番外編2 隙をなくそう
番外編その2です。アシュリーとクライドのその後の話です。
長いですが、よろしくお願いします。
サージェント家の食堂、長テーブルの上には焼きたての人参ケーキがどんと置かれていた。
人参をすりおろして生地に混ぜ込み、ふんわりと焼き上げたもので、アシュリーの好物である。
「どうぞ、アシュリー様」
(天国だわ!)
幸せを感じながら口に運んでいると、
「美味しい?」
「はい、もちろんです!」
「そうだね。聞かなくてもわかったよ」
向かい合って座るクライドが楽しそうに笑った。そのまま視線を離さない。
「クライド様は食べないんですか?」
「俺はいいよ。アシュリーの分を取ってしまったら怒られそうだから」
「そんなことで怒りません」
キッチンメイドがホールで焼いてくれたから、まだ半分以上残っている。それに美味しいものは皆で分け合って食べたほうがいい。前世の黒ウサギの時から知っている。そして何よりクライドは婚約者なのだから。
そう言おうとしたら執事のフェルナンが入ってきた。アシュリーに会釈してから、
「お食事中に申し訳ありません。旦那様、明日の朝から使用人部屋の補修工事を行います」
「ああ、聞いたよ。よろしく頼む。一緒に古い家具も新調してくれ。皆普段からよく働いてくれるし、士気も上がるだろうから」
「かしこまりました。皆、喜びます。それとダール伯爵のご結婚祝いですが、金製の茶器をお贈りしようかと思っておりますがいかがでしょう?」
「喜ばれると思う。ああ、そうだ、ダール伯爵のご両親にも同じものを贈っておいてもらえないか?」
「かしこまりました。ですが、理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「ダール伯爵夫妻のご両親はウォルレット家と同じ街に住んでいるだろう。お祝いだと贈っておけば、アシュリーの実家の評価も上がるからね」
「承知いたしました」
まさかアシュリーの実家のことまで考えてくれているとは。
「ありがとうございます」
口の中のケーキを飲み込んでから礼を言うと、クライドが笑って応えた。そんな様子を見ていたら、ふと思ったことが口をついて出た。
「クライド様はすごいですね。何と言うか、隙がないというか」
余裕があるというか落ち着いているというか。しいて言えば以前は黒狼のことが隙だったような気がする。けれどそれも今はない。
「そうかな?」
首をひねるクライドの前で、アシュリーは皿に残った最後の一切れをフォークですくった。一口でいくには少し大きい。けれど二口にわけては少ないのだ。
(ちょっとお行儀が悪いけど……構わないわよね)
大きめの一口を丸ごと口に放り込んだ。口の中が大好きな人参の香りでいっぱいになる。
(幸せだわー!)
クライドが噴き出した。
(ちょっとお行儀が悪かったかしら?)
反省したけれど笑うことはないではないか。ちょっとムッとしたところへ、クライドが笑いながら続ける。
「アシュリーは隙だらけだからね。この前もジャンヌの作った人参クッキーを食べ過ぎて青ざめていたし、十日前の舞踏会へ招かれた時も玄関でつまずきかけて悲鳴を上げていたし」
あれはクッキーが美味し過ぎたのだ。
そしてつまずきかけたのはドレスの裾が少々長かったからである。
「そもそも俺たちが初めて出会った時も王妃の謁見室で転びかけていたしね」
その通りなので何も言えない。
「それにずっと俺を怖がって、俺が近づくたびにウサギみたいにふるふると震えていたし」
思い出したのか爆笑している。
(そんなに笑うことないじゃないの)
さらにムッとした時、笑うクライドと目が合った。アシュリーがムッとしていることに気が付いたのか、しまったと言いたげにクライドが笑いを消した。
「ごめん。言い過ぎたよ」
素直に謝られたので、まあいいかと機嫌を直した。思い出したようにメイドの一人が言う。
「そういえばクライド様、ハウスメイドから困惑した顔で聞かれました。旦那様の寝室のベッドの横に、大事そうに置かれている大きなたらい。あれは何か、なぜこんなものが寝室にあるのか、と」
(大きなたらい。それってもしかして――)
おそらく以前、厩舎にあったものだ。湯を入れて、お風呂好きの黒狼をつからせた。クライドが大事に持っているなんてそれしかないではないか。
(そうなのね……)
アシュリーも初めて黒狼をブラッシングしたブラシを、大切に鏡台の引き出しに入れてある。あれは生涯の宝物だ。クライドも同じなのだろう。
ジャンヌも黒狼にカボチャスープを飲ませた時の木べらを、ハンクは黒狼の体を拭いた大きなタオルを今も大事に持っていると聞いた。
(黒狼様は無事に魔王様の魂の許へ行けたかしら……)
黒狼をフルト島へ送ってから毎日祈っていた。
(きっと大丈夫よ。だって魔王様は側近だった黒狼様をとても信頼していたもの)
そういえば祈っていた時、ふと顔を上げると、横でじっと空を見上げていたクライドをよく見た。『天気が気になってね』とごまかしていたけれど、あれはアシュリーと同じく黒狼の無事を祈っていたのだ。
(……やっぱりクライド様は優しい方よね)
改めて思った。自分はそんなクライドの婚約者なのだ。もうすぐ十八歳になる。そろそろ落ち着きと余裕を身に着けてもいいのかもしれない。
(よおし。私も隙をなくすわよ)
アシュリーは密かに決意を固めた。意気込んでいたせいか、椅子から立ち上がるのがいつもより勢いづいていた。椅子を引く音も大きかった気がする。けれど新たな決意に頭がいっぱいのアシュリーは、そのまま扉へ向かった。
――そんなアシュリーの態度をまだ怒っていると勘違いしたのか、クライドが何か言いたそうにその後ろ姿を見つめていた。
翌日アシュリーが応接室で読書をしていると、クライドに伴われてジャンヌとハンクがやってきた。
「アシュリー様、今日も人参クッキーを焼いてきました。どうぞ」
ジャンヌが嬉しそうな顔で、ずっしりと重い紙袋を差し出した。その後ろからハンクが言う。
「今回は俺も手伝ったんですよ」
「あんたは手伝ったんじゃなくて、横でただ見ていただけでしょう!」
ジャンヌとハンクが国王の宮殿へ戻っていって寂しいと思ったのも束の間、翌日二人が笑顔で現れたのでアシュリーは歓喜したものだ。
それからもしょっちゅう顔を出してくれる。
「わあ、ありがとうございます!」
満面の笑みで受け取り、アシュリーは早速袋を開けた。ウサギの形をしたオレンジ色のクッキーが山ほど入っている。
早速一枚食べ、二枚目を早くも手にして、そこでハッとした。嬉しそうな顔のジャンヌの後ろで、クライドが笑みを浮かべている。そこで思い出した。
(決意したばかりなのに忘れていたわ……!)
アシュリーはきっぱりと袋を閉じた。
「今はあまり食欲がなくて。残りは後でいただきますね、ジャンヌさん」
「はい……?」
「アシュリー様、どうしたんすか……?」
いつも無心でぱくつくせいか、ジャンヌとハンクが不思議そうな顔をしている。
(隙をなくすのよ。だからこのクッキーは後で部屋でゆっくり食べよう)
「ジャンヌさんにハンクさん、座ってください。お茶を淹れます」
笑顔で立ち上がるアシュリーに、クライドが顔を曇らせた。
それから三日後、
「アシュリー、今から兄上の宮殿へ行くんだっけ?」
「はい。ジャンヌさんが宮殿の下町にあるお店へ連れて行ってくれるそうです」
色々な動物の形をした小物や布製品を扱う店だと聞いた。特にウサギのものが豊富で、ジャンヌは通い詰めているとのことだ。
にこにこと話すアシュリーにクライドが安心したように笑って聞く。
「へえ。どんな店?」
「ウサギの――」
そこでハッとした。いけない、いけない。ウサギから離れないといけない。前世は黒ウサギだったけれど今は人間なのだ。そう、ただの人参好きな人間なのである。
(隙をなくすんだから)
「なんでもありません」
思いとどまり、鷹揚に微笑む。
「普通のどこにでもあるお店ですよ」
「――そう」
クライドの顔が暗くなったようにも見えるけれど、これで隙をなくせると思うとアシュリーは嬉しい。自分でも落ち着いた笑みを浮かべられたと思う。
「ええ、そうです。では行ってまいります」
いつものように喜び勇んで外へ出ることもなく、なるべくゆったりと見えるように足運びを工夫して外へ出た。
その日の夜、夕食の後でメイドが応接室にコーヒーと食後のデザートを運んでくれた。アシュリーはクライドと向かい合って、ガラスの器に入った洋梨のムースを堪能した。
「美味しいですね」
上品な甘みがとても美味しい。いくらでも食べられそうだ。笑顔でスプーンを口に運ぶアシュリーをクライドがじっと見つめている。その顔は何かを見極めようとするかのように真剣だ。
満足して食べ終わったところへ、
「よかったら、これもどうぞ」
と、妙に丁寧な言葉でクライドが自分の分のデザートをアシュリーの前に置いた。
「いいんですか」と喜びかけてハッとした。隙をなくすのだ。クライドにふさわしい婚約者になるのだから。アシュリーは笑顔で首を横に振った。
「いえ、もう結構です」
クライドが片手で顔を覆った。何やら苦悩しているように見えるのは気のせいか。
そのままちらりと見上げられた。なぜか捨てられた子犬のような顔をしている。なぜだ。
「……アシュリー、食べないのか?」
「食べましたよ?」
「好きなものはいつももっと食べるだろう」
なぜか頼み込むように、さらに器を押してくるクライドに、
「いえ、もう十分です。これはクライド様がどうぞ」
押し戻すと、クライドがショックを受けたような顔でうつむいた。
そのまま沈黙が訪れた。
さすがに戸惑った。クライドは一体どうしたのだ。何か悩み事でもあるのか。
テーブルを挟んでクライドが右手で顔を覆ったままうつむいている。やがて小さな声が漏れた。
「きつい……」
(どうしたの!?)
「クライド様、体の具合でも悪いんですか!?」
「――アシュリー」
クライドが顔を上げた。元気がない。やはり体調不良なのかと心配になる。ところが、
「ごめん、アシュリー。言い過ぎたよ」
「……何を謝っているんですか?」
「……怒ってるんだね。ごめん。そうだよね」
何の話なのかわからない。
「ですから、あの何を――?」
「アシュリーを見てるといい感じに気が抜けるんだよ。なんでも上手くいきそうな気がするんだ……」
情けない顔で見つめてくる。こんな顔を見たのは初めてだ。驚いたけれど、
(そんな風に思っていてくれたの……)
胸にじんときた。知らなかった。とても嬉しい。
それなのに、
「アシュリーに嫌われることがここまできついとは思ってなかったよ……」
(はい?)
嫌われるとは何? 困惑しつつ言った。
「私、クライド様のことを嫌ってなんていませんが……?」
「えっ? だっていつものアシュリーと違ったじゃないか」
気づいていたのか。心が躍る。自分で思ったよりも落ち着いた態度でいられたようだ。
「はい! 隙をなくそうと思ったんです。私ももうすぐ十八歳になりますし、落ち着きと余裕が必要かなと思いまして」
笑顔で語るアシュリーにクライドがぽかんとしている。
「それに――そっちのほうがクライド様の婚約者としてふさわしいかなと思って……」
言葉にするとなんだか照れくさい。心のままに語尾がすぼまっていってしまった。
ぽかんとしていたクライドが、小さくつぶやいた。
「そう……なんだ、そうだったのか……」
少し顔が赤い気がする。こんなクライドを見るのも初めてだ。
呆気に取られていると、クライドが大きく息を吐いて小声でつぶやいた。
「よかった……あー、駄目だ。俺、余裕ないわ」
ガシガシと頭を掻く。
(今日は見たこともないクライド様の顔がたくさん見られる日だわ)
驚いたけれどなんだか嬉しくもある。すっかり気が楽になってアシュリーは笑って言った。
「クライド様も焦ることがあるんですね」
「――まあ、俺も人間だからね」
「あっ、私もそうですよ」
ウサギではなく人間である。つい決意を忘れていつもの調子で言うとクライドが目を見開いて、そして笑った。
「よかった……アシュリーだ」
心底安心したように息を吐いた。そして、
「そのままでいてよ。そのままのアシュリーをずっと見ていたいんだ」
「そのまま……ですか?」
突然の言葉に戸惑った。
「うん。そのまま。一生、俺の傍で」
「は……い?」
びっくりしたけれどクライドの顔は真剣だ。
「返事は『はい』でいい?」
ちょっと考えた。けれど考えることないじゃないかと思った。決まっている。
「はい」
微笑んで頷くと、クライドがようやく笑った。
そしてテーブルにはクライドの分のムースが残っている。
「……いただいていいですか?」
黒ウサギの頃からの好物なのだ。おずおずと聞くとクライドが小さく目を見張って、そして楽しそうに笑った。
「どうぞ」
自分の分のスプーンで一口一口大事にすくって食べる。一個目だろうと二個目だろうと美味しいものはいつまでも美味しい。それにサージェント家の料理はいつも絶品だ。
「美味しい?」
頬杖をついたクライドに聞かれた。
「もちろんです」
「俺ももらっていい?」
「はい。どうぞ」
スプーンに一口残したまま、ムースの入った器をクライドの前に置いた。
瞬間、右手をぐいと持っていかれた。気がつくとすぐ近くにクライドの顔があって、一口のったスプーンのほうを食べられていた。
(えっ……)
「本当だ。美味いね」
クライドがにっこりと笑うけれど、突然のことにびっくりして言葉が上手く出てこない。心臓がバクバクいっている。よくわからないけれどクライドはすっかり元に戻ったようだ。
「……器にまだたくさんありますよ?」
「でもこっちのほうが美味そうだったから」
「……そうですか?」
「うん。本当に美味く感じたよ」
すっかりいつものクライドだ。隙がなくて落ち着いている。
(なんだか悔しいような気がする……)
自分だけが右往左往しているような気がしてたまらない。消化しきれない思いを抱えてちらりと見上げると、幸せそうに笑うクライドの顔がそこにあった。
(綺麗な笑顔……)
相変わらず心臓は落ち着かないけれど、その笑顔を自分に向けられるのはとても嬉しい。
アシュリーも笑い返して、もう一口ムースを口に運んだ。
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