8 厩舎
聞き覚えのある声に恐る恐る振り向くと、黒いローブの裾が見えた。さらに振り向くと、すぐ後ろに呆れたクライドの顔があった。
差し出す右手の人差し指が凍りついている。どうやら、これを首筋に当てられていたらしい。クライドの魔法だろうとわかったが気になったのは別の事だ。
「あの、冷たくないんですか?」
「……うん。大丈夫」
ふっと指先に息を吹きかけると、氷が見る見る間に溶けていった。すごい。
「こんなところで何してるんだ?」
「え……」
「ここへは近づくなと言ったはずだけど」
何とかしてごまかそうとしたが、アシュリーは言い訳が下手だ。なぜか絶対にばれてしまう。「下手にも程があるわ」と、母親はいつも呆れていたものだ。
そして今、アシュリーを見つめるクライドの顔。一見穏やかそうに見えるが、緑色の目が確実にアシュリーを捕らえている。絶対に逃がさないというように底光りしているではないか。恐い。
「……厩舎の中に何がいるのか知りたくて」
「言えないと言ったよね?」
「そうですけど。どうしても知りたくて」
「何でそんなに知りたいんだ?」
「……言えません」
「なるほど。俺と一緒だね」
話す間も決して視線を放してもらえず落ち着かない。そして何より距離が近い。けれどそのせいで、クライドが身にまとう黒のローブから瘴気の匂いがした。腐った卵の臭いと濃い草木の香りが混じったような独特の匂いだ。
(……)
瘴気に当たったせいで少し気持ち悪くなってきた。それでも六百年ぶりに思い出した今では、とても幸せな匂いに感じる。眉根を寄せながら微笑むアシュリーに、クライドが聞いた。
「ひょっとして気持ち悪い?」
「はい……」
「そうだよね。ちょっと、ごめん」
言うなり手を伸ばし、アシュリーの頭に触れた。黒くてふんわりとした髪を優しく、ぽんぽんとなでる。
(ひい――!!)
突然の事に、アシュリーは脱兎のごとく後ろへ飛び退った。勇者の子孫に前触れもなく頭をなでられるなんて恐怖だ。「慣れるように努力する」と言っておいて何だが、両腕に鳥肌が立ってしまった。
クライドが苦笑した。
「そんなに嫌がらなくても」
「……な、なぜ、このような事を?」
「反応が楽しいから」
「……!?」
「冗談だよ。気持ち悪いのが治っただろ。厩舎の中に満ちているものから身を守る、防御魔法の一種だよ」
「なるほど。瘴気から守ってくれるんですね」
「――そうだね」
瘴気は魔力を持たない人間にとって有害である。吸い込むと、気分が悪くなったり体調を崩したりする。魔術師たちは自身の持つ魔力により平気だと聞くし、クライドも先程の氷魔法といい魔力を持っているようだ。勇者の子孫なのだから当たり前か。
ふと顔を上げると、目が合った。恐いと思うより先に違和感を覚えた。
(……何?)
目の前で微笑む端整な顔。
見覚えがある。王宮で助けてもらった後に向けられた、興味深そうな笑み――いや、違う。それよりさらに不敵なものだ。まるで目当てのものをようやく見つけたのような。
今はもうないはずの、アシュリーの長い二本の耳がぴんと立った気がした。すなわち「警戒」だ。
(なぜ?)
戸惑っていると、「アシュリー」と、クライドが口を開いた。
「この中に何がいるのか知りたいんだよね? 中に入って見てみる?」
「いいんですか!?」
「もちろん」
突然許しが出た喜びで、疑うより先に我を忘れた。
(中に入って、魔族の姿を確かめられる!)
「俺の側を離れないでね」
頑丈な鉄の正面扉の前に立ったクライドが真剣な声で言った。うなずくと、クライドが扉に右手のひらを当てて小さく呪文を唱えた。途端にパンっと乾いた音がして、少しだけ扉が開いた。
(魔法で鍵をかけていたのね)
いくら押しても引っ張っても開かないはずである。
さらに扉を押し開けて、クライドが中を手で示した。
「どうぞ」
(いよいよだわ)
高まる期待を胸に、アシュリーは一歩踏み出した。
内部は想像していたより遥かに立派だった。
正面扉を入ると、左右が馬房になっている。馬房の入口一つ一つに、アシュリーの背丈ほどの高さの扉がついていた。
アーチ型になった天井とレンガでできた壁、細かい石を敷き詰めた床。温度調節のための暖炉やボイラーもついている。
他の厩舎と違うのは、馬も犬も一頭もいない事だ。そして普通は奥へ向かってずらりと馬房が続くのに、それらはすぐに終わり、中庭へと続いていた。中庭は吹き抜けになっているので明るい太陽の光が降り注ぐ。すっかり夜が明けたようだ。
雑草が所狭しと生え、並ぶ木々も枝が伸びっぱなしである。こまめに手入れされているとはとても言えない。中央に屋根のついた井戸が掘られていたが、その周りだけは草が刈られていた。
中庭の左右は飼料の調理場や洗い場となっている。二階へ続く階段があり、二階部分は飼料の貯蔵室や魔術師たちの私室となっているとの事だ。
馬房や洗い場の床は軽く斜めになっていて、端に排水路が走っているため水はけがよさそうだった。
そして中には濃い瘴気が垂れこめている――はずなのに何も感じない。元々瘴気に色はないので目には見えないが、匂いがかすかにするだけだ。しかも体は楽である。
(クライド様の魔法、すごいわ)
感心した。
中庭の右横にある石でできた洗い場で、ジャンヌと、もう一人ローブを着た男魔術師がうずくまっていた。汲み上げた井戸水で、たらいやブラシなどを洗っている。
「ちょっと、そこ、まだ汚れてるわよ! そこも!」
「うるさいな。ジャンヌはいちいち細かいんだよ」
「あんたが大雑把すぎるんでしょう!? まだ泡が残ってるわよ。ちゃんとすすぎなさいよね!」
「文句言うなら全部、自分でやれよ」
口喧嘩か、ジャンヌの激しい声と男魔術師の苛出しそうな声が響く。男魔術師が何か言い返した途端、ジャンヌが持っていた石けんを地面に投げつけた。鼻息荒く立ち上がり、こちらを向いた。
「クライド様、どこにいらしたんですか!」
とても嬉しそうだ。先程までのきつい声とまるで違う。だがすぐに、
「え……アシュリー様? なぜ、ここにいるんですか……?」
ぽかんとした。そして男魔術師も呆然と目を見開いて、アシュリーとクライドを交互に見つめた。
この厩舎の中には、クライドと魔術師たち以外は入れない。サージェント家に前代から勤めている執事のフェルナンでさえ、だ。それなのに魔術師でも何でもない新参者のアシュリーが入ってきている。
だが隣にクライドがいるので、連れてきたのは明白だ。だから怒るに怒れず、単純に「なぜ?」と訳がわからないのだろう。
クライドがジャンヌたちに向かって笑みを浮かべた。
「知っていると思うけど、俺の婚約者だ。ウォルレット家の長女、アシュリー嬢」
「「はあ……」」
「アシュリー、こっちは食堂で会ったジャンヌ。そしてこっちはハンクだ。二人とも王宮からきている魔術師だよ」
まだ呆然としているジャンヌとハンクに、アシュリーは「よろしくお願いします」と、頭を下げた。
ジャンヌはあり得ないと言いたげに一瞬目元をきつくしたが、クライドに見られると思ったのか、すぐに表情を緩めた。だが困惑しているせいか表情が定まらず、眉根がぴくぴくと動いている。
その隣で、ハンクはまだ呆然とアシュリーを見つめていた。二十代半ばくらいか。短い髪に、健康的に日焼けした肌の持ち主である。
クライドが中庭の奥にある、緑色の鉄の扉を指し示した。正面扉とほぼ同じ大きさのものだ。
「アシュリー、あの奥に王家から預かっている生き物がいるんだ」
「「「えええ!?」」」
興奮して頬を紅潮させたアシュリーと、信じがたいと顔を歪めた魔術師二人とは、実に対照的だった。
(あの奥の部屋に魔族がいるかもしれない。生き残りの魔族が!)




