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7 匂いの正体

 和やかな雰囲気を切り裂くように「クライド様」と、若い女性の声がした。

 アシュリーが顔を向けると、食堂の入口に、ベルベット地の足首まである黒いローブを着た女性が立っていた。

 首元と胸元、そして長袖の縁と裾に金のラインが入っていて、首元には金のボタンがついている。

 ローブの前部分を首元まで留めて、さらにローブについたフードを目深にかぶっているため、顔はよく見えない。けれど立ち姿はすらりとしていて美しい。


(あれは魔術師用のローブだわ。という事は、王宮からきてる魔術師の一人……よね)


「ジャンヌ、どうした?」


 応えるクライドの声音が緊迫感あふれるものに変わった。ジャンヌと呼ばれた女魔術師は答えずに近づいてきた。

 アシュリーのすぐ横を通り過ぎざま視線をよこす。


 アシュリーは椅子に座ったまま見上げていたので、フードに隠れていたジャンヌの顔が見えた。アシュリーより少し年上くらいか。少々吊り上がった大きな目の、はっきりした顔立ちの美人である。

 ジャンヌが素早くアシュリーの全身を一瞥した。そして最後にアシュリーの顔に視線を止めて、わざとのようにクスッと笑った。


(……!?)


 瞬間、雷に打たれたように感じた。呆然自失とはまさにこの事だ。

 青ざめたアシュリーに、ジャンヌが勝ち誇った笑みを浮かべながらクライドの許へと歩いて行く。


(……どういう事?)


 心臓の鼓動が激しい。アシュリーはかすかに震えながら、ドレスのスカート部分をぎゅっと強く握りしめた。


 アシュリーがショックを受けたのは、ジャンヌに笑われたからではない。


 ジャンヌが横を通り過ぎた時、ローブについた匂いがしたのだ。王宮でクライドの胸元に入っていたハンカチ、それから香った匂いと同じものだ。

 ようやくこの匂いの正体を思い出した。


(――瘴気だわ!)


 魔族が出す瘴気だ。

 六百年ぶりに嗅いだ衝撃が足元から上がってきた。頭の中で、ぐわんぐわんと鐘のような大きな音が鳴り響いている。


(なぜ? なぜ瘴気の匂いがするの!?)


 答えは一つだ。


(あの厩舎……)


 絶対に近づかないでくれと言われた、敷地の奥にある赤い屋根の厩舎。中に入るのはクライドと魔術師たちだけ。


 もしや、あの中に魔族がいるのか? だから王宮からわざわざ魔術師たちが派遣されているのか? 


 テーブルの向こうでジャンヌがクライドの耳元で何かささやいている。クライドの顔つきが鋭くなっていく。


 混乱したアシュリーは青ざめたまま二人を見つめた。

 ジャンヌはアシュリーがこの光景にショックを受けていると思ったようだ。見せつけるように、さらにクライドに一歩近づいた。


 だが、そんな光景は一向に目に入らないアシュリーは、


(魔族は滅んだはずなのに……)


 信じられない、まさかという否定と、昔の仲間がいるかもしれないという期待が、頭の中でせめぎ合っている。


「アシュリー、悪いけどこれで失礼するよ」


 クライドが立ち上がった。ジャンヌと二人、足早に食堂を出て行こうとする。慌てて声をかけた。


「あの! 奥にある厩舎へ行くんですよね? あそこには何がいるんですか?」


 クライドが足を止めた。振り返った顔つきは先程の楽しそうなものとはまるで違い、厳しいものだ。


「言えない」

「でも、この匂いは――!」

「匂い?」


 アシュリーは慌てて両手で口をふさいだ。瘴気の匂いを知っているなんて言えない。

 クライドは眉根を寄せてアシュリーをじっと見つめていたが、


「――トルファ王家から預かってるものだよ。それしか言えない」


「クライド様!?」と、ジャンヌが目を剥いた。「どうして、そんな事を教えるんですか……!」


(王家から預かってる?)


 アシュリーは混乱した。どういう事だ? 王家は魔族を倒した勇者の血筋をひくのに、なぜ魔族を――?


「前も言ったけど、あの厩舎には決して近づかないように。危険だから」


 低い声で言い残し、クライドはジャンヌと食堂を出て行った。


「旦那様……やっと一緒にお食事ができると思いましたのに」

「申し訳ありません、アシュリー様」


 メイドたちが顔を曇らせる横で、アシュリーは決心した。危険でもいい。昔の仲間がいるかもしれないのだ。


(行ってみよう)


 あの厩舎に。



 サージェント家には立派な厩舎が二棟ある。広い放牧地の中にある方の厩舎では、何十頭もの馬が飼われていた。厩舎の二階は馬丁や御者の寝室になっていて、彼らは交代で馬の世話をしている。

 馬は貴重な財産なので、どこの邸宅でも大事に扱われているのだ。


 そして翌朝、アシュリーはそっと寝室を抜け出した。

 空はしらじらと明け始めている。一応、銅とガラスでできたオイルランタンに火を灯し持ってきたが、必要なかったようだ。早足で敷地の奥へ向かった。


 本当は昨日の夕食の後すぐにでも確認しに行きたかったが、ロザリーやウォルレット家のメイドたちの目があり抜け出せなかった。それに真っ暗闇の中、不慣れなサージェント家では厩舎までたどり着けない。我慢したのだ。


(ここだわ)


 敷地の奥にある二階建ての厩舎。その前に立ち、アシュリーは唾を飲み込んだ。

 茶色いレンガの壁に赤い屋根、突き出た煙突。屋敷の別棟に負けないくらい立派な造りで、外観は特に何も変わったところはない。

 ただ正面扉のすぐ前にいても、瘴気の匂いは一切しない。そして中から何の音も声も聞こえない。不気味なほど静まり返っている。


(異常よね)


 ここにくる途中で放牧場の中にある厩舎を見かけたが、離れていても馬のいななきが聞こえてきたというのに。


(結界が張ってあるって事?)


 今世では魔法に縁がないが、前世では少しだけ魔力を持っていた。そして周囲の魔族たちも総じて魔力量が高かった。

 一度、イノシシに似たオークが結界魔法を使っているのを見た事がある。畑から作物を盗んだトロールを閉じ込めていたのだ。だがこの厩舎よりずっと小さい範囲だったし、中からトロールのわめき声や地面を殴りつける音も聞こえてきた。


 この厩舎も同じだろう。中にいるものを結界で封じこめているのだ。

 だがこの巨大な厩舎全体に、しかも中の音を外に一切漏れさせないほどの強力な結界だ。

 ジャンヌたち魔術師の結界だろうか。すごいとアシュリーは息を呑んだ。


(でも、どうしよう?)


 厩舎の前まできたら、中にいるものの声や音が聞こえたり、もっと濃い瘴気が流れていたりして、何かわかると思ったのだ。けれど――。


(何もわからない)


 甘かった。少しショックを受けた。


(クライド様たちはまだ中にいるのかしら?)


 昨夜アシュリーが寝る前は、クライドはまだ戻ってきていないとロザリーが言っていた。


 とりあえずここまできたのだからと、正面扉に手を伸ばした。決して近づくなという約束を破った事に罪悪感を覚えたが、でもどうしても確認しなければならない。


 鋲がいくつも打たれた重厚な正面扉を押した。アーチ型で観音開きの扉だ。だが、びくともしない。

 中にいるものを閉じ込める結界なら、外からは入れるはずである。


(中から鍵がかかってるという事?)


 一階の全ての窓を見て回ったが、全ての窓に鎧戸(よろいど)が下りていた。二階の窓も見上げてみたが同様である。裏へ回り、裏口の銅製の片開きの扉も思いきり引っ張ってみたが開かない。

 焦って、何とか隙間から中が見えないかと、鎧戸にへばりついてのぞきこんでみた。無理だった。


 何て厳重なんだと肩を落とす。だがこの厳重さのおかげで本当に魔族がいるかもしれないという期待も高まった。どうにかして中を見たい。


(ノッカーを叩いてみようかな?)


 誰かいるなら、少しでも扉を開けてもらえれば、たとえ怒られても内部が見える。


(よし)


 手を伸ばして、シンプルな輪の形のノッカーを叩いた。


「……」


 何の反応もない。力を込めて数回叩いた。


「……」


 やはり反応はない。さらに力を込めて叩き、誰かいませんか――と呼びかけようとした時、ふと首の後ろに冷たく鋭い感触を覚えた。


「……!?」

「動くな」


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