番外編 その後の黒狼
フルト島に着いた黒狼のお話です。
(いい朝だな)
目を覚ました黒狼は微笑んだ。朝日が海を照らし、水面が輝いている。
ここはトルファ国領フルト島の西側、海岸沿いの崖にある小さな洞窟だ。六百年前は崖沿いでももっと開けた広いくぼみだった気がするが、長年の風雨で地形が変わったらしい。
それでもここは間違いなく魔王の生まれた場所である。
五日前にクライドの転移魔法でここに送ってもらった。
体はもう自由に動かない。前足を動かすのさえ億劫でたまらないし、食欲もない。あと数日の命だろうと自分でわかる。
けれど心はとても穏やかだ。もうすぐ魔王様に――魔王様の魂にまた会えるのだから。
(静かだ……)
規則正しい波の音と、時折小さな獣の鳴き声が小さく聞こえるだけだ。
五日前まで周囲はとてもにぎやかだった。アシュリーにクライド、それにハンクとジャンヌの話し声と笑い声が響いていた。
崖の上は深い森になっている。フルト島はほとんどが未開の土地で、ここと反対側の東の海岸沿いに小さな漁村がぽつぽつとあるだけだ。誰かに見つかる心配もない。
四人のことを懐かしく思い出しながら、このままこの静かな場所で命を終えるのだ。そう思っていたのに――。
洞窟の入口で鳥の羽ばたきの音がした。優雅に飛ぶ音ではなく、バタバタと明らかにここにいるよと気づいて欲しい音だ。
(またか……)
呆れながらゆっくり頭を持ち上げると、顔から首元がオレンジ色のコマドリが四羽、ぱたぱたと羽を動かしていた。
(また来たんだな……)
五日前に魔法陣でここに送られるとすぐに、地面に横たわる一匹のコマドリを見つけた。
嵐でも吹いたのか、右の羽の先に石が乗ってしまい動けないでいた。石は黒狼の片目ほどの大きさしかなかったが、体長十五センチほどのコマドリからしたら重い障害物だ。疲弊してピルピル……と力ない鳴き声を上げていたが、突然現れた黒狼を見て目を剥いた。
鋭い牙と爪を持つ獰猛な狼が音もなく目の前に現れたのだから、当然である。しかもコマドリ自身は動けないのだ。
なぜ現れたかなんて疑問は恐怖の前に吹き飛んだようで、コマドリは左の羽を全力でばたつかせて、ビービー! と悲鳴のような鳴き声を上げながら必死に逃げようとしていた。
驚いたのは黒狼もだが、すでに寿命は近く食欲もない。コマドリを食べる気はない。ゆっくり近づくも、コマドリはまるで死刑宣告を受けたように鳴きわめいていた。
黒狼は顔を近づけて、鼻先でその石を退けてやった。
瞬間、コマドリが飛び立った。怪我はしていないようだ。よかった。
黒狼は周りを見渡した。だいぶ変わっているけれど、ここはまさに魔王様の生まれた地だ。感慨深く、その場に寝そべった。もう体力も残っていない。それでも最期にここに来られた自分は幸せだと思った。あの者たちのおかげだなと微笑んで眠りについた。
その翌日、洞窟の入口でバサバサと羽ばたく音がした。なんだろうと思い顔を上げると、そこには昨日助けたコマドリの姿があった。口にブラックベリーの実をくわえている。恐る恐るといった感じで近づいてくると、洞窟の入口にそっとブラックベリーを落として一目散に飛び立った。
(なんだ?)
呆気にとられた後で、ようやく昨日の礼なのだとわかった。
(そんなことしなくていいのに)
義理堅いなと感心した。助けられた恩を返そうとする姿と、恐る恐るといった感じで震えながら近づいてくる姿が、懐かしい二人を彷彿とさせる。
気がつくと思わず微笑んでいた。
けれど起きているだけで体力の消耗が激しいようで、いつの間にか眠っていた。目を覚ますと朝日が昇っていて、洞窟の入口からまたも羽ばたきの音がした。しかも――。
(――増えている!?)
衝撃だ。コマドリが二羽になっていた。右側は助けたコマドリだが、左側は誰だ。呆気にとられる黒狼に、二羽は口にくわえていたカタツムリを置いた。気のせいか昨日より黒狼に近づいてきている。
『いらない』
黒狼はそっけなく告げた。
『礼だということはわかったが、食欲がないんだ。もういらないよ』
こんなことは必要ないと思いをこめて。
コマドリたちは顔を見合わせた。そして頭を大きく縦に振ると飛び立っていった。伝わったようだと安心した。だがその翌日――。
バサバサ。
(まさか……)
勢いよく顔を上げると、そこにはやはりコマドリの姿があった。しかも今度は三羽いる。
(また増えた……!!)
家族なのか友達なのか、見た目は全く同じのコマドリが三羽並んで羽ばたいている。そしてくちばしには――。
『いらないと言っただろう』
気持ちはありがたいが本当にいらないのだ。少々強めに言うと、コマドリたちは顔を見合わせて――またもくわえていたものを黒狼の前に置いた。
今度はさくらんぼの実だ。熟す前で少々固そうではあるが、どうぞと言いたげに黒狼の顔の前までくちばしで持ってくる。やはり伝わっていなかったらしい。
『俺はいらない。お前たちで食え』
今度は怖い顔をしてみた。コマドリたちはまたも顔を見合わせて、そして一様に首を傾げた。そして飛び立っていった。
『おい待て! これを持っていけ!』
昨日のカタツムリは自力で逃げて行ったけれど、一昨日のブラックべリーはまだ残っている。
三粒のさくらんぼの実と残された黒狼はため息をついて、そして思った。
(まさか明日は四匹になってないだろうな……?)
その懸念は当たった。次の日は四匹に増えていた。四匹とも桑の実をくわえて。
まさかこのままどんどん増えるのではと考えてさすがに恐ろしくなった。コマドリの大群で空が埋め尽くされたらどうしよう。
だが幸いにも四羽からは増えなかった。
しかしその次の日も四羽は一緒にやって来て、くわえたものを置いていく。
(仲間……なんだろうな)
黒狼の顔の前で右往左往している四匹のバッタを見ながら考えた。
コマドリたちは四羽とも同じ大きさだから家族ではなさそうだし。
彼らはしばらく入口辺りを飛び回っていたが、そのうち二匹がピーピー鳴きながら激しく羽をバタバタさせ合った。
(喧嘩か? あの魔術師たちみたいだな)
よく口喧嘩をしていたものだ。それでも黒狼と別れる時、笑顔を向けてくれた。心の中では泣いているのだろうなとわかる笑顔だったけれど……。
――そしてここに来て七日目、今日はスグリの実だ。
半透明の赤や白色の実を黒狼の鼻先に置いて、四羽は洞窟内を散策している。散策と言っても黒狼の体でほぼ半分を占める狭い洞窟内で見るものなどないだろうが、黒狼が自分たちを襲わないとわかったようでのんびりとくつろいでいるように見える。
(本当にあの者たちみたいだな)
元気でいるだろうか。目を閉じると厩舎でのにぎやかな様子が鮮やかに浮かんだ。
特注のマントと帽子、靴下がとても嬉しくて、我慢できずに早々に身に着けた黒狼に、
『素敵ですよ、黒狼様! 最高です!』
顔を輝かせたアシュリーが周りをぐるぐると回っていた。
『いいじゃないっすか。やっぱ俺の頼んだ帽子がいい味を出しているんすよね』
『ええ、本当に似合っているわ。でも私の頼んだ靴下がいいのよ。クライド様、どうですか?』
『最初はどうなることかと思ったけど、思いのほか似合っているな。特にマントがいい』
それぞれ自分が頼んだものを自慢し合いながらも、着飾った黒狼を見て目を細めていた。
(魔王様がお迎えに来てくださったら、これを見せないとな)
腹の下に大事に持っているマントと帽子と靴下を見て、黒狼は微笑んだ。
(あの者たちのことも話さないといけないし。なかなか忙しいな)
かつての敵国の人間たちだから嫌がるだろうか。けれどアシュリーの前世は魔族の黒ウサギだ。きっと魔王様も懐かしく思ってくださる。
ああ、でも待て。クライドは勇者の子孫だ。魔王様を討った勇者だぞ。けれど黒狼を――魔王の部下を王家に楯突いてまで守ってくれたとわかれば、大丈夫かもしれない。――いや、念のためにクライドのことを話すのは最後にしよう。
それにあの魔術師たち。黙っていたが、口喧嘩の後は馬房を掃除する手つきが乱暴で、眠る黒狼によく水しぶきが飛んできたものだ。それも全身にだ。言ってやればよかったな。
それなのにアシュリーが来てからは、三人とも人が変わったように楽しそうだった。アシュリーは黒狼に向けていたあの嬉しそうな笑顔をクライドに向けているだろうか――。
思い出すと心が浮き立つ。穏やかな喜びに包まれていたせいか、自身の体がひっそりと動かなくなったことに気づかなかった。
不意に辺りが光に包まれた。どこまでも黒い、けれど懐かしい光。光の先にたたずんで笑みを浮かべているのは――。
(魔王様……!!)
黒く長い髪に立派な角。強靭な肉体。なんとしてももう一度お会いしたかった方が、すぐそこにいる。
魔王が黒狼を見て、そして手招きをした。
夢のようだ。黒狼は泣きそうになりながら、ゆっくりとそこへ歩いて行った――。
ピルピル。コマドリたちはくわえてきた花を、黒狼の顔の前に置いた。
すでに息をしていないが、黒狼の顔は微笑んでいるように見える。全ての望みを叶えて満足そうに。
赤にピンク、黄色に青の小さな花が、微笑む黒狼の鼻先で風に揺れた。




