「フヌケ」 夏のホラー2025
タイトルにあるように「夏のホラー2025」に参加するためのお話です。
「暑ーい」
「今、クーラー入れたから」
この夏、何度目になるか分からないあまり嬉しくない定番の会話をしながら部屋に入った。
つゆりがうちわを2本持って、一つで自分を、もう一つで俺を扇いでくれる。
俺は冷蔵庫から麦茶を出して、氷をどっさり入れたコップに注いだ。
「ほい、つゆり」
「ありがとー」
受け取るとつゆりはごくごくと一気にそれを飲み干した。
もちろん俺も。
駅から家までの道のりを歩いただけでこの汗である。
休みの土曜日に映画を見に行っての帰りだが、もう少しゆっくりとクーラーの利いた喫茶店でおしゃべりしてから帰っても良かったなと少し後悔していた。
「おかわりー」
「おう」
さらに麦茶を注いで、二人でリビングに戻った。
つゆりからうちわを一つ受け取り、自分で扇ぐ。
クーラーは必死に音を立てて冷風を部屋に送り込んでくれるが、日中温められた部屋の温度はなかなか下がらない。
「おばあちゃんに感想送っとこうっと」
「それがいいね」
実を言えば、今回、普段見ないアメコミの映画を見に行ったのは、つゆりのおばあさんが勧めてくれたからだった。
もうお年を召しているのに、アメコミ映画を見に行くバイタリティには感服するしかない。
何度も映画化されている映画がまた新しく作り直されたらしいが、俺もつゆりも以前に作られた映画は未見である。
それでもアメコミヒーローの存在は知っているくらい有名で、そして映画は楽しめた。
「あ、もう返事来た」
つゆりが感想を送ると、すぐに返信が来た。
「感想がつまらないってダメ出しされたあ」
つゆりがスマホを渡して来るので、受け取って見ると、確かに「つまらない感想だ。やり直し」と書いてあった。
「はは、おばあさんらしいよ」
「上梨、代筆」
「俺?」
「上梨の方が得意でしょ」
「まあ、たぶんな」
苦笑しつつ、今回の映画の感想をスマホに打ち込んだ。
◇
「つゆりもあれくらい書けないとね。勧めがいがないよ、こっちにも」
「うー」
おばあさんに突っ込まれてつゆりが唸った。
「なぜ、バレた」
「当たり前だよ。まるで別人じゃないか。なんだい、つゆりの「勢いがどーんとあって良かった」ってのは。小学生かい」
「違うもん」
むくれつつも箸が止まらないのがつゆりらしい。
ここは助け舟だな。
「それにしても、おいしい冷や麦ですね、おばあさん」
「だろ?知り合いが毎年送ってくれるんだよ。今年はなんだかいつもよりも多くてね」
「それで呼んでくれたんだー。やったね」
「ま、こっちとしては上梨が作りに来てくれるとありがたいからね」
「私はー?手伝ったよー」
「じゃあ、つゆりも」
「じゃあ、って何よ、もう」
助け舟を出しても、結局こういうやり取りになってしまうんだな。まあ、二人とも楽しそうにしているからいいか。
「梅の味変とかよく思いつくねえ」
「いい感じ?」
「とってもいい感じ。ね、おばあちゃん」
「そうだね。これは美味いね」
「ありがとうございます」
梅干しの果肉を少し麺つゆに入れて食べると、その酸味が清涼感を増すんだよね。
好評で良かった。
◇
「あー、ちょっと待ちな」
「何?」
美味しい冷や麦をいただいて、しばらく会話をした後に、おいとましようとしたら玄関のところで呼び止められた。
おばあちゃんがスマホを耳に当てながら、手招きしている。
思わず上梨と顔を見合わせて苦笑しつつリビングに戻った。
「実はちょうどつゆりと上梨がいるんだ。スピーカーで聞かせるよ」
また誰かからヘルプの電話だろうか。
『困った時には酒々井を頼れ』
こんな言葉が界隈では流布しているらしく、おばあちゃんのところには、様々な困りごとの連絡が入るのだ。
もちろん引退しているので、おばちゃんが出ていくことは稀だけれど、アドバイスをもらったり、あるいは私達が出張したり。
「須賀原だよ」
おばあちゃんがそう言ってスマホをテーブルに置いて、スピーカーにした。
『つゆりさん、上梨君?』
「はい」
「はい」
『お久しぶり、じゃなかったね』
須賀原さんと、その相棒の武田さんとは、先日、鍾乳洞で一緒に鬼退治したばかりだもんね。
「須賀原、最初から話しな」
おばあちゃんが言った。
『はい。では。舞台は滋賀県です』
遠いなあ。
なんだかもう自分達が行くんだろうなあと感じていたので、滋賀県と聞いての感想がそれだった。
◇
『最初に聞いた時には、「肝取り勝太郎」かと思ったんです』
きもとりかつたろう?
いきなり知らない人名が出て来た。
「すいません、その人物を知らないのですが?」
つゆりを見ると、つゆりもうんうんと頷いて、知らない人だと意思表示していた。
「そんなの今どきの子が知るわけないだろう」
『そうでした』
「私が説明するよ」
おばあさんが最後に出した麦茶の残りを飲み干して言った。
「肝取り勝太郎事件ってのが昔あった」
事件なのか。
「肝取りのきもは、肝臓の肝だ」
「内臓を取るってこと?」
「そうだよ」
「うえ」
「いちいち反応しないでいいから聞きな」
肝取りだと分かってもやっぱり知らないな。
「明治時代の話だけどね。長野県で連続殺人事件があったのさ。その犯人が馬場勝太郎」
「内臓を抜き取る殺人だったのですね」
「そうだ。女性ばかり何人も殺された」
「猟奇殺人ってことですか?」
「一応、当時は人の内臓が薬になると信じられていて、抜き取った内臓を売るために殺人を犯していたとされたがね」
「違うのですか?」
「私らの界隈じゃ、違うとされている」
おばあさんがコップを手にして空であるのに、気付いて置いた。
「麦茶持ってくる」
つゆりがさっと立ち上がってキッチンへ向かった。
「ちょっとお待ちよ、須賀原」
『はい、説明ありがとうございます』
すぐにつゆりが麦茶のボトルを持って来た。それをコップに入れると、おばあさんがそれを一口飲んだ。
「馬場勝太郎には妻もいた。近所からの評判も良かった」
裏の顔があったということだろうか。
「奴の犯した事件の一つに、二人の女性と、一人の子供が殺された事件があった。子供は生まれたばかりの0歳児だ」
「ひどい」
「やはり女性二人は腹を切られていた」
「子供は?」
「首を切られていた」
おっと。
その首切りは内臓を集めるためじゃないぞ。
「そしてその子供の首は、母親の裂かれた腹に挿入してあったのさ」
さすがに言葉を失った。
「儀式でしょうか?」
「さてね。ただ、この事件には記録に残ること以外の何かがあると言うのが私らや先人の見解だね」
「先人って、まさかおばあちゃんのおばあちゃん?」
「そういうこった」
酒々井家の能力は、隔世遺伝がデフォルトだ。
おばあさんのおばあさんも「見える」人だったわけで、酒々井家に伝わる「石」を使いこなしていた人物だ。
「ほら、須賀原、終わったよ」
『はい、では』
須賀原さんが肝取り勝太郎を想起したと言うことは、つまりそう言うことだ。
『内臓を抜き取られる事件が起きまして』
やっぱり。
◇
『被害者は全て女性。滋賀県の某所で、3か月の間に3人が亡くなりました』
「内臓が抜き取られるとなると、その異常性からニュースになりそうですが、そう言う報道はありませんよね?」
『徹底して情報を封じているんだよ。実は殺人事件にもされていない。あくまで病死ってことになってる』
「なるほど」
「オヨバズ」の温泉街のように、地域がまるごと共通意識で行動しているケースがまだまだ日本にはあるらしいから、その一つなのだろう。
『女性は、全員妊婦でした』
「うわあ」
つゆりが声を出してしまって、おばあさんに一瞥もらっていた。
『その地域には事件発生前に、5人の妊婦がいました。1人目が死んで、その1か月後に2人目が犠牲になりました。怯えた3人目は、その地域を離れて親戚の家に転がり込んだのですが、そこで同様の殺され方をしました。その1人目から順に出産予定日が近い順になります』
なるほど、ただの殺人事件じゃない感じだ。
『4人目の妊婦の父が、地元の実力者で。うちの社長と交流があって、その社長から私に話が来ました』
「守って欲しいってこと?これって呪いなの?」
『それを見極めて欲しいという依頼でした』
「あ、なるほど」
藁にも縋る思いってことだろうか。
娘が殺されるかもしれないとなれば、何でも頼る気になるのだろう。
『3人目の殺され方を聞いて、これはやっかいそうだと感じました。3人目の妊婦は2階の部屋にいて、直前に親戚と会話をしています。食事の用意が出来たことをその親戚が妊婦に伝えに行くと、その部屋で死んでいました』
言葉の続きを待つ。
『部屋の窓は施錠されたまま。腹が裂かれて内臓が無くなっていましたが、部屋にはほとんど血がついていなかったそうです』
「須賀原の印象はどうなんだい?」
静寂に包まれそうになったが、おばあさんが口を開いた。
『重いです。地域全体が重く感じます』
「近くに川はあるかい?」
『あります。小さな清流と、普通の河川と』
「ふむ」
何か思うところがあるみたいだ。
「須賀原の」
『はい』
「武田は妊娠していないね?」
『し、してませんよ』
「つゆり」
「ふぁいっ?」
「あんたは?」
「え?」
「妊娠だよ。避妊してるかい?」
「していませんっ。そんでもってしてますっ」
つゆり、なんか、恥ずかしいんだが?
◇
「わざわざお越しになってくださるなんて」
私達を見つけた須賀原さんが深々と頭を下げた。
何しろ今回はおばあちゃんが一緒だ。
「年寄りに遠出はしんどいね」
そう言いつつ電車旅を一番堪能していたのはおばあちゃんな気がする。
駅弁を2つ買って、それをぺろりと平らげたし。
わざわざ朝ご飯の量を減らしたんだって。
「車に」
「ああ、あの運転席のが武田だね」
「そうです」
駅前に止めてあったワゴン車から武田さんが降りて、これまた深々とお辞儀をした。
「初めまして。武田です。お噂はかねがね」
「酒々井つゆりの祖母だよ。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
緊張していたみたいだけれど、おばあちゃんが愛想よく挨拶したおかげで少しほぐれたみたい。
「一応宿を押さえてあります。荷物を置きに行きましょう」
田舎町の風景の中、パステルカラーのペンションがあった。
結構年季が入っていて、パステルカラーが逆に少し痛々しい。
白髪白髭のおじいさんオーナーがコーヒーを出してくれて、すぐに引っ込んだ。
「ね、上梨」
「ん?」
「あれ、何て言うんだっけ?」
「ああ、ペナントだろ?」
「そうだった。珍しいよね」
「まあ、俺達世代には縁がないよな」
意外にもコーヒーは美味しかった。
「さて」
しばしコーヒーを味わってから、おばあちゃんが口を開いた。
「今回の件だけどね」
「やはり何か心当たりが?」
須賀原さんが緊張の面持ちで聞いた。
「私が見聞きした話じゃないがね。先代から聞いた話だ」
おばあちゃんのおばあちゃんだ。
「こいつはたぶん「フヌケ」だね」
「腑抜け?あの五臓六腑の腑ですか?」
「たぶん語源はそれだろうね。先代はカタカナで書いて教えてくれたがね」
「聞いたことがありません」
「先代も遭遇したのは一度だけ。私も現役中は無かったけど、今回が初になるかもね」
「一体どういうものなんですか、「フヌケ」って言うのは?」
武田さんが聞いた。
私も聞きたいところだ。
「新幹線の中で思い出して整理して来たつもりだが、少々記憶も怪しいところはある。勘弁しておくれ」
全員が頷いた。
「この呪いの元は「泡子」だよ」
「あわこ?」
「確か、水子の別名ですよね?」
上梨が言った。
「水子って流産しちゃった子の供養する、あの水子ですか?」
武田さんが言うと、おばあちゃんが須賀原さんを見つめた。
「すいません。まだ修行も始めたばかりで」
「まあ、いいさ。じゃあ、そこはあんたが説明しな」
「はい」
須賀原さんがコーヒーを一口飲んで話し始めた。
「今ではそう言うケースを水子と呼んでいるけどね。それは実は最近になっての話なんだ」
「え?そうなんですか?」
「本来は水子と書いて、「すいじ」と呼んでいてね。流産した子だけでなく、まだ小さいうちに死んでしまった子のことを呼ぶ言葉だったんだ」
「ああ、昔は乳幼児の死亡率が高かったから」
武田さんの言葉に須賀原さんが頷いた。
「1970年代になって水子供養っていうものが始まって、それはまあ、言いにくいけれど、儲けるためだったんだ」
「え?儲けるため?」
へえ。それは知らなかったな。
「呪われると言ったり、あるいは供養が必要だとか言ったり。流産した母親は自責の念に駆られるところがあるからね。そこに付け込んだ商売が始まりなんだよ」
「なんか、嫌な感じですね」
「ただし、母親にとっての癒しにつながる鎮めになった側面はあるんだよ。間違いなくね」
おばあちゃんが引き取ってしまった。
「その水子の別名が泡子なんだ。泡のようにはかなく消えた子っていう説もあるけれど、昔はちゃんとした墓を作らなくて、死体を川に流したこともあったから、泡になって消えたと考えたのかもしれない」
「間引きされていた場合もあったみたいですね」
上梨が言うと須賀原さんが頷いた。
私もすぐに思い至った。あの「オヨバズ」の地域でも行われていたことだ。
「一応概要はこんな感じだけど、先ほど、元はという表現をなさいましたよね?」
須賀原さんがおばあちゃんに聞いた。
「そう。間引きで川に沈められた子が、呪いになるんだよ」
「あー」
家族に殺されるって相当絶望だ。その絶望が、恨みに転じて、そして呪いになってしまうことは、確かにありそうだ。
「あの、まさかですが」
「ん?」
須賀原さんがおばあちゃんを見つめて聞いた。
「カッパですか?」
「正解だよ」
「え?カッパ?」
「あの頭に皿のあるカッパですか?」
おばあちゃん小さく首を振った。
「頭に皿があるのは、妖怪として広められた偶像だね」
「元来は皿が無いと?」
「皿の無いカッパの絵も実はたくさんあります」
須賀原さんが言った。
「川のわらべ、川のわっぱでカッパ。そう言う土地もあるし、川の太郎で河太郎なんて呼ばれてるところもある。呼び方もまちまちさ。近くの川どうだい?」
おばあさんに言われて須賀原さんが頷いた。
「カッパ伝説あります。ここではガタロウと呼ばれています」
あら、やっぱりあるんだ。
「最近になって起きたのなら、川で何かがあって、ずっと封じられていた呪いが再び活発化したのかもしれないよ」
「心当たりがあります。護岸工事をしたそうです」
「恐らくそれだね。古くなって朽ちていたお社を崩したとか」
「ありえますね」
でもそんなこと、工事の人には分からないだろうしなあ。
「おばあさん、それで、「フヌケ」の話ですが」
「ああ、そうだったね」
上梨が話を戻してくれた。
「カッパが尻子玉を抜くってのは聞いたことあるね?」
私と上梨は知っているし、須賀原さんは当然知っている。おばあちゃんの言葉は武田さんに向けての言葉だ。
「はい、知っています。水辺の事故を防ぐためにカッパに尻子玉を抜かれるって子供達に言い聞かせたって」
「まあ、そうなっているがね。先代が遭遇した呪いは内臓をごっそり持っていくものだった。しかも妊婦だけ」
「今回の件にそっくりですね」
「同じ類の呪いなんだろうね。場所も言っていたはずなんだが、さすがにそこまでは思い出せなんだ」
おばあちゃんが一瞬遠い目をした。
「先代のところじゃ、数年に一度、妊婦がわざと流産して、その子を贄に捧げていたらしい」
「ひどい」
「しかしある時妊婦がごねた。そりゃそうさ。やっと授かった子を、効果も定かじゃない村の習慣で殺すなんて許せないだろう」
「しかしその結果呪いが発動したと?」
「そうらしいね。村の妊婦が次々と死んで呼ばれたらしいよ。そこでは「フヌキ様」とか「フヌケ様」と呼ばれていたようでね。先代は「フヌケ」と呼んでいた」
「と言うことは、その呪い。「フヌケ」が残った妊婦を殺すと言うことですね?」
「その可能性が高いってことさ」
そう言うとおばあちゃんが立ち上がった。
「川に行くよ」
「え?すぐにですか?」
「すぐに行かないと、今日にも妊婦が死ぬかもしれないよ。いいのかい?」
「よくありません。何か準備は?」
「してきたよ」
え?そうなんだ。
◇
再び武田さんの運転する車に乗って、我々は護岸工事をしたという川へと移動した。
「つゆり、探しな」
「え?私が?」
「あんたが一番適任だよ」
「そうなのかなあ」
言い返しつつ、つゆりが周囲の気配を探った。
川の水は結構綺麗だが、そこそこ蛇行していて、そこが深みになっている。
大雨の時には氾濫しそうに見えるから、やはり護岸工事をと行政が判断したのだろう。
「この辺りは何も感じないなあ」
「じゃあ、下流へ歩いて行こう」
そう言うとおばあさんが河川敷まで降りてしまった。
「ちょっと、おばあさん。危ないですよ」
「だったら先を歩きな、上梨」
「はあ、分かりました」
仕方ないので河川敷を先頭に立って歩いた。杖を本当の杖のように扱いつつ、足元の具合を確認しながら進む。
「見えない」俺が先頭を歩くよりつゆりが先に立った方がいいのだろうが、おっちょこちょいなところがあるからな。
「あ、ここの石はぐらぐらします」
「はいよ」
「おっとと」
石のことを注意したけれど、おばあさんはそつなく通過して、つゆりはぐらりとしたらしい。
「ところで、おばあさん」
「何だい?」
「その先代は、「フヌケ」にどう対応したのですか?」
「ああ、言ってなかったね。後ろ、聞こえるかい?」
「聞こえますっ」
最後尾を歩く須賀原さんが言った。
「先代は鎮めることにした」
「祓わなかったんだ」
「人が死んでいるが、どうも、憐みの感情が勝ったようだね」
「普通、祓うよね?」
つゆりが聞いた。俺もそういう認識だったから、祓わずに鎮めたというのは意外だと感じていた。
「そうだね。私が聞いた話の中でも2回しかないね。そのうちの1回だよ」
「レアケースだ」
「しかしね」
続きがあるのか。
「村人が、せっかく鎮めた社を壊してしまってね」
「ああ」
自分の妻や娘を殺された村人の心情が爆発したんだな。
「荒ぶったでしょうね」
最後尾から須賀原さんが言った。
「そうだね。結局、数名の村人が犠牲になって、先代は最後には祓ったそうだよ」
「そうなんですね」
ここから護岸工事の下準備が始まっているようだ。
「あ、上梨ストップ」
つゆりの言葉に足を止めた。
「ここ?」
◇
何かが「見えた」わけではない。
雰囲気だ。
これまでの経験から、この感じはやばいやつ。
「おばあちゃん、石、使ってもいいかな?」
「ああ、そうだね」
おばあちゃんが言うなら間違いない。
「上梨」
「おう」
上梨と繋いだ手に石を入れる。
「開眼」
これで「見えない」上梨も「見える」ようになる。
「上梨、離れないで」
「ああ、分かってる」
「ちょっと離れな」
おばあちゃんが言った。
「え?」
「違う、岸から離れな」
「あ、なるほど」
岸から数歩下がる。
「おばあちゃんも感じる?」
「須賀原、武田。あんたらはどうだい?」
「なんかちょっと怪しい雰囲気は感じます」
「同じ感じです」
「合格だね。上梨は?」
「すいません、全然分かりません」
「ま、上梨はいいか」
いいのか。
「酒々井さん、あそこに」
武田さんが指差す方を見れば、朽ちてそして壊された社の残骸らしきものがあった。
「なんとか元に戻せるかな?」
「無理だろうな」
私の質問には須賀原さんが答えた。
「もう、ここまでになってしまったら、これを使って鎮めるのは無理だろう。あってます?」
「私に聞くんじゃないよ」
須賀原さんが叱られたけれど、あってるみたい。
「もし、ここにいるなら、祓っていいんだよね?」
「それはちょっと待っとくれ」
「え?」
おばあさんがそう言って私の前に立った。
「つゆり、「鎮魂」の石を貸しな」
「う、うん」
私は「鎮魂」の石をおばあちゃんに渡した。
やっぱりおばあちゃんは「フヌケ」を鎮めるつもりなんだ。
「いいかい。私は鎮めることに集中する。それまであんたらが支えな」
「はい」
「分かりました」
「うん」
須賀原さんが数珠を持ちお経を唱え始める。
そのお経に合わせて武田さんがお鈴を鳴らし始める。
うまい。
このコンビは日に日にコンビネーションが増している気がするわ。
「一気に静謐な空気が広がるな」
「うん」
上梨の言葉に頷いた。
その時だった。
ごぼり
川の中ほどで大きな泡が出た。
あれは。
ごぼり
再び大きな泡が川面で弾けた。
「来るよ」
おばあちゃんが言った。
◇
何か来る。
お経を唱えながら感じた。
ちらりと武田を見るが、怯えた様子はない。
頼もしいな。
丹田に力を込めてお経を続ける。
ごぼり
大きな泡が弾け、そこに何かがぷわりと浮かんで来た。
緑色。
髪の毛は、薄く残っているのか。
子供サイズ。
「がぼ」
頭部が完全に水面から出て来た。
絵に残されているカッパとは似ても似つかない。
緑色の肌は、苔なのだろうか。
「ばあああ」
呻くような声。
ぐうっと押し込まれるような感覚。
これは強い。
相当危険な呪いだ。
「浄間」
上梨君と手を繋いだつゆりちゃんがそう言うと、ぶわっと我々が薄く光る半球の中に入った感じがする。
酒々井の御大は何か石像みたいなものを手にしている。
そして御大は、私と同じお経を唱え始めた。
ぶるっと震えた。
素晴らしい。
何という読経。
皆も驚いているが、私の驚きはその比ではない。
長年自らも唱え、そして多くのお経も聞いて来た。
その私が今、これが本当の読経、理想の読経なのだと思う。
感激に心が震えている。
引退を宣言している御大の、これが最後の現場での読経かもしれない。
いつかこの高みまで。
そう心に誓わずにはいられなかった。
◇
酒々井のおばあ様がお経を唱え始めてびっくりした。
しかも須賀原さんと完璧にシンクロしている。
すごい。
こんなことが出来るんだ。
何ていうのかしら?
ダブル読経とか?
そして私はお鈴を鳴らしながら、須賀原さんの表情を見て驚いた。
感激してる?
こんな表情の須賀原さんを初めて見た。
それだけ酒々井のおばあ様のお経がすごいんだ。
しっかり。
私もしっかり聞いておこう。
そして見れば水面から浮き上がったあれがずいっと上体をさらに出して来た。
緑色の身体は少年のサイズだけど、その色が異質過ぎて圧がすごい。
身体はたぶんカッパと呼ばれるそれに近いと思うけれど、頭のお皿も無いし、くちばしも無い。
人間を長い時間、川の中に沈めておいたら、苔生してきっとあんな感じになるんじゃないかしら。
そしてあれの周囲にがぼがぼとさらに大きな泡が出て来た。
え?
ひょっとしてまだいるの?
その通りだった。
ざばざばとさらに3人。いえ、4人。
全部で5人の緑の子供が川から出て来ていた。
心が動揺して読経にリズムを合わせるのが難しくなる。
落ち着け、私。
◇
「上梨、「破魔」やるよ」
「おばあさんが鎮めるって言ってたけど、いいんだな?」
「うん、あの本命以外は」
「分かった」
「浄間」からこちらには入って来ない。
しかし後から出て来た4体は、顔の前に手を揃えると、ごぼりと口から緑色の水球を出した。
「上梨っ」
「おうっ」
素早くおばあさんの前に出て杖を構えた。
水球がしゅばっと放たれて、「浄間」の間合いを通り抜けて来る。
「しっ」
俺は杖を振ってその水球を空中で全て叩き落した。
水がばしゃっと爆ぜて、身体に掛かる。
相当臭いぞ、これ。
「上梨っ」
つゆりが俺の横に立って手を繋いで来た。その手の中に石。
俺は阿吽の呼吸で気を流し込んだ。
「ん」
つゆりが甘い声を出すが、もちろんスルーする。
「破魔」
つゆりがそう叫ぶと、ぶわっと光が広がった。
それだけで人型だった4体がざばっと水となって川に落ちた。
水だったのか、あれは。
「ひいべああああああああああ」
慟哭。
そう思えた。
恨みよりも、悲しみに支配されているんじゃないか。
「上梨、おばあちゃんに」
「え?あ、おう」
石の像を持っているおばあさんの肩に手を置く。
「よろしいですね?」
おばあさんが読経を続けながら薄く笑って頷いた。
俺は気をおばあさんに流し込んだ。
つゆりほどじゃないが、するすると入っていく。
おばあさんが手を前に出した。
「鎮魂」
須賀原さんの読経と、武田さんのお鈴だけがその場に響く。
何も、起きない?
石も光っていないよな?
ゆっくりとおばあさんが石像を地面に置いた。
その仕草は、まるで儀式。
神聖な儀式を見ている気になった。
「ひぃ」
「フヌケ」がそう声を発したかと思ったら、突然消えた。
「さて」
おばあさんが立ち上がった。
「え?終わり?」
つゆりがきょとんとして声を発した。
◇
「では責任をもってお預かりします」
「ああ、頼むよ」
「フヌケ」を鎮めた石像は、須賀原さんが持ち帰ってお寺に置いておくことになった。
そういう類の物を置いておく専用の部屋があって、毎日お寺のお坊さんがお経を唱えているんだって。
「武田」
「は、はいっ」
「あんたも須賀原にお経を教わりな」
「え?えっと、はい。がんばります」
「いや、御大。それは」
「なんだい須賀原?特別な相棒なんだろう?」
おばあちゃんに言われて、須賀原さんと武田さんが視線を交わした。
「まあ、そうですね。ゆくゆくはですけど」
「ふん。だったらなおのことお経を教えるべきだよ」
「彼女は本業が会社員ですから」
「そんなこと言ってる場合かね?」
「相談します」「覚えます」
須賀原さんと武田さんが同時に答えた。
二人で違う返事をしていたので笑ってしまった。
二人に見送られて電車に乗ると、今度は上梨が聞いた。
「おばあさん。あの石像ですが」
「とっておきを持っていて良かったよ」
「とっておきだったんだ」
「そうだよ。彫った当人しか使えないからね。今回だけ、特別だよ」
「あれはどこで?」
「ああ、そうだね。あんたらも旅行ついでに作りに行くといい」
ど、どこに?
「山形だよ」
「ひょっとして井出羽さん達のところですか?」
「そうだよ。紹介状を書いてやるから行っといで」
「石像をそこで彫るのですか?」
「そうだよ。呪い相手だと、基本的に祓うことがほとんどだけどね。時々鎮めてやりたいものもあるのさ。そんな時、「鎮魂」の石で鎮めるんだがね。相手が強いとそれだけじゃダメなことがある」
「今回みたいに?」
「そうだよ。そんな時にあれがあると役に立つ」
「なるほど。依り代みたいなものですね?」
「そうそう。さすが上梨だね」
私もそれは思ってたもん。
「ただ、本当に今回の「フヌケ」は強い呪いになっていた。地域を離れた妊婦も殺されたと聞いてね。石像を持って行って封じたから祓うか、鎮めるしかないなと思ったのさ」
「それで来てくれたんだ」
「まあ、あんなのはめったにいないはずだからね」
「その、ぶしつけかもしれませんが、どうして鎮めたのですか?先ほどからおっしゃっているように祓うことも出来たと思うのですが」
しかしおばあちゃんは上梨のその質問には答えずに、窓から景色を眺めるのだった。
うんっとね。
なんだか悲しそうな表情だなって思った。
◇
「はー、我が家が一番っ」
「しかし暑い」
「それ、言わないで、上梨」
ほんの少し家を空けただけなのに、部屋の中には熱気がこもっていた。
「クーラー、クーラー」
つゆりが今日は自分でクーラーのスイッチを入れて、うちわでパタパタと始めた。
俺はいつものように冷蔵庫から麦茶を出して氷を入れたコップに注いだ。
「ほい、つゆり」
「ありがとー」
つゆりの横に陣取って麦茶を一口。
ふう。
「ねえ、上梨」
「ん?」
「帰りの電車の中で、おばあちゃんが上梨の質問に答えなかったでしょ?」
「ああ、なぜ鎮めたんですかってあれ?」
「そう、それ」
つゆりが麦茶をこくりと飲んだ。
「実はね、お母さんにはお姉さんがいたんだって」
「そうなんだ」
「でもお姉さんは生まれてすぐに死んじゃったんだって」
「ああ、なるほど」
おばあさんも母として子供を産んですぐに亡くした経験があったのか。
「だからおばあちゃんは今回鎮めることを選んだのかもしれないなって思った」
「その可能性はあるけどな。まあ、もういいじゃないか」
「うん。おばあちゃんが話したくないみたいな感じだったし」
「それより、山形行き、どうする?」
「山形って暑い?」
「確か山形市は盆地で暑かったんじゃないかな」
「えー、じゃあ、夏は止めよう」
「まあ、急いですぐにでもって感じじゃないから、秋でいいかもな」
「そうしよう、そうしよう」
少し部屋が涼しくなって来た。
「涼しくならないと、くっつけないもんねー」
つゆりが頭を俺の肩に乗せて来た。
「俺は暑くてもくっつけるぞ」
「ずるいぞ、上梨。私もくっつけるー」
二人で笑いながら軽くキスをした。
◇
仏壇の前で手を合わせる。
あの日から、一日も忘れたことはない。
自分の腕の中で息を引き取った幼い娘。
まだ何一つ、生きる喜びを味わわせることが出来ずに、儚く消えて行った命。
健康に産んであげられなくてごめんなさい。
元気に産んであげられなくてごめんなさい。
何度自分を責めたか分からない。
幸い、次女が無事に生まれ育ち、そして可愛い孫娘も健やかに成長している。
「少しは、罪滅ぼしが出来たのかねえ」
思わずこぼれた呟きは、もちろん誰の耳にも届くことは無かった。
ちょっと長いから分けようかとも思ったのですが、そのまま投稿しちゃいました。




