第二十八章 超能力
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階段を駆け上がり、丘の上に出た。
息は絶え絶えだったが、まったく気にならない。僕の頭にはもう、修玄を問い詰めることしかなかった。
門をくぐって敷地の中に入ると、若いお坊さんが掃除をしているところだった。
「すいません。修玄さんに会いにきたのですが」
なるべく平静を装いそう声をかける。彼は最初、僕の切羽つまった様子に驚いていた様子だったが、すぐに表情を取り戻し、丁寧に受け答えを行った。
「修玄ですか? どのような用事で……」
「ちょっと相談したいことがありまして」
「――はぁ。……わかりました。では、ついて来て下さい」
慣れた様子でそう頷く。修玄はよく近くの学生たちの相談事を聞いていると言っていたから、同じような輩だとでも思ったのかもしれない。
「ここでしばしお待ちください」
本堂の前辺りまで来たところで、お坊さんは僕の足を止めた。恐らくは修玄を呼びに行ったのだろう。なんとなく落ち着かなかったので、僕は無駄にその場をうろうろと歩き回った。
五分ほどして先ほどのお坊さんが戻ってくる。だがそこに修玄の姿はなかった。
「それでは、修玄のところに案内します。どうぞ、こちらへ」
どうやら別室で会話を行うらしい。僕としては望むべくだったので、素直に指示にしたがった。
本堂の横を囲むように伸びている渡り廊下を進み、左側の裏手に出る。向かっている方向を見るに、修玄は奥の離れにいるようだった。
草木の上に置かれた背の低い橋を渡り、銀閣寺のようなこじんまりとした建物の前に移動する。橋の横にはヒソップという例の花が大量に咲いていた。
「修玄さん。お客様をお連れしました」
若いお坊さんが一声かけると、襖が開き中から修玄がひょっこりと顔を出した。
「ああ、 君か……」
「こんにちは」
僕は感情を押し殺してそう言った。
「すいません。突然。ちょっと相談したいことがありまして」
「ああ。いいよ。まあ、とりあえず中に入って」
気のいい表情で手招きを行う修玄。彼は立ち去ろうとしているお坊さんに頭を下げると、そのまま襖を閉めた。
「まあ、座って。それで、何の用事かな」
知らないフリをしているのか連絡がまだきていないからか、白々しく穏やかな笑みを見せる修玄。
いつもなら事前に質問を考え、ゆっくりと探りを入れていくのだが、そんな余裕などどこぞへ吹っ飛んでいた僕は、真っ先に本題をぶつけた。
「――遺体すり替えの件です。あなたが協力している」
その言葉を聞いた途端、修玄の表情が僅かに引きつった。
「遺体のすり替え? 何を言ってるんだい?」
「とぼけないでください。“触れない男”こと本田克己。いや、稲生忠志でしたっけ? とにかくあなたが“彼ら”の回収に協力していた。何の話がご承知でしょう」
「一体どうしたんだ。わけがわからないよ」
「深見明菜から聞きました。あなたが遺体をチェックし、九業や五業たちの遺体を分別していたって」
そういうと、修玄の顔に僅かな動揺が見えた。僕は構わず言葉を続ける。
「誰の指示です? 誰がそんなことを命令したんですか?」
声の調子を強くする。僕は怒りを込めて彼を睨んでいたが、修玄はなおも言葉を濁した。
「……九業っていうのは、犬の名前か何かかい? ごめん。ぼくはただの居候だからあんまり外には……」
目の前の机が飛び散り、破片が宙にまった。僕が“蟲喰い”で吹き飛ばしたのだ。
「僕は深見の記憶を見たんです。いい加減とぼけるのはやめてください」
ぱらぱらと木片が落ちていく。それを見て、修玄が一気に顔をこわばらせた。
「君は……まさかそんな……」
今度は真っ直ぐに僕の目を見つめた。
「驚いた……。今のは……」
「あなたが“触れない男”たちの協力者だということはわかっています。僕はあなたたちに誘拐された千花を助けるためなら何でもする。もし正直に話していただけないのなら――」
目の前の空気を“蟲喰い”で吹き飛ばす。修玄の頬が僅かに裂け血がほとばしった。
自分の血を目にした修玄は、慌てたように手を振った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。誘拐って一体何のことだい? 千花っていうのは誰だ?」
「まだとぼけるんですか」
「いやとぼけてなんかないって……! 本当にわからないんだよ。君は一体何の話をしているんだ? そんな現象を起こせるってことは、彼らの関係者なんだろう?」
この期に及んでまだ白を切るのかと、奥歯を噛みしめかけたものの、彼の表情の真剣さを見て、僕はかすかな違和感を抱いた。
「あなたは九業たちの仲間じゃないんですか? そうでないのなら、なぜ彼らのことを知っているんです」
「な、なぜって、だってぼくは彼らが作られる場にいたから……」
勝手に目つきが鋭くなる。
やはり仲間じゃないか。
「誰です? 誰が彼らを作ったんですか? 誰が千花を……!」
「だから待ってくれ。事情がわからなきゃ何も説明できないよ」
着物を崩し、修玄はおびえた表情を見せた。彼の顔を見て、僕は無意識のうちに伸ばしていた手を止めた。
「……作られる場に居たっていいましたね。どういうことなんですか」
「言葉の通りだよ。ぼくは彼らの製作現場に居たんだ。そんな現象が使えるってことは、君も彼らの関係者なんだろう?」
「僕は無関係ですよ。だからこうしてあなたに聞きに来た」
「でも、無関係ならそんな現象なんて……純正のモノはもう何年も発見されていないはずだ」
「純正のモノ? なんのことですか?」
なんだか話が噛み合ってないので、少し気の高ぶりが納まる。僕の様子を見て、修玄はおっかなびっくり答えた。
「超能力者だよ。わかってるだろう」
「超能力者?」
「そうだよ。非認識干渉可能者、いや、観測誘導者ともいうかな。確立の世界への介入ができる存在。 ぼくは、それを研究する場所に居たんだ。君は……本当に何も知らないのか?」
僕は冷たい眼差しを向けたまま足を組み直した。机が破壊されてしまったせいで、武道の試合の前のように正座で見つめ合う格好となる。
「僕は誘拐された友達の居場所を知りたいだけです。あなたたちが何者かも、“触れない男”たちがどういう存在なのかなんて、まったく知りませんよ」
「じゃあどうしてそんな現象を起こせる? それは明らかに彼らと同じ産物じゃないか」
「これは偶然できるようになったんです。あなたたちが追っている少女と出会ってから」
「……さっきも言っていたけど、その少女っていうのはどういうことなんだい? それが誘拐された子なのか?」
「そうですよ。ずっと探していたんじゃないんですか。だからあなたも遺体の線引きを行っていた」
「ぼくは、脱走した実験体の回収を頼まれただけだ。そう聞いていた。危険な個体だから一般人に被害が出るかもしれないって、だから彼らに協力したんだ」
僅かに声を上ずらせて、修玄は前のりになった。
どうやら本気で彼は何も知らなかったらしい。多少頭が冷えてきた僕は、腰を落ち着け彼に質問した。
「あなたは何者なんですか? なぜ彼らに協力を?」
「ぼくはただの坊主見習いだよ。今となってはね。……ただちょっと前までは、ある場所で研究をしていた」
「人体実験の、ですか」
「な、なあ。君はこちら側の人間のようだし、話すのは構わない。でもまずは説明してくれないか? 一体何がどうなっているのか」
僕がさらに質問を繰り広げようとした途端、怯えた目を向ける修玄。
確かにこのままでは埒があかない。大事なのは彼から事実を聞きだすことなのだ。僕の事情が気になって彼の記憶から真実が抜け落ちてしまっても困る。
問い詰めたい気持ちを何とか押し殺し、僕はしかたがなく、現在の状況を伝えることにした。
カナラとの出会いから千花が誘拐されるまでの一通りの経緯。それを洗いざらい説明した。早口でところどころわかりずらい説明だと思ったけれど、修玄は何も言わずただ黙ってそれを聞いていた。
僕が全てを語り終わると、彼は重々しいため息を吐き、顔を上げた。
「……そうか。そういうわけか……。だからあんなに死体が多かったんだ。道理でおかしいと思った」
「じゃあ、あなたは本当に千花の誘拐とは無関係なんですか?」
「ああ。僕は彼らとは縁を切っている。非人道的で倫理に反した実験に嫌気がさしてね。だからこんなところで住職の補佐みたいなことをしていた」
「ではなぜ遺体の回収の手伝いを? 深見さんからはあなたが率先してそれを行っていたと聞いています」
「彼らの遺体は特殊なんだ。公になれば大問題になる。ぼくは逃げた危険な実験体を回収するまでの間、そういった問題が起きないように手伝って欲しいと頼まれたんだ。だから彼らに協力して証拠を隠蔽した。それがまさか、カナラという少女を捕縛するための一環だとは思いもしなかったけれど」
悔しそうに修玄は目を伏せた。
「千花が連れて行かれそうな場所の心当たりはありませんか? あなたは……彼らの仲間だったんですよね」
「残念だけど、知らないよ。ぼくに連絡をしてきたのは、五業に寄生された動物や人間たちだった。だから直接彼らには会っていないんだ。少なくとも生きているうちには」
「あなたたちが“触れない男”たちを作った場所はどこですか? そこだったら、千花を調べられる設備が整っているはずです」
「勿論知っているけど、今もそこにいるかどうかはわからないよ。あそこは色々と不便な場所だし、九業まで完成したのなら……――」
「教えて下さい。修玄さん」
「まさか、あそこに行く気なのかい? やめてくれ。あんな場所、二度と見たくはない」
かたくなに拒絶の意を示す修玄。
それを見て、僕はまたもや“蟲喰い”を放った。今度は修玄の顔すれすれだった。彼の背後の壁に大きなひび割れが生まれ、いくつか髪の毛が宙を舞う。
「ちょっ!? わ、わかった。わかったよ。案内すればいいんだろう……!?」
慌てて両手を振り降参のポーズを作る。
僕は暗い気持ちを押し殺し、彼を見据えた。
「すぐに行きましょう。車はお持ちですか?」
「ああ。丘の下に置いてある。……――まったく、何でこんなことに……」
「案内さえしてくれば、あなたに危害は加えません。僕は千花さえ見つけることができたら、それでいいんです」
「その気持ちは買うけれど、彼女が無事にいるって保障は……いや、なんでもない」
僕の目を見て、修玄はそこで言葉をとぎらせた。
「場所はどこら辺ですか? できれば県内にあるとありがたいんですが」
「そんなに遠くはないさ。高速で二~三時間ってところだろう」
二~三時間。確かにそう遠くはない。少なくとも日本列島を横断するようなことはなさそうだ。僅かな興奮を覚え、僕は立ち上がった。
「行きましょう。今すぐに」
2
窓の外を、外灯が流れ星のように通り過ぎていく。人口の光ではあるけれど、それはどこか有機的で、神秘的なものに見えた。
今頃、千花はどうしているだろうか。まだ誘拐されてから二日だ。彼女は貴重なサンプルのはず。彼女の体を利用する前には、きっと様々な検査が必要となる。今行けば助けられる。絶対に。
希望を持たなければ不安に押しつぶされそうだった。流れ行く光をぼうっと眺めながら、しきりに指遊びを続ける。
そんな僕を修玄が心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫かい? 穿くん。少し休んだほうが……君、病み上がりなんだろう?」
「大丈夫ですよ。こうして座っていれば、それなりに体が楽になります。それに寝てる間にあなたに逃げられてしまったら、元もこうもありませんからね」
「逃げるって……ここまで来てそんなことはしないよ」
呆れた表情で修玄は僕を見た。
「……知らなかったとはいえ、君の友達の誘拐や、明社町で起きた事件に協力してしまったんだ。こう見えて、結構後悔しているんだよ?」
僕は何も答えない。だが構わず修玄は話を続けた。
「あんな生活だからね。ぼくにとって、たまに来る相談者との会話はひとつの楽しみだったんだ。恋愛相談、こじれた友人関係を修復するための協力、ときには深刻な問題もあったけれど、そういうのも全部含めてあの寺での生活は救いだった。人の役にたつことで、浄化されているような気がしたんだ」
背後から車が出てきたため、修玄は僅かに左に寄った。夜とはいえ、流石に高速道路は混雑している。
「都合のいい解釈ですね。あなたが協力したことでその相談者たちも危険にさらされた」
「ああ。その通りだよ。……よく、ぼくのところに相談に来てくれた女の子がいたんだ。中学三年の子供っぽさの残ったあどけない子だった。彼女は憧れの先輩に告白するべきかどうかで悩んでいてね。ぼくは後悔する前に言うべきだと諭した。そのほうが君のためになるってね。――でも彼女は、先輩と待ち合わせていた公園に行く途中で、ぼくの作り出した怪物の一人に殺された」
僕は窓の外から視線を離し、修玄の後ろ姿に移動させた。
「ぼくも君の言う話を完全に信じたわけじゃない。何らかの目的があって騙そうとしてる可能性もある。でも、もし真実なら、ぼくだって許せないんだ。ぼくを利用した彼らと、彼女を殺してしまったぼく自身を」
前方から、歯をかみ締める音が響いた。それは嘘で作りだすにはあまりに痛々しい音だった。
少なくとも、修玄は本当に事実を知らなかったらしい。そうでなければここまで苦しそうな表情は作れないだろう。
僕は浮かせていた腰を後ろに倒し、深く沈めた。
「……急ぎましょう。逃げられる前に」
「――……ああ」
修玄は前を向いたまま小さく頷いた。
明社町を出てから二時間半が経過した頃、僕たちは狭い山道に入っていた。
そこは県内でも比較的内陸よりに位置する場所で、もはやほとんど町や村の姿も見られなくなっていた。
「随分奥地に行くんですね」
少し不信感を募らせて聞いてみる。修玄はけろりとした調子で答えた。
ひと気が多い場所じゃあ、超能力の実験なんてできないだろう? 屋内での研究には限界があるし、それに作り出した九体もの実験体を隠すには、この方が都合がいいのさ」
「でもこんな山道……研究施設があるのなら、もう少し道が整備されているのでは?」
「大きな研究所があればそうかもね。でも、あいにくとぼくたちはただの研究員の寄り集まりに過ぎなかった。“教授”の資金でそれなりに機材は整えたけれど、それでもあくまで研究室レベルどまりさ」
「“教授”?」
「ああ。九業たちの設計を行った人だよ。――っと、ほら、見えてきた。あそこがそうさ」
修玄は片手を離し、山頂近くにある山荘を指差した。
僕は身を乗り出し、
「普通の山荘ですね。もっと実験棟みたいなものを想像していたんですが」
「それじゃあ、いかにも怪しい研究をしているって言っているようなものじゃないか。表向きにはただの別荘だからね。もっとも、地下はかなり別荘とは程遠いつくりになっているけれど」
「ここら辺で降りましょう。近づきすぎると、車の音で気づかれる」
「この先に藪の多い場所がある。そこに車を隠そう」
修玄はハンドルを僅かに左に動かし、速度を落とした。
草木が少ない場所を選んで山道から逸れ、適当に藪の中に進んだところでエンジンを切る。念入りに周りを見渡した後、僕たちは車から降りた。
僕は靴の感触を確かめた。父が病院に持ってきてくれたのは、昨年購入した安い運動靴だった。町に出かけるには向かないけれど、こういう場所では非常に役に立つ。偶然の計らいに感謝した。
車にロックをかけ修玄が歩き出したので、僕はその背に向かって問いかけた。
「修玄さん。彼らの誰かが周囲を見張っている可能性は? 監視カメラのようなものってありますか?」
「ぼくが居たときには無かったけれど、今はどうだろうね。どっちにしろ、気をつけるしかないよ。向こうにはまだ二体、実験体が残ってる」
「二体?」
僕が遭遇したのは九業、五業、六業、そしておとといの殺人鬼だけだ。彼の言動から推測すれば、“触れない男”たちの残りはまだ六体いるはずなのだが、他の実験体はほとんど死んでしまったということなのだろうか。でも、一体なんで……?
僕が考え込みかけたとき、修玄が声を出した。
「ほらこっちだ。足元気をつけて。危ないよ」
「あ、すいません」
深くくぼんでいる土を踏み越え、修玄の隣へ移動する。そのまま二人で二十メートルほど直進すると、崖のような場所に出た。
眼下に広がる光景を見て、一瞬修玄にはめられたかという考えが過ぎったものの、その考えはすぐに杞憂に終わった。彼は山荘の下部を指差し、声を明るめた。
「ほら、この崖にそって進めば、山荘の真下まで気づかれずに近づくことができる」
見ると、山荘と崖の間には無数の林と岩場があった。確かに岩場に隠れて進めば、向こうから見られる可能性は少ない。
「よくこんな道を知ってましたね」
僕がそう言うと、修玄は困ったように笑った。
「実は、何度かこっそり教授に黙って抜け出したことがあるんだ。どうしてもジャンクフードが食べたくてね」
3
「誰も居ないみたいですね」
窓を覗き込みながら、僕は呟いた。家具は全て整理され人が生活している気配はまったくない。
「実験室は地下にあるって言っただろう。ここはあくまでフェイク。オブジェクトみたいなものさ」
「どうやって中に入ります?」
「山荘自体のセキュリティーはあくまで一般家屋レベルだ。ごく普通の方法で進入できるよ」
修玄は薄茶色い壁に囲まれた窓を見据えると、懐から鍵を出した。
まだここの鍵を常備していたのか? と僕が思うと同時に、彼は上着を脱ぎ、それを窓に押し当てた。そしてそのまま全体重をかけて鍵を叩き付ける。
少し高い音が鳴り、大きくひび割れるガラス。僕は慌てたが、修玄は平然と腕を中に突っ込みロックをせり上げた。
「本当はガムテープのほうが消音効果があるんだけどね。やっぱり上着じゃダメか」
「こんな大きな音を出したら気づかれまずよ」
「大丈夫だって。彼らは普段ずっと地下に篭っている。外に出るのは買出しか、昼間の屋外実験のときだけだった」
パイプに足をかけ、開け放った窓から中に入る修玄。僕は仕方なくそのあとに続いた。
外は月明かりがあったおかげでまだ視界がはっきりしていたが、こうして屋内に入ると真っ暗で何も見えない。そこで懐から取り出した端末の画面を光らせ、ライトの代わりにした。
「こっちだ」
修玄が手をこまねく。彼に従って進むと、二階へと続いている階段の前に出た。
「ここに地下への入り口がある」
「ここに……?」
扉や非常用窓口のようなものは何も見当たらない。僕が不思議がっていると、彼は階段に取りつけられていた手すりを回し、前に引っ張った。
なにやら金属がはまる様な妙な音がして、僅かに階段がぶれる。すると修玄は、そのまま手すりを横に引き、階段ごと右に移動させた。
凄い。何だこれ。
僕が驚愕していると、彼はなんでもないように呟いた。
「大した仕掛けじゃない。この階段は非常に軽い素材でできているんだ。誰だって、まさか階段の下に階段があるなんて思わないだろう?」
先ほどまで二階へと続く階段があった位置には、今度は逆に、下へと続く階段があった。どうやら上方の階段で、覆い被すようにそれを隠していたらしい。
もし千花がここに捕らえられているのだとしたら、本当に危険なのはここから先だ。僕はつばを飲み込み、意識を五感に集中させた。
一歩一歩音を立てないように降りていくと、底のところに小さな扉があった。大人一人が何とか潜り抜けられそうなほど狭い扉だ。側面にはなにやら円柱状の電話機のようなものがあり、修玄はその機器に指を押し当てた。
「指紋認証装置だよ。ぼくのIDがまだ登録されているといいんだけど……」
「ダメだったら“蟲喰い”で破壊します」
「ちょっとまって。なにか反応が……あれ?」
修玄は不思議そうに目をぱちくりさせた。彼の短い髪の毛が目の前で上下する。
「これ、壊れている。もしかして……」
指を機器から離し、扉の側面にあるへこみへ乗せる。よっこらせーという掛け声とともに、修玄はそれを一気に押し開けた。
「やっぱりだ。ロックがかかっていない」
それを聞いて、僕は不思議に思った。
「どういうことなんですか?」
「さあ。とにかく入ってみよう」
おずおずと中に踏み込む。あいもかわらず真っ暗だったけれど、修玄が壁際にあるレバーを下ろした途端、遠くに伸びていくように部屋の電気がついた。
「これは――」
僕はてっきりこ綺麗な、病院のように白い部屋が広がっているものだと思っていたのだが、予想に反して、中はかなり雑然としていた。
むき出しのコンクリートで出来た壁。天井に走る無数のパイプ。そこらじゅうに伸びているコード。まるで建設途中の工場のようだ。
中に足を踏み入れ、僕は周囲を観察した。
広さ的には蓮上高校の職員室を二つ並べたほどの大きさだろうか。中央には円形のデスクがあり、その右側には三つの大きな容器。左側には五つのベッドが並んでいる。
「やはり彼らは既にここを退去していたようだね。少なくとも一年くらいは前だろう」
「どうしてわかるんですか」
「ほら、あれだよ」
修玄は右奥の壁を指差した。そこにはちょうど一年前の日付が記載されたカレンダーがかけられている。
それを見て僕は大きく落胆した。確かに研究室の中には、ここ最近人が生活しているような痕跡はなかった。こんな状態で千花がここにいるとは思えない。
「やっぱり無駄足だったようだね。……まあ、こんな実験をして、しかも人の誘拐まで行ったんだ。同じ場所にはとどまらないだろう。少なくともぼくが知っているところには」
「何か手がかりがあるかもしれない。見てみましょう」
今にも帰りだしそうな修玄を押しとどめ、僕は足を奥へと動かした。とりあえず中央の円形デスクへと進む。どの机の上も、真っ白なメモ用紙やペンなどが転がっているだけで、役に立ちそうなものはなかった。
僕はひとつひとつ引き出しを開け、中を覗いてみた。しかし当然のようにそこは空洞だった。
「無駄だよ。彼らが証拠なんて残しておくわけがない」
入り口の前に立ったまま、面倒くさそうに修玄が声を投げた。
全ての机の中を確認し終えると、僕は次に左側に並んでいるベットへと目を向けた。一年間そのままになっていたわりには、どれもかなりこぎれいで、皺ひとつ無く整えられている。
「実験体は九体なんですよね。なぜ、ベッドが五つしかないんですか?」
「そこはあくまで経過観察用のベッドだからさ。まだ肉体が安定するまでの間のね。ある程度体が動くようになった個体は、奥の個室へと移動させられる」
「奥って、他にも部屋が?」
「ああ。といっても、潜水艦なみの狭い寝室だよ。二段ベッドが並んでいるだけで、テレビも本棚も机も何もありはしない。見るだけ無駄さ」
そう言われると一応確認してみたくなる。僕は奥へ進み、壁に備え付けられていた扉を開けた。そこは三メートルほどの小さな廊下で、左右に二つずつ扉があった。
――なんだか監獄みたいな場所だな。
少し不気味さを感じつつも、ゆっくりと手前の扉を開ける。するとすぐに大きな二段ベッドが四つつ、目の前に飛び込んできた。
運び出したのだろう。布団や毛布は既になく、むき出しの木の柱と板だけが寂しそうに置かれている。一応中を見て回ったものの、特にめぼしいものは何もなかったので、僕は隣の部屋へと移動した。荒れ具合は同じようなものの、こちらは少しファンシーな感じの部屋だった。どことなく壁や残っている小物にファンシーさを感じる。きっと男女で分かれていたのかもしれない。
廊下を挟んで向かいにあった二つの部屋は、トイレと資料室だった。既に大部分の本が持ち出され、残っているのは場違いな児童書と、低学年向けの教育本だけだった。
実験室に戻った僕を見て、修玄が組んでいた腕を下ろした。
「ほら、何もなかっただろう?」
「ええ。そうですね」
僕は肩を落としつつも気になったことを尋ねてみた。
「なぜこんな場所に小学生向けの教育本が? 実験体の中には子供もいたんですか?」
「う~ん。まあそうだね」
修玄は曖昧な返事をした。
わざわざこんな場所まで来たにも関わらず、千花の手がかりは何もない。こうしている間にも千花の身はちゃくちゃくと危険が迫っているというのに。
僕は大きな失望を抱いた。
気を紛らわせるために、割れている水槽のほうに向かって歩みながら、修玄に問いかける。
「あなたたちは、ここで何をしていたんですか?」
「言っただろ。超能力の研究だよ」
「超能力の研究でなぜ人の死体が必要になるんですか。“触れない男”たちは、彼らは一体“何”なんです?」
「……話すと、長くなる。凄くね」
「構いません。教えて下さい」
千花の手がかりがないのなら、せめて相手の情報でも得れなければ完全な無駄足だ。僕は問い詰めるように修玄を見つめた。
修玄は居心地悪そうに視線を逸らしてから、ゆっくりと口を開いた。
「始まりは、とある医学系大学の小さな研究室だった。どこでもある普通の研究室に、真面目な学生たち。ぼくはそこの一員だった。――あの被験者が運び込まれるまでは」
修玄は背を壁に押し付け、体を斜めにした。表情はどこか虚ろだ。
「それは当時騒がれていたある連続殺人鬼だった。警官に撃たれたらしく、ほとんど脳死に近い状態だった。彼は、念じるだけで人を殺すことができた。彼が意識を集中すると、それだけで周囲の人に不幸が起こった。ある者は落ちてきた瓦礫の下敷きになり、ある者は突然ガス爆発に巻き込まれ焼死した。
意識を失ってなおそんな現象を引き起こす彼の肉体は、病院では対処しきれず、半ば厄介払いにも似た形でうちの研究室に持ち込まれることになった。うちの研究室は医学と心理学、さらには外部と内部との相互反応について研究する場所でね。検死官を輩出したこともあるから、目をつけられたんだろうね。どうにも遺体を処理しようとする人間が軒並み発狂してしまうらしく、手がつけられないとの話だった。
……最初はそんな噂なんてまったく信じていなかったぼくたちは、とりあえずの段取りとして彼の体を研究対象に様々な検証を行った。神経反射。聴覚反応。彼がどのように周囲の状況を認識し、そんな異常な現象を起こしているのか、ありとあらゆる方法を持って調べようとしたんだ。でも、その過程で三人の学生が亡くなった。感電死、病死、打撲、色々と理由はあったけれど、死んだ場所はどれもその殺人鬼の真横だった。
さすがにこれはおかしいと思い始めていたぼくたちは、この遺体を警察に返すべきではと考えたのだけれど、“教授”がそれを押し留めた。彼は、連続殺人鬼の遺体に強い興味を持ったんだ」
僕はさきほどの修玄の言葉を思い出した。教授が、九業たちの設計を行ったという言葉を。
「その教授は誰なんですか?」
「真壁清造という男だよ。それまでいくつもの賞を受賞している天才でね。大学や警察は彼に絶大な信頼を置いていた」
真壁? どこかで聞いたような……?
思い出そうとしたが、急なことで記憶が出てこない。ただ、つい最近似たような名前を耳にした気がした。
「教授の指示の元、僕たちはさらに多くの方法で被験者の検証を行った。人以外も死ぬのだろうか。どの距離まで効果があるのだろうか。何か電波のようなものは出ていないだろうかなどね。検証期間はたった三年だったけれど、その間にさらに五人の仲間が亡くなった。いい加減うんざりし始めていた僕たちだったけれど、そこで教授が妙な仮説を立て始めた。それは、ぼくたちにとってまったく予想だにしない提案だった」
修玄は手を胸の前で組み直した。
「穿くん。君、物理には詳しいかい?」
「物理? いえ、ごく普通の高校レベルですが」
「そうか。じゃあ量子力学なんてわからないだろうね。“教授”が注目したのは、医学や心理学とはまったくベクトルを異にした、“観測者効果”という量子力学の基本理論だったんだ」
僅かに修玄は笑みを浮かべた。まるで授業をしている教師のような表情だった。
「この世に存在する全てのものは、“観測される”ことによって影響を受け、本来の状態とは異なった面を見せる。このいい例が量子力学の分野では誰もが知る二重スリット実験ってやつさ。
これは真っ白な板の前に二つの小さな穴の空いた板を置き、電子を飛ばしたらどんな痕が板に付くか見てみようという実験でね。電子をひとつだけとばした場合、白い板には点の痕ができ、電子を大量に飛ばした場合、白い板には電子同士が干渉して一定模様ができる。 そして電子を一つずつ連続して飛ばした場合、白い板には一定の模様ができるという実験だった。
この実験において、電子が粒子なら一つ目は成り立ち、電子が波であれば二つ目が成り立つんだけれど、どちらの場合においても三つ目だけは説明がつかない。 何故電子を一つずつ飛ばした場合も白い板に模様ができるのか。それについて当時の科学者たちは、模様は二つの穴の位置の違いによって発生するため、どのように電子が穴を通過しているか確認すれば、その原因がわかるかもしれないと考えた」
なんだか話がわからなくなってきた。僕は修玄の顔を見つめたのだけれど、説明に夢中になっている彼は意に介さず言葉を続けた。
「この試みの結果、電子は二つの穴のうち、どちらか一方しか通過していないことが観測された。つまりどのような場合においても、二つの穴を同時に通過することはないとわかった。こうなると、電子を一個ずつ発射しているはずの三つ目の実験が何故模様を生み出すのかまったくもって説明がつかなくなる。電子が粒子であるとすると、一個ずつ飛び、一つの穴を通過した電子に干渉相手は存在せず、模様が発生する理由はない。また電子が波であったとしても、通過できる穴はひとつだけなので、飛び出した電子へ干渉するものは何もない。この事実を説明するために、研究者たちは“観測したこと”で電子の状態に異常が発生したのだと考えた。
電子を観測しようとすれば観測すため、つまりその電子を特定するために光をぶつける必要性が生じ、それによって電子の軌道や状態が変化する。そのせいで観測した結果、穴は一つの場所しか通らないこととなり、粒子かもしれないものが波の動きをし、波かもしれないものが粒子の動きをする結果になるんだとね」
「……はぁ」
僕は曖昧に頷いた。
「簡単に言えば、“何だかよくわからない状態”の電子を大量に観測したものが波となり、“何だかよくわからない状態”の電子を一個ずつ観測したものが粒子となる、ってことさ。
物質とは電子の集合体であり、その組み合わせによって個性を生み出した流動体に過ぎない。鉄も、ゴムも、水も、元をたどれば全て電子や粒子の動き方が違うだけ。
つまり、電子――この世界を構成している“物質”は、観測するそのときまでどんな動きをしているのか、どんな状態なのか、まったくもって未知な存在なんだ。
……例えばそうだなぁ。人間は他人がいることで初めて“性格”というものを生み出す。他人(観測者)がいなければ、“性格”などという現象は観測することができない。
眺めればただの文章の羅列でしかない小説は、それを“読む”ことで世界を作り、物語を展開する。しかし“読む”ことしか知らず“眺める”ことのできない者がいるとしたら、文章がどのような“文字”で構築されているか理解することなんてできないだろう。
今ぼくたちがいる世界は、この小説のように“観測される”ことで成り立っているといっても過言じゃないんだ。観測されることで、初めて形をなし存在できる」
同意を求めるように修玄はこちらを見た。
僕は慌てて彼に言葉を返す。
「つまり、僕たちの世界は一種の文章、プログラムのようなもので構成されているってことですか?」
「まあ、そういうこと。“教授”はまさにそこに着目したんだ。本の中の人物は自分を描写している文章がどういうものか理解できない。けど、もしそれを読めしかも書き換えることができたらどうなるのか。彼は殺人鬼の起こしている異常の原因がそこにあるのではと、そう考えた。
人がものを観測するということは、同時に人がものに観測されることも意味している。
これは別にものがこちらを認識しているという意味ではなく、こちらがものを観測することで、ものに影響を与えてしまうという意味だ。
被験者が起こしているような超能力は、その文章、“よくわからない確率存在”に気づかれることなく観測を行うことで発生する現象だというのが、教授の主張だった。何の影響も受けていない確率存在に、後出しで意思という影響を与えれば、その意思の種類に応じた方向性が与えられる。もし、このときに観測者の意思によって観測の仕方を選択できるのならば、観測者は観測されたあとの状態を自由に操れることになるのではないかってね。
“教授”は殺人鬼の脳波を調べ、その理論を実証した。彼は昔妻子をある男に殺されていたんだけど、その男の音声記録を耳に流したとき、必ず同じような脳波をつくり付近の人間に原因不明の不幸を降らした。
“教授”は自分の発見に喜び、すぐに警察や学会に発表した。しかし超能力なんてばかげたものを、まともに取り扱う者も理解しようとするものも居るはずは無く、結果として、彼は大ブーイングを受けた。
大学の顔をつぶしたと研究室は縮小され、地位も剥奪され、残ったのはこじんまりとした小さな部屋と、ぼくを含んだ数人の研究員だけだった。連続殺人鬼の起こしている異常を調べて欲しいというからことにおよび、発表したにも関わらず、その仕打ちはあまりに酷かった。
しばらくして教授は半ば躍起になって、狂気的ともとれる実験を行うようになった。理解されないのなら、認められないのなら、超能力者を実際に何人も作って見せればいいと思ったんだ。今となってはあきれるほど馬鹿な真似だけどね」
「それが……“触れない男”たちなんですか」
僕は神妙な表情で聞いた。
「いや、まだ違うよ。少なくともその頃のぼくたちは、生きている人間から超能力者を生み出そうとしていた。何とかして確率の世界へ干渉しようと試みていた。でも、どれだけがんばっても無駄だった。
同僚は次々にやめていき、お金にならない研究を続けていた“教授”は家族からも逃げられた。そして追い詰められた彼は、ついに禁忌に手を出してしまった」
「禁忌?」
僕は修玄の顔に意識を集中させた。
「“人造人間”さ。彼は連続殺人鬼の遺体から細胞を切り取り、それを培養した。ちょうど、その当時はとある学者が人口細胞なんてものを開発したばかりでね。彼は手に入れた殺人鬼の細胞を、その人口細胞の原型と組み合わせ、胎児の肉体に注入したんだ。
その人口細胞は共合させた細胞の形質に合わせて特徴を取り込み、変化させるというすぐれた代物だった。“教授”は胎児の細胞を段階的に入れかえ、長い時間をかけて殺人鬼の細胞と人口細胞にその形質を作りこませた。言わば、人間と言う設計図だけを利用したんだ。生まれる頃には、その赤ん坊の細胞はほとんど別物に入れ替わっていた。――それが、彼の本当の狂気の始まりさ」
疲れたのだろうか。修玄は横に転がっていたパイプ椅子を持ち上げると、それを展開し、座った。
「“教授”はその子供に“一業”という名称をつけ、超能力者として育成を行った。殺人鬼の特性と形質を完全に再現していた彼は、すぐに特別な現象を起こせるようになるはずだった。でも、五年たっても、十年たっても、子供に超能力なんて代物は生まれなかった。
何がいけなかったのか悩んだ末、教授は再び天才的な推論を思い浮かべた。
人は常に様々なことを考えている。例えばただ『火を出したい』と思い浮かべるだけでも、火の大きさ、温度、色や形、場所や距離など、実に多くの条件が必要となる。
量子世界での観測は一瞬だから、そんなことをグタグタ妄想していては、決して自分たちの根源である“不確定存在”に一貫した方向性を与えることはできない。超能力などと呼ばれるような大きな現象を表現するためには、徹底した意思の統一化と洗練が必要となる。それこそ、クオリア(自我感覚現象)のように考えるまでもなくそのイメージが浮かぶようなね。
“教授”はこの問題を解決する手段として、ひとつの方法を思い浮かべた。偶然知り合ったとある患者の症状から着想を得たんだ。
その患者は極度の視線恐怖症だった。人と目が合いそうになる度に、尋常ではないほどの過剰な反応で視線を動かし、目をそらそうとする。それはまるで条件付けされた反射行動のようだった。
ぼくは患者の脳に電極をあて、視線が合いそうになったときの患者の脳波を測定していみた。すると面白いことに、場所や時間、対象の相手に関わらず、ほとんど同じような波形を形成することがわかった。
つまり何らかのトラウマや強力な一定の感情を反射的に抱いてしまう人間ならば、その反射範囲においては観測効果の方向を毎回限定することができるのではと考えたのさ」
僕は“触れない男”や五業、和泉さんたちの記憶を思い出した。彼らはみな一様に暗い過去を抱えていた。まさか、だからフランケンシュタインなどという異質な存在の候補に選ばれたのだろうか。ただトラウマを抱えていたから。その感情を抱くのが日常の一部になっていたから。それだけの理由で――。
「この理論を正とすれば、人工的に生み出され感情表現に乏しい一業から成果が出る可能性は少ない。そこで教授は、“他所”から強いトラウマを持っている人間を調達することにしたんだ。
ただ、一業とは違いよそから得た肉体たちは、超能力を発現させるのに適した形質を持ってはいなかった。超能力者の細胞は普通よりも粒子に反応しやすい必要があって、一般的な我々の肉体じゃ、再現できなかったらしい。
……教授は学会から追放されてなお、その業界に深いつながりがあった。表向きの信用は失ったけれど、彼の才能を評価している人間は無数にいた。一業をつくり、実験を繰り返している間、“教授”は多くの研究員や、医療関係者、大学教授などの論文を、ゴーストとして執筆していたんだ。同時にそれは、彼が複数の人間の弱みを握るきっかけとなった。
彼は自分が代理執筆をした者たちに依頼し、あらゆる企業や学校の健康診断に超能力者の素養を判断するための心理的、肉体的テストを組み込ませ、そのデータをよこすように指示した。手に入れたリストの中に超能力者としての素養の高い死人が出れば、適当な理由を作り回収し、部品としておのが下に収集した。
でもそれらの死体だけでは、例の殺人鬼に比べて素養の純度は低い。だから、純度の高いパーツを組み合わせて完全なものを生み出そうとしたんだ」
「じゃあそれが――……」
「そう。君の言う、“触れない男”たちだよ」
深夜に走る車の音のように、修玄の声が部屋に響いた。
4
「組み合わせるって、血液型が違うだけでも人は死んでしまうのに、そんなのどうやって……」
「そこで、先ほどの人口細胞が出てくるんだ。生物の体と言うのは、所詮情報に過ぎない。電子や粒子という存在の動きの一部、いわば“生きる”とはただの粒子の“流れ”のことだ。でも、超能力者はその流れ方が特殊だった。――“教授”はね。改良した人口細胞と死者の肉体をこねくり回すことで、死者の肉体を細胞外マトリクス化させ、強引に免疫反応を食い止めた。いわば、その万能細胞を接着剤のように使用したんだ。もとはマサーセッツ大学が発見した技術でね、それを参考に利用させてもらった。……勿論このやり方だって限界はある。彼らの肉体は定期的に人口細胞の入れ替えと点検を行わなければならないし、なにより強引に繋ぎ合わせた肉体だったから、ところどころに異常もあった。でも、それでもある程度の身体機能は維持できるようになった」
「……彼らは死んでいたんですよね。いくら特殊な細胞を使ったとはいえ、立って歩けるはずがないと思うんですが」
僕は睨むように修玄の目を見た。
「そうだね。それは当然の疑問だろう。でもそんなのは、大した問題じゃなかった。そもそも使用された細胞は死者を動かす実験にも使われるほど生体活性能力の高いものだったし、何より彼らには素体があった」
「素体……?」
「――とにかく、“教授”は死者の肉体を使い、八体の実験体を生み出した。彼らは一業とは違って、“教授”の望みどおりに特殊な現象を引き起こし、その理論を証明した。まさにあの殺人鬼の再現だった。教授はそれをすぐに売り込もうと考えたんだけど、ぼくは彼の異常さと実験の悪辣さに嫌気がさしてね。ちょうど家族に不幸もあって、九体目が完成する前に彼の元を去った。正直、ずっと前から逃げたいと思っていたぼくは、それで救われたと思った」
気がつけば、修玄の手は震えていた。小刻みに、蟲の羽のように。
僕は五業と和泉さんの台詞を思い出した。
「前に、その怪物の一人がこんなことを言っていました。千花が手に入れば不完全な肉体を解消できるって。それは、どういうことなんですか?」
「その子のことは何も知らないから正確なことは言えないけれど、たぶん、分解して細胞を注入するつもりなんだろう。話の通りなら、カナラは最高純度の超能力者だ。複数の他人の体から構成されていれば拒否反応も起こりえるけれど、それが特定の個人だけなら問題も少ない。最初の殺人鬼の肉体は既に存在しないしけれど、彼女ならその代わりになる。彼らは、そのカナラという少女を人身御供にする気なのかもね」
淡々と述べられたその言葉に、僕は頭を金槌で打たれたようなショックを受けた。
千花を分解する? なんて、なんでそんな残酷なことを考えられるんだ?
死体を利用した実験といい、彼らの行為は微塵も理解ができなかった。とてもまともな人間のすることとは思えない。彼らを作った人間は、完全にどうかしている。
もういい。もう十分だ。大体の話はわかった。もうこれ以上こんなイカれた話を聞き続ける必要はない。
僕は水槽の前から移動し、修玄に近づいた。
「あなたはその真壁教授の部下だったんですよね。だったら、ここの他に千花の居場所について心当たりとかはないんですか? 大学の施設とか、その教授が個人で持っていた実験室だとか」
「ないね。話したとおり、彼は多くの有識者の弱みを握っていた。彼がその気になれば臨時的な研究室を作ることなんて朝飯前だし、それは全国のどこでも可能なんだ。敷地を貸している者は自分の関与を知られたくないはずだから、公にはそんな事実を公表しない。一度教授が隠れてしまえば、彼を見つけることはほとんど不可能といっていい」
断言するように修玄は言った。
「――……じゃあ、その教授が代筆を行った人たちの名前を教えて下さい」
「それも無理だよ。ぼくは彼の個人的な実験に関わっていただけだからね。表の仕事になんか一切興味はなかったし、関与もしていなかった。……かろうじてわかることといえば、ここを離反した他の研究員の居場所だけど、それも恐らく今は無くなっているだろう」
そんな……じゃあどうすればいいと言うのだ。
僕は焦りを覚えた。
「あなたに協力要請をしたんですよね。また会う機会はないんですか?」
「彼が目的のものを手に入れたのなら、そんな機会はもうないさ。そもそも僕は五業を介してしか彼と連絡をとっていなかった」
そう言うと、修玄は申し訳なさそうな目で僕を見た。
「穿くん。残念だけど、もうどうしようもないよ。君の友達は彼らに誘拐されてしまった。それももっとも条理に反した者たちの手にね。君が彼女を大切に思う気持ちは理解できるし、同情するけど、もう、無理なんだ。物理的にも、社会的にも。その千花と言う子は、君の手の届かない場所に行ってしまった」
「諦めろっていうんですか」
僕は暗い怒りを秘めたまま、彼をにらみ付けた。
「そうさ。……もう、一高校生にどうにかできる問題じゃない。君は確かに特別な力を持っているけれど、所詮それはただの暴力でしかないんだ。そんなものは、教授の前では何の役にも立たない」
優しく諭すように語りかえる修玄。しかしそれば、僕の怒りを高めるだけだった。
「よくそんなことが言えますね。あなたが本当に後悔しているんだったら、普通は僕を助けようとするんじゃないんですか? なんだかんだ言って、あなたは怖いだけなんだ。自分の身が危険に巻き込まれることが。また真壁教授たちと係わり合いをもつことが」
「ぼくは、君のためを思って……」
「あなたが本当に過去のことを後悔しているのなら、素直に警察に出頭するべきだった。たとえ信じてもらえなくとも、真壁教授たちが生み出した怪物たちによって被害を受けた人たちの数は、ぐんと少なくなっていたはずです」
突き放すようにそう言うと、修玄はわずかにたじろいだ。どうやら痛いところをついたらしい。
「君はわかっていない……! 教授のやったことは、社会的に立証することは不可能なんだ。彼には多くの後ろ盾がいるし、使者を生き返らせ超能力者にしたなんて絵空事、誰が信じる? もう千花さんを取り返すことも不可能なんだよ」
半ば怒鳴るように修玄はそう言った。
僕は反抗しようとしたけれど、口を開きかけたところで、やめた。何だかここで言い争いをしていても、何の意味もない気がしたからだ。
それを肯定の意思表示だと思ったのか、修玄は背をこちらに向け、開け放したままの扉に手をついた。
「もう戻ろう。穿くん。君は良くがんばった。ここまでだ。ここで君の特別な夏は終わりだよ」
これで終わり? こんな、中途半端なままで?
そんなこと認められるわけがない。ここで終わってしまうんだったら、僕は一体なんのためにこれまで頑張ってきた。何のために“触れない男”たちと争ったんだ。
必ず千花を助ける。そう言いたかった。――けれどどういうわけか、言葉が上手く出なかった。
僕の様子を見た修玄は、同情するような視線を向けたあと、ゆっくりと暗闇の中の階段へ、足を移動させた。
5
明社町に向かって帰る車の中は、非常にどんよりとした空気が漂っていた。
僕も修玄も何も言わずただ外の光景だけを眺めている。
千花……本当にもう、助けられないのか?
諦めるつもりは当然ない。けれど、どうすれば彼女を見つけることができるのか、検討もつかなかった。
僕は運動神経が高いわけでもないし、たいして頭がいいわけでもない。出来ることといえば、ただ壊すことだけ。それだけが、僕の起こせる唯一の結果だった。
今更ながらに己の矮小さを噛み締める。強い怒りも気持ちも十分にある。でも、僕という個人の小ささが、それを実現できない。今の僕はあまりに無力だった。
力なくうな垂れていると、修玄がぼそりと声を出した。
「おそらく教授は、いつか君たちが深見さんのところを訪れるかもしれないと予想していたんだろう。君たちが九業や八業を殺したことで、迎え撃つ気なんだと悟った。だから罠をはったんだ」
「……でも、深見さんにそんな記憶はありませんでしたよ」
「記憶を読む相手だということはわかっていたんだ。当然、そういう相手に対する策も用意していたはずさ。僕の感では、深見さんの娘あたりを利用したんだろう。母親には内密に娘にも連絡を取り、脅し、利用した。君の話から察するに、千花さんが誘拐されたのは深見さんの家を訪れた直後だ。だからきっと、彼女の娘が連絡したんだ。大方、家の玄関に監視カメラでも仕掛けて、それをチェックしていたんだろうね。怪しい人間が来れば、その情報を伝えるようにってさ」
そうか。確かにそういう方法なら、僕たちに気づかれずに情報を得ることができる。“カナラ”という強力な力を得たことで、過信してた。こんな簡単な方法もあったというのに。
己の愚かさを悔いても既に後の祭りだ。僕はただ、言いようのない何かを体の中に濁らせたまま、外を眺め続けることしかできなかった。
明社に着き、僕は修玄の車から降りた。家に近い、海沿いの道路だった。
既に日は落ちているから真っ暗でひと気もほとんどない。帰ったら父に殺されるだろうなと思った。
「もうないと思うけれど、君の周囲でまた彼らの気配を感じたら、連絡してくれ。何か手を貸せることがあるかもしれないから」
ドアガラス越しにそんなことをのたまう修玄。僕は冷たい目で彼を見据えた。
「今更いい人ぶらないで下さい。どうせあなたにそんな気は無いでしょ」
「――穿くん」
「何度も言いますが、あなたは警察に行くべきだった。それをしなかった時点で、何を言っても説得力はありませんよ」
修玄は一瞬何かを言いかけたが、僅かに間を空けた後、言葉を作り直した。
「……落ち着いたらまた連絡をくれ。ぼくはいつでも待ってるから」
ドアガラスを完全に閉め、寂しそうにこちらを見ると、修玄はそのまま車を発信させた。僕は得体のしれない空しさだけを抱えたまま、遠ざかる彼の姿を見送る。
車が曲がり角を曲がっていくと、辺りは無音に包まれた。波の音だけがそこに存在していた。
何だか家に帰りたい気分じゃなかった。
海沿いに沿って適当に歩き出すと、あるものが目に入った。灯台だ。カナラと再会し、“触れない男”の痕跡を見つけたあの公園の灯台。
僕の足は、何かに引き寄せられるようにそこに向かった。
どこをどう歩いたのかまったく記憶にない。気がつくと倉庫地帯を抜け、あの公園の前に立っていた。
夜風に煽られながら、以前にも上った小さな丘に目を向ける。まるでその丘は、上空に広がるいくつもの星々へ渡るための橋のようにも見えた。
ふらふらと丘に近づいてくと、次第にその丘の上に何かぼやけたものが浮かび上がった。小さな人間の輪郭。まるで幼い少女のような――
僕が目を凝らした途端、それは蜃気楼のように崩れ、一人の高校生ほどの女性の姿へと変わった。
一瞬どきもを抜かしたものの、僕は声を上げることは無かった。少女の幻影を見た時点で、なんとなくわかっていたのかもしれない。彼女が、そこにいると。
カナラは長い黒髪を風になびかせながら、慈しむような目で僕を見下ろした。
僕は静かに呼びかけた。
「――やあ、カナラ」
彼女は前髪を耳にかけ直すと、小さく微笑んだ。
「こんばんは。穿」
「ここで何をしてるの?」
「星を見ていたの。今日はすっごく綺麗でしょ?」
夜空に輝く光の砂を見上げるカナラ。僕は彼女に近づいた。
「今まで何で姿を見せなかった。僕は……君のせいで千花が……」
「知ってる」
彼女は上を見たまま答えた。
「知ってる? じゃあ何で彼女を助けないんだよ。あの子は、千花は無関係なんだぞ」
「無関係? それは違うよ。千花は私や穿と同じくらい、事件に深く関わってる。あの子がいたおかげで、私は生きてこれた」
「まさか、千花を身代わりにしたのか」
僕は我が耳を疑った。カナラがそんな台詞を吐くとは考えたくなかった。
「望んでそうしたんじゃない。勝手にあの教授が勘違いしたんだよ。千花が自分が追い求めていた殺人鬼の娘だって」
「殺人鬼の娘? じゃあ、君は……」
「修玄から聞いたんでしょ。運び込まれた死体が全ての始まりだ立って。私は、その殺人鬼の娘」
あっけらかんとした調子でカナラはそう言った。
「ある日、私の家に強盗が入ったの。その男は私とお母さんを刺して、逃亡した。お母さんは即死だったけれど、私は奇跡的に助かった。
でも、私たちが襲われたことで、お父さんはおかしくなってしまった。もともと家系的に“そういうもの”を発現しやすかったのか、お父さんが呪いじみたおかしな現象で色んな人を殺して回るようになった。きっと、お母さんを殺した男に復讐したかったんだと思う。
そこでお父さんのことを危険だと判断した警察のある人が、私の身を守るために事実を隠蔽したの。私は戸籍と名前を変え、真方カナラとして生きることになった」
僕は何も言うことができなかった。
「しばらくは普通に生活していたんだ。新しいお母さんも、お父さんもいて、少しギクシャクはしていたけれど、何とかやっていくことはできた。でもやっぱり幸せっていうものはそう簡単に手に入るものじゃなかったみたいでね。私の生存を聞きつけた教授が、身体を手に入れようと付け狙うようになったの。強い恐怖から、私は幻覚を見せられる力を獲得した。お父さんが“おかしい”のは知っていたから、私も同じようにおかしくなったんだと思った。私は新しい両親を巻き込まないために、記憶を消して一人で逃亡した。そしてしばらくして、穿に出会った」
三年前のあの頃。彼女はいつも僕の後ろに立って、絵を眺めていた。楽しそうに無邪気な笑みを浮かべて。何かを忘れようとするかのように。いつもぼろぼろの姿で。
再会したら、話す機会があったら、文句を言おうとそう思っていたにも関わらず、僕は何も言うことが出来なかった。千花と同じように、彼女自身も苦しんでいたのだ。全てを失って、何もかも無くして、それでもただ生きたかったから。
「ねえ穿。まだ千花を救いたい?」
突然、彼女は視線を落としそう聞いた。まるでご飯のお代わりはいるか? と聞くような自然な聞き方だった。
僕は当然のように答えた。
「――助けたいよ。僕は千花を助けたい」
すると、彼女は優しく微笑んだのち、ゆっくりと体をこちらに向けた。
「なら、明日の夜に北区の沢波二丁目に行って。そこに千花が居るはずだから」
「ちょ、ちょっと待って。どういうことだよ? 教授は、千花はまだこの町にいるの?」
「いるよ。この町の人たちには私が長い時間をかけて強力な暗示をかけてある。おかしな出来事を気にしないようにしたり、町から出たがらないようにね。あなたたちには色々と動き回って欲しかったから、特別に移動を許可したりもしたけど。……同じように教授にも強力な暗示をかけた。私がとかない限り、彼はこの町から出ることができない」
「真壁教授に会ったの?」
「まあね。彼を呼び込むために、この町に篭城して実験体たちを負かした。そうすれば、流石に彼だって出てこらざる負えないからね。いくら影響力があるといっても、それはあくまで表社会での話。超能力者や九体の実験体のことを知っている協力者はもうほとんどないから、彼らに何かあれば直接彼が出てくるしかない。それが、狙いだった」
教授がまだこの町にいる。まだ、千花を助けることができる。僕は消えかけていた蝋燭の火が灯ったような気がした。
「なぜ明日の夜なの? 移動しているってこと?」
「そう。町から出られなくなったことで、教授は焦ってるんだろうね。千花を囲ったまま絶えず移動を続けている。上手く逃げ回っているけれど、それをやり続けるためにはどこかで他者と接触しないとならない。だから、不動産や土地管理関係の人間に記憶を漁って情報を掴んだの」
「じゃあ、本当に……」
「明日の夜。真壁教授と千花は必ずその場所を訪れる」
断言するようにそう言うカナラ。彼女が情報を間違えるはずはない。そうだといえば、絶対にそうなるのだ。僕の心臓は一気に鼓動を再会し始めた。
「良かった……! カナラ、君の目的は教授を捕まえることなんだろう? だったら一緒に――」
「残念だけど。それは出来ないよ穿」
僕の提案をカナラはあっさりと否定した。
「私はもう自由に動けない」
「どういうこと?」
よく見れば、カナラの顔には大量の汗が浮き出ていた。暗くてわかりずらいが、顔色も良くない。何だか酷く疲れているように見える。明らかに様子がおかしかった。
「覚えておいてね。教授にはまだ二体の実験体が残っている。一体は私がどうにかするけれど、もう一体のあの男は……」
「カナラ? どうした?」
僕は倒れそうな彼女に向かって駆け出したのだけれど、その手を掴む前に彼女の姿は掻き消えた。いつものように、花の香りだけを残して。
丘の上に立ったまま僕は伸ばしかけていた手を下に下ろす。
彼女は間違いなく本物だった。僕が知っているカナラだった。
もしかしたら、彼女は手負いだったのかもしれない。きっと教授に暗示をかけるためにかなりの苦労をしたのだろう。あそこまで用意周到な男なのだ。カナラの精神干渉に対する何らかの防衛策を持っていてもおかしくはない。
「明日の夜。……北区の沢波二丁目か」
僕は下ろした手を、強く握り締めた。




