母親に虐待されていた。少年の証言により明らかになった一方的な暴力はほとんど殺人未遂に等しく、冷酷であるべき審問官をも涙させる内容であった。
その虐待は殺人という形で終着してしまった。とは言っても、痩せ細り、身も心も隙間なく切り刻まれた少年に出来たのは、力いっぱい母親を突き放す事だけである。
それだけで、転んだ母親は卓の脚に頭を打って死んでしまった。
遣り切れない、憂鬱な裁判であった。神より授けられたとされる律法でも、それを元に編まれた俗法でも、尊属殺人の罪は極めて重く、法文も固い。母親が子を家に閉じ込めて人目に触れさせなかったのも少年には不利に働いた。同情した審院の小間使い達までもが、こっそり奔走していたが、少年を擁護する証言は集まらなかった。近所の者は少年の存在すら知らなかったのだ。
母親は表では真面目で温厚な料理人であった。少年を酌量する余地は無かった。
極刑を告知したあの判決は、巷でも随分と批判されたものだ。血も涙もない、と。
「そんなに驚いた顔は、初めて見たよ」
息子が吹き出した。
表情を隠すために慌てて杯を呷ろうとした男は、緑桃酒の香りに己が退職した事を思い出した。もう泣くも笑うも自由だ。様々な義務に捉われて、家族にまで気を張る必要はない。
「お前は画家を目指すか……法理院にいくのだと思っていた」
「まあ、それも考えたけどね」
からりと揚がった鳥皮を、息子はまた指に摘む。
「絵心はまるで無いって、おじさんには言われてたし。……法理は、判決を精査して法の改正案を上奏出来るのは確かに魅力だけど、僕は、その、やっぱり現場で……法文の是非を扱う書類仕事だけじゃなくて、原告や被告の顔を直接見て声を聞く、裁判官の方が……」
何かを確かめるように神妙な顔で鳥皮を裏に表にしていたが、ようやくそれを口に放り込んだ。
「……今はちゃんと分かっているよ。僕は我儘で無知な、月を取ってくれと駄々をこねる子供だった。あなたの手は月には届かないし、届いてはいけなかった。情で勝手に法を枉げるなんて許されない。裁判官を始めとする実務官に法改正の権利はないし、もし必要ならそれは全く別の、法理院の議論になる。
例の件の後で、あなたが法理に働きかけた事も知ってる。尊属殺人の法文に情状酌量の余地を持たせるようにしようと頑張っていたんだろ。上で否決されたらしいけど。初代の詞華集なみに分厚い意見書や抗議文を山ほど送り付けたって法理で伝説になってたよ。誇らしかった。……だから、昔のあの事は、ええと、その…………鳥皮も食べなよ、お父さん」
「……ああ」
男は呻くように声を絞り出した。奥歯を噛んで、じわりと熱を持った目頭に力を込める。こうすれば温かなものが治まるのは経験上よく知っていた。
杯の残りを一息で干した息子に酒を注ぐ。何か声を掛けてやるべきだと自分を急かしたが、言葉は見つからなかった。息子も会話の接ぎ穂を探すように視線を彷徨わせ……結局無言のまま男に返酌する。そうして差しつ差されつしている内にお互い和解したような気になってしまうのは、良くない癖であり、相手への甘えであり、詰まるところ親子だという事であった。
物事の決着をつける仕事をしていた反動だと思われるが、妙な所が似てしまったものだ、と男は息子を眺めて考えた。
鳥皮の皿を男の前にずらす息子の、その右手の小指が欠けている。息子の記憶には残っていないであろう、ほんの赤子の頃からだ。
「女怪め……」
その欠損は男の過失であった。久々に間近で見た痛々しい様に男は歯を軋ませる。噛み締めた呟きは、遠い神殿の夜鐘の音に紛れた。
「お父さん何か言った?」
「いや……実にいい酒だな、と」
「気に入ってくれて嬉しいよ。香りの割に甘すぎないのがいいよね」
内側にまで水色に塗られた杯を揺らし、男は心を宥めようと酒を覗き込んだ。透明な緑色の酒は青みが映って、森の中の清涼な泉のように見える。飲めば酒精の匂いを打ち消す鮮烈な若桃の香が喉奥から鼻腔を洗った。
ある裁判を経てから、男は酒の味を感じなくなった。故に香りの強い酒を好む。
軽く息を吐いて空を見れば、朧げな月は存外に明るかった。景色は春の霞に揺蕩い、街向こうの山の端は完全に白い夜に没している。小高い丘に建つはずの領主館も、微かな陰影が佇むばかりだ。
「それで、その……お願いがあるんだけど……」
領主館の麓には男の従兄弟が住んでいた。息子が先刻おじさんと呼んだ、領主お抱えの画家である。今まで約十年間、息子はその下に身を寄せていた。
「なにか助言というか、心得を教えてくれないかな。これから見習いになるひよっこに……三十年以上勤め上げた大先輩として」
十二で家出したにしては、歪まず尖らず、甘いほど真っ直ぐに育っている。養育費と共に礼状は欠かさず添えていたが、一度直接、従兄弟に頭を下げに行くべきだろうと男は酒を飲みつつ考えた。仕事にかまけてその辺りの細かな対応は妻に任せきりだった。まずは妻に頭を下げるべきなのかもしれない。
「心得か……そうだな」
男は白身魚をほぐして口に運んだ。自分を嫌って出て行った息子とこんなに穏やかな夜を共有している事が、未だに信じられなかった。
「……思い上がらない事だ。特に最初の裁判では。判決を述べるのを、真実の告知、と呼ぶのは知っているだろう。この口から出た言葉が真実になる。この口が、他人の人生を定めてしまう。初めての裁判の時は呆然としたよ。あまりの全能感に。自分は神に近付いたのではないかと、そんな愚かしい事まで考えた。
だが我々は神ではない。人間だ。莫迦ばかしい話だが、それで駄目になる奴もたまに居る」
息子は真剣な表情で男の言葉に頷いている。実際に裁判を受け持つまでには数年の研修期間があるが、近い未来に息子が、自分と同じ裁判官として法廷に立つという想像は、面映ゆくもあり、恐ろしくもあった。
授けたい助言は本当は別にある。自分の轍を踏むなと。厳正で公平な裁判官でありたいのなら、大切な、愛しい者を作るなと。
「己をおそれよ、と研修では習うだろう。神ならぬ身で、神に似た決定を振るう事を畏れ、最善を尽くしたかを常に疑わなければならない。しかしそれも度を過ぎれば心を壊す。法や判例の勉強よりも、そういった心の加減の方が遥かに難しいだろうな。色々な先輩方に話を聞いて、よく学ぶといい」
「うん、分かった。……現役だったらお父さんに研修を担当して欲しかったな」
「それは、駄目だ」
叫び出したくなる衝動を男は酒で飲み下した。
「……近親者の研修には付かない事になっている。暗黙の了解だ。狎れるといけないからな」
「残念だよ。お父さんがそんな事するはず無いのにね」
「わからんぞ」
「しないよ。家族だからって私情を挟んだりしないだろ。すっごく厳しそう」
返す言葉に詰まった男の沈黙を、微かな鈴の響きが救った。星見の巡礼の列が神殿に向かうのだろう。生憎とただの一つの星も見えない、霞の深い夜ではあるが。
「あ、ええと、非難した訳じゃないよ。お父さんは、その、冷たい人なんかじゃないって分かってる」
「いや、私は確かに家庭では碌な父親ではなかっただろう。仕事ばかりで、お前をあまり構うこともなかったな」
「……おじさんが言ってた。うちの一族は固い仕事に就く人がほとんどだから、みんな多かれ少なかれ、そんなものだって。制約の多い、心に負担のかかる仕事だから、仕方ないって。
でも、法を盾に弱い立場の人を守る騎士のような、素晴らしい仕事だとも言ってたよ。僕もそう思う。もちろん盾が万能じゃないのは分かっているけれど」
「そうだな。万能ではない」
緑と黄の色鮮やかな煮浸しを小皿に取り分けて、男は菜花の苦味を噛んだ。騎士とはまた大仰な例えだ。画家になった従兄弟は、肝心な所を何も知らない。
「それに法は決して盾ではない。そうだな……柵みたいな物だ。誰かを守るための物ではない。大抵の場合、あれは莫迦の行動を規制する為にある」
「ええ、莫迦?」
巡礼者の鈴の音までもが、夜の奥に霞むように遠ざかる。消え行く涼音に、男は息子が赤子の頃の昔を思った。
王都は内乱の真っ只中だった。地理的にも領主の系譜としても中央に近いこの街もまた、ひどく治安が乱れ、巡礼の鈴が完全に絶えた時期があった。
「そうだ。殺すな犯すな盗むな……そんな事を禁じられなければ理解しない莫迦の為にな」
王都の大審院にも、各領の小審院にも、妨害と賄賂が横行した。随分と仕事が困難であったあの時代に、けれど男は決して金銭には転ばなかった。――それが男の咎の因であった。
「そんな莫迦が相手なら、法は極めて有効だ。だが悪事を悪事と理解して実行している人間には、隙間の多い、ただの柵でしかない。奴らは上手くその隙を掻い潜ってくる」
そして高位の貴族の後ろ盾でもあれば、柵は容易く蹴倒される。
法文に何ほどの力があるだろう。あれに何が出来るだろう。巨大な力の前ではあれは何も守れなかった。小さな赤子ですらも。
男は長く息を吸って、致命的な真実を口にする愚をどうにか避けた。それとも勇を避けたと表現すべきか。思考がふわふわと纏まらない。よく被疑者達が供述していた、酒で口が軽くなるとはこういう感覚なのだろうかと、男は鈍く分析した。
「その不備を出来る限り埋めるために動くのも、僕らの仕事の一つなんだね。お父さんがあの時、法理に働きかけていたみたいに。綺麗事ばかりじゃないかもしれないけれど、頑張るよ。これからも、その、こうやって助言してくれるかな」
男は目を細めた。息子が目の前に居て、あからさまな敬意を向けてくる現実にまだ慣れない。照れからくる僅かな高揚を隠しきれてはいないが、初々しい決意に満ちた、法の道を歩む者としての物言いは、息子を見知らぬ若者のように見せていた。
しかし、その小指は欠けている。男はそっと視線を伏せた。
凡そ二十年前の内乱当時、王都には女怪と呼ばれる有名な悪党がいた。没落しかけた高位貴族の当主で年若い娘だったが、、敵対者を次々と陥れ、葬る手腕は驚くほどに老獪で、端の手下すらもなかなか法廷を踏ませなかった。
その女怪の側近の一人が、この街で失策を犯した。殺人だった。目撃者もいた。女怪からの妨害も賄賂も撥ね除けて、男は審理を開始した。開廷せねばならないと信じていた。
かの女怪が本気で人を脅す時は、人質を取ってその身体の一部や死体を送りつけるのだとは、よく知られた話であったのに。
本当に殺人を犯したのは通報してきた目撃者であり、彼は被告に罪を着せる為に虚偽の証言をしたのだ――と、男は判決で断罪した。
もし再度似たような脅迫があったなら、男は自棄を起こして全てを白日に晒し自害していただろう。しかし女怪は流石にその辺りの機微を見誤ることはなかった。内乱後は長きに渡り王都に隠然たる権勢を誇った女に相応しい如才のなさであった。
先月とうとう暴漢に殺害されたとの情報が回ってきた。敵わぬまでも何時か一矢報いようと機会を窺っていた男は、苦々しくその報を聞いた。周囲に惜しまれながらも職を退く気になったのは、その苦味が一因でもあった。
女怪に屈したのは一度だけ。しかしあの一度で、生涯二千以上の訴訟を裁いた裁判官としての自分は色褪せた。否、辞めた今でも己は色褪せている。多分死ぬまで色褪せ続けるのだろう。
冤罪を被せた目撃者の顔が記憶に灼きついている。怒り狂ってくれたのならまだ良かった。何の罪もなく、法廷に裏切られるなど考えもしなかったであろう一般市民の青年は、判決を聞いて暫しきょとんと目を瞠り、焦り、次いで絶望した。あの瞳。生者とは思えぬ、魂の抜け殻のような。あれを見た日から酒の味が一切分からなくなった。
自分の不正が真実として罷り通り、周囲の誰も自分を罰しない事に失望した。深い渓谷の底に落ちた気分だった。正しくあろうと努力しても、無実の人に罪をなすり付けても、自分が信義の全てを捧げてきた法廷は何一つ気付かない。あの冥さ。あの恐ろしさ――
「ええと、駄目かなやっぱり。僕は虫がよすぎる?……今までの事、怒っているのは当然だと思う。父親に迷惑ばかりかけてる不肖の息子だって散々言われて来たし」
息子の発言に顔を上げ、男は慌てて首を振った。何の話をしていたのか咄嗟に思い出せなかった。それとも何か聞き逃したか。息子は不安そうな表情を僅かに俯けている。
「そんな事はない」
気後れしたような様子を男は胸の痛みと共に眺めた。自分が悪いのだ、とそう思う。自分が息子の子供時代を台無しにしてしまった。犯した罪の証を直視出来ずに目を逸らしていた、その隔意を、子供は敏感に感じ取ってしまったのだろう。言い争いの勢いがあったとはいえ、あの年齢で家を捨てて行くなど尋常ではない。
「怒ってなどいない。迷惑でもない。お前は違う意見を貫いただけで、何も悪くなどないのだから」
「うん……ありがとう」
湿り気を帯びた風が俯いた息子の前髪を揺らす。朧月が終わりかけの酒席に静かな光を投げかけていた。
「私は……父さんはな、」
一度だけ、故意に偽りの判決を述べた事がある。
いま息子が見ている父親は幻影であり、取り繕った嘘だ。事情を話して罪を白状すべきだと男は考えた。眩しいほど真っ直ぐに向けてくる尊敬に、誠意を以て報いるべきだと。
しかし喉が詰まった。息が震える。空の杯を男は睨みつけた。
息子の為に誠実さを擲った自分が、息子の為に誠実であろうとしている。とんだ茶番だと思ったが、嘲笑う気力は無かった。ただ呼吸を止めた。
「……注ぐよ。ほら、杯を」
小指を欠いた手で息子が酒壺を傾ける。突然赤子が居なくなって。木箱が送られて来て。どす黒く染まった詰め綿の中央に、小さな小さな血塗れの指が一本、乾いてこびり付いていた。自分自身を、他の誰かを踏み躙ってでも守るべきものが有るのだと、その瞬間に知った。一も二もなく膝を折り屈服した。
「父さんは…………お前の幸せを祈っている。いつも」
息子はぽかんと口を開いた。ろくに構いもせず、正面から向き合う事もなかった父親の口から、このような言葉が出て来るなど想像もしなかったのだろう。言った当人にも意外であった。男は流石に恥ずかしくなり、表情を隠して鳥皮の最後の一枚を息子に勧めた。
ひどい顔で硬直していた息子は、暫しの後にやっと表情をほころばせた。笑んだ顔に面影があった。息子が生まれたばかりの頃。どう接して良いか分からずに遠巻きに見ているだけだった男が、普段大人しい妻に珍しく叱られて恐るおそる抱き上げた、あの時の笑顔に。どこもかしこも小さく、頼りなく、柔らかで、不思議と懐かしい淡い匂いの。
思い出は仄かに甘く、喉奥の罪は苦い。男は味の分からぬ酒と共に、その相反を飲み干した。




