(6/10)まさかのお礼
だから帰り道花沢光彦を見つけたときは必死だった。花沢に向かって走り出した。
彼女は交通事故で靭帯を損傷したため、あまり速くは走れない。でも懸命なスピードを出した。
いつかの同期会で花沢が自分の背中を見て走ってきてくれたように紗莉菜は走った。そして初めて声をかけた。
「花沢くんっ」
花沢が振り返った。『おや?』という顔をした。『意外なことが起こった』という顔をした。
「レッレポート書いた!?」
「レポートってあれ?入社1年目の課題の?」と言われた。「そっそそそそうっ」どもってしまう。
花沢は微笑んだ「書いたよ。中原さんは?」
「書いたけどうまくいかなくてっ」もう必死になってカバンをさぐる。「こっこれなんだけどっ」レポートを突き出す。
「はっ花沢くんはこういうの得意だって聞いたからっ。みっ見てみて!」
花沢が受け取ってくれた。
パラパラ〜っと紙をめくった。
「うーん」と言う。「あ、中原さん。そこのベンチ座ろうよ」とうながしてくれた。
彼女達が働いているのはオフィス街のど真ん中で、夜中はゴーストタウンになるような場所だった。今はたくさんのスーツ姿が忙しそうに過ぎ去って行く。
道端に等間隔でベンチが設置されていた。そこだけ都会のオアシスのようだ。道路の向かいはテナントビルで1階は甘味処。『鯛焼き』ののぼりがはためいている。
ひと1人分空けてベンチで隣り合った。ササーッと花沢がレポートを読んだ。2分だった。
花沢の噂は聞いていた。『異様に理解力が高い』という噂だ。本当に高い。2分で全て理解したようだった。
「わかったよ。熱意は感じるけど論拠に乏しいね」
「ろんきょ……」
「中原さん。資料何冊読んだの?」
「3冊……」
「そう。あと3冊読んだ方がいいね。オレの大学のやつがちょうどこのテーマだから明日もってくるよ。じゃあね」と言ってあっという間に去っていった。
あのときの古典女みたいに1人ベンチに取り残されてしまった。
もう余分な会話はしてくれなかった。
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花沢が貸してくれた資料の本を、紗莉菜は自宅でペターっと頬を机の上につけて撫でた。
本に花沢の学生時代の書き込みらしいものがあったのだ。無味乾燥のメモだが、花沢らしい几帳面な字だった。
『資料だから』と言い訳してコピーした。花沢を手にいれたみたいな気になる。
花沢にこれを返すときはもっとおしゃべりするぞと誓った。
朝、花沢を見かけたので呼び止め資料を返した。花沢が笑った。
「役にたった?そう。中原さんの役に立てて嬉しいよ。またいつでもオレを利用してね」
言葉のトゲに気づかなかった。
でも『資料を借りておいてなんのお礼もしていない』ことには気づいた。定時にあがって買物すると慌てて会社に引き返した。
ところが、花沢はすでに帰途につくところであった。バッタリ会ってしまう。
「花沢くんこれっ。お礼っ」と差し出したのがなんと鯛焼き5匹。
独身の、一人暮らしへのお礼が鯛焼き5匹!!!!
お前は馬鹿なのか!?
【次回】誓います、誓います
作者注→作品内に『交通事故で靭帯を損傷したため、あまり速くは走れない』という表現がありますが、私が調べる限り靭帯損傷によって『走れなくなる』という事実を確認できませんでした。
正確には運動機能に支障は出るようですが『再建手術』という道があるようです。
ただ、オリンピックに出れるほど靭帯が回復するかというと難しいのではないかという印象です。日常生活はそれほど問題ないようです。
専門的なことまではわからなかったので、文章はそのままにしましたが、なにとぞご了承いただきたく一筆書かせていただきました。




