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浄我の形(じょうがのかた)【改稿前】  作者: 砂上 巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
32/41

第三十二章 殺人マリー(前編)




 ぶつかり合った拳から感じる余波は、凄まじかった。

 相手の現象から漏れた切先があらゆる存在を削り取っていく。土も、空気も、肌も、視界も、意識さえも。

 目には見えない力の奔流。だがしかし、そこには確かに何かの衝突があった。

 黒板を鋭い爪で引っかいたときのような耳障りな不協和音が鳴り響き、大きな唸り声を上げる。

 それが大きく膨らみ弾けそうになった瞬間、視界が、意識の全てが真っ白に包まれた。



1


 頭に強い衝撃が走った。

 余所見をしていた僕は、何の抵抗もなくその場に倒れてしまった。緑色の校庭の石が手のひらに食い込み、鈍い痛みを膨らませる。

「おい、どこ見てんだよ。大丈夫か?」

 僕の頭にサッカーボールを命中させた石岡が、気まずそうに駆け寄ってくる。僕は頭をさすりながら彼を見上げた。

「悪い。ぼうっとしてた」

 立ち上がりながら体操着についた砂をほろう。僕の顔を見ると、彼はほっとしたように、おにぎりのような頭の中心を歪ませた。

「しっかりしろよ。また梅沢の尻でも見てたのか?」

「み、見てねえよ.ちょっと考え事してただけだ」

 僕は照れを隠すようにそうむきになって答えた。

 鈍い音があちらこちらで響き、二組の男子生徒たちがお互いにサッカーボールを蹴り合っている。校庭の反対側では同じクラスの女子たちも同様の行為をしていた。

 僕はそんな授業風景を眺め、心を落ち着かせながら、

「そろそろ付き合い始めて一ヶ月だからさ。何かプレゼントでもあげようと思ったんだ」

「何だよ。そんなことかよ。熱いねぇ。色男は」

 僕の返答を聞いた石岡は急につまらそうにそっぽを向き、ボールを膝の上に蹴り上げた。そのまま二、三回リフティングを繰り返す。

「何だよ。お前だって応援してくれてたじゃないか」

「付き合い始めるまではな。いざ成功してのろけ話を聞かされ続けると、何かむかつくわ」

「冷たいな。石岡は彼女に何かプレゼントとかしたことないの?」

「残念ながら俺は出来たこと無いんだよ。大体中二で居るほうがおかしいから。ませてるぞお前」

 軽く睨みつけるように、彼は僕の顔を一瞥いちべつした。

「幼稚園からの付き合いだし、それに付き合っているって言っても、一緒に出かけたりするだけで特にそれらしいことは何もしてないぜ。いたって健全な関係だよ」

「ふーん。あっそ」

 何が気に食わないのか、石岡は先ほどよりも高くボールを蹴り上げた。つられて目を上げると、宙に舞ったボールが太陽と重なって、小さな皆既日食のようにその輪郭が光って見えた。僕はまぶしさから目を細め、視線を地面に向けた。

「ま、せいぜい仲良くするんだな。若いうちはそうやってごっご遊びをしたいもんさ。どうせすぐに飽きて別の相手を探すんだ」

「お前は何歳なんだよ」

 石岡の妙に年を食ったような物言いに、僕は思わずそう笑って返した。

「さ、そろそろ離れようぜ。あんまりくっちゃべってると、クロ島にどやされる。ほら――マリー」

「マリーって呼ぶなよ」

 彼が出した短いパスに応じながら、僕は眉間に皺を寄せた。そう呼ばれるのは好きじゃなかった。

「だって真里しんりって言うより呼びやすいんだもん。しかたねえだろう。ほら離れた離れた」

 手のひらをぴろぴろと前後に動かし、憎らしい表情を浮かべる石岡。

 僕は諦めのため息を吐き、足元のボールを蹴り返した。


 放課後のホームルームが終わったので、教科書などを鞄にしまっていると、石岡やその他の友人たちがいつものように集まってきた。何やら石岡はいやらしい笑みを浮かべている。

 ボタンの前面を大きく開け、胸を見せびらかすようなスタイルを決めた斉藤が、机に手をつきながら言った。

「終わったな。カラオケ行こうぜ。カラオケ」

「悪い。今日はちょっと用事があるんだよ」

 僕がそう答えると、彼は僅かに不機嫌そうに表情を崩した。

「何だよマリー。昨日もそう言ってたじゃん。お前がいないと盛り上がんないんだけど」

「昨日はもともと田村たちとバスケの約束してたんだ。先に約束したほうを優先しないと悪いだろ。……明日なら大丈夫だけど」

「あしたぁ? 明日は俺部活あるもん。無理だよ」

「じゃあ、来週の月曜に行こう。来週だったらまだほとんど予定はないから」

 僕は軽くはにかみながら、鞄のチャックを閉めた。

「わーったよ。じゃあ来週な」

 斉藤は残念そうに息を吐き、手を机からどかす。しかし代わりに今度は石岡が腰を屈め、机の上に腕を乗せた。

「そんなこと言って、本当は梅沢と一緒に居たいだけなんだろ。俺にはわかってるよ。マリーくん」

「いいだろ別に。お前ニヤニヤしすぎ」

 彼があまりにもいやらしい顔をしていたので、僕は呆れたように軽く笑った。

「一緒に帰ってるんだっけ? 今日は梅沢部活ないの?」

「ああ。だから俺の家でちょっと練習する予定なんだ。教えて欲しいって言うから」

 石岡の隣に立っていた友人の問いに、僕は事実を伝えた。

「そっか。バイオリンやってるんだったな。あれ? 梅沢も吹奏楽部でやってるんじゃなかったっけ?」

「まだ始めたばかりだからさ。こつがわからないんだって。俺は……小学校のときから習ってたから」

「かー、二人っきりの練習かよ。いいねぇ。青春してるねぇ」

 どこか皮肉っぽく石岡が呟いた。勿論、本気で妬んでいるわけではないことはわかっている。こういう態度は彼なりの場の和ませ方だった。

「じゃ。そういうわけで俺そろそろいくよ。あんまり待たせると悪いしさ」

「おう。いちゃいちゃし過ぎて親に怒られるなよ。知ってるか? 梅沢の親父って超怖いらしいぜ」

「気をつけるよ」

 僕は席から立ち上がると、そう言って手をひらひらと振った。


 下駄箱の前に来ると、既にいつものように梅沢が待っていた。一人で立っていることを不審がられないようにするためか、壁に取り付けられている一週間前の掲示用紙をぼうっと眺めている。

 僕はそうっと彼女に近づき、その跳ね返った癖っ毛を眺めた。

 驚かそうと思って後ろから大きな声をかけようとしたのだが、気配を察したのか直前で彼女は振り返った。

「――あ、お疲れ様」

「……おっす」

 何事も無かったようにそう言葉をかけられたので、多少気まずく感じながらも口の横に添えていた手を下ろす。僕の様子を見た梅沢は、おかしそうにくすくす笑った。

「何してるの? 六条くん」

「いや驚かそうと思ったんだけど、ばれちゃったな」

 僕は照れを隠すように自分の頭を掻いた。

 彼女は視線を掲示板に戻しながら、

「コンクール、一ヵ月後だね。大丈夫なの?」

「ああ。心配ないよ。バイオリンの練習はいつも欠かさずしてるし、それに、こんな小さな町の企画なんだ。特に気を張って意識する必要なんてないだろ」

「でも、発表会は発表会でしょ。私だったら一ヶ月前からでもそのときのことを想像して緊張しちゃうんだけどなぁ」

「怖がっても何も変わらないんだ。だったら余裕を持って行動したほうがいいだろ。結果的に考えればそのほうが圧倒的にメリットがあるんだからさ」

「ふーん。……六条くんのそういうところ、本気で凄いと思う」

 感心するように、彼女は小さく瞬きした。

 小さな顔に愛嬌のある表情。決してずば抜けた美人というわけではないけれど、誰にも親しみを持たれる優しい雰囲気。幼稚園からの幼馴染である彼女のその笑顔に、僕は自分の心が大きく和まされるのを感じた。

「……さぁ。行こう。いつまでもここに居ると石岡たちが来るからさ。あいつらの最近の楽しみはお前について俺をからかうことだから」

「私は別にいいのに」

「俺が恥ずかしいの。いいから、さ、行こうぜ」

 僕は自分の下駄箱の前に移動した。彼女もちょこちょことそれに続き、上履きをゆっくりと脱ぐ。ただ靴を履き替えているだけなのだが、彼女がそれを行うと、どことなく気品が溢れているような気がした。

「梅沢ってさぁ。明日暇?」

 下駄箱の扉を開けながら何気ない調子で質問する。僕の言葉を聞いた梅沢は、不思議そうにこちらを見上げた。

「今週は天気もいいらしいしさ。散歩でもどうかなって思って。……あ、ほら、今度石岡たちとサッカーの練習するつもりなんだけど、都合のいい場所が無くてさ。グランドやサッカー場とかは先輩たちが占領してるし、新しい場所が発見できたら――」

「それってデートってこと?」

 僕の長ったらしい説明を一閃するように、梅沢はずばりと確信をついた。

「ま、まぁ。そういう見方も出来るよな。俺たちはその、一応付き合っているわけだし」

 元々は梅沢が先輩からしつこくアタックされているので、隠れ蓑として演じて欲しいという関係だった。だがそうして一緒に行動しているうちに、昔から知っていた彼女の違う表情や側面を多く知るようになり、今ではもう本気で彼女のことを異性として意識していた。

 もともと隠し事が上手い人間ではないのだ。昔から僕のことを知っている彼女なら、なおさらのことだろう。

 梅沢はどこか楽しそうに僕の反応を眺めると、シャツの袖で口元を隠しながら声を出した。

「しょうがない。六条くんがそこまで言うのなら、付き合って上げてもいいでしょう。ただし、ちゃんとエスコートしてよ?」

「わ、分かてるって。じゃあ、明日の十一時に田中婆の雑貨屋の前に集合な」

 自然と心臓の音が高くなる。僕はそのまま校舎の外に出ようとして、

「六条くん。ちょっと、まだ上履きだよ!」

 小さく笑う彼女の声で慌てて引き返した。

「あれ? ちょっとぼけてたわ。最近夜更かししてたからな」

 必死に言い訳しつつ、再び下駄箱を開ける。そんな僕を梅沢は優しい笑顔で見つめた。

 外履き用の靴を取り出し、木製台の前の床に置く。ぎこちない動きでそれに足を差し込もうとしたところで、急に誰かに呼び止められた。

「六条――」

 渋さと若々しさが入り混じったような、中途半端な大人の声。今年三十三になる担任の若林だった。

「先生? 何ですか」

 厳しい表情を浮かべている彼の顔を見て、嫌な予感が走る。心当たりは何もなかったが、勝手に後ろめたい気持ちになった。

「六条。すまないが職員室に来てくれないか。大事な話があるんだ。……申し訳ないけど、梅沢は先に帰ってくれ。たぶん、長くなると思うから」

 長話?

「……ごめん。梅沢。また明日話そう」

 先生の表情から見て、どうやらただごとではないようだ。僕は不安そうな顔をしている彼女にそう声をかけ、若林のあとに続いて職員室へと入った。



 忙しそうに書類の整理を行っている教師たちの間を抜け、右奥にある談話室へと入る。若林は中に入るなり扉を閉め、僕をソファーに座らせた。

 そして自分は立ったまま、意味深にこちらを見つめる。

「先生? どうしたんですか? 何の用事です?」

 僕が質問すると、彼はすぐに答えた。

「六条。落ち着いて聞いてくれ。実は、ついさっき警察から連絡があったんだ。俺も詳しくは知らない。でも、事実らしい。……君のお父さんが、連続殺人の罪で捕まった」

「……は?」

 相手が教師であるということも忘れ、僕は思わずそう声を漏らした。

 正しく聞き取れなかったとでも思ったのだろう。若林は神妙な表情で同じ言葉を繰り返した。

「六条。お前のお父さんが、逮捕されたんだよ」

 




2


 それは明社町あかもりちょうの歴史上類を見ない、残酷極まる殺人事件だった。

 最初の被害者は体内から肝臓を抜き取られ、それが存在していた場所に臓器の名称と「R.R」というイニシャルの入った、真っ赤な布袋を押し込まれた状態で発見された。

 布袋の中には切り取られた臓器を燃やして出来た灰が詰め込まれており、どうやら切除してすぐに高温で焼かれたようだった。

 警察はすぐに大規模な包囲網を築き、多数の警察官を動員して捜査を行った。犯人が捕まるのは時間の問題だと誰しもが思っていたのだが、まるでそれをあざ笑うかのように北区の陸橋の上で第二の被害者が出た。彼は腎臓を抜き取られ、一人目と同様に真っ赤な布袋を押し込まれた状態で発見された。

 この異常極まる事件は一気に明社町中を恐怖に陥れ、誰もが犯人の存在を恐れた。

 町には連日多くのマスコミが訪れ、まるでお祭り騒ぎのように多くの人間が事件現場で騒いでいた。

 同級生の中には町が注目されたことに、興奮する者もいたようだったが、僕はあまりそんな感情を抱けなかった。被害者の心情を考えてということもあるのだが、正直言って、自分には何の関係もない出来事だと思っていたのだ。

 しょせん他人事。ニュースの向こう側にしか存在していない世界。

 一人目の犠牲者が出た当初、噂を耳にした僕は危ないやつがいるなくらいにしか思っていなかった。自分が住んでいるこの明社町で起きた出来事なのに、せいぜいその程度の認識しかなかった。

 だから思いもしなかったのだ。まさか、自分の父――六条隆司ろくじょうりゅうじが、その異常な事件の犯人として逮捕されるなんて。



 父は三人目の被害者の心臓を抉り出しているところを、現行犯で逮捕された。

 女性の悲鳴を聞きつけた複数の住民が、その現場を目の辺りにしたらしい。証拠は十分すぎるほど揃っていた。

 父が拘留されてから、僕と母は必死に彼に会いたいと訴えた。だがどれだけ頑張ってみても、その願いはかなわなかった。現代の法律では罪を認めない限り、犯人が弁護士以外の人間との接触することは前面的に禁止されているからだ。

 事件後に僕たちが初めて父の顔を見たのは、法廷の上だった。

 彼は必死に無実を訴えていたけれど、十分すぎる目撃情報と、新たに判明した、被害者たちの全員と父に面識があったという事実。それらが大きな根拠となり、あっという間に有罪を宣告されてしまった。終身刑。死ぬまで決して牢から出れず、永遠に家族に触れることも出来ない場所。父は瞬く間に冷たい鉄格子の向こう側へと消えてしまったのだ。



 夕日が差し込む窓際で、僕は床に座り込んだまま、壁にかけられた自分のバイオリンを眺めた。

 中学校の入学時に父が買ってくれた、初めての本格的なバイオリンだった。安月給の中、僕のために貯めたお金で購入してくれたらしい。

 目を輝かせる僕を見て、父は照れくさそうに自分の頬を掻いていた。すぐ感情が顔に出るのが、彼のいいところだった。

 監獄送りになった今ですら、僕には父が事件の犯人だとは到底信じられなかった。

 嘘をつかず、こびを売らず、誰からも慕われ、誰にでも正直に接する。そんな男が、あんな異常で陰湿な事件を起こすわけがないと思っていた。

 きっと何かの間違いだと。時間が経てばもっと証拠が見つかって、父の無実が証明される。きっとみんなわかってくれると、そう信じて歯を食いしばった。

 けれど、やはりというべきか、殺人者の家族に対する世間の風当たりは、恐ろしいほどに冷たいものだった。

 どこを歩いていても、どこを訪れても、あちらこちらから指を指され、ひそひとと何やら内緒話をされる。被害者の惨状を知った見知らぬ人間からすれ違いざまに暴言を吐かれ、殺意の篭った視線を向けられる。まるで僕や母自身がその被害者たちを楽しんで殺したかのように。

 でも、僕は諦めなかった。信じていたからだ。

 父は何も悪いことはしていない。何も、後ろめたいことはしていないと。

 だから僕は、意地でも胸を張って生きようと誓った。隠れて生きるのは、逃げるのは嫌だった。それは父が悪いと、彼の罪を認めることになってしまうから。絶対に負けないとそう決心した。たとえ誰が何を言おうとも、僕だけは父を信じ続けるつもりだった。

 

 父が逮捕されてすぐに、母は引越しを考えた。だが購入したばかりの家のローンや、貯金のこと、父の裁判に使用した費用のことも考え、十分な経費が溜まるまでの間は、不本意ながらもしばらくこの町に居座ることになった。

 久しぶりの学校。正直行きたくはなかったのだが、義務教育を受けている身分ではどうしようもない。ただでさえ母はかなり参っていいるのだ。僕が引きこもるようなことでもあれば、彼女の心労は計り知れない大きさになるだろう。そう思って仕方が無く学校に登校することにした。

 教室の扉を握った瞬間、勝手に手が震え始めた。

 はたしてみんなはどんな反応をするだろう。彼らも僕を責めるだろうか。遠ざけるだろうか。人殺しの息子として。

 怖かった。足がすくむほど怖かったけれど、決意したことを思い出し、全身に力を入れる。僕は何も悪いことはしていないのだから。

 そんなに力を入れたつもりではなかったはずなのだが、僕が腕を引いた途端、扉を開ける音が大きく教室中に響いた。クラスメイトたちが一斉にこちらを向き、驚いた目で僕を見つめる。

 その視線から一瞬目を逸らしかけたものの、何とか踏みとどまり僕は足を踏み出した。このクラスの人間とは大抵仲がよかったので、事件の前のように挨拶を述べる。

「おはよう」

 一瞬奇妙な間が空き、クラスに静寂が訪れる。僕は歯を喰いしばり、自分の席に着こうとしたのだが、

「おっす。おはよう」

 石岡が、いつのもように駆け寄ってきた。多少遠慮がちではあったものの、事件前と代わらぬ態度で僕の机の前に歩み寄る。それを見て、仲のよかった数人のクラスメイトたちも近寄って来た。

「よう、マリー。お前がいない間、面白い出来事があったんだぜ」

 あえて事件のことには触れないようにしているのか、実に明るい表情で石岡が教師の恋愛事情について説明を始めた。

「ええ、マジで?」

 彼らの配慮に答えるように、僕も出来るだけ笑顔で答える。何事もなかったかのように教室の端に笑いが沸き起こった。

 僕はほっとし、同時に救われた気分になった。普段どおりに接してくれる友人たちに心の底から感謝した。

 勿論、全員がそういう態度を取ってくれたわけではない。仲のよかった友人でも、僕から離れていく者も多く居た。でも、僕には彼らの気持ちも十分に理解できた。誰だって人殺しを行った人間の家族とは距離を置きたいものだ。僕は父を信じているからまだしも、彼らにとってそれは真実なのだから。

 僕は彼らが何を言おうと、何をしようと構わなかった。ただ父は無実だと信じ続けて日々を過ごした。いつかきっと証拠が見つかって、父が無罪になる。この状況が終わると願って。

 でもそんな甘い幻想は、すぐに打ち消されることになった。


 

 一ヶ月ほど明社町での生活を続けているうちに、段々と状況が変化してきた。

 どうやら同じ学校の先輩に、連続殺人鬼によって殺された被害者の親族がいたらしい。彼女は大変社交的で交友関係も広い人間だったため、多くの生徒が彼女に共感し、同情した。

 僕は父が人殺しをしていないと信じていたけれど、彼女にとってはそれが真実だった。彼女の意見や言葉に押し流されるように、周囲の空気が変貌していった。

 もし僕が父の罪を認めて、教室の隅に縮こまるような生活を続けていたら、何事も無く阻害されるだけで済んだのかもしれない。でも僕は堂々と行動しすぎた。そうすることが父の無実を信じることに繋がると思っていたから。そんな意地を張ってしまっていたから。結果的に、その頑固な性格は大きな弊害を生んでしまった。

「大丈夫?」

 昼休み。中庭を歩いていると、梅沢に呼び止められた。

 くせっ毛のある髪をふわふわと風にゆらしながら、無遠慮に近づいてくる。僕は彼女のそんな無防備な態度を見て、ぶっきらぼうに横を向いた。

「……何が」

「例の被害者の女の子の彼氏たちが、何だか物騒な話をしてたけど」

「ぶっそうって、どんな?」

真里しんりがまったく反省しているように見えないから、とっちめてやろうみたいな……」

「反省? 反省って何だよ」

 僕は思わずそう言ってしまった。

 梅沢は少し困ったように身構えながら、

「ほら、真里っていつもどうどうとしているから……一応、あいつらにとっては彼女の家族を傷つけた人の息子なんだし」

「俺は何も悪いことはしてない。父さんは無実なんだ。その子のことは同情するけれど、それは俺とは関係ないだろ」

「わかってるけど、それでも今はまだ真里のおとうさんが犯人ってことになってるからさ。辛いだろうけど、一応被害者のことにも配慮してあげなきゃ」

 僕は一瞬何かを言いかけたが、梅沢の顔を見てすぐに思い直した。彼女の言っていることはもっともなことだと心ではわかっていたからだ。

  僕が黙っていると、梅沢が心配そうにこちらを見つめた。

 こんな状況になってまで僕のことを心配してくれている彼女のことを思うと、なんだか非常に申し訳なくなってくる。僕はばつの悪さを感じて頭を掻いた。

「……わかったよ。もう少し配慮する」

「そう。よかった」

 僕の返答を聞いた梅沢は、胸を撫で下ろすように笑みを見せた。

 ふと視線を感じて周りを見渡すと、僅かな間しか話していないはずなのに、すでに何人かの生徒が僕たち二人の様子を観察している。何だか彼女が見世物になっているようで嫌だと思った僕は、

「――じゃ」

 といって、すぐにそこから離れた。理科室の窓に反射した映像ごしに、梅沢の酷く寂しそうな横顔が見えた。



3


 まだ裁判は続いていたが、すでに母のストレスは限界近かった。

 買い物をしていても、電車に乗っていても、ただごみを捨てに行くだけでも、人殺しの妻というレッテルを貼られ、冷たい視線とひそひそ話の声を聞かされる毎日。もともと大人しく人付き合いが得意なほうではなかった母は、次第に家に閉じこもるようになり、本当に必要な場合以外は、ほとんど外出することもなくなっていった。

 人に家に居ると思われたくないためか、いつもカーテンを閉め視線を気にして電気をつけず、誰に聞かれるわけもないはずなのに、僅かな物音でも立てないように静かに歩き気配を消して行動する。彼女はまるで、常に見えない何かに怯えているかのようだった。

 人は、人の中にいて他者と自分を比較し続けなければおかしくなるものだ。自分の思考だけにとらわれてそれを真実だと思いこんでしまう。人前に出ることをやめた母は、瞬く間に精神に変調をきたし始めた。

 

夕食がテーブルの上に並べられ、母が席に着く。

 「頂きます」という言葉を述べたあとに箸を取り、並べられた料理を口に運んでいく。

 父が逮捕される前とは違って、貯金のことを考慮してか、随分と質素な食事だった。

 前までは随分と賑やかな食卓だったのだが、今はほとんど会話も無く淡々と手が進んでいく。僕がお茶を手に取りそれを口に含んだとき、偶然窓の外で誰かの話し声が聞こえた。近くに住んでいる主婦たちが家の前の道を通り過ぎるところのようだ。

「ひっ……!」

 その瞬間、母は体をびくつかせて縮こまった。急に動かなくなり、目を見開いて外の様子を伺っている。

「母さん? どうしたの」

 僕は怪訝に思い、そう声をかけたのだが、僕の声を聞くと同時に、異様なほど怒った表情でこちらを睨みつけた。

「し、静かに……! 外に気づかれるでしょ」

「気づかれるって、別に……」

「静かにって言ってるでしょ!」

 大声を出せないためか、目の力と身振りだけで怒りを示す母。そのあまりの狂気染みた表情に、僕は少し恐怖を感じてしまった。

 話し声が遠ざかっていく。完全に彼らの声が消えると、母はようやくほっとしたように折り曲げていた腰を元に戻した。

 そのまま何事も無かったかのように、真っ暗な部屋の中で箸を進めていく。

 僕はもう、何も言えなかった。

 母は過剰なほど人目を気にしてしまい、おかしくなっている。大人しいけれど穏やかで優しかったあの母が、怨念の篭った目で僕を見ている。

 僕は、急に涙が溢れそうになった。

 この十三年間、物心がついてからは一度だって泣くことはなかった。男は強くあるものだという父の教えを守って、ケンカをしても、嫌なことがあっても決して弱みを見せなかった。けれど、この涙だけはどうしても押さえがききそうにはない。

 僕は必死に目頭に力をいれ、それを食いしばると、食器を持って台所へと向かった。

 母のあんなにも痛々しい姿は、とてもじゃないが見ていられなかった。



 ある日の放課後、廊下の掃除をしているときに、ふとした拍子にバケツを倒してしまった。運が悪いことにそれが通りかかった女子生徒の足にかかってしまった。

「あ、ごめん」

 僕は咄嗟に謝って顔を上げたのだが、そこに立っていたのは、例の被害者の親族であるあの少女だった。

 お互い顔を見合わせて黙り込む。なんとなく気まずい思いがした僕は、再度謝罪の言葉を述べそこから離れようとしたのだが、後ろでそれを見ていた彼女の彼氏らしき男が、怒りの篭った表情でこちらにやってきた。

「おい、てめえ何してんだよ」

「悪かった。ちょっとぼうっとしてて」

 非は完全にこちらにある。僕は申し訳ないと思って頭を下げたのだが、その瞬間、頬に強烈な痛みを感じ、勢いのままに地面に倒れこんだ。

 なっ……――?

 わけがわからず顔を上げると、その彼氏が冷たい表情でこちらを見下ろしていた。

「てめえ、わざとだろ?」

「は? 何を言ってるんだよ」

「とぼけんなよ。依子がてめえのくそ親父のことで文句を言ってるのがむかついたから、嫌がらせしたんだろ」

「……違う。俺は別に彼女に何かするつもりなんて……」

「言い訳すんなよ。てめえのくそ親父みたいにそうやって逃げる気なのか」

 その言葉を聞いた途端、思わず怒りが背中に駆け上った。僕の表情を見て、周りにいた生徒たちが僅かに距離をとる。

「どうした? 何やってんだよ」

 隣のクラスの男子だろう。恐らくはその彼氏の友人たちが三人、騒ぎを聞きつけて彼の横に並んだ。

「こいつが腹いせに依子に雑巾汁をぶっかけやがったんだよ」

 低い声を出して彼氏の男がそう説明する。するとまるで事前に打ち合わせしていたかのように、その三人の男たちが前に出てきた。

 今の僕の立場でもめるのはよろしくない。梅沢のから言われたこともある。僕は何とか穏便にことを済まそうと考えた。

「悪かったって。本当に偶然なんだ。俺は――」

 どうにかして謝罪の意思を伝えるために一歩前に踏み出そうとした途端、彼氏の仲間の一人が僕の肩を突き飛ばした。まったく予期していなかった僕は、それで再び倒れてしまった。

「近づくなよ。この人殺しの息子が。知ってるぜ。お前の母ちゃん、すげえやばい目つきでうろついてるらしいじゃねぇか。いつか母ちゃんも誰か殺すんじゃねえか。この殺人一家め」

 舌を伸ばし、物凄く馬鹿にした表情でこちらを見下す少年。

 父のことならまだ我慢できた。真実はともかく彼は罪を犯したと思われている。父のことで僕が責められるのは、納得はできないけれど理解はできる。だが、あんなに苦しんでいる母を馬鹿にされるのは、到底我慢できなかった。

 僕は立ち上がると同時に、全力でその少年のあごを殴りあげた。何の防御姿勢もとっていなかった彼は、見事にあごを打ち抜かれ、横転する。

「なっ、てめぇ!」

 それを見た残りの三人は、一気に線が切れたように僕に殴りかかってきた。

 中学に入ってからは落ち着いたものの、小学校の頃は毎日のようにケンカをしていた。殴られる痛みにもどうすれば勝てるかもよくわかっている。

 子供のケンカなんて実力に大差はない。多少体格によって力は変わるだろうが、それでも鍛えられた大人と貧弱な大人ほどの差はない。子供のケンカにおいて重要なのは、下がらないこと。絶対に相手に負けないという意思。負けると思ったほうが負けなのだ。

 いくら殴られようとも、いくら蹴られようとも、僕はしゃがむにに拳を振り回した。三対一という不利な状況ではあったが、こちらの気迫に押されたのか徐々に彼らのほうが防戦一方に変わって行く。気がつけば、倒れた四人の上に僕が跨る格好となっていた。

 顔をぼこぼこにした少女の彼氏。怯えた目でこちらを見つめる少女と周囲の生徒たち。我に返ったときには既に遅かった。

 僕は血のついた自分の拳を見て、とんでもないことをしてしまったのだと理解した。

 

 それから、僕は影で殺人マリーと呼ばれるようになった。同級生の少年たちを殴り倒したせいで、やっぱりあいつは殺人鬼の子供なんだという噂が広がってしまったせいだ。

 僕の学校内での立場はさらに悪いものとなり、まるで腫れ物に触れるように扱われた。

 正直いって、今すぐに学校なんて辞めたかったのだが、義務教育という特性上、それは叶わない夢だ。かといって家に居続ければ、ただでさえ参っている母をさらに追い詰める形になってしまう。僕は仕方が無く、学校に行き続けた。

 この前の出来事があってから、石岡たちも僕から遠ざかるようになった。父が捕まる前まではあんなにたくさん居た友人たちも、今ではもうほとんど居なくなっていた。

 しかしそんな状況にも関わらず、梅沢だけはまだ僕と付き合いを続けていた。

 帰宅後は一緒にバイオリンの練習をし、お互いの音を合わせたりもした。既に僕はバイオリンの塾をやめ、大会に出ることもなくなったというのに、構わず頻繁に教えをこいに来る。それが嬉しくもあり、同時に申し訳なくもあった。――でも、そんな毎日も当然のように長くは続かなかった。


 ある日、なんとなく中庭を歩いていると、偶然クラスメイトの少女たちと梅沢が一緒に歩いているところを目撃した。梅沢はまるで引っ張られるように校舎裏のほうへと移動していく。何だか嫌な予感がした僕は、こっそりと彼女たちのあとをつけることにした。

 そこで見た光景は僕の心を大きく動揺させた。クラスメイトの少女たちが、梅沢を囲んで嫌がらせをしようとしていたのだ。かすかに「人殺しの恋人が」という言葉が聞こえた。

 僕はすぐに彼女たちの元に駆け寄った。女性に暴力を振るうつもりなんて微塵もなかったのだが、こちらの顔を見た途端、彼女たちは怯えた表情で慌てて逃げていく。

 僕は座り込んでいる梅沢を引き起こすと、歯を食いしばるように声を出した。

「……いつからだ。いつからこんな……」

 梅沢は一瞬黙り込んだあとに、作り笑いを浮かべて説明した。

「いつからって、何が? 今日たまたまあの子たちの機嫌をそこねちゃってね。いつもは仲がいいんだけど……」

 僕のことを気遣ってのことだろうか。彼女は明らかに嘘とわかる台詞を吐いた。

 僕は自分の頬を全力で殴り飛ばしたくなった。

 梅沢は物凄くいい子だ。他人思いで優しく、いつも誰かのことを思って行動できる素晴らしい女の子だ。本当ならこんな目に遭うはずがなかった。こんな苦しい思いをする必要もなかった。僕と関わってさえいなければ。

 ぼろぼろになった母の姿が脳裏に浮かぶ。

 真っ赤に充血した目で健気に涙を耐えている彼女を見て、僕は、梅沢と別れることを決意した。

 

 ――お前のことが好きじゃなくなった。

 その言葉を伝えたとき、梅沢はすぐに拒否の意を示した。

 まだ一緒にいたいと、どうして別れなければならないのかと。

 後ろめたい気持ちはあった。彼女と一緒に居たい気持ちもあった。でも、どう考えてもそれは彼女のためにはならない。僕と付き合いさえしなければ、彼女は平穏に生きていくことが出来たのだから。

 それから僕は彼女からのメールを全て無視し、学校であっても目を合わせず、家を訪ねてきても一切扉を開けなかった。二ヶ月ほどの間、彼女は健気に連絡を取ろうと頑張っていたものの、僕の決意の固さがわかったのか、次第に何のアクションもとらなくなり、最終的にはそのほかのクラスメイトと同様、僕とは何の係わり合いもない状態となった。

 僕はそれで彼女に対する被害が減ると思っていたのだが、彼女に対する一部からの嫌がらせはまだ続いていた。どうも彼女が僕のことをかばい続けているのが原因らしい。

 ――しばらくして、梅沢は他県に転校していった。

 恋人に捨てられ、友人たちからも責められ、色々と限界だったようだ。最後に見た彼女の横顔は、酷くやつれて見えた。



4


 一年がたち、裁判が二審目に入ったころ、父の無実を証明することがほとんど不可能だと悟った母が自殺した。

 ある日、学校から家に帰ると、リビングの上でぶらぶらと揺れる大きなものが見えた。それが母だと気づくのに大した時間はかからなかった。

 どこかでそうなる気はしていた。僕は淡々と警察を呼び、事後処理を済ませた。涙は出なかった。ただ、胸の中心がこれでもかというくらい、冷えて固まっているような感じがした。

 母が亡くなったことを知った父は、裁判で戦うことをやめた。無実だと信じてずっと僕たちが戦ってきたというのに、あっさりとやる気を無くして罪を認めてしまった。

 事件が本当に父の手によるものだとは到底信じられなかったけれど、認めてしまた以上、社会的にもそれが真実となる。

 これでは一体今まで何のために僕と母が頑張ってきたのかわからなかった。

 僕は激しい怒りを抱きながら、面会室へと入った。

 数ヶ月ぶりに見る父の顔。頬はげっそりとやせ細り、ストレスのせいか髪の毛もだいぶ少なくなっていた。僕がガラス越しの席に座ると、彼は何かを悟ったような目でこちらを見上げた。

「やあ、元気にしてたか」

 元気でなどいられるわけがない。僕は無言でそれに答えた。

「母さんのことは……残念だ――」

「何で罪を認めたんだよ。父さんを信じて、今まで頑張ってきたのに」

 僕が声を荒げると、彼は申し訳なさそうに目を伏せた。

「もう疲れたんだよ。いくら頑張っても無実を証明することはできない。諦めなければきっと機会はあると思っていたが……母さんがあんなことになってしまった。これ以上、俺のせいでみなに迷惑はかけたくないんだ」

「だからって、父さんが罪を認めればそれこそ母さんの努力が無駄になるだろ。一体何のために俺たちが頑張ってきたと思ってるんだ」

「わかってる。お前たちには相当な苦労をかけたと思う。でも、仕方が無いんだ。俺は母さんとお前が全てだった。お前たちが待っていてくれているから、頑張ろうと思えた。戦うことが出来た。でも、その母さんが死んだ今、俺にはもう生きる力が入らないんだ。ぽっかりと体の一部がなくなってしまったような気がする」

 父は空虚な目で天上を見上げた。

 もう何を言っても無駄なようだ。僕は強い怒りを感じた。

「……本当に父さんはやってないんだろうな」

「……お前はどう思うんだ?」

「正直、父さんが逮捕されてから、俺はずっと無実だと信じてきた。ずっとそう願ってきた。父さんの性格を知っているから。昔の父さんたちの姿を見てるから。でも、今はもう何が本当かわからない。父さんは……本当に誰も殺してないのか?」

 僕はぎゅっと膝上の拳を握り締めながらそう聞いた。

 父は同情するような視線をこちらに向けながら、

「あの日、俺は酔っていた。会社の飲み会の帰りでね。若い子がちやほやしてくれるもんだからつい気分が良くなって、いつも以上に飲んでいたんだ。それでちょっと方向感覚がおかしくなってな。家を目指して歩いているつもりだったんだけど、気がついたら見知らぬ路地にいた。

 俺は何とかして大通りのほうに出ようとしたんだけれど、歩けば歩くほど迷って、いつの間にか海辺の人が寄り付かない場所に立っていた。そこで、見たんだ。誰かが争っている光景を。

 俺が近づいたときには既に遅かった。そのうちの一人がもう一人を刺し、刺された人間は盛大に倒れた。

 あれが何だったのかは今でもわからない。でも、その瞬間、倒れた人間の体から無数の細長い線のようなものが飛び出てうねうねと動き回った。刺した男はそのうねうねの元を抉り出すと、何か道具を使ったのかそれを一瞬で燃やしたんだ。

 俺は幻覚でも見ているのかと思い近寄ろうとしたんだけど、その気配に男が気がついてな。あっという間に目の前に迫られて、目が覚めたときには、俺は警察に囲まれていた。……信じるかどうかは知らないが、少なくともそれが俺の中の真実なんだよ」

 検事は父のことを妄想癖のある人間だと証言していた。実際に病院の診断証も用意して、それを裁判で掲示していた。確かに今の話は到底信じられるようなものではない。今までずっと父を信じていたけれど、今の話を聞いて、確かに彼の精神がおかしくなっているような気がしてしまった。もしかしたら本当に犯人なのではないかと、僅かでも疑ってしまった。

 だが、同時に彼が本心からそう言っていることも理解できた。父は非常に感情が顔に出やすい人間だったから。

「その刺した男の顔はみたのか? 覚えてる?」

「覚えてるし、何度も見たよ。今ではもう、知り合いみたいなもんだからな」

「知り合い? 何を言ってるんだよ」

 父は自嘲するように小さく口元を上げた。

「三人目の被害者の親族。あの男が、刺した男なんだ」


 

 三人目の被害者の一家は、事件の数週間前に明社町に引っ越してきた移住者だった。

 父と息子の二人暮らしで、父親は外科医。この町の病院で働くことが決まっていたそうだ。亡くなった息子はまだ転校手続きを終えていないらしく、学校にも一度も出席していなかった。そのため被害者や遺族の顔を知っている人間もほとんどおらず、僕も裁判場で初めてその姿を目にした。短く揃えられた真面目そうな髪形に、堀の深い顔立ち。一度見れば忘れそうにない印象的な男だった。

 父の罪が確定的となった今、六条家の最後の一人として、謝罪の言葉を伝えるべきだと思った。勿論父が話していた内容は頭の隅に引っかかっていたのだが、さすがにあの話をそのまま鵜呑みにすることはできない。

 一人目、二人目の事件はあやふやだったけれど、三人目の被害者に関しては確かに父が手を出してしまった可能性が大きくなっている。もし本当に父が犯人であるのならば、それは絶対に許されない行為だ。

 僕は弁護士伝いに謝罪したいという意思を連絡し、翌週に彼の家を訪れることになった。


 男の家は北区の住宅街にあった。よく探さなければほとんどわからないような家屋が密集した場所の、これまた細い道を通った先にひっそりと立っている敷地の広い家だった。知らなければ、まず間違いなくここに家があるとは気づけないだろう。

 予定はあと二十分ほど先の時刻だったのだが、早く着いてしまったため、そのまま男の家を訪ねることにした。

 敷地に踏み入り、昔ながらの一軒家を見上げながら、チャイムに指を伸ばす。だがいくら押しても扉が開くことは無かった。

 ……居ないのか?

 仕方が無く僕は一旦そこを離れようと思ったのだが、ふと横を向いた瞬間、視界の隅に何か黒い塊が見えた。思わず足を止め、目を凝らす。

 それはカラスの死体だった。何かを抉り出されたかのように胴体に大きな穴が開いている。僕はどきもを抜かしたものの、何とか平静を取り戻した。よくよく見れば傷口はまだ新しいようで、かなりの量の血が草や血の上に広がっていた。

 ――酷いな。野良犬にでもやられたのか。

 何だか嫌な気持ちになっていると、その傷口から細い紐のようなものが延びていることに気づいた。何となくその紐が気になった僕は、おっかなびっくり死骸に近づき、覗き込んだ。

「……何だこりゃ」

 傷口の内部には、外に垂れていた紐と同じような細長い物体が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。臓器が抜き取られているためか途中から断絶しているものがほとんどだったが、それでも明らかに異様なものであるとわかる。

 何だこれ? 寄生中? でもこんなにたくさん?

 そのあまりの気持ち悪さに一歩足を後退させると、音に反応したのか紐のひとつが立ち上がり、すぐにぐったりと倒れた。まるで生きているような動きだった。

 立ち上る紐のような物体。抜き取られた臓器。僕はすぐに父の証言を思い出した。この光景はまるで彼が証言した話そのものだ。

 ここは三人目の被害者の遺族の家で、しかも父はその遺族が被害者を殺したと言った。臓器を抉り出し、燃やしたと。

 この場所でこれを目にしたことが偶然だとは思えない。僕は何だか急に薄ら寒さを感じた。

 金属の外れるような音がなり、中庭の奥にある倉庫の扉が揺れる。僕は咄嗟に隣の建物の影に隠れ息を殺した。自分でも何でそんなことをしたのかわからなかった。

「――ああ。また来たよ。思ったより早かったな。遺族の父親に成り代わってはみたが、どうやらもう完全にばれてるようだな。……そうだ。寄生されてたやつは始末した。あいつの調整には俺が大きく貢献したんだ。騒ぎも大きくなってきたし、教授もそろそろ五番じゃ無理だと気がつくだろう」

 男は倉庫から持ってきたシャベルノのようなものをカラスの死骸の下に滑り込ませると、無造作にそれを持ち上げ、倉庫の横においてあるゴミ箱の中へと投げ込んだ。

「あと少ししたら、俺が罪をなすりつけたやつの息子が訪ねてくる。悪いけど、五番の処理を急がなきゃならない。そろそろ切らせてもらうぞ」

 罪をなすりつけた? ……成り代わった? こいつ、何を言ってるんだ?

 話の全容はわからなかったが、とても息子を失ったばかりの人間の言葉だとは思えない。擦り付けたというのは父のことだろうか。だとしたら――

 僕は心臓が大きく跳ね上がったような気がした。

 男はまた死骸があった場所に戻ると、乱雑に血のしみ込んだ土をひっくり返して隠そうとする。僕は出るに出れず、そのままそこに隠れ続けた。

「いいか? 教授はただ俺が研究データを持ち逃げし、この町に逃げ隠れただけだと思っている。この町の近くにはやつの研究に興味を持っている機関の支部もあるからな。――だがそれだけだ。あの場所については何も知らない。お前が上手くやれば、それ次第で全てを手に入れることができる。そのためにわざわざ五番の灰を死体につめて挑発したんだからな。頼むぞ。失敗は許されないんだ。――お前を信じているぞ」 

 その言葉を最後に、男は通話を終わらせた。端末をズボンの中に慎重に仕舞い込み、手についた泥をほろう。そして面倒くさそうに腕時計を確認した。

 

 彼が家の中に消えてから、僕はすぐにそこから離れた。

 適当な公園まで走りきったのち、倒れこむように地面に手をつきながら、たった今目にした光景を思い返す。

 何だか頭がくらくらして、自分が現実に居ないような気がした。

 どういうことだ? 父さんは無実なのか? 

 何が何だかわからない。脳がクラッシュしそうだった。僕は必死に自分を落ち着かせるために、公園の日陰にある蛇口をひねり、そこから流れ出た水を頭にかぶせる。しかしいくら冷やしてみても、生じた動揺は消えなかった。

 

 結局、男への謝罪は酷くしどろもどろな形で終わってしまった。

 こっちは相手が真犯人であると疑った上での謝罪であるし、相手はこちらが無実だと、恐らくは知っている上で応対しているのだ。僕の挙動不審な態度を緊張しているためと捉えたのか、男は被害者らしくない優しい言葉を僕にかけ、お茶まで出してくれた。僕はただ、黙って頷くことしかできなかった。

 それからしばらくの間、僕は男の家を観察することにした。もし彼が真犯人であるのならば、きっとまた犠牲者を出すはずだ。そう考えて張っていたのだが、この前の面会以降は特に彼が不思議な動きを見せることはなかった。ただまれに、変なできものをつけた猫や犬を見かけることが多くなった。動物が好きだった僕はそのうちの一匹にパンくずを差し出したりもしてみたのだが、糞まずいものを見るような視線を向けられ、無視された。愛想のない動物たちだった。



5


 家に帰ったところで、そこには父も母も居ない。

 学校に居ても殺人者の息子だと怖がられ、因縁をつけられて殴り合いをする毎日だけだ。僕はもう、その男が犯人であるという証拠を掴むことだけが、生きている目的となっていた。もし男が真犯人でなければ、完全な異常者だろう。

自分でもそう実感しつつも、どうしても目にした光景が頭から離れなかったため、彼を見張り続けた。

 そうして一ヶ月あまりが経過したころ、僕は男の姿を見ることが無くなった。もともと近所づきあいも悪く、ほとんど人目につかない男ではあったのだが、家に閉じこもっているとかそういうわけではない。ある日から突然、まったくの別人がそこで生活を始めていたのだ。

 僕はてっきり引っ越したのかと思ったのだが、表札は代わっておらず、家の様子も元のままだ。まるで突然、男の顔が変わってしまったかのようだった。

 その“別人”は、男とは違い実に社交的だった。近所の人間とも頻繁に挨拶を行うし、毎日しっかりと病院にも勤務しているようだった。

 一体あの男はどこへ行ってしまったのだろうか。僕は混乱し、真実を確かめるためにもう一度その家を訪れることにした。〝以前はまともな話が出来なかったから”という体で家を訪れ、その別人と会話をしてみたのだが、なぜか別人は以前僕と男が行った会話を事細かに記憶しており、彼自身がその場に居たように振舞った。

 もはやわけがわからなかった。父と同様に僕までおかしくなってしまったのだろうか。やはり、父は本当に殺人者だったのだろうか。

 そう思いかけたものの、ふとあることを思いついた。あの男が僕の妄想で、この目の前の別人が本当の遺族であるのならば、当然裁判中に行った会話についても記憶しているはずだ。僕がそれとなくそのときの話を出し、探りを入れてみると、おかしなことに男は急に記憶が悪くなったみたいだった。明らかに適当な回答をしている。

 僕が彼の存在を警察に調べてもらうというと、彼は酷く狼狽し、半ば無理やりに僕を家から追い出そうとした。通りかかった近所の住民の視線が集まったので、「二度と来るな人殺しの子供め!」と体を取り繕うように叫ぶ。もはや彼があの男でないことは明白だった。

「あんたは誰なんだ? 何でここに住んでいる?」

 僕がそう質問すると、彼は逃げるように家の中に戻り、扉を閉めた。そしてそのままこちらの存在を完全に無視すると決め込んだようだった。

 彼が別人であることはわかっている。弁護士や検事、事件を担当した刑事に連絡すれば、それを証言することも簡単だ。

 そう思い、僕が家から背を向けた途端、突然、背後から絶叫がとどろいた。

 窓越しに家の中で赤い光が踊っていた。縄跳びのように連続してうごめいている。

「……はっ!?」

 何が起こったかわからなかった。ただ真っ赤な炎が踊るように室内を満たしていた。

 本来ならばすぐにでも家に駆け込み、彼を救出するべきだったのだが、気が動転してしまった僕はそのままそこに立ち尽くすことしかできなかった。

 家が灰燼かいじんに帰す大きな音と先ほどの騒ぎを聞きつけて、周囲の住民たちが続々と外に出てくる。その中には僕の学校の制服を着ている者も居た。


 その後、僕は一度警察に任意同行を願われ警察署へと連れていかれたのだが、証拠不十分ということと、火元が発見できなこともあり、すぐに開放されることとなった。

 男の死は息子を失ったことに対する絶望からの自殺だろうということに落ち着いたものの、加害者の息子である僕が現場に居たことは、やはり相当な疑いを与えてしまったようだった。

 学校や近所の人間たちだけではなく、この町や周辺区域の大部分に、殺人鬼の子供が危ない行為をしているという情報が伝わってしまった。南区ではあだ名が影響して僕が女の子になっていたりと、その信ぴょう性は薄かったが、それでも大きな事件になってしまったことは事実だ。

 一体、消えたあの男は誰だったのだろうか。

 事情を知ってそうな〝別人”はもういない。これ以上何も調べることができなくなり、僕は絶望の淵に立たされた。

 


 皿洗いを続けていると、急に店長に呼ばれた。遠慮がちなその視線を見て、僕はまたかとすぐに気が付いた。

「忙しいところ悪いね。六条くん。実は……お客さんから聞いたんだけどねぇ。君はその……」

「遠慮せずにおっしゃって下さい。大体の見当はついています」

「そ、そうかい。じゃあ、やっぱり噂は本当なんだね。君のお父さん、例の殺人鬼なんだって? その、隣の町で一~二年前に話題になってた」

 ここで隠してももはや意味はない。僕はすぐに頷いた。

「はい。そうです」

「そうか。そうなんだね」

 店長はひどく残念そうな表情を作ってから、

「……うちは客商売なんだ。人の中での印象が大事な仕事なんだよ。だから、その……君のような立場の人は、少し向いていないというか……」

「皿洗いをしているだけですよ。お客さんの前に出ることはありません」

「それでも人の目につくことはあるじゃないか。うちは常連が多いんだし、見てる人は見てるからねぇ」

 まどろっこしい。要はもう処分が決定しているということじゃないか。

 僕はその場で名札を外し、机の上に置いた。

「わかりました。今までありがとうございました。今月の分はいつもの口座にお願いします」

 そういって立ち去ろうとすると、何人か仲良くなったアルバイト仲間たちが驚いた目でこちらを見てきたが、僕は構わず店を後にした。



 〝別人”は死んだものの、あの時あそこに潜んでいた父を殺した犯人はまだ生きている。彼はこの町に利用できる何かがあると言っていた。それが何かはわからないけれど、その言葉がやけに耳に残っていた。この町に残り続ければきっとまたあの男に会えるかもしれないと、そんな予感がしたのだ。

 ローンやら借金やらはあるものの、その気になれば引っ越すことはできた。だが、どうしてもあの男のことが気になって、僕はこの明社町に残り続けた。ここに居ればまたあの男を見つけることができるかもしれないから。父の無実を証明できるかもしれないから。

 しかし、一年がたち、二年が経っても、僕は一向にあの男の手がかりを掴むことはできなかった。ただ時間だけを浪費して空虚な毎日を過ごしていく。

 高校に入学するほどの金銭的余裕も覚悟もない。アルバイトも噂があだとなって長くは続けられない。かといって、家に帰れば、父と母との思い出がありすぎて自分の心臓を抉り出したいほどの強烈な苦しみが襲い掛かってくる。

 僕は正直、もう生きていたくはなかった。



 ふらふらとした足取りで歩いていると、古びた廃墟の前についた。人目を避けた結果、妙な場所に出てしまったらしい。

 ――くたびれたホテルの跡地か。今の俺にはうってつけかもな。

 僕は引き寄せられるようにその中に進みぼろぼろの入り口を通り抜けた。

 中は散々な様子であちらこちらに空き缶やタバコの吸い殻などが転がり、壁には崩れた字で何やら汚い言葉が書きなぐられている。不良のたまり場にでもなっているようだったが、今日は誰の姿も見えなかった。

 いい寝床はないかと探していると、不意に誰かの声が聞こえたような気がした。思わず耳に意識を集中させる。

 くぐもっていて聞こえずらいが、どうやら女の鳴き声らしい。こんなところで何をしているのかと思ったものの、すぐに思い直した。粗暴の吹き溜まりのようなこの場所で、女の鳴き声がするなんてろくな事態であるはずがない。万が一何らかの事件性があるものだったら、見過ごすことはできない。

 僕はすぐにその場に駆けつけることにした。

 


 かすかに聞こえる声を頼りに、廃墟の中を走り回る。しばらくして大きな両開きの扉を発見した。位置や上に掛けられている看板から考えるに、どうやら講堂のようだ。経年劣化のためか、扉の一部が崩れ落ちている。

 僕はそうっとそれを押しのけ、扉を開けた。

 真っ暗な室内の奥に、月明かりが差し込んでいた。光はスポットライトのように、講堂の中心にある瓦礫の山を照している。その瓦礫の前に、何やら小汚い塊がうずくまっていた。

 他に誰の姿も見えない。どうやらあれが声の主らしい。事件性がないことにほっとし、僕は安堵のため息を漏らした。

 おおかた家出した学生か何かだろう。こんな場所に隠れるなんて、ずいぶんと危機意識の低い女だ。僕はゆっくりとその少女に近づいた。

 足音を聞きつけたのか、少女が顔を上げる。肩まである長いストレートの黒髪に、真珠のような大きな目と泣きほくろ。艶のある小ぶりの唇。

 その少女の美しさに、思わず僕は足を止めてしまった。降り注ぐ光と相まって、なんだか絵画を見ているような気分になった。

 虚ろな表情でじっとこちらを見つめる少女。どうやら光の中にいるせいで僕の姿が見えないらしい。

 その視線があまりに弱々しかったので、僕はなんだか非常に彼女がかわいそうになった。昔から人の悲しむ表情を見ると、なぜか自分までそういった気分になってしまうのだ。

 近づく僕の姿を見つけたのか、彼女は立ち上がろうとする。だがバランスを崩し、後ろに体をのけぞらせてしまった。僕は慌てて手を伸ばし、少女の手を掴んだ。

 柔らかくて、しっかりとした熱が伝わってくる。久しぶりに感じる人の温かさだった。

 僕はためらいながら彼女に微笑みかけた。

「大丈夫か?」

 腕を引くと簡単に体が持ち上がった。

 彼女はまるで予期していなかったかのように、キョトンとした表情で僕の顔を見上た。

 ――それがカナラとの出会いだった。





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