第492話 アザトース
【フェイクショット】。音もなく、それどころか演出もなしにキャラクターにダメージを与える【アサシン】のスキルだ。さらに言えばHPゲージすらも表示上は変動せず、攻撃を受けたことにも気づかない。
純粋な対人戦においても厄介なスキルではあるが——なるほど、野良PKにおいてこれほど優秀なスキルは他にない。
「出てきてください。【フェイクショット】の威力では一撃で対象を仕留めることはできない。こうして気づかれた時点で企みは無為ですよ?」
【フォッダー】に限らず、ボクはPKを否定するつもりはない。利のある選択であっても、完全に無意味な嫌がらせであっても、システムが許していて運営が罰則を与えないのであれば許容される行動だと考えている。もちろん、それに対して不快感を覚えるというのも自由な価値観だ。
しかし今、あきなさんに向けられた感情は単なる嫌がらせとは次元が違う。
明確な殺意。ゲームで相手のHPを全損させたいと考えたというだけでは到底成り立たない強い感情——。
「え、なになに?どうしたの?」
「【フェイクショット】?どういうことですの?」
あきなさんも猫姫さんも攻撃には気づいていなかったようだ。メグさんは【ストレージ】から巨大な斧を取り出し、曲がり角の方へ視線を向けている。
「——やれやれ、【フェイクショット】は観測不可能な攻撃だよ?それに気づくとは、『チート』が過ぎるんじゃないのかい?」
そう言いながら曲がり角から姿を見せたのは、小学生くらいの男の子だった。もちろんこの世界はゲームだから、そういう見た目にすぎず実際の年齢はわからない。
「なにが目的なのです?」
メグさんは問いかけながらも、多数の支援を展開していく。
【フォッダー】はHPが全損してもペナルティのないゲームだ。強いて言うなら、この迷宮から追い出されて街の噴水に戻されるくらいのものだ。狙われたからといって、ここまで気を張り詰める必要はない。
けれど——彼の瞳には、暗く沈むような底なしの悪意が宿っていた。
「なにをそんなに警戒してるんだい?所詮はゲームじゃないか」
〈ロールプレイング〉を起動させる。その狙いは——目的は——。
奥深くに潜り込もうとしたボクの意志が、そこで拒絶反応を起こす。模倣できないというわけじゃない。これは帝王龍さんや猫姫さんの『確信』と同じ——。
『殺意を込めてプレイヤーを全損させれば、対象を死に至らしめることができる』
少なくとも彼は——そう『確信』していた。同時に、彼が『確信』を抱くことになったさまざまなエピソードが思考の海に流れ込んでくる。
彼の視点からは、実際に対象を死亡させたかという証拠は確認できない。ただし、その後プレイヤーはログインしてこなくなった。
ボクからすれば、ただ『確信』しているだけでプレイヤーを殺すことなんてできるはずがないと思いたいが、実際に時間を止めたりシステムを改ざんできるプレイヤーが存在するのだ。絶対なんてことはない。そんなこれまでの経験則が、彼の考えを補強してしまっていた。
止めなければ——でもどうやって?この場で彼を仕留めることは不可能ではない。けれど、彼は何度でも復活できる。彼に相対する者は一度とて負けられないが、彼は無限に挑戦を重ねることができる。そのすべてを防ぎ切るのは現実的ではない。
「あきなさん、ログアウトしてください。猫姫さんも、メグさんも」
「所詮はPKでしょう?わざわざ逃げる必要はありませんの。叩き潰してやりましょう!」
「でも——」
猫姫さんは状況を理解していない。あきなさんは多少なりとも理解しているものの、まだ受け止め切れていない。そして、メグさんは——。
「私は、卍さんの相棒なのです」
すべての状況を理解した上で、メグさんは斧を大上段に構えた。
「わかりました。蹴散らしてやりましょう!」
その宣言によって、戦いの火蓋が切られた。ボクは【エレウテリア】を起動して、男を強く睨みつける。しかし——スキルが効果を及ぼす直前に、視界の空間がぐにゃりと歪む。慌ててスキルをキャンセルした。
全能で操る光の反射——鏡の再現だ。ボクは【誤爆無効】を取得していないから、鏡を向けられただけで、こちらの攻撃は簡単にすべて跳ね返されてしまう。ピンポイントに痛いところを突いてきましたね……。
鏡の出現と同時にメグさんが光を超越する速度で駆け抜ける。【マクロ】で再現された最高レベルのAGIをもって一瞬にして男に肉薄し、刹那にも満たない間に斧を振り下ろす。それに対して彼は指先を伸ばし——。
「【ガードジャスト】」
「こいつっ、見てから止めたのですっ……!」
最高速の斧による一撃をピンポイントに【ガードジャスト】で受け止めるには、絶大な反射神経か、〈オートジャッジ〉による自動行動が必要不可欠、そして普通に考えれば後者によって成し得た事象だと考えるのが自然だ。
しかしこの男は本当に見てから止めた。人智を超越する反射神経を持ちながら、〈ロールプレイング〉によればこれで生身の人間だというのだから、恐れ入る。
「お返しだ」
男はそう言うとメグさんの斧を軽く振り払う。その瞬間に彼女はすさまじい物質干渉力を受けて吹き飛ばされる。すぐに【マクロ】で停止してその場に着地したが、HPゲージは半分以下まで削り取られていた。
「単なる通常攻撃でこの威力——」
「単なる通常攻撃?そんなわけないじゃないか。僕の【黄金の才】——『アザトース』の前には、立ちふさがることすら許されないんだよ」
明らかに【黄金の才】の命名規則に当てはまらない名称、しかし【黄金の才】でもなければ説明のつかない絶大な能力。
ボクは気がついた。
それこそが——彼の『確信』に至る根源だ。




