9 魔獣(再開分ここからです)
更新を再開させていただきます。どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
〈これまでのあらすじ〉
伯爵令嬢アシュリーは前世で魔族の黒ウサギだった記憶を持つ。侯爵であるクライドに助けられたことで婚約を承諾するが、彼はなんと王弟で、魔族を滅ぼした勇者の子孫だった。
クライドを恐がりつつも、婚約者なのだから慣れないと、と決意するアシュリー。
そんな折、魔族が発する瘴気の匂いを嗅ぎ、驚いたアシュリーは厩舎へ向かう。そこにいたのはハンクと、そしてアシュリーに嫌味を言うジャンヌという魔術師だった。そして何か企んでいる様子のクライドは、(秘密のはずの)魔族は確かにそこにいる、と奥の馬房を示すが――。
「見てみたい?」
クライドに聞かれて、アシュリーは「はい」と大きく頷いた。
「ちょっと待ってください! あれはトルファ王家から預かっているとても大事なものです!」
「婚約者といえど、さすがに知られるわけにはいかないでしょう」
ジャンヌとハンクが同時に驚いた声をあげた。それを手で制し、クライドが静かに言った。
「いいよ。中へ入ろうか」
「クライド様!?」
魔術師たちの抗議の声に、クライドが振り返る。
「大丈夫だよ。俺もお前たちもいるんだから。アシュリーに怪我はさせない。それに魔獣はそんな状態じゃないだろう」
「そういう問題ではありません!」
「わかってるよ。でも、この四年間なんの進展もなかった。やっと突破口を見つけた気がするんだ」
口調に確信が潜む。口元に笑みが浮かんだ。いつもの優しい笑みではなく、時折見せる、アシュリーの心を落ち着かなくさせる不敵な笑みだ。
愕然とする魔術師たちの前で、クライドはアシュリーに言った。
「念のため、俺のそばを離れないでね。さあ行こうか」
アシュリーはごくりと唾を飲み込んだ。期待に指先が震える。それを隠すようにして、前を向いた。
奥にある鉄の扉に、クライドが手をかけた。ゆっくりと開いていく。
何か聞こえるかもと期待したけれど、何の鳴き声もしない。動き回る足音も、飛び回る羽音も。全くの無音だ。
(……本当に魔族がいるの?)
もしや口も動かせず身動きすらできないようにされているのでは――。血の気が引いた。
「どうぞ」
クライドの後をついて恐る恐る足を踏み入れる。入口側の馬房と同じく、アーチ型の天井は高く室内も広い。そして細かい石が敷き詰められた床に寝そべっていたのは――。
「……!?」
思わず叫び声をあげるところだった。馬房の中央に寝そべる大きなもの。
このトルファ国には決して存在しないもの。
三角の耳がついた凛々しい顔。強靭ながらもしなやかな体。頭のてっぺんから尻尾の先まで、漆黒のふさふさした毛で覆われている。
固く目を閉じているけれど、背中がかすかに上下しているので生きているとわかった。
アシュリーはその正体を知っている。
魔王の側近だった魔獣、黒狼だ。
強くて気高くて凛々しくて、黒ウサギは密かに憧れていたものだ。
(嘘。黒狼様だわ……!)
体の中から興奮が押し寄せてきて言葉にならない。
六百年前に命を落としたと思っていた。それが今、こうして目の前にいる。感動で涙が出そうだ。
(でも、どうしてここにいるの?)
王家からの預りものだと、クライドが言っていたけれど。
そこでようやくクライドたちの存在を思い出し、血の気が引いた。
慌てて振り返ると、ジャンヌとハンクが呆気に取られた顔でアシュリーを見つめていた。
それはそうだろう。そこにいるのは恐ろしい魔獣である。普通の令嬢なら恐怖に凍りつくか、悲鳴を上げて逃げ出すところだ。それなのに、まるで感涙にむせび泣きそうな顔をしているのだから。
(しまった……)
なんと言いつくろおうか焦って考えていると、
「アシュリー」
突然背後から声がかかった。背後と言うよりは本当にすぐ後ろである。頭のすぐ上から声が降ってきた。そんな感じだ。しかも声の主はクライドである。
(ひい――!!)
なんとか悲鳴は押しとどめたけれど、全身にぶわっと鳥肌が立った。体温すら感じるほどぴったりと後ろに寄り添っているのがわかる。勇者の子孫にこれほど近づかれるなんて恐怖以外のなにものでもない。クライドに慣れようと決意したけれど、いきなりこれはない。
婚約者なのだから本来は顔を赤らめる状況なのだろうが、冷や汗しか流れてこない。
ジャンヌが燃えるような目で顔を歪ませた。けれど極限状態のアシュリーの視界には入らない。ただでさえ倒れそうなのに、クライドがさらにアシュリーの耳元に顔を近づけてささやいたからだ。
「魔獣を見ても驚かないんだね?」
「な、何をおっしゃるんですか?」
動揺した。体の脇で両手を強く握りしめる。それでもクライドは容赦しない。
「あれは魔獣、黒狼だよ。でも――アシュリーは知っていたんだね?」
「そんなこと知るわけが――」
「ここに満ちる魔獣が生み出す匂い。それと王宮で初めて会った時、俺のハンカチに染みついていた匂い。ここに入る前、それらを『瘴気』だと言い当てた。なぜ知っている?」
ザっと血の気が引いた。覚えている。確かに『瘴気』と口走った。でも、
「そ、それはきっと、クライド様が先に『瘴気だ』と言っていたので――」
「言っていない。ずっと気をつけていたからね。絶対に口にしていないと断言できる」
はっきりと否定されてどうしようもなくなった。泣きたい。
「なぜ知ってるんだ?」
クライドがこれほど近くにいるのはアシュリーを逃がさないようにするためだと、ようやくわかった。絶対に答えをもらうためなのだと。
(どうしよう! なんて言えばいいの!?)
逃げ場はない。けれどこの状況で前世が魔族だなんて言えるわけない。必死で首を横に振った。
「い、言えません……」
今まで呆然としていたジャンヌが、ここで目を吊り上げた。
「アシュリー様、それはないでしょう! クライド様が聞いておられるのですよ。知っていることを全て話して下さい!」
ビクッと体が震えた。そのまま体の震えが止まらない。冷や汗が背中を次々と流れ落ちていく。
「やめろ、ジャンヌ」
クライドが静かに制し、うなだれるアシュリーをじっと見つめる。草食動物的な悲壮を感じ取ったのか、大きくため息を吐き、
「――わかった。言わなくていいよ」
(えっ、本当に!?)
予想もしていない言葉に、はじかれたように顔を上げる。クライドが真剣な顔でこちらを見ていた。
「その代わり俺たちに協力してほしい。ずっと眠ったままの黒狼を起こしたいんだ。それを手伝ってほしい」
「起こす?」
なんのために、との疑問が浮かぶ。それに眠ったままとは?
それでもこの状況で他に選択肢はない。アシュリーとて黒狼が起きてくれた方がいい。
「わかりました。協力します」
大きく頷いた。
クライドが後ろに下がった瞬間、アシュリーはすごい勢いで逃げていった。まさに脱兎のごとくである。
クライドは、馬房の隅で何度も大きく息を吐いているアシュリーを見つめた。
(相変わらず意味がわからない)
その行動の意図も意味も。だから、じっと観察してみた。
アシュリーはぐーっと体を伸ばし、解放された喜びを全身で表現している。晴れ晴れとした顔だ。恐ろしい魔獣が目の前にいるにも関わらず。
(俺が寄ると逃げるのに。普通は逆だろう)
たとえ魔獣を知っていたとしても。
アシュリーがなぜ瘴気や魔獣のことを知っていたのかはわからない。それはこれから聞けばいい。だから今は――。
「アシュリー」
呼びかけると、リラックスしていた顔が一瞬で曇った。なんだか複雑な気持ちになる。それでもクライドは笑みを浮かべて言った。
「疲れただろう。もう夜も明けた。母屋に戻って朝食と休憩をとってから知っていることを教えてほしい」
気持ちは逸るがアシュリーの体調が一番だ。小柄だから体力もないだろうし、何より疲れた顔をしている。
「はい」と素直に頷いたものの、アシュリーはまだ警戒するようにクライドを見つめている 先ほど、聞きだすためとはいえ近づき過ぎたからかもしれない。
安心させるため、クライドはアシュリーにわざと背中を向けた。
しばらくしてから少しだけ首をひねって振り返ってみる。するとアシュリーは幸せそうな顔で魔獣を見つめていた。まるで憧れの人を見るように、ほんのりと頬まで染めている。
婚約者であるクライドからは逃げるのに、魔獣にはこんな顔をするのか。
どんな理由があるのかは知らないが、確実におかしい。
(本当に変わった令嬢だな)
苦笑と同時に、興味が湧く。魔獣について知っていたからではない。アシュリー本人に対する興味だ。今までクライドは特定の女性に心を動かされたことはない。だからめずらしいことである。
(それに――)
アシュリーの魔獣を見る嬉しそうな、気の抜けた笑顔を見ていると、なんだか肩の力が抜けるのも事実だ。
(不思議だな)
クライドは微笑んで、またアシュリーがクライドの注目に気づいて警戒する前に背中を向けた。




