チョコレートモヒートは恋の味
超がつくほど久しぶりの更新です。未だに読んでくださる方がいて、感想もくださったので、がんばりました。お楽しみいただければ幸いです。あまり大それた展開は無く、閑話に近い感じですが。
「上梨先輩」
「ん?」
合気道部の後輩である綾目さんに話しかけられて、俺は自転車に乗ろうと上げた足をいったん降ろした。
「もう帰るんですか?」
「ああ、バイトだから」
「あ、そうなんですか」
「何か用?」
後輩に呼び止められる用事が思いつかないので、俺から聞いた。
「いえ、別に。バイトならいいです」
「あ、そう」
何だか不可解だが、そっちに話が無いのならこっちにも無い。何しろ今日の稽古はOBが来ていて少々長引いた。こちらはもたもたしていたらバイトに遅刻なのだ。
「じゃあ」
「あ、さようなら」
手を振る綾目さんに俺は頷いてペダルを踏み込んだ。
◇
「セーフ、ですよね」
「ぎりぎりだよ、上梨」
「はい、すいません」
「ま、でも、セーフだから」
俺がバイトしているバーのマスターがにかっと笑った。
俺は手早くエプロンを付けて厨房に入った。手を念入りに洗って、早速準備に掛かった。
バレンタインデーが近づいて、このバーでもイベントをしている。その準備である。
チョコレートのカクテルなんて珍しい物を出すというのだが、元々このバーではドリンクを注文した客にはチョコレートを一粒出している。何でもチョコレートにはアルコールによる胃の負担を和らげる効果があるんだとか。
それを聞いてから俺とつゆりも宅飲みする際にはチョコをテーブルに置くようにしている。
「上梨、イベントドリンクワン」
「はい」
立ち上るチョコレートの香りに、俺はふとつゆりと高校時代のバレンタインの出来事を思い出していた。
◇
「うわあ、最悪」
「え?なんで?」
俺は同級生の酒々井つゆりがくれた手作りチョコをシェアしようと二つに割ったところだった。
高校生活最後の2月。国立大学の2次試験に備えて追い込み中の俺達は、放課後の教室でバレンタインデーを迎えていた。
酒々井つゆりは俺の彼女であり、今回のバレンタインデーに受験勉強の合間を縫って手作りチョコレートをプレゼントしてくれたのだ。
そのつゆりが俺に向かって怒っている。
「あのさ、今、上梨が真っ二つに折ったチョコの形分かってる?」
「え、と。ハート形?」
「うわあ、それ分かってて真っ二つにしたわけ?引くわあ」
「あ、そうか。ごめん」
「ごめんて。ハート形のチョコレート真っ二つに折っておいて、ごめんて」
つゆりがおでこに手を当てて頭が痛い素振りをする。それがまた可愛いと思ってしまう俺であった。
「ごめんよ、つゆり。でもシェアして食べたくてさ」
「あのね、上梨」
「はい」
つゆりに指を突き付けられて俺は畏まった。手の中のチョコが溶けてしまいそうで、そっと置く。
「私のそれは手作りなの。オーケー?」
「オーケー」
「私は何度も試作品を作って、そしてやっと出来上がったのがそれ、アンダスタン?」
「アンダスタン」
なんで、英語なんだ?
「もうぶっちゃけチョコレートなんて見たくないほど、試食しまくっているのよっ」
「あー」
そんな身もふたもないこと言わない方がと言いかけて止めた。
「ありがとう」
「む」
頑張ってくれたつゆりが素直に嬉しくて頭を下げた。
そして二つに折ったハート形のチョコレートを口に放り込む。
「うん、美味い」
「ほんと?」
覗き込むようにつゆりが見てくる。俺があまり甘いチョコは好かないと聞いて、ちょっぴりビターに仕上げてくれたようだ。
「甘すぎなくてピッタリだよ」
「えへへ、よかった」
もう片方も口に放り込む。
「あ、もう食べちゃった。苦労したのに、食べるのはあっと言う間だなあ」
「美味しいよ、本当に」
「そう。まあ、いいか。喜んでくれたから。二つに折ったのは許せないけど」
「ごめんな」
俺にはもう一つ懸念があった。
「あとさ」
「何?」
俺は机の中から一つの箱を取り出した。
「これ、もらっちゃってさ」
「え?上梨に私がいるって知ってて?」
「そうなんだよねえ」
つゆりの表情が一気に曇った。
「あのさ」
「結構強引に押し付けられちゃってさ」
「あの、上梨」
「体育祭の実行委員で一緒になった下級生なんだけど、ぶっちゃけ名前も知らなくてさあ」
「ストップ、上梨」
つゆりが手を広げて俺の目に突き出した。そして真剣な顔で、目の前の箱を指差した。
「これ、やばいよ」
「やばい?ああ、受け取っちゃやばかったか」
「違う、これはやばいチョコレートだってこと」
「ん?」
まさか、何か「見えて」いるのか?
「たぶんだけど」
「うん」
「なんかおまじないみたいなことしてるんだと思う」
「おまじない?」
「うん、恋のおまじないみたいなのが流行ってるんだよ」
「そうなんだ。でもおまじないくらいなら」
俺の言葉を遮ってつゆりがちっちっちと指を振った。
「あのね、おばあちゃんによれば、下手なおまじないは下手な呪いとおんなじなんだって」
「うわあ」
さすがにつゆりのおばあさんの言葉となれば重みが違う。
「ってことはこれ、呪いみたいになってるわけ?」
「見た方が早い」
つゆりが珠を取り出す。
俺と手を繋いぐとふわっとした感覚になる。
「開眼」
俺にも箱から滲み出ている瘴気のようなものが「見える」ようになった。
「うへ。こりゃ怖いな」
これを食べていたらと思うとぞっとする。
「なんか、昔の呪術では、自分の身体の一部を呪いたい相手の飲食物に混ぜるって方法があるんだってさ」
「それ、今のおまじないであるわけ?」
「それがあるのよ。唾液を入れるとか、髪の毛を刻んで入れるとか」
「きも」
思わず嫌悪感が顔に出てしまった。そんなおまじない、呪いでしかないだろ?本気で信じている奴がいるのか?
「中には、えーっと月の…、やめとこう」
さらに何かを言いかけてつゆりが止めた。何だか聞かない方がいい話に思えた。
「これ、捨てていいのかな?呪われない?」
「拍手してからにした方がいいかな。本格的な呪いにはなってない出来損ないだから、拍手でいいと思う」
「分かった」
俺は気持ちを集中して、チョコレートの箱の上で手を叩いた。
ぱあんと小気味いい音が教室に響き、箱から漏れ出ていた瘴気が消し飛んだ。
「お見事」
「どうも」
しかし学校のごみ箱に捨てるのも、バレたら怖い。持ち帰るのはもっと怖いので、帰り道のゴミ捨て場に捨てさせてもらうとしよう。
「ちなみに、つゆりはさっきのチョコに何も入れてないの?」
「愛情だけ、かな」
何だろう。無性にキスがしたいぞ。俺はつゆりの手を握った。
「つゆり」
「え?ここで?」
「誰も見ていないから」
「んもう」
ちゅっとお互いの唇を鳴らして、俺は満足した。
こんな気持ちになったのは、つゆりがチョコレートに込めた愛情のせいだろうか。
◇
「余ったチョコもらって来たよ」
「わあい」
つゆりが俺の言葉に笑顔になった。
バイトのバーで出しているチョコレートは結構高いチョコレートで、開封してしばらく経つと次の箱に切り替えるので、持ち帰っていいと言われているのだ。
「三つもらえたんだ」
「どれどれ?」
親指の先くらいのチョコレートだが、これ一粒だけで300円以上するのだ。
「どれにする?」
「えっと、じゃあこれ」
つゆりが3つのうち、1つを指差す。
「じゃあ、俺はこれにするかな」
お互いに一粒のチョコを口に放り込む。
「美味しいー」
「だね。高いだけあるなあ」
頬を両手で抑えて笑顔のつゆりが可愛い。
「最後のは?」
「つゆりが食べていいよ」
「えー。じゃあ、はい。んー」
つゆりが最後の一粒を前歯で噛んで顔を突き出して来る。そう来たか。しかし噛んで割るのはもったいないかな。
俺は顔をつゆりに近づけて、差し出されたチョコごとつゆりの唇を奪った。
「んー?」
つゆりが目を白黒させる。二人の口の中でチョコレートが溶けていく。
ああ、これはちょっと甘口だったな。
◇
「なんだか、今年は上梨がたくさんチョコ持って帰ってくるから、バレンタインに今更チョコレートなんていらない気分じゃない?」
「え?そんなことないけど」
つゆりがベッドから体を起こして、ほどけた髪を結びなおしながら言った。
「今年は手作りするかもって言ってなかった?」
「ああ、去年はごめんねー」
つゆりが笑った。結んだ髪が小さく揺れる。
「あれはあれでよかったけどね」
「お酒が入ってるチョコだって分からなかったんだもん」
もう何度も聞いた言い訳である。
つゆりは去年のバレンタインデーに中にお酒の入っているチョコレートを買ってプレゼントしてくれたのだが、それは本人の意図したところではなかったのだ。
ぶっちゃけそのタイプのチョコレートをつゆりは好きではなく、高いチョコレートを買って失敗してしまったので、今年は手作りすると言っていたのだが。
「まあ、せっかく手作りしても真っ二つに折っちゃう相手だとねえ」
この愚痴、これからもずっと言われるのだろうか。
「愛情のこもったチョコレート食べたいな」
「普段のお料理も、愛情込めてますけどね」
「あ、俺もつゆりに同じ」
つゆりが笑ってベッドから下りた。冷蔵庫へ向かうつゆりの背中に声を掛ける。
「そう言えば、チョコレートのおまじない、覚えてる?」
「高校の時の?」
「そうそう、それ」
「うん、どうかしたの?」
「うちのバーでバレンタインイベントしてて、そこでチョコレートモヒートってカクテルを出してるんだ」
「へえ、チョコレートのカクテルなんてあるんだ」
「あるんだよ。チョコレートリキュールを使うんだ」
「飲んでみたいな」
お酒の入ったチョコレートは嫌がったのに、カクテルは飲んでみたいのか。女心は複雑だな。
「今度飲みに来る?」
「考えとく。で?そのチョコレートモヒートが何?」
「ああ、そのカクテルにミントを入れるんだけど、ミントって魔除けになるって、マスターが言うんだけど」
つゆりがコップにウーロン茶を入れて戻りながら答えてくれた。
「なるらしいね。ミントとかローズマリーとか」
「そうなんだ」
「加茂さんも使うって言ってたよ」
「へえ」
加茂さんが使うと言うのなら、実際に効果があるのだろう。
つゆりが差し出したウーロン茶を受け取って、一口飲む。
「チョコレートには、なんか恋愛感情を喚起するような効果もあるとか、マスターが言っていたからさ」
「それは聞いたことあるな。失恋にはチョコレートがいいって」
「マジなんだ。うちはバーだから男性が女性をエスコートして来ることが多いんだけど、あのカクテルを女性に飲ませるってことは惚れて欲しいってことか」
「バーに女性を連れてくる男性って、こんなに酔わせてどうするつもり、の男性ばっかじゃないの?」
「すごい偏見」
思わず笑ってしまった。
「前にクリスマスで見た男もそうだったじゃん」
「ああ、あいつはそうだったな。でもそんなんじゃない男性もたくさんいるよ。素敵な空間で、美味しくお酒を楽しみたいって感じの」
「ふーん」
信じてないな、つゆり。
◇
「先輩、おひとりですか?」
「ん?ああ、そうだけど」
2限目の講義が急に休講になったので、俺は生協の学食へ来ていた。
テーブルに座って辞書を引いていた俺に話しかけて来たのは部活の下級生の綾目さんだった。部活の時には邪魔にならないように結んでいる髪を下ろしているので、いつもよりも大人びた印象だ。
綾目さんは俺の前に座って俺の手元を覗き込んだ。
「英語ですか?」
「ああ、苦戦しててね」
「教えましょうか?」
「教える?」
「ええ、私、帰国子女なんで」
「へえ、そうなんだ」
「新歓の自己紹介でも言ったんですけどね」
「ごめん、覚えてない」
俺の言葉に少し綾目さんの頬がひくっとなった。
「覚えてください。で、どんな単語引いてるんですか?」
ぐいっと身を乗り出して来る。近いなあ、距離感が。俺は嫌味にならない程度に少しだけ身を引いて、英文を指差した。
「これ。意味が分からなくて」
「ああ、Just wing it.ですか。これって、適当にやろうみたいな意味なんですよ」
「ウイングなのに?」
「ウイングなのに、です」
くすくすと笑って綾目さんが身を引いた。なぜか緊張していた俺の身体からその緊張がすっと抜けた。
「ま、仕方ない。そういう言い回しってことだからな」
「そうですね」
「どうもありがとう」
「どういたしまして。お礼にコーヒー、どうですか?」
「ここの学食のコーヒーは美味しくないぞ」
「じゃあ駅前のお店では?」
そこまでのお礼をするべきことだったか?そう思わないでもないが、ここで後輩相手に無下に断るのもよくないだろうか。あまり気が進まないが。
「駅前だと遠いから、大学前の店は?」
「あのおしゃれ丼の店ですか?」
「ああ、部活の後でよければ。今夜はバイトのシフトも入ってないし」
「分かりました。今日ですね」
嬉しそうに笑う綾目さんだが、俺はちょっと心配になった。
「あのさ、確認するけど、俺に彼女いるの知ってるよね?」
「ええ、知ってます。酒々井さんですよね。珍しい名前の」
ま、綾目って名前も珍しいけど。
「彼女がいたら、一緒にお茶したらいけないんですか?」
「いや、そんなことはないけど」
「じゃあ、今夜。コーヒーじゃなくてお酒がいいかも」
「いや、コーヒーで」
俺がそう言うと、また綾目さんの頬がひくっとなった。
本人分かってないのかな。
綾目さんがテーブルを立って去って行く後姿を見送りながら、なぜだか大きくふうっと息を吐くのであった。
◇
「えー、別に嫉妬なんてしませんけど」
そう言うつゆりだが、言葉とは裏腹に少しむくれている。
綾目さんと部活終わりにお茶をする件を、同じ講義をとっているつゆりに教えたのだ。言わない方がよかったかなと思いつつ、内緒にしていると逆に変な疑いを持たれる可能性もある。何しろつゆりは勘が鋭い。
「つゆりが嫌だと思うなら断るけど」
「何で、私を理由に断るのよ。行ってくればいいじゃない」
「ちゃんと俺にはつゆりがいるって確認したんだからね」
それに今日はつゆりがバイトの日だ。俺としてはだからこそ今日の約束にしたのだが。
「私がバイトしている間に、上梨は可愛い後輩と楽しくお茶するわけね。はー、うらやましいこと」
「やっぱり断るよ」
「ダメっ。そんなのもう私が了見の狭い女みたいになっちゃうからダメっ」
つゆりがむきになるモードに入っている。こうなるとちょっとやそっとでは決定した意思を覆せないことは分かっている。
「本当にお茶するだけで、すぐに終わりにするよ」
「ふーんだ」
うーむ。これは手ごわいことになるかもしれないな。
「それになんかちょっと不気味でさ。いや、不気味は言い過ぎか」
「何それ?」
「さっき言ったけど、学食で前に座ったんだけど、俺、なんか身体が緊張してた」
「え、マジで?」
「うん、彼女が去った後で、ため息出ちゃったし」
「うーん」
つゆりが考え込む。
「合気道部なんだよね?」
「うん、後輩」
「稽古にも出てる?」
「うん、ほぼ皆勤賞だと思うな」
「そうかあ」
「何?」
「合気道部って最初と最後に手を叩くでしょ?」
「ああ、正面に礼する時だな」
「その時に、上梨も手を叩いてるよね?」
「もちろんしっかり叩いてる」
ああ、そう言うことか。つゆりが俺の表情を見て頷いた。
「そう、だからあの道場って悪い霊とか存在できないくらい浄化されてるわけ。だからその女子に何か悪いのが憑いてるって可能性は低いと思う」
「なるほど」
「それなのに上梨の腰が引けるってどういうことなんだろう?」
つゆりに分からないことは俺にも分からないよ。
「まあ、気を付けるよ。身体の反応に素直に従うから」
「そうして」
なんだか、とっても気が進まないなあ。
◇
「先輩、お待たせしました」
「いや、全然待ってないから」
部活が終わって自転車置き場にたどり着いたら、すぐに綾目さんがやって来た。部活で汗ばんだ頬がもう冷え始めている。さっさと移動しよう。
「彼女さんには伝えたんですか?」
「え?何を?」
「私とお茶すること」
なんでそんなことを確認するんだ?横に並ぶ綾目さんの横顔を見るが、真意は測れない。
「一応伝えたけど」
「へえ、焼きもち焼かないんですか?」
「行って来いって懐の広いところを見せていたな」
だいぶ無理していたけれどな。
「ふーん。ちょっと変わった人みたいですね、彼女さん」
「は?」
君がつゆりの何を知っているのだ?
「なんか何もないところでずっこけそうになったりとか、誰もいないのにぶつぶつ独り言言ったりするみたいじゃないですか」
うん。全部事実だ。
つゆりには見えないものが「見える」から、ついついそれを避けるし、話が通じるタイプのものには話しかけることをもあるのだ。もちろんただの悪態の時もあるが。
「あ、ごめんなさい。別に彼女さんの悪口を言いたいわけじゃなくて、そういう話を聞いたから伝えているだけで」
「それを彼氏に伝えることも同じだと思うけどね」
また頬がひくってなったぞ、綾目さん。
そうこうしているうちに大学前の店に着いた。2階にあるこの店は、茄子を使った美味い丼を出すが、夜はおしゃれな居酒屋のようになる。
まだこの時間ならば落ち着いてお茶が飲めるはずだが。
席はまばらに埋まっていて、お茶を飲んでいる女子大生と、丼をかき込む男子達がいた。
窓際のテーブルが空いていたのでそこに座る。二人分のコーヒーを注文するとすぐに綾目さんが話し始めた。
「バレンタインデー、もうすぐですね」
綾目さんの視線の先には、この店のバレンタイン特別メニューのポップがあった。
「ああ、そうだね。誰かにあげるのかな、チョコレート」
「どうしようか考え中です」
「ふーん」
まあ、興味があるわけじゃない。コーヒーが来るまでの話を繋いだだけだ。
「日本のバレンタインデーって特殊ですよね。知ってますか?」
「ああ、海外とは違うってやつ?」
「そうです。海外では男女問わず贈り物をする日ですから。日本のバレンタインデーは女性が男性にチョコレートを贈るみたいになってて何か変ですよね」
なんだか帰国子女感が出てて、嫌な感じだ。
「そうかなあ」
「え?だって変じゃありませんか?」
「別にいいんじゃないか。日本流にアレンジしたってことだろ?」
ここでコーヒーが運ばれてきて、一瞬会話が途切れる。
何も噛みつくほどの話でもなかったな。コーヒーの香りで心が落ち着くとそう思えた。
しかし、綾目さんは落ち着けなかったみたいだ。
「元々のイベントと全然違うんですよ。ハロウィンも変だし」
「だから、日本流にアレンジしただけだろ。別にいいんじゃないか」
「でも海外から見たら変だし」
「いや、ここ日本だし」
いかん。むきになってしまっている自分がいる。頬がひくっとなっている綾目さんを見て後悔する。
それなのに、綾目さんは止まらない。
「日本人のよくないところじゃないですか?元々の形から勝手にアレンジして」
「いや、そう言うけどさ。じゃあひらがなとカタカナは?」
「え?」
「あれって元々漢字からアレンジしたんだぜ。簡略化したのがひらがなで、一部を取ったのがカタカナで。漢字は元々中国から拝借して来たけど、ひらがなとカタカナも否定するの?」
「そ、そう言うわけじゃ」
「あ、ごめん。なんか言い方きつかったか」
俺はコーヒーを飲んで心を落ち着けようと努力した。
あー、早く飲み終わってここを立ち去りたい。
「日本人がその時その時に、海外発祥のものをアレンジしても問題ないと、俺は思う。日本では、バレンタインデーに女性から男性にチョコレートを贈る習慣になっている。それでいいんじゃないか」
「そうですね」
別にやり込めるつもりなんてなかったんだがなあ。
「先輩も彼女さんからチョコレートもらうんですね?」
「いやあ、今年はどうかな。ちょっといろいろあってね」
「ふーん」
なんだかうっすら笑ってないか?
「コーヒー、ご馳走様でした」
「え?」
「また、明日。部活で」
まだ半分も飲んでいないのに、綾目さんは席を立ちあがり、手を軽く振って出て行ってしまった。
俺は残ったコーヒーを飲むことにしたが、別のテーブルの女子大生がこっちを見てひそひそしているのが気になった。
あのね。別に痴話げんかして振られたシチュエーションじゃないからね。
◇
「なんで、口論になってんの?」
バイトから戻って来たつゆりに顛末を話すとあきれられた。
「いや、何か帰国子女の嫌なところが垣間見えたと言うか」
「何それ。そう言うの泰然とスルーするタイプだと思ってた、上梨って」
「もちろん普段はそうだけどさあ」
俺は口に運ぼうとしていたハムカツをいったんごはんの上に乗せた。
「なんかつゆりのことディスってたからさ」
「私は気にしないよ」
「俺が気にするの。彼女の悪口言われたら嫌だろ」
「むふー」
なんで、つゆりが鼻の穴広げてんだ。俺はハムカツをご飯と一緒に口に入れた。美味い。
「彼女をディスられて、上梨君はむきになってしまったと、そう言うわけね?」
「あのなあ、つゆり。好きな女なんだぞ。当然だろ」
「な」
真剣に言ったらつゆりが照れた。可愛いな、こういうところ。
「でも明らかにその子、上梨のこと狙ってるね」
「はあ?彼女いるって知ってるんだぜ」
「上梨はそういうの鈍感だからなあ」
「お前、何を」
「ハート形のチョコレート、真っ二つだしなあ」
「ここでそれを出すか、つゆり」
思わずがっくりだ。まるで伝家の宝刀のように、その話題を出して来る。いい加減、時効にして欲しい。
「彼女がいたって告白してくる女子、いたじゃないの」
「ああ、高校の時のあれか」
あのおまじないチョコレートの忌まわしい記憶が蘇る。
「チョコレート食べてくれましたかって聞いてきた女子に何て答えたんだっけ?」
また抉ってくるなあ。
「変な味がしたから食べてないって言ったよ」
「ひどいよねえ」
「事実だろ。絶対変な味したはずだし」
「確かに変なおまじないしたけど、何もそんな言い方しなくてもさあ。あれで上梨の評判だいぶ下がったんだよ、女子に」
「つゆりにとっては良かったろ?」
「まあ、それはまあ、そうなんだけどさあ」
実際当時つゆりは悪い虫がつかなくなるなんて言い方までして笑っていたのだから。
「今回、その子、チョコレート渡してくるかもよ」
「あるか?だって日本流のアレンジのことすごく批判していたんだぜ」
またつゆりが俺の顔の前で箸をちっちっちと振った。そういう箸の使い方は、いけないんだぞ。
「分かってないなあ、上梨君」
そして、つゆりの予言は的中するのことになったのだった。
◇
「先輩、これ」
もう受け取る前から分かった。綾目さんの差し出した包みは明るい色のラッピングがしてあるチョコレートだ。
明日がバレンタインデーと言う日。部活終わりに自転車置き場へ行くと、そこに綾目さんが待っていて、ずいっと包みを差し出された。
「チョコレート、だよね?」
「ええ。ぜひ食べてください。手作りしてみました」
「えっと、こういう日本流のアレンジはいけすかないんじゃなかったっけ?」
「先輩が肯定的だったので、だったら受け取ってもらえるかなって思って」
俺が日本流バレンタインに肯定的でも、君からのチョコレートを受け取るかどうかは関係ないと思うんだがなあ。
「あのさ、俺、彼女いるからさ」
「可愛い後輩からの親愛のプレゼントです。それならいいでしょう?」
だから、近いって。綾目さんがずいっと顔を近づけてくる。この距離感の近さも帰国子女の特徴なのか、それとも綾目さんの特徴なのか。どちらにせよ、俺としてはいい気分ではない。
「一応受け取るけど、食べるかどうか分からないよ」
「え?ひどい。何でですか?」
それは、高校時代の一件があったからだ。
しかし、さすがにそれを言うのははばかられて、言い訳に困っていたところで声が掛かった。
「上梨」
「ああ、つゆり」
自分の自転車を押しながらつゆりが近づいてきた。今日はお互いにバイトが無いので、待ち合わせしていたのだ。救世主に見えるぞ。
ちらっと見た綾目さんの頬がこれまた盛大にぴくぴくっとなっている。
「こちらは?」
「部活の後輩の綾目さん」
「初めまして、酒々井です。知ってると思うけど、上梨の彼女です」
「どうも」
冷たい声で綾目さんが答えた。
「お邪魔みたいですね。じゃ、これ、受け取ってください」
綾目さんがぐいっと包みを差し出して来る。俺は思わず半歩下がってしまった。
あ、この態度はつゆりに叱られるやつだったな。
「上梨」
やっぱり受け取らないと失礼か。俺は仕方なく手を出そうとした。
「受け取っちゃダメ」
え?
思わずつゆりの顔を見る。つゆりがとても厳しい表情をしている。まさか、この包みからも何か「見える」のか?
「いくら、彼女さんでも、それはないんじゃないですか?」
綾目さんが唇を尖らせて言う。しかしつゆりはその綾目さんを逆に睨み返す。
「こんなものを?」
「親愛の情を込めたチョコレートくらい、いいじゃないですか?先輩は日本のこういう風習の肯定派ですよ」
さらにぐいっと包みを綾目さんが差し出すが、今度はつゆりが俺の服を引いてそれを近づけないようにした。そんなに?
「冗談じゃない。これが親愛の情ですって?」
つゆりが汚らわしい物を見るような目で、包みを見下ろす。
「親愛の気持ち、込めましたけど?」
「何、混ぜてんのよ?おまじないのつもり?」
「え?」
つゆりの言葉に綾目さんが怯む。ああ、やはり、そう言うことなのか。高校の時のように、何か混ぜているのだな。
「これは、あなた。おまじないどころじゃないわ。呪いよ」
「はい?」
「どこで教わったのかしらないけれど、とんでもないわ」
ちょ。つゆりが呪いだなどと言い始めた。
「つゆり、それって言い過ぎじゃないのか?」
「違うわ」
つゆりの表情が、呪いと言う表現が決して大げさではないことを物語っていた。
一方綾目さんはものすごい表情でつゆりを睨んでいる。
「そんな言い方はひどいです。確かにおまじないはしましたけれど」
「いいわ、見せてあげる」
つゆりが手に珠を持っている。つゆりは空いている手を、包みを持つ綾目さんの肩に置いた。俺は思わずつゆりの肩に手を置いた。
「開眼」
つゆりがそう言うと、目の前の包みの様子が一変した。
瘴気などという生易しい物ではない。
まるで触手。
赤黒い斑模様の触手のようなものが無数に蠢いている。もし半歩引いていなければ、つゆりが引っ張ってくれなければ、その蠢く触手に俺の身体は絡めとられていたのではないか。
そしてその触手は手に持つ綾目さんの腕にも絡みついている。さらに垂れ下がった触手は彼女の足にも絡みついているのだ。
「ひいっ」
綾目さんにも同じものが見えたのだろう。包みを放り出そうとするが、しかしそれは出来なかった。赤黒い触手は彼女の腕にぎゅうっと絡みついたのだ。
「ね、呪いでしょ?」
「ああ、そうだな。どうしてこんなのが」
つゆりの言葉に頷き、問い返した。
「こんなものを入れるのは、日本じゃないかも。海外で誰かに教わったとか?」
顔面蒼白になっている綾目さんの肩から手を離して距離を取り、つゆりが言った。こんなものって何だ?
「ホームステイ先の、おばあさんに」
震える声で綾目さんが答えた。
「日本のバレンタインデーの風習を伝えたら、それはおもしろいって。こんな方法があるよって」
ぶるぶると震えて触手が蠢く包みを見つめる綾目さんの目が涙目だ。
「何を、入れたんだ?」
そう問いかける俺を綾目さんが見つめる。その目から涙が零れる。
しかし彼女は答えず、代わりにつゆりが答えてくれた。
「経血よ」
「献血?」
「け、い、け、つ。月経の血よ」
「うえ」
なんてものを入れやがる。おまじないの域を越えて、明らかにやり過ぎだ。
「ここまでしっかり呪いになるなんて、よほどしっかり材料を揃えて、手順を踏まないとダメだから」
「拍手、するか?」
「それじゃダメ。きっと反転しちゃう」
つゆりが別の珠を取り出した。それで行くのか。
「上梨」
「はいよ」
俺はつゆりの背後に回り後ろから抱きかかえるようにした。そしてつゆりに力を流し込む。
「んっ」
つゆりが甘い声を漏らすが、それはスルー。
「破魔」
つゆりが包みに向かって力を放った。「開眼」を掛けてもらっているので、その光の波動のようなものが見えた。
どちゃっと触手が消し飛び、綾目さんが後ろに転んだ。
「は?え?」
驚きの表情の綾目さんの手から、ただの包みが地面に落ちた。
◇
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
つゆりと俺は連れ立って俺がバイトをしているバーに客として来ていた。もちろんつゆりと俺の前にはバレンタインイベントで出しているチョコレートモヒートが置いてある。
「美味しい。甘いのに爽やか」
「だろ」
バーの抑え目の照明がつゆりの表情を大人びたものに変えている。
「どうですか?彼女さん。普通のお店でしょう?」
「え?」
バーのマスターに話しかけられてつゆりがきょとんとする。
「いかがわしいお店じゃないでしょう?」
「あ、いえ。その、それは言葉の勢いっていうか。ちょっと上梨ぃ」
「つゆりが言ったんじゃないか。いかがわしいお店でバイトしてるんじゃないのって」
俺が微笑んで答えるとつゆりが顔を赤くしながらマスターに頭を下げた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃないです」
「いや、いいんですよ。どうか楽しんでくださいね」
「ありがとうございます。美味しいです、これ」
「よかった。上梨、あれは?」
「あ、じゃあお願いします」
「何?」
俺と会話して奥へと引っ込んだマスターを見送りながらつゆりが聞いてきた。
「まあ、待ってて」
「でも、本当。いい雰囲気のお店ね」
「だろ?客層も落ち着いてるし。ま、たまに変なのも来るけど」
マスターが箱を持って戻って来て、俺の前に置いた。
「はい、これ」
俺はその箱をつゆりの前に滑らせた。
「何?」
「開けてみて」
つゆりが箱の包装を見て気付いたようだ。
「もしかしてチョコレート?」
「正解」
「わあ」
箱を開けたつゆりの顔がほころんだ。たくさんの種類の入ったチョコレートアソートをキラキラした目で見つめるつゆりの顔を見て、俺は満足した。
「これ、高いやつじゃない?」
「まあ、それなりに。マスターの今の彼女が大宮のデパートのチョコレート売り場の店員さんなんだ。だから少しだけ割り引いてもらえたけど」
「そうなんだ。ねえ、一粒食べてもいい?」
「もちろん、どうぞ」
つゆりが嬉しそうに選んでいる。選ぶのが楽しいんだよな。
「上梨も1個食べる?」
「いや、俺は実は試食で食べたんだ、いくつか」
「分かった。じゃあ、これにしようっと」
ニコニコしながらつゆりが一粒のチョコレートを口に入れた。一噛みしただけで頬を押さえた。
「美味しいー」
幸せそうで、準備した俺も嬉しいよ。
「でも、なんで上梨から?」
「いやあ、綾目さんが日本以外では男女関係なく贈り物を渡すって力説してたからさ。だったら俺はつゆりに贈り物したいなあって思ったんだ」
その綾目さんは先ほど、茫然自失した状態で帰ったはずだ。
「あの人、きっと真面目なんだよ」
「ん?」
「ホームステイ先で教わった方法をきっちりやったからこそ、あの状態だったに違いないから」
「そんな真面目は困るなあ」
思わず苦笑してしまった。
「だいたいはおまじないなんてのはインチキで、要するに気持ちの問題だけど、中には呪いもどきになっちゃうじゃない?」
「高校の時みたいなのだな」
つゆりが頷く。
「でも中には本当に呪いに使う方法がアレンジされているようなのもあるからさ。下手なおまじないはしない方がいいんだよね」
「入れるのは愛情くらいにして欲しいよなあ」
しみじみと言う俺の顔をつゆりが覗き込む。
「愛情のこもった手作りチョコレート、欲しい?」
悪戯っぽくつゆりが微笑んだ。
「そりゃ、作ってくれるなら欲しいさ」
「そうなんだ」
「でももう、今日の明日だから、無理しなくていいからね」
「うふふ、分かった」
つゆりが何か企んでいる顔である。
「これ、使っちゃう」
「え?」
つゆりが目の前の高級チョコレートを指差して言った。
「あ、もちろん全部は使わないよ。せっかく上梨がプレゼントしてくれたものだし」
「いいの?もったいなくない?」
「でも凝ったのは出来ないよ。湯煎して固めるだけみたいな」
「Just wing it」
「取り合えずやっちゃえって?」
くすくすとつゆりが笑った。つゆりが、俺が苦戦していた英語の言い回しを知っていることに若干驚いた。
気づけばつゆりの前のチョコレートモヒートが空になっていた。
「どうする?もう一杯いく?別のでも」
「ううん、帰ろう」
つゆりがチョコレートの箱を丁寧にしまった。
「愛情、いっぱい込めるからね」
カウンターから離れながら、つゆりが耳元で囁いた。
その場でハグしたい衝動を必死に抑えながらつゆりの結んだ髪が揺れるのを見つめた。
つゆりがもう帰ろうと言ってくれてよかった。一刻も早く、つゆりを抱きしめて、キスがしたい。
やはりチョコレートには恋を加速する効果があるみたいだ。
下手なおまじないは止めましょうね。
更新が致命的に止まっていますが、この作品は好きなので、手が空いたら連載を再開したいと思っています。それまでは忘れたころに閑話更新がせいぜいです。どうかご容赦ください。




