危機
「ねえ、タバコはやめてって言ったじゃない」
「うるさいな、俺の口で吸ってんだから文句言うなよ」
「あたしの肺に入らなきゃいいわよ」
「肺は俺のだ」
「じゃ胃もだめよ」
「それも俺のだろ」
私だって本気で言ってるわけじゃない。
湿り気を帯びた煙が腹の中で渦巻く感覚も、彼と共有していると思えば悪いものではなかった。
何もない日常はそれなりに幸せだし、彼とつながっている気分も悪くない。
「文句あるなら、体を返してよ」
私は笑いながら言う。本気で言うと、冗談にはならないから。
「こっちだって、腹を貸してやってんじゃん」
彼とつながってからもう一か月。今ではこれが、日常になりつつある。
その時の私は気付かなかったのだが、それはとても儚くて、貴重なものだったのだ。
ぴんぽんとインターフォンが鳴り、私は立ち上がる。
「はーい」と返事をしながら、お荷物を背負うようにして立ち上がる。
ドアを開けると、そこに立っていたのはキレイなお姉さん。くりくりした目は、まるで豆鉄砲を食らった鳩のようだった。
すぐ後ろで、彼がびくりと動いたのがわかった。縫い目が痛むから、あまり急に動かないで欲しい。
「――誰?」
開口一番、お姉さんが聞いた。
「ええと、本田果歩と言います。彼のお知り合いですか?」
私は少し体を傾けて、斜めになった彼を彼女に見せる。
「隼? え、どうなってんの?」
こんな体になってしまったのだ、まあ驚くのも無理はないか。
立ち話もなんですから。私が彼女を部屋に招き入れようとすると、彼が耳元で囁くように言った。
「いやお前、今こんな状態だしさ、とりあえず帰ってもらうってのは」
「えー、そんなこと言っても仕方ないじゃん。だいたい時間が経ったからって、治るわけでもないんだし」
しぶる彼を怪しみつつも、私は家にお姉さんを招き入れ、事の次第を説明をすることにした。
「ええと、何から話しましょうか」
ソファーに座った私は、不審がる彼女の視線にもろにさらされていた。本来は彼のお客さんだというのに、彼は「お前から説明してくれ」と言ったっきり黙りこくっていた。仕方がないとはいえ、非常に居心地が悪い。
発端は先月のドライブ。彼の運転する車は調子に乗ってスピードを出し過ぎ、対向車線にはみ出した。そのまま前からくるトラックと正面衝突だ。
救急車が駆け付けた時、私の体は彼にめり込むようにくっついていたらしい。かつぎこまれた病院でそのまま縫合されてしまって、今に至るわけだ。
お姉さん――川崎風子さんと名乗ってくれた――は、ショートの黒髪を左に流すようにいじりながら聞いていた。ははあ、この人、きっと癖っ毛なのかなーと、私はのんきに考えていた。
風子さんは聞く。
「ええと、ちょっと待って。じゃあ果歩さんは、隼とドライブしてたってこと?」
私は答える。
「はい、そうですけど?」
言葉を選びながら、ゆっくりと続く質問。
「ええと、ご兄妹とか親戚では、ないわよね」
「はい、違います」
「お仕事が一緒とか?」
「いえ、別に」
「……もしかして、お付き合いされているのかしら?」
「ええ、そうですけど」
「はあああ?」
風子さんはいきなり大声を上げて、立ち上がる。
「ふざけないでよ、何よそれ! 事故だって聞いて心配してたのに、会いに来たらいきなり浮気? 信じらんない!」
ええと、浮気? 浮気かあ。
脳みその中で「なんだそりゃ」と「やっぱりな」がぶつかり合っていた。
「ちょっと、隼。あんたもなんか言いなさいよ」
私は首を精一杯後ろに回して文句を言う。
「なんかって言われてもなぁ……」
あ、これ、見えなくてもわかる。絶対に今、めんどくさそうな顔をしている。
「えーと、つまり、あー、」
「「つまり?」」
私と風子さんの声がシンクロする。
「……ごめんなさい」
ごめんなさい、か。私は深い深いため息を吐く。
「すみませんでした。彼もこう言っていることですし、こんな体になっちゃいましたし、本当に許してください」
頭を下げる私に、風子さんは言った。
「あんたは関係ないでしょ? 私は今、準と話してるんですけど」
「関係ないって言われても、そのー、一応彼女ですし」
「彼女は私でしょ? あなたはただの浮気相手じゃないの」
ぷちん、と私の中で何かが切れた。といっても、堪忍袋ではない。
頭のなかはくらくらして、心臓はどくどくと必要以上に頑張って血液を運んでいる。
考えなんてさっぱりまとまらない。
「浮気相手はあなたでしょう? 私は彼と、もう一年も付き合っているんですよ!」
「はあ? たった一年? それじゃ私の方が長いじゃない。私は一年半よ」
なんだそりゃ。私と付き合い始めたときには、既にコイツは浮気していたのか。
唇を噛んで言い返す。
「長さは関係ないでしょう」
自分から振っておきながら、情けない。目じりがこそばゆかったけど、悔しかったので絶対に擦らないと決めておく。
風子さんは私の右斜め後方をきっと睨むと、問い詰める。
「ねえ隼、あんたに聞いてんのよ? 結局、どっちが本命なのよ」
「俺に言われてもなあ。あー、どうかなー」
まったく煮え切らない男だ。
話にならないと思ったのだろう、風子さんは立ち上がり、彼の手を取り連れて行こうとする。
「あいたたた」
「痛い、ちょっと風子さん、やめてください!」
私たちの悲鳴に、風子さんはびくっとしつつ、すぐに力を緩めてくれた。本当にくっついてるんだ。ぽつりとつぶやくのが聞こえた。
私は縫い目をチラ見する。お気に入りのシャツに、血がにじんでいないだろうか?
「痛いじゃないですか、突然引っ張らないでください」
「……ごめんなさい」
「風子、俺たちこんな状態だしさ、日を改めて話し合わないか? 少し落ち着こう」
後ろから彼が言った。悪びれもせず。
風子さんは相変わらず彼を睨んでいるが、私に対しては少し申し訳なさそうにもしていた。
ああ、きっとこの人は優しい人なんだろう。たぶん悪いのは彼のほうだ。
「……隼、あんたこれ、どういうことよ」
風子さんがあらためて問い詰める。
少しだけ、沈黙があった。
「ごめん」
「浮気してたの?」
「ええと、そもそもだけど、」
「うん」
「俺たち、付き合ってたん?」
サイアクだ、こいつ。
「はあああ!? なによそれ、信じらんない! じゃあなによ、あっちが本命で、私が浮気相手ってこと?」
「いや、俺、恋人とか結婚とか、そういうのはまだいいかなって思っててさ……」
「ちょっと待ってよ、じゃあ私とはどういうつもりで付き合ってたの?」
「えーと、その、……わりと仲のいい、友人?」
風子さんに仲間意識が芽生えた。なんということだろうか。
なんてことはない。単に都合のいい女だったのだ、私も彼女も。
「ああああっ、もうっ!」
風子さんは髪をばさばさとかき乱しながら、ぶつけようのない怒りをこらえている。
首を振りつつ、彼にさらなる質問が飛んでくる。
「一応聞いておきたいんだけどさ、隼、他に女いるよね?」
「……いや、いないよ」
あ、ウソだ。
鈍い私にわかるくらいだ、風子さんにもすぐにわかったのだろう。
「ふーん、そう。じゃ、電話貸して」
「え、それはちょっと――」
「いいから貸して!」
隼は観念したように言った。
「……います」
「何人?」
「あと、二人」
「はああああ!?」
一際大きい叫び声が響いた。
ここが風子さんの自宅なら、彼は即座にコーヒーカップを投げつけられていただろう。
あーだのうーだの呻いていた風子さんは、長い深呼吸の後、不気味な笑顔を見せた。
「ごめんね、果歩さん。なんだか私の勘違いだったみたい」
やけに明るい声だった。
「はい?」
「このクソ男の浮気相手は私だわ。じゃ頑張ってね、彼女さん」
「え、ちょっと、あ、待って!」
ばたん、と叩きつけるようにドアを閉め、彼女は出ていった。嵐のような人だったけれど、ストレートで悪い人ではなさそうだ。
まあそれは良いんだけど、これって結局、押し付けられたんだろうか?
「良かったな、平和的に終わって」
彼がさらりと言った。今度こそ、私はキレた。
「ふざけんじゃないわよ、なによあれ! サイテーじゃん! 離れて、離れてよ!」
私は彼の左斜め前にくっついている。彼は私の右後方に常にいる。
殴りたくても殴れないのだ。
「このっ、このっ、あーもう!」
私は勢いをつけて、後ろからソファーにダイブする。ぼふんと間抜けな音がした。肘で彼を殴ってやろうとジタバタしたが、全然力が入らなくて虚しかった。
私はその夜、久しぶりにお酒を口にした。
彼のビールを奪って飲んだ。彼には飲ませなかった。
皆が苦いだけのビールを美味しそうに飲む気持ちがわかった気がする。痛いのだ、みんな。日々の痛みを苦みで紛らわせるのだ。注射の時に膝をつねって紛らわせる、あれと同じだ。
私は、紛らわせることはできなかった。
その夜、何度か吐いた。
彼が優しく背中を撫でてくれた。今だけは、完全に私のものだ。私のものなんだけど――。
うーん、虚しい。一人になれない体が恨めしかった。




