第三十七章 二の炎
1
非常階段を駆け下りると、狭い廊下があった。
左右の壁には複数の扉があり、煌びやかな上階とは正反対に質素なプレートが釘打たれている。
くそ、どれだよ!
真理は声に出してそう叫んだ。
一業は地下と言っていたが、こんなにたくさんの部屋があるとは聞いていなかった。見た限り、ほとんど上と変わらないスペースがあるのではないだろうか。
真理は仕方がなくその扉を一個ずつ開け放っていった。
ボイラー室。配電室。受水室。
人の生活を陰から支えているいくつもの部屋に押し入っては中を探し回りまた外に出る。当然どの扉も施錠されていたので、全て“亀裂”によって強引にこじ開けた。
どこだ? どこにいるんだ……?
カナラが完全に一業の支配下に納まるまで、何故気がつけなかったのだろう。あれほど近くにいて、あれほど同じ時間を過ごしていたのに、のうのうとこんな事態を許してしまった。間違いなく、これは自分のせいだ。
悔しさで目の奥が軋む。
開けた部屋がただの書類庫だとわかると、真理は叩きつけるようにその扉を閉めた。
振動で天井に張り巡らされていた配管の埃が滑り、ひらひらと目の前に舞った。ほとんど掃除をしていないのか、かなり積もっていたようだ。まさに灰色の雪である。
これだけ大きな施設にしては随分とずさんな管理だ。
埃が体に付くことを嫌がって通路の奥に逃げると、左方向に他よりも大きな扉を発見した。大倉庫と書かれている。
……あそこか?
真理は右手を握りしめ骨を鳴らすと、逸る気持ちのままそこに向かった。もはやドアノブを掴むことなく、初っ端から“亀裂”で扉を吹き飛ばし、盛大に中に飛び込む。
現象の余波で扉の壁の周囲に大きなひび割れが伸びた。
舞い上がった砂埃に顔をしかめながら前を向くと、中学の体育館とほぼ同じくらいの空間がそこに広がっていた。コンクリート製の壁や武骨な作りを見るに、元々は駐車場でも作ろうとしていたのだろうか。置かれいるのが複数の段ボールや箱ではなく車であったのなら、誰もがそう思ったことだろう。
荷物の鎮座した棚の間を抜け整理された場所に出ると、奥の台座に体躯座りをしている二業の姿を発見した。頭上で心配なほど耳障りな轟音を鳴らしている換気扇のせいで、まだこちらの気配には気が付いていないようだ。
彼女の背後にはいくつもの古臭いマネキンが無造作に置かれていた。ホールで演劇を行っている部活か何かの衣装なのだろうか。そのどれもが小奇麗な服を纏っている。
「――あ」
顔のない空虚な人形たちの間に、黒いドレスを着たカナラの姿を発見し、真理は思わず声を上げた。鎖で後ろのパイプに括り付けられているらしく、立ったままがっくりと頭を前のりに倒している。
「カナラ……!」
呼びかけてみても返事はない。苦しそうに眉を寄せたまま微かな吐息を漏らすだけだ。
「無駄だよ。この子の意識は一巳くんに塗りつぶされている。今はもう、ただこの特異な場所を認識し誘導するための歯車でしかない」
二業は両手を前に伸ばしながら、
「そんなことよりも、見てほら。この部屋は不用品をため込むための倉庫みたいでね。面白いものがたくさんあるでしょ。暇だったから彼女にも着せてみたのだけれど、どうかな?」
黒いドレス姿のカナラを指さし、無邪気な笑みを見せる二業。皮肉でも威嚇でもなく、本当にその行為を楽しんでいるらしい。
ドレス姿のカナラを見つめているうちに、真理は異変に気が付いた。
何だ? カナラの顔色が悪い。どうしたんだ?
もともと体調は良くなかったが、あそこまで酷い状態ではなかったはずだ。数刻前よりもいっそう青白くなった彼女の顔に、強い不安を覚える。
「ちょっと、真理。あたしの話を聞いている? せっかく用意したのに、感想はないの?」
「……二業。カナラを開放してくれ。頼む」
真理が懇願するように見上げても、二業はそれを許さなかった。
「嫌だよ。せっかく捕まえたのに何故開放しないといけないの。意味がわからないのだけれど」
「お前は元々教授側の人間だったんだろ。教授が無力化されたのなら、お前にはもうカナラに関わる必要なんてないじゃないか」
「必要? 必要はあるね。確かに最初は真壁教授の指示に従っていたけれど、別にあたしは教授と思想まで共有していたつもりはないもの。――最初から裏切る予定だったのだし」
あっけらかんと言ってのける二業。
その台詞を聞いて、真理は我が耳を疑った。
「は? お前、何を言ってるんだ?」
「そうだね。じゃあ、順を追って説明してあげようか。――……ほら、出てきて希悦」
二業が軽く両手を叩き合わせ、中途半端に空気を含んだような音を鳴らすと、マネキンたちの横、ステージの裏手から、背の高いある男が姿を現した。その顔を見た途端、真理は思わず息を飲む。
忘れようもない。忘れるわけがない。
それは父を貶め自分の人生を台無しにした、あの男だったのだ。
以前と何一つ変わらない堀の深い顔。常に人を観察しているかのようなその目を見て、真理は無意識のうちに足元に現象を起こしていた。
木片が砕けるような音が鳴り、地面にひび割れが広がっていく。全身の肌がちりちりと総毛だった。
「お前……!」
ここで何をしている! 何でこいつが……!
強い憎悪が湧き上がり、血流が激しくなる。疲れは完全に吹き飛んでしまった。
その男を背後に携えながら、二業はにこにこと純真無垢な目を真理に向けた。
「ほら、希悦。説明してあげて。これまでのことを。彼、気になっているみたいだから」
希悦と呼ばれた男は問いかけの目を二業に向け、諦めたように前に出た。反目するだけ無駄と判断したらしかった。
「久しぶりだな。六条の息子」
実に流動的な声で希悦はそう言った。
その耳障りな声を聞いた途端、真理の拳に勝手に力が籠った。
今にも燃え上がりそうな心を必死に抑え込み、彼の澄ました顔を見上げる。
「……この野郎……! 二業たちはお前の指示で動いてたのか」
「まさか。俺たちは対等な関係だ。協力者というのが一番正しい呼称かな」
希悦は人を食ったような顔で手を円柱状の壁に当てた。
「しかし、お前も大したものだな。まさかまたこうして相対するとは思ってもみなかった。執念の力というやつなのか」
「当たり前だろ。お前は俺の家族をめちゃくちゃにした。お前のせいで俺たちは地獄に落ちた。お前を見つけ出し、八つ裂きにすることだけが俺の生きる目的だったんだ」
「難儀なやつだな。そんな暇があるのなら、もっと有意義に時間を使えばよかったものを」
希悦がため息を吐き、真理の眉間のしわがより一層深くなった。その間を割る様に二業が明るい声を出す。
「はいはい。そういうのは後でいいから。ほら希悦――」
自分のことを説明したくて仕方がないらしい。二業は胡坐をかき、僅かに体を前に倒した。
希悦は面倒そうに一度目をつぶり、それを開ける。
「俺は真壁教授とはどうも信念が合わなくてね。超能力者という卓越した個人よりも、凡弱な個人が扱う卓越した“道具”の発展に興味があった。彼の言う超次場というやつだ。
真壁教授の下で働いているときから、俺は歴史や地脈を調べ、そういった場所を探していた。候補はいくつかあったが、観光地などに指定されない中でもっとも“深度”が大きく、まだそれほど土地を構成している材料が分散していない場所はここしかなかった。
人は死ぬが、場は半永遠だ。ミサイルや爆弾で吹き飛ばされない限り、この場所はここに残り続ける。超能力者個人の能力には限界があるが、この場所を自由に利用できるようになれば、その恩恵は計り知れない。
考えてもみろ。この土地の全てが疑似的な超能力の発生装置なんだぞ。使いこなすことさえできれば、認識次第で、神にも等しい力の行使が叶うかもしれないのだ。
俺は“人”にしか興味のない真壁教授から離反し、ここを手に入れようと考えた。町に留まり、土地の研究をしつつ、それを有効に活用するための方法を探した」
べらべらと、希悦は耳障りな声を出し続けた。
「だが真壁教授はそういった俺の行動が気に食わなかったらしくてね。こっそりと五業を利用し、俺を殺そうとした。恐らく、こそこそと動き回っている俺を見て、裏切りを企んでいるとでも考えたのだろう。
俺は真壁教授にこの土地のことを知られたくなかった。彼がこの土地のことを知れば、超能力者の培養所としての利用しかしないはずだ。そんなのは宝の持ち腐れもいいところだった。
だから俺は、彼の関心を逸らすために自分の死を偽造することにした。
真壁教授に敵対する者に連絡を取り、そこへ合流するような動きを見せつつ、監視の寄生者たちを特定し、その体から五業の腫瘍を抉り出して袋に詰めた。彼の研究を行っていたものにしかわからない薬の頭文字を書いてな。メッセージのつもりだったんだ。俺はあんたとは麓を分かつという意味の。
そして狙い通り、真壁教授は二業を差し向けた。当時彼女は真壁教授がもっとも信頼を置いている実験体だったが、彼にとっては残念なことに、そのときすでに二業は俺の側だった。
俺は彼女の調整に大きく関わったから、その望みをよく知っていた。だから自分に協力すればそれが叶うということを教えるだけでよかった。俺としてもあの土地を利用するためには強力な超能力者が必要だったから、まさに一石二鳥だった」
じゃああの時の電話の相手は二業だったのか。彼女がこいつの家を炎上させた……。
先ほどの炎の暴虐を思い出し、真理はかつての記憶と重ね合わせた。
「あとはもうわかるだろう? 君の父が目にしたのは、追っ手の五業を殺す現場だったんだ。俺は彼を殺人鬼に仕立て上げ、金で雇った浮浪者を自分の身代わりにし二業に燃やさせた。君という都合のいい目撃者を作った上で。
それで全てが丸く収まると思っていたんだがね。予想外なことに教授は自分の下を離れたがっていた修司をこの町に残した。彼に俺が何をしていたのか探らせることが目的だったんだろうな。
あいつは優秀な研究員だったから、長い間この町に滞在していれば、いつかは文化センターの異常さに気が付くかもしれない。不本意ながら俺は、彼を殺すか取り込むか選択を迫られていた。だが決断をする前に、カナラと一業がこの町にやってきた。
一業はすぐに俺の存在に気が付き、土地のことを聞き出した。俺はてっきり教授に密告されるのかと思ったんだが、彼は意外にも協力を申し出た。真壁教授を殺す代わりに、一度だけあの土地を使わせて欲しいと。
彼の提案は魅力的だったし、その力は大いに役立ちそうだった。俺は快く彼の手を取り、協力関係を取り付けた。――……二業は最初彼に不信感を持っていたのたがね。熱い語り合いをしたのち、和解に至った」
そこで希悦は様子を伺うように前に座っている二業の背中を確認した。まるで芸術作品を見るような視線だった。
彼女はそれを合図と受け取ったのか、顎から手を放し、背筋を伸ばした。
「わかった? 真理。あたしは最初から希悦と手を組んでいたの。彼から土地のことを聞いて、ここなら面白いことが出来ると思ってさ」
「面白い事? 一体どんな大層な願いがあって、こんなことをした? 俺の親父を苦しめた?」
こんな女のことを少しでも信用していた自分が憎らしい。
真理は激情を隠すことなく二業へぶつけた。
そんな真理の視線を受け取った彼女は、けろりとした表情のまま両膝をひこひこと上下に動かしてみせた。
「あたしはね。生まれた時から真壁教授と一緒にいた。彼と行動を共にしているうちに、実に多くの人を見た。色々な悩みや喜び、不幸な人や幸せな人を目にしてきた。そして思ったの。何故、人はこんなにも不平等なんだろうって。何で地獄のような生活を送っている人もいれば、毎日が夏休みみたいに楽しそうな人もいるんだろうって。
しばらく考えた結果、あたしはある結論を出したの。
それはきっと、どこかにいいことが起きる要因が集まれば、そのいい要因を作るために犠牲になる部分が必ず生まれるからだって。砂場で山を作ろうと思えば、周りの土が下に抉れるでしょ。高さが幸福具合って考えれば納得がいくと思うのだけれど。これはまさに命、生命の構成原理そのものともいえる」
二業は揺らしていた足の動きを止めた。
「その偏りを失くすためには、誰もが山の頂上を経験するためには、最悪の不幸から最高の幸せをリレーのように全員が順番にバトンタッチしていけばいいと思うの。そうすれば誰もが幸福で誰もが不幸になれる。みんなが均一的に真の意味で平等になれると思わない?」
まじまじと真理の顔を見つめる。
「そんなことが実現できるわけないだろ。真壁教授に誘拐されて頭がおかしくなったのか」
「あら、失礼ね。あたしは大まじめに言っているのだけれど。だいたいあたしは誘拐されたわけじゃない。最初から彼の下にいたの。真壁教授は、本当の意味であたしの“父”だからね」
父? ってことは、二業は真壁教授の娘? あいつ、実の娘を実験体に使ったのか。
衝撃の事実を聞いて、真理は一瞬思考が停止した。
「実現は可能だよ。この土地があればね。カナラの意識とリンクさせ、そこから幸福と不幸の入れ替りの脅迫観念を皆に植え付ける。彼女が昔、蓮見千花にやったことを参考にして“感染する意識”を作れば、倍々ゲームでその自覚を持った人間は増加していく。概念上はあたしの望みを叶えれると思わない?」
こいつ、本気なのか?
二業の声には感情が籠っていない。これまでの実験体たちのように強い気持ちをまったく感じないのだ。それが本心なのか、単なる戯言なのかの判断ができなかった。
「何でそんなこと……?」
「だって許せないもの。あたしだけが不幸な目にあって、あたしだけがマイナスを背負い込むなんておかしいでしょ。誰もが等しく他人の気持ちを近いし、苦痛や喜びを共有する。そんな世界を見てみたかった。――そんな面白い光景を見たかった」
最後の台詞を放つときだけ、二業の口元に笑みがこぼれた。
「希悦に協力し一巳くんと再会したとき、あたしは思ったの。彼ならもっとこの世界を面白くできる。彼ならもっとあたしを楽しませてくれるって。少々純粋過ぎる面もあったけれど、まあそれはそれで彼の魅力だしね」
そこで希悦の頬がぴくりと動いた。
「何を言っている二業。一業との協力はここまでだったはずだ。あいつの役目は真壁教授の無効化と事件の隠蔽。それが達成されれば、もう会うことはないだろう」
「それはあなたの予定しょ。確かに最初はそうだったけれど、気が変わったの。だってつまらないんだもの。あなたの目的は」
「……何だと?」
「超能力者の認識によって土地を利用し、莫大な利益と恩恵を手に入れる。それがあなたの望みだったと思うのだけれど、そんなこと、別にあなたがいなくても誰でもできるもの。あえてあなたという個人にこだわる必要はない。だったら、一巳くんについていくほうがずっと面白そうじゃない?」
二業は胡坐をかいたまま一業のように両手の指を合わせた。
「一巳くんの願いが叶えば、もうあなたのメンテナンスは必要なくなる。つまり、あなたに存在価値はないの希悦。……そうだ真理。あなた、ずっとこの男に復讐する機会を探していたんでしょう?」
部屋の温度が急激に上昇する。瞬く間に呼吸が苦しくなった。
「お前、何を……!」
口を半開きにして壁際に下がる希悦。彼は二業に向かって何か言おうとしたのだが――
眼が。
皮膚が。
髪の毛が。
空気を吹き込まれた風船のように小さく膨らみそして弾けた。
火種なんてどこにもなかった。
何の予備動作もなかった。
にも関わらず、割れた細胞から立ち上がった炎は一瞬にして彼の全身を覆いつくし、そして食った。
希悦はクラクションのような甲高い声で二業の名前を叫び、彼女の背中に腕を伸ばす。しかし近づいた腕は彼女の服に触れることすらできず停止した。いや、停止させられた。
暴れ狂う分子の動きが強制的に停止させられそうになり、行き場を失った勢いが暴発する。一瞬にして希悦の腕は砕け散り、赤黒い肉の飛沫を飛ばした。
なっ――……!
感想も何もない。ただ凄まじい光景に驚くことしかできなかった。
希悦はそれでも何か言おうとしていたようだったが、既に呼吸器官を燃やされているためか、ろくに声を出すこともできない。そのまま何をすることもなく、あっさりと全身を燃やし尽くされて息を引き取った。
背後が静かになると、彼の亡骸を一度たりとも振り返ることはなく、二業は天真爛漫な笑顔を見せた。
「さ、これであたしたちが敵対する理由はなくなったね。真理」
2
ここで殺す。
そう、初めから決めていたのだろう。
僕の姿を見た一業は、何の言葉も発しなかった。
暗闇の中月明かりに照らされた千花を背にして、右手を横に伸ばす。
光源がないからこそその色の移り変わりが顕著に見え、辛うじて彼の手の周囲の空間がノックバックしているのがわかった。
――まずい、真っ向から来られたら勝ち目がない。
僕はすぐに横へ移動した。一業の視線から逃れるように円柱となっている内側の壁際に身を隠す。
彼は追うのは面倒だと思ったのか、その場に立ったまま現象を起こしかけていた腕を下ろした。
「千花、聞こえてる? 返事をしてくれ」
壁に隠れたまま、窓際で寝ている彼女に声をかける。しかし当然のように反応はなかった。
千花。起きてくれ。僕の声を聞いてくれ……!
頭の中で感じる彼女の存在に何度も呼びかけてみる。声をかけるたびに一瞬存在感は大きくなるものの、それだけだ。
時間を、稼がないと……!
僕は目の前にあった整列用のポールを手に取り、一業に向かって投げつけた。
勢いよく宙を舞ったポールは一業の胸を透き通るように通り越し、窓の下の壁に当たる。金属が床に衝突する空しい音が数度展望台の中に響いた。
やっぱりだめか。三業と同じ現象だけど、何かが違う。一体どうなってるんだ……?
三業が物を通過させるときは、三業自身にも物にも何の変化もなくただ物だけが後方へと移動していた。だが一業の場合は、接触部の空間が歪みポールの姿が霞んでから背後でまた濃くなった。恐らく根本的に三業の現象とは原理が違うはずだ。彼が現象を起こすたびにかすかに見える周囲の空間のノックバック。四業の言葉を借りれば、あれは既存の物理を操っているのではなく、存在に干渉している最上位の現象ということになるはず。
限定的な時間の操作? それとも空間移動?
これまでに彼が起こした現象を思い返せば、ありえない話ではない。とにかくどういった現象か判明するまでは、絶対に近づくべきではないと思った。
じりっと足を動かしながら一業の様子を確認する。彼は先ほどと全く同じ位置で、つまならそうに僕の隠れている位置を眺めていた。
……完全に舐めてる。
一業としてはどのような過程を辿ろうと、最後に僕を殺せさえすればそれでいいのだ。僕の“蟲食い”は近距離でしか効果を発揮できない。千花とカナラを使った一業の計画にどれだけの時間がかかるかわわからないけれど、こちらとしては早く阻止するに越したことはない。だったら黙って待っていれば必ず僕は彼の目の前に現れる。そのときに一撃を与ええればいいと、そういう考えなのだろう。
確かに僕はこれまで一業のいいように動かされてきた。その結果として軽く見られてしまっていることは理解できる。けれど、そう何度も都合よくいかせるつもりはない。
僕は隠れながら右に移動し、お土産などを売るための売店に入った。品物は全て収納されなくなっていいたが、飲料水などの入った冷蔵庫だけはそのまま鍵をかけた状態で置いてあった。
“蟲食い”でこっそり鍵を破壊し、中のペットボトルを一本取る。蓋を外し逆手に持つと、僕はそれを一業に向かって投げた。
飛び散った水とペットボトルは一業と接触した部位から透けその背後へと落ちる。先ほどと全く同じ光景。繰り返しでしかない行為だったが、じっと目を凝らしていた僕は、そのときある違和感に気が付いた。
どうなってるんだ? 今確かに水の反射が……。
水自体が一業の体を通り抜けたのなら、水に反射している光は流動したまま反対側に落ちるはずである。だが今目にした水は、通り抜ける直前のまま光の動きが固定されて後ろに落ちた。まるで写真や絵のように。
設置されていた売店宣伝用の旗を手に取り、そこから布を外し手に丸める。
売店から飛び出すと同時に、布とそれを支えていた金属製の棒を一業に向かって投げつけた。
一業はたいして意に介した様子もなくそのどちらも背後へ通過させる。棒は先ほどのポールと同様地面に転がり、布は柔らかに彼の足元に着地した。
やっぱり変だ。一業と接触した部分の布は確かに彼の体を通過した。しかしそれは接触部だけの話だ。接触部以外の布は、通過している部位が存在していないように、まるでそこだけ穴が開いているかのようにこちら側へとはためいた。
通り抜けているように見えているだけで実際は消えている? もしかしたら接触の瞬間だけその場所の物体の存在が無くなっているのかもしれない。だとしたら、対象を一時的に消す力ってことなのか?
まだ、断定はできなかったが、可能性は大いになる。
一業の視線がこちらへ向くと同時に、僕は前に飛び出し、手に乗せた“蟲食い”で右手のガラスを押し出すように砕いた。
無数の半透明の刃はさながらガラスの散弾だ。飛び散ったガラスの多くは一業の体を通過したが、その時にも妙な現象が見えた。
月明かりに照らされていない場所を通ったガラスの刃だけ、何故か一業と接触しても真黒なまま消え、彼の背後で光を反射させたのだ。
……――そうか。
三つの検証によって、己の推測を事実と結論づける。
僕はそのまま迷いなく一業へ突っ込んだ。
水も、ガラスも、元の状態のまま光に変換されたんだ。だから同じ映像のまま背後へ落ち、光が無い場所を通ったガラスは暗い映像のまま体を貫通した。つまり一業の現象は、幻を現実にするか、現実を幻に変換するような力……!
近づく僕に向かって、一業は後退しつつ数個のガラス片を投げ返した。
僕の目と鼻の先でその数が倍になり、僕が放ったときと同様のガラスの雨が押し寄せる。
“蟲食い”でそれを吹き飛ばし、地面に押しのけたガラスを確認すると、予想通りその数は一業が投げたときと同数に戻っていた。
ずっと効果を与えられるわけじゃない。きっと有効時間や有効範囲がある。
先ほど投げた布を拾いもう一度前に投げる。同時に二つのガラス片を彼の頭上に放った。
足を彼の足元に滑り込ませ、右の拳とその肘に“蟲食い”を発生させる。
物体を認識する情報源は視界のはず。その外からの攻撃なら幻には変換できない。
上からガラスが脳天めがけて落下し、前方からは見えない二連“蟲食い”が迫る。これでダメージを与えられないわけがないと僕は確信した。だが――
落下したガラスは水のように一業の体を流れ落ち、布越しに放った二つの“蟲食い”は空気を吹き飛ばしたのかと錯覚するほど何の手ごたえもなかった。
布が下にずれ、一業の顔が目の前に出る。赤い目が冷たく僕の顔を捕らえた。
掴まれているのか布の下にある腕がピクリとも動かない。一瞬にして体が肌寒いものに包まれる。
――そんな。幻覚なら“蟲食い”で破壊できるはずだ。幻覚という存在がそこにあるのなら、消せないわけはないのに……。
「どうやら勘違いしているみたいだな。ぼくの現象はお前の思っているようなものじゃない」
ここに来て初めて一業が口を開いた。ぐっと握られた手に力が籠る。
「ぼくは“存在を塗り替える”ことができるんだ」
言い終わると同時に、僕の腹部に何かが押し込まれるような感覚が走る。
温かくなっていく肌。
じわじわと広がっていく痛み。
抜ける体の力。
顎をわずかに下げると、白い指が僕の体を貫いていた。
3
焼け焦げた希悦の遺体はマネキンに混じるように背後の壁を滑り落ちた。
彼の体を蝕んでいた火は綺麗さっぱり姿を消し、湯気のような白い煙だけがわずかにその黒ずんだ皮膚から立ち上っている。
「な、何してんだお前……!」
希悦は二業の仲間だったはずだ。それを、二業は実にあっさり殺してしまった。全く持って意味がわからない。
「あなたはこの男を恨んでいたんでしょ。お父さんの仇を討ちたかったから追っていた。だからカナラに協力した。この男さえいなければ、あなたがあたしと争う必要はないと思ったのだけれど。あ、心配しないで。お父さんはカナラの力を使えば簡単に無実に変えることができるから」
自分の短い髪を指でくるくると遊びながら、二業は実に可愛らしい笑みを浮かべた。こんな状況でさえなければきっと見惚れていたことだろう。
煙を上げている希悦の死体を見る。今度は本当に死んでいるようだった。
こんな、あっさり……。
彼を追い詰めるためだけに自分は生きてきた。それだけが希望だった。死を願ったことだってもちろんある。だがいざ目の前でその最期を目にすると、拍子抜けするくらい何の感情も沸かなかった。
「さあ真理。こっちに来てお話ししましょう。あたしはできればあなたを殺したくはないの。希悦がいないのだから、もう争う必要はないじゃない」
ぱんぱんと自分の膝を叩きながら手招きをする二業。その音で、真理はようやく我に返った。絞り出すように声を出す。
「……ふざけるなよ。だったらカナラを返せ」
「それが無理であることは理解していると思うのだけれど。彼女はあたしと一巳くんの計画に必要だもの。まあ、ある程度役目を終えたらあなたに貸し出すくらいはできるかもしれないかもね」
「貸し出す?」
真理は強く二業を睨みつけた。
結局こいつらも教授と同じだ。カナラを、あいつをただの道具だとしか考えてない。
いいように利用して、使って、必要がなくなったら希悦のように殺す。それだけの存在に過ぎないのだ。
これまでカナラは散々追いかけまわされ狙われてきた。ただの物として扱われてきた。もうこれ以上、彼女をそんな目に遭わせるつもりなど、真理にはなかった。
「お前だって俺の親父をはめた一人だろ。今さら仲良くなんてできるか。……そいつは俺にとって大切な人間なんだ。――返してもらうぞ」
胸の前に上げた指の骨をぽきりと鳴らし、“亀裂”の余波を周囲に広げる。
真理の決意を読み取った二業は、心底落胆したように息を吐いた。
「そう。残念。じゃあいいよ。好きにしなさい。どうせ、無駄だもの」
膝を立て重い腰を上げる。彼女が腕を横に下ろすと同時に、真理は前に飛び出した。
――最初に全力の“亀裂”をぶち込んで、怯ませる。その間にカナラに近づければ、あいつの拘束を解くことができる。
自分が無謀な人間であることは自覚しているが、それでも二業との力量の差は十分に読み取れる。真理は最初からカナラの救出のみに目的を絞って動こくつもりだった。
走りながら右手を伸ばし“亀裂”を前に放つ。三業を倒したときのように周囲にほとばしるそれはまさに色のない雷だった。
縦横無尽に駆け巡る真理の“亀裂”を目にし、二業は興味深そうに瞬きをした。
「へえ、いつの間にそんなことまで……」
言い終わる前に“亀裂”の端が到達する。二業の体が裂けると真理が覚悟を決めた途端――。
二業の指が鋭く鳴った。
立ち上るのは灼熱の業火。それは迫る亀裂を素通りし、一直線に真理の身体へ飛来した。
――なっ、“亀裂”と接触したのに消えない?
目の前の光景に驚愕しつつも、体は反射的に左へ飛ぶ。足が離れた瞬間、その部分の床が荒い砂で削られたように黒焦げになって抉れた。
地面に手を突きながら惨状を確認する。ショックは隠しきれなかった。
――俺の現象は“力を無効化する力”だ。それに触れて影響がないなんてありえない。どういう手を使ったんだ?
上方から熊の手のような炎が降ぐのを見て、真理は再び“亀裂”を放った。しかし炎の行進は止まらない。
舌打ちし後方へ逃げる。目の前で広がった炎に焼かれて、左右の段ボールが屑紙のように燃え上がった。
二業は逃げまどう真理を見て、中途半端なジョークを聞いたときのような半端な笑い声を漏らした。
「無駄だよ。真理くんの現象はあたしの現象とすごく相性が悪いの。どうあがいても勝ち目なんてないんだから。教えてあげようか。あたしの現象」
二業が手を握りしめると、のたうち回っていた炎の帯がぱったりと姿を消す。あちらこちらに飛び火していたおかげで、部屋ところどころから煙が上がっていた。
「あたしは火を作り出しているわけでも、操っているわけでもないよ。あたしが動かしているのは大気中の“分子”。その振動を自由に変動させることのできる“場”を作り出すことがあたしの現象なの。真理くんの現象の精度じゃ分子間力を打ち消すことはできても、分子の振動自体を止めることはできない。この意味わかるでしょ? つまりあなたはあたしの攻撃を何一つ防ぐことはできないってこと」
それを聞いて、真理は思わず苦笑いを浮かべた。
……全く持って嫌になる。そういう意味もあって、穿を上に行かせたのか。
二業にとって今の自分はそこら辺を歩いている人間と大差がない。挑んでもなぶり殺しに遭うだけだ。状況の最悪さに、何故かおかしさがこみ上げる。
遠距離じゃあどうにもならないか。こうなったら直接“亀裂”をぶち込んで動きを止めるしかねえな。あいつだって肉体的には普通の人間のはずだ。近づくことさえできればまだチャンスはある。
真理は足に力を籠めると、短距離走の選手のごとく前傾に体を投げた。
二業の現象は強力だが、体から離れた場所にそれを発生させる以上、位置認識と現象の誘導は“亀裂”よりも僅かに時間がかかるはず。上手く狙いを逸らしながら移動すれば――
「だから、あたしが発生させているのは力じゃなくて“場”だって言ってるでしょ。熱は分子の振動の度合いだからね。適当に激しく動かして発火点を超えさせれば、勝手に火がつくんだから。あたしにそんな細かい精度は必要ないんだって」
二業の目と鼻の先で顔面が急に熱くなる。手足が真っ赤に変色していた。
このまま突っ込めば指をかすらせることもできず、全身を焼き尽くされるだろう。一瞬にして体中の水分を蒸発させられるかもしれない。
二業は真理が炎の中に飛び込むのを確信していたようだったが、真理は熱を感じた刹那、足首を百八十度横にして体の向きを強引に変えた。最初からそうするつもりだったのだ。
視界いっぱいにカナラの寝顔が飛び込んでくる。
「あっ……!」
二業が間抜けな声を出す。それを背中で聞きながらカナラの体を拘束している鎖に手を当てた。
――炎だろうが分子だろうが知るか。こっちは最初からカナラを助けることしか考えてないんだ!
指に力を込め半透明の電流がほとばしりを開始する。
柱を失った家屋のように、鎖にひびが広がり始めたところで、――腕の皮膚が膨張し弾けた。
遅れて湧き上がるいくつもの赤い刃。
燃え上がり炭化していく自分の腕を見て、真理は悲鳴を上げた。
消えるわけがないのに左手でそれを振り払おうとする。赤い刃はそのたびに身をひるがえし、より深く真理の肉に沈み込んだ。
くそ、せめてカナラだけでも……!
恐怖の中辛うじて取り戻した理性によって、鎖に指を伸ばすものの、目の前に立ち上った火柱によって態勢を崩し立ち台から転げ落ちる。
ごろごろと体をまわしながら腕の火を必死に消化させようとしていると、ふっと、それが掻き消えた。
過呼吸のように胸を上下させ、汗だらけの顔を見せている真理。そんな彼の顔を見て、二業は悪戯っ子に困らされた保育士のような優しい表情を浮かべた。
「だ、か、らぁー。あなたに勝ち目はないんだって真理。まだわからないの?」
目の前のマネキンの肩に両手を絡ませながら、身を寄りかからせる二業。どことなく色っぽい流し目だった。
自分の焦げた右手を見た真理は、流石に動揺を隠せなかった。
真黒だ。
焼き芋のようにただれた皮膚と黒ずんだ肉。痛みを感じないのが逆に恐ろしい。
魂が後ろに引き抜かれそうになりながらも、手を握ろうと力を籠める。するとゆっくりだが指が動いた。神経まではやられていないようだが、これではもう、右手は使い物にならないだろう。
左腕の全体で体を支え、顔を上げる。目が合った二業は嬉しそうに頬を緩ませた。
「ちょっと焼きすぎちゃったかな。まあ、大丈夫。腕が一本なくたって、あたしは真理のことを嫌いに
なったりはしないから」
俺は、だいぶお前が嫌になってたけどな……!
そんなことを毒づきながら、真理は膝を立てた。打撲のせいで強い痛みが走ったが、腕のダメージと比較すれば大したことはない。歯を食いしばりながら立ち上がる。酷い匂いが焼け焦げた腕から漂っていた。
「もう諦めたら? どう考えてもあなたがあたしに勝つことは不可能でしょ。生き残ることと、彼女のことを思えば、素直に下るのが身のためだじゃない?」
二業はマネキンの肩に肘を乗せ、頬杖をついた。
「このままいけば、あなたに未来はないんだよ? 父親は投獄され、母親は死に、あなた自身の社会的な地位も落とされた。大切な相手も今失おうとしている。……例えここから生き延びることができたとしても、もはやあなたに生きる希望はないでしょ。あたしたちと一緒にくれば、そんな悩みなんて全てなかったことにできる。苦しみも、後悔も、絶望も、全て受け入れずに済む。どちらが得かは考えるまでもないと思うのだけれど」
「……勝手なことを言うな。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、これは俺が生きてきた事実なんだ。これが俺の人生だった。俺は俺の人生に不満はあっても後悔はない。誰に何を言われようと、俺は俺の人生を誇りに思っている。お前に余計なおっせかいや勝手な同情をもらういわれなんかないんだよ」
「ふーん。難易度の高いゲームが好きなタイプなのかな。まあ、いいけれど。どちらにせよ、あなたの意思なんて関係ないんだもの。そうだね。とりあえず今の記憶は全部消して、あたしの執事として更生させようかな。何かそういうの向いてそうに見えるもの」
じんわりと、腕に痛みが宿っていく。まだ薄っすらとした痛みだったが、これが完全になったときのことを考えると、実に恐ろしかった。
真理は右腕の付け根を左手で強く握りしめ、刺すように二業を見返した。
相手の前で頭を下げるのは、視線を外すのは癪だった。例え負けると分かっていても、どれだけ怖くても、意思だけは曲げたくなかった。
「だったら気を付けろよ。いつか記憶がもどったら、背後からお前を刺すかもしれないぞ」
「大丈夫。あなたの記憶が戻ることなんて、無いから」
二業が指を広げる。
彼女が寄りかかっているマネキンの腹部がどろどろに溶け、そこから蛇のように長い炎の塊が這い出てきた。
炎はとぐろを描きながら動き回り、真理の周囲を囲い込む。
すぐに息が苦しくなり、眩暈がした。大量の酸素が一気に消費されていくのがわかる。
抜け出そうにも“亀裂”で吹き飛ばすことはできない。かといって生身であれに接触すれば、この右手の二の舞だ。どうすることもできなかった。
――カナラ、目を覚ましてくれ……頼む。
辛うじて見える彼女の姿に呼びかけるも、効果はない。穿とは違って自分には何の精神的なリンクもないのだ。いくら彼女が周囲の精神を読み取れるとはいっても、意識を失っている状態では意味がないだろう。
視界が揺れ倒れそうになる。ますます強くなってきた腕の痛みで、何とか持ちこたえた。
――か、なら――
げろを吐きそうなほどの気分の悪さを感じながらも、最後まで彼女の姿を視界に収めようとする。それが今できる精一杯の抵抗だった。
せめて、一発くらい……――。
炎を突破することはできないが、攻撃を防げないのは二業も同じだ。死ぬ気で力を絞り出せば、あそこに立っている二業に“亀裂”が届くかもしれない。
そんな、無茶な妄想を真理が抱き始めたとき、――突然、周囲の全てが重くなった。
物理的にではない。精神的、空間的な感覚として、世界が重くなったのだ。
――な、何だ? この物凄い威圧感は……?
気圧されたように周囲を囲んでいた炎が弱まる。
鎖に捕らわれていたカナラの体が激しく痙攣し、金属の摩擦音が響き渡る。彼女の身体を強烈な濁流が流れているような動きだった。
炎の隙間から二業の楽しそうな声が聞こえた。
「始まったみたいだね」
4
腹に刺さった白い指を見下ろしながら、僕は歴然とした力の差を認識させられた。
こいつは最初から僕のことなど敵視してもいなかったのだ。
僕が必死に考察し、現象を解き明かそうとしていたことも、こいつは全て理解したうえで放って置いた。
無駄だとわかっていたから。
勝てると知っていたから。
例え僕が何をしようと、現象の正体を特定しようと、何の障害にもならないと、そう確信していたのだ。
彼は自身の現象を“存在を塗り替える力”だと説明した。おそらく触れた物全てを一時的に別の何かに変換させることができるのだろう。四業の血液を毒化しショック死させたように。カナラの両足が吹き飛んだという現実に変換したときのように。
すでに一業の指は僕の体内に侵入している。今ならどんな方法でも僕を殺すことができるはずだ。
僕は動くことが出来なかった。動けばそれが自分の命の終わりだと十二分に実感していたから。
歯を食いしばりながら恐れを振り払い一業の目を見つめた。どうしても確認しなければならないことがあった。
「お前が瑞樹さんを殺したのか?」
「ああ。殺した」
一業はすぐに返答した。
「どうしてだよ。何で瑞樹さんを殺す必要があった。あの子はカナラと何の関係もない、普通の子だったのに」
時間稼ぎの意味も込めって放った僕の質問に、一業は真面目に答えてくれた。
「八業を殺し終え、一息つこうと公園で本を読んでいた時、ぼくは目の前の海に橋から飛び込もうとしている瑞樹の姿を発見した。最初は何も思っていなかったが、彼女が死ねばその公園に人が集まることに気が付き、仕方がなく助けることにした。そこはぼくにとってひと気のないお気に入りの読書スポットだったんでね」
「瑞樹さんが死のうとしてた? そんな馬鹿な。何で彼女が……」
「見せかけだけで判断するな。彼女は彼女で家庭に大きな問題を抱えていた。人の不幸というもは、他人には理解できないものだからな」
赤い目が侵入するように僕の瞳を捕らえ続ける。心が見透かされている気分だった。
「彼女はぼくがいなくなればまた飛び込むことが目に見えていたから、理論的にその行為の無駄さを説明すると、疲れたように死を諦めた。
ぼくはそれでまた読書に戻ろうとしたんだが、彼女はなぜかぼくについてきた。助けたことで興味を持たれてしまったのだろう。
前言の通り、ここで彼女を殺すわけにはいかない。記憶を操作しようにも、その時カナラは文化センターの力をリンクされ真町全体に影響を与えさせたことで疲労しきっていた。ぼくは諦めて彼女と会話をつづけ、満足するまで付き合ってあげた。
会話の中、どうせ死ぬのならぼくの役に立ってくれないかと提案すると、彼女はなぜか嬉しそうに笑った。一体どう受け取ったのだろうか。
ぼくは何度か彼女と行動を共にしこの文化センターへと誘導した。ぼくがこの場の力を使って行おうとしていることの実験に使おうと思った。結果としてそれは失敗し、彼女は精神にカナラの幻影を抱いたまま逃亡した。
このまま逃げのびればぼくの情報が露見する。囮に使えそうと考えもしたんだが、ちょうどそのときお前が町にきたからな。だから、彼女は削除することにした」
何の感情もなく、教科書を読むように事実を説明する一業。僕を怒らせるためというよりは、本気で瑞樹さんの死に関心がないようだった。
あまりに淡々と述べられた言葉に、僕は愕然とした。
何だよそれ。瑞樹さんがそんな……。じゃあ僕がこの町に来なければ、一業は彼女を利用する気だったって言うのか。
自分のせいで瑞樹が死んでしまったと悔いるつもりはない。だが、どことなく歯痒い気持ちになった。
「誤解するなよ。彼女はぼくに会わなければもともと死んでいた身だ。その時期が変動しただけ。何も特別に思うことじゃない。――……人は誰だっていつかは必ず死ぬんだ。ぼくも、そしてお前もな」
一業の赤い目に殺意が宿り、彼の指先がわずかに動く。僕は思わず死を覚悟した。
この窮地を切り抜ける策はまだ浮かんでいない。ここで現象を起こされれば間違いなく僕は死ぬ。
せめて相打ちに持ち込めばまだ千花は助かるかもしれない。
そう思って腕を上げようとしたのだが、一業の目は全てを見透かしたように全くぶれなかった。
腕に力を籠めるよりも早く、腹部に刺さった指周りの空間がノックバックする。
僕は思わず怯えた犬のように身構えてしまった。
そのとき、妙な現象が起こった。
一業の背後で横たわっていた千花の体が大きく痙攣し始めたのだ。がたがたと、全身が上下に揺れ背中が仰け反っている。
指の力が抜け、一業の注意が背後に向く。僕はとっさに彼の手首を押さえ、痛みなどお構いなしに引き抜いた。
そのまま数歩全力で後ろに下がると、点々とした血の跡が地面の上に列をなした。
一業は気にする素振りも見せず、彼女のほうを向いている。
――……千花!? どうしたんだ?
彼女の様子は明らかにおかしい。注意を逸らしたことを考えると、一業の手による現象でもないようだ。
腹部を押さえながら目を凝らしていると、突如、全身に重厚な何かが覆いかぶさるような気配を感じた。肌という肌にねばりつくような汚感が走る。コルタールと針で満たされたプールに飛び込めでもすれば、きっとこの感覚を理解できるかもしれない。
あまりに不快なその空気に気圧されている僕とは裏腹に、一業は千花を見て僅かに口元を緩ませた。
「ようやく、ポンプが仕事をし始めたか」
心地よさそうに手のひらを上に向けてそれを二度、握っては開く。まるで僕の目には映らない何かの感触を楽しんでいるかのようだった。
周囲に溢れる威圧感は留まることを知らず怒涛のごとく濃さを増していく。それにつれて、千花の痙攣も激しくなった。
彼女が壊されると、僕は本能的に感じた。それほど周囲から感じる威圧感は異常だった。
――千花……!
頭の中に感じる彼女の存在は、絶叫を上げていた。全身を絶え間なく剣で貫かれているような恐ろしい苦しみを感じる。
四の五言っている場合じゃない。こんなの、一分だって持つとは思えない。
全神経を目と耳に集中させた。
一業の現象の打開策なんて浮かばなかったが、手足を捨てる覚悟で連続的に“蟲食い”を打ち込めば、一撃くらいは当てることが出来るかもしれない。
いざ前に出ようとすると、恐怖心で身がすくみそうになったが、感じる千花の苦痛がそれを押し留めた。
爪を掌に食い込ませ、めいいっぱい左足を前に滑らせる。一個の矢になったつもりで右手に乗せた“蟲食い”を放った。
一業は千花に目を向けたまま、軽く左手の指を上げた。
途端、右手が強固な何かと衝突し、それを破壊する。一瞬だけ、半透明の壁のようなものが見えた。
目の前の空気を鉄か何かに変換したのか……!?
もはや呼吸すら止め続けざまに左手の“蟲食い”を振り下ろす。一業は煩わしそうに腕を横なぎにし、僕の体を押し飛ばした。
風圧を暴流にでも変換したのか、洪水に飲まれた犬のようになすすべもなくエスカレーターの前まで戻される。僕の体を壁にぶち当てたところで、半透明の波は消えた。
触れることすら……――
“蟲食い”は一業の現象を破壊することができるが、現象を発生させられるのは一瞬に過ぎない。四業を殺したときのことを考えれば、一業の“塗り替え”は恐らく数十秒は持つ。カナラに対するときと同様、続けざまに攻撃されれば僕は手も足も出なかった。
一業は千花が寝かされている窓辺に歩み寄ると、そっと彼女の頭に手を近づけた。
「や、めろ!」
僕の声が展望台の中に響き渡る。
一業は気にせず彼女の額に指を置いた。
「……やっと、ぼくの願いが叶う」
かすかに安堵の籠った声で、短くそう呟いた。
周囲に溢れていた得体の知れない威圧感が全て千花の周りに集約していく。彼女の息遣いに呼応するようにその威圧感が前後した。
「や、めろ……!」
背中をぶつけた衝撃で体がしびれて動けない。腹部を押さえながら僕は一業の動きを見守ることしかできなかった。
千花の口からは血が垂れはじめ、その顔色は蒼白になっている。まるで死人のような姿だった。
千花の存在を通して一業の意識が伝わってくる。
これは喜びだろうか。
彼の表情は変わらなかったが、感じる思いの強さは桁外れだった。
前後していた周囲の威圧感が一気に渦を巻き千花の体を経由して逆流し始めた。
見えるわけではない。けれど僕の精神が確固たる存在としてその“何か”を認識していた。
それは脈打つように広がっていき、展望台を中心に霧吹きのように明社町全域へ伸びていく。
意識の暴力。
強い感情の洪水。
僕は自分の精神が一業の意識に犯され、混じり合っていくのを感じた。
5
鎖のぶつかり合う鋭い音を響かせ、カナラの体が何度も前後に飛び跳ねる。
理解できないほどの強烈な威圧感が、この土地に停滞していた“何か”が、雪崩込むように彼女の身体に侵入し、上方へと移動しているのがわかった。
見えなくても、聞こえなくても、触れなくても、それがどれだけまずいものなのかだけは感じ取ることができる。
あまりの激しさに意識が戻ったようだ。カナラは聞き取れない何かを叫び涙を流した。
「抵抗しても無駄だよ。あなたの精神は一巳くんに拘束されているもの。彼を殺さない限り、それが解けることはない。今のあなたは彼の体の一部に過ぎないのだから」
どれほどの苦しみなのだろうか。
泣き叫ぶカナラの表情は見ているこっちまで辛くなるような壮絶なものだった。
真理は楽しそうにカナラを眺めている二業に向かって怒鳴り声を上げた。
「やめろ! それ以上やったら、カナラが死んじまう……!」
「そんな簡単には死なないから大丈夫だよ。それにあたしたちの目的の成就にはそれほど時間はかからない。その間だけ生きていれば、問題はないのだから」
強力な超能力を持つカナラの命を使い切ってまで、実現したいことがあるらしい。笑みを浮かべていたが、二業の目の奥に浮かんでいる決意は本物のようだった。
意思表示をするように、真理の周囲を囲んでいた炎の輪が狭くなる。もはや目を開けることすら叶わなかった。
――駄目だ。このままじゃどっち道やられる。もう、覚悟を決めるしかない。
真理は右足に現象を乗せ、強く地面を蹴った。
二業の炎を消すことはできないが、それの依代となっている床なら破壊することができる。半透明の雷は地面の上を滑走し、分解した。
クレータのように真理の足元が沈み込み、囲んでいた炎が消える。
――今だ!
真理は目の前の床に足を乗せ、そこから飛び出ようとした。だが一歩炎の跡地へ侵入した途端、全身の皮膚が悲鳴を上げ弾けた。
「何度も言わせないでよ。炎はただの余剰効果。空気の酸化反応に過ぎない。あたしの現象は“分子の振動を操る場”を形成することなんだから。あなた、今自分からミキサーに突っ込んだようなものだよ」
呆れたように鼻を掻く二業。しかしその顔はすぐに驚きの表情へと変わった。
全身をぼろぼろにしながらも、血をにじませながらも、真理は強引にその抵抗を突破したのだ。まさに鬼気迫る姿だった。
二業は理解できないものを目にしたように慌てて次の炎を真理の眼前に飛ばす。真理は天井を支えるための円柱の陰に隠れ、それを回避した。
鉄のやすりを高速で行き来させたような不協和音が鳴り、コンクリートの円柱の側面が燃えて割れる。その隙に真理はさらに前へと駆けだした。
二業が再び炎の壁を作り出すと、真理は棚を足蹴にしそれを踏み越え宙に舞った。背後で棚や段ボールが燃え上がるも気にせず腕を前にかざす。
だがその腕もすぐに真下から立ち上る炎によって覆われる。
真理は構わず“亀裂”を前に放った。無数の半透明の雷が壁や天井を伝って突き進み、大量の粉塵が拡散した。
「目隠しのつもり?」
二業は手を横なぎに払い、真理のいる場所に確実に炎の雨を打ち込む。
ぎりぎりそれを回避した真理は、両手に抱えていたものを二業に向かって投げた。躊躇なく、二業はそれを現象で破壊する。
気づいたときにはすでに遅かった。真理が投げた物の姿を目にした二業は、思わず舌打ちした。
内部の化合物を強制的に振動させられた消火器は、二業の目と鼻の先で爆発し、無数の金属片をまき散らした。
反射的に顔を腕で隠し守ろうとする二業。真理はその間に一気に距離を詰めた。
「この、調子に――……!」
二業の放った炎は瞬く間に真理へと迫ったが、直前で勢いをなくし花火のような弱いものに変化した。消火器からあふれた二酸化炭素によって、炎の材料となる酸素の供給を妨害されたのだ。
もちろんそれだけでは二業の攻撃を完全に無効化することはできない。彼女の起こした分子の振動は継続して突き進み真理の体を削ったが、炎がない分その痛みに対する視覚的な恐怖心は大きく薄れた。
真理は自分の痛みなど一切気にせず、ただカナラを目指して突き進んだ。
もう一度、瞳の中に彼女の顔が移り込む。
「カナラ――!」
真理は彼女の意識を引き上げるように、大きな声でそう叫んだ。
カナラは汗と涙混じりの顔で真理を見返すと、ただ一言声を上げた。
「助けて……しん、り……!」
――ああ、わかってるよ。
二業が飛ばした炎が左足に命中し皮膚と筋肉を削られていいく。しかしそんなことなど一切構わないように、真理は“亀裂”でカナラを拘束していた鎖を破壊した。
いくつもの金属の輪が飛び散り、カナラの体がこちらに倒れ込む。彼女を巻き添えにしてしまうと思ったのか二業は慌てて炎の発生を止めた。
焼けただれた腕にカナラを抱きながら、真理は穏やかな表情で彼女の顔を見た。
カナラは怒ったような照れたような表情でこちらを見上げ、口を開けようとしたのだが、突然我に返ったように大きな悲鳴を上げた。腕の中で再び彼女の身体が暴れる。
「な、何だ? 拘束は解いたぞ……!?」
「馬鹿だなぁ。一巳くんの拘束は肉体に対してじゃない。精神へのものなんだよ。鎖を外そうと現状は何も変わらない。助けるには彼を殺すか、カナラをここから遠く離れた場所に連れ出すしかないの」
体にかかった消火器の白い粉を振り落としながら、二業は諭すようにそう言った。
焼かれた足の痛みで思わずバランスが崩れる。真理はカナラを抱いたまま後ろに倒れてしまった。
「カナラ、しっかりしろ! おいっ……!」
腕の中で暴れるカナラを必死に抑え、何とかして落ち着けようとするもまったく上手くいかない。彼女の爪が首元を割き、小さな赤い線が出来た。
「頼むよカナラ。しっかりしてくれ。お前に死なれたら俺は……!」
苦しむ彼女の顔を見ているうちに、いつの間にか真理の目にも温かいものが浮かび始めていた。それはすっと頬を流れ、顎を伝っていく。
「そろそろ上でも認識が始まったころかな。ちゃんとそれまでもてばいいんだけれど」
倒れた邪魔なマネキンたちを蹴り飛ばし、二業が天井を見上げた。
真理はカナラの虚ろな目を強く見つめた。
――俺はお前が居たから戦うことができた。親父の敵を追いかけることができた。諦めずに生きてこれたんだ。お前が居たから……全部、全部お前のおかげなんだよ。カナラ……!」
カナラの目がわずかに揺れる。
「死なせない。死なせないからな」
真理はそっと彼女の身体を床の上に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
不思議そうに二業がそれを見る。
「ここから離せばカナラは助かるんだな」
「ええ。もちろん。彼女を苦しめているのは、あくまでこの土地と一巳くんの精神干渉だからね。精神干渉のほうは無理でも、離れれば土地への認識は無くなるはずだもの」
そうか、だったら二業さえ倒せれば……!
真理は今だ煙を上げている靴で地面を踏みしめ、焼けただれた右手をぎゅっと握りしめた。
「まさか、あたしに勝つ気なの? あなたの現象は効果がないのに。正しく状況を把握できないことは、無謀を超えてただの馬鹿だと思うのだけれど」
「馬鹿でもなんでもやるしかないんだろ。だったらやるさ。それだけの話だ」
ごうっと、半透明の雷で目の前の煙を吹き飛ばす。
二業は呆れたように手を振った。
「まあ、別にいいけれど。それで真理が満足するならね。あたしにとってはどうせ一巳くんが実験を成功させるまでの暇つぶしに過ぎないことだもの。あなたがそれでいいのなら、好きにすればいいと思うよ。それが成功するかどうかはさておき」
――成功させるさ。二業に俺を殺すつもりはない。例え燃やされても、死ぬことだけはない。それだけが今の俺にある勝機なんだ。両手を使い物にならなくさせられようが、目玉を吹き飛ばされようが、意思さえあれば現象は起こせる。炎の痛みさえ耐えきれば、あいつに届くことはできる。
防いでいては、避けていては二業には近づけない。殺す気のない相手に対して殺される歩合まで踏み込んでの攻撃。防御を度外視した特攻による速攻。それが由一彼女に勝てる可能性のある戦法だった。
倒れているカナラを一度だけ見返す。
――親父のためだとか、復讐のためだとか、色々言っていたけどさ。結局俺がお前に協力した理由は、最初から一つしかなかったんだ。
あの時廃墟で見た彼女の姿。腕を差し出した自分に見せた、戸惑いの顔。こんなぼろぼろの薄汚れた男なのに、まるで迷子の女の子が父親に会えたときのように一瞬、彼女の目は輝いた。
真理はただ、その期待に答えたかった。
自分をまっすぐに見つけるその無垢な目を裏切りたくなかったのだ。
きっとあの時からすでに自分は、彼女にやられていたのだろう。
足の指先に力を籠める。既に感覚はなかったが、靴の形がそこれ歪んでいるので指はまだついているようだ。数歩歩くことくらいは出来そうだ。
腕も痛みさえ我慢すれば、まだ動かせないわけじゃない。
――これで最後だ。……これで……!
そう思い、死を覚悟して前に踏み出そうとしたところで、――いきなり足首を、下からがしっと掴まれた。




