30 フルト島へ送ろう6
泣きそうな顔のアシュリーを見たクライドの眉根が寄る。
「兄上、俺の婚約者をいじめないでくださいよ」
「何を言うか。私はそんなことをしていないぞ」
「その存在だけで恐いということを自覚した方がいいですよ」
恐ろしいことを口にしながら、クライドはまっすぐアシュリーの許へきた。優しい笑顔でアシュリーの頭をなでる。
「終わったんですか?」
小声で聞くと、
「ああ」
と満足そうな顔で頷いたので、黒狼はちゃんとフルト島へいけたのだと安心した。
「兄上、お久しぶりです」
アシュリーをかばうようにその肩を軽く抱きながら、クライドが一礼した。
「ああ。本当に久しぶりだ。中にいるものの様子を見にきたのだが、どうもその気配が消えたのは気のせいか?」
(ばれているわ!)
今はない背中の毛が逆立つ思いがした。
しかしクライドはうろたえる様子はみじんもなく、顔を曇らせて悲しげに告げた。
「ええ、そうなんです。実は先ほど、例のものがその命を終えました。王宮にはこれから報告しようと思っていましたが、さすが兄上だ。タイミングがいいですね」
「――そうか。本当にタイミングのいいことだ。ではその遺体をこちらで預かろう」
アシュリーはギョッとした。こわばる肩をクライドはますます強く抱き寄せる。
「残念ながら遺体はありません。命を終える直前、そのものの体が強烈な光を放ちました。そして宙に溶けるように体が消えたのです。跡形もありませんでした。不思議なことです」
「消えた?」
「全てがね。残されたのはからっぽの厩舎だけです。まあ生態のわからない、伝説のものですから」
「――なるほど。弟たちと魔術師長はどうした? 中にいるのか?」
「さあ? 中にはきませんでしたよ。俺が一人でそのものを看取ったので。この屋敷のどこかにいるのでは?」
首を傾げてとぼけるクライドに、国王が眉根を寄せた。
疑っているとわかり、アシュリーは体の芯が冷えた。けれどクライドは笑みを浮かべたまま聞いた。
「それより義姉上の誕生パーティーはどうしたのですか? 国内の重鎮たちも参加する一大イベントだと聞きましたが」
「実は、誕生日パーティーは来月に変更になった。すでに各所に通達済みだ」
「――俺は聞いておりませんが」
「そうか。お前の所だけ忘れていたようだ」
一瞬二人が真剣な顔で見つめ合い、そして笑い合った。
(恐いわ)
傍観者のアシュリーは震えが走るほどだ。腹の中での化かし合いは苦手なのだ。
クライドが微笑んだ。
「明日にでも王宮にきちんと報告にあがりますよ。ではそろそろ兵士や弟たちを連れて早く帰ってください。たくさん人がいると邪魔なので」
そんなことを笑って国王に言えるのはクライドくらいだ。
だが国王は首を横に振った。
「きたばかりだからな。アシュリー嬢にもずっと会いたいと思っていたのだ。もう少し話がしたい」
(なんて畏れ多い……)
光栄なことなのだろうが膝がガクガクしてきた。緊張の極致である、ああ、早く帰ってもらって暗い布団の中で落ち着きたい。
アシュリーの心の内を読み取ったのか、クライドが笑って言った。
「残念ながら兄上、俺はこれまで例のものの世話で、王宮にも顔を出せないくらい忙しかったんです。ですからせっかく婚約したのに、全くといっていいほど二人の時間を過ごせていないんですよ」
そう言って、肩だけでなくアシュリーの腰も強く引き寄せる。
あまりの密着度合いと、それが国王の前だということで、アシュリーは狼狽した。
(何これ……!)
心が悲鳴をあげているが嫌なわけではない。ただ途方もないほど恥ずかしいだけだ。
クライドが国王を早く帰すためにしているとわかっているが、それでも頬が熱くなる。赤くなった頬を隠すために、顔を背けてうつむいた。
自分の胸に顔を寄せてきたアシュリーに驚いたのか、クライドが心配そうに見下ろす。アシュリーがこの状況に怯えていると思ったようだ。
しかし真っ赤になった顔を見て、恐がっているわけではないと悟ったようだ。
驚いていた顔がゆっくりと崩れる。そして心底嬉しそうな顔で、アシュリーを抱きしめたまま、その髪に顔をうずめた。
その光景に誰よりも驚いたのは国王のようだった。今まで見たこともない嬉しそうな顔で笑う弟の姿に、大きく目を見張った。そして満足そうな笑みを浮かべた。
兵士たちに「戻るぞ」と声をかけてから、
「公聴会には出席しろよ。王室関係者やその他から詳しく聞かれるだろうが。まあお前なら難なくこなすだろう」
「わかりました」
「例のもののことで他の者たちに不都合は起きないんだな?」
鋭く射貫くような口調で確認する。
「ええ。ありません」
クライドもはっきりと頷く。
「そうか」
と国王は小さく息を吐き、
「では王宮に戻るとしよう。王妃もアシュリー嬢に会いたがっているから、いつでもきてくれ」
「は、はい!」
突然話を振られて、アシュリーは慌てて頷いた。
国王が兵士たちを引き連れて帰っていく。
(終わったんだわ……)
心底安堵したアシュリーは大きく息を吐いた。そこへ、
「クライド様――!」
ハンクとジャンヌが走ってきた。どうやらクライドの弟たちも帰っていったようだ。
そこでアシュリーはハッとして、慌ててクライドの腕の中から逃れた。国王の前では誤魔化すために仕方なかったけれど、今はもう離れていいはずだ。
もがいて離れていったアシュリーに、クライドが残念そうな顔をした。
「黒狼は? 黒狼はどうなったんです!?」
無事にフルト島へ行けたと聞き、ハンクとジャンヌが「やった!」と満面の笑みで両手を力強く振り上げた。
それから不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、そこの前庭で魔術師長に会いましたよ。フェルナンさんが王宮へ向かう馬車まで見送っているところでしたけど、魔術師長はなぜかご機嫌でニコニコしていましたね」
「いつもの態度とは大違いで。『いい部下を持った』と、私もハンクもものすごく褒められました。一体どうしたんでしょう?」
本当にどうしたのか。フェルナンに連れていかれる直前の魔術師長は、青ざめて戦々恐々としていたのに。
クライドがさらりとした口調で言う。
「俺がフェルナンに、魔術師長に言っておいてくれと頼んだことのせいだろう」
一体何を言ったのかと、直接関係のないアシュリーもドキドキしていると、
「『ハンクとジャンヌはとてもいい魔術師だ。ここの当主であるクライドの命を素直によく聞く。国王にも近々そう報告するのでぜひ褒めてやってほしい』と頼んだ」
なんだ、とアシュリーは拍子抜けした。悪い報告ではなく、いい報告だったのか。
「よかったですね」
アシュリーは声を弾ませたけれど、ハンクとジャンヌは顔をしかめた。
「それって、いざという時のための布石も入っていますよね……?」
「黒狼のことが上手くいかなかった場合、責任は全て命じたクライド様だけにあると、魔術師長から報告してもらおうという……」
アシュリーは驚愕した。そうだったのか。クライドはあの時にすでに、いざという時はハンクとジャンヌに咎はないという布石を打っていたのか。
(すごい人だわ……)
感嘆すると同時に、けれどもしそうなっていたら自分はすごく嫌だ。心の底から湧き上がってきた本心に、アシュリーは体の両脇で両手を強く握りしめた。
クライドがハンクとジャンヌに向かって微笑む。
「でも上手くいっただろう。それにお前たちには協力してもらって、本当に感謝している。お前たちがいなかったら俺の望みは叶わなかったから」
そしてアシュリーを見て笑みを浮かべた。
「アシュリーにももちろん感謝しているよ」
「そんな――」
声が詰まって言葉にならない。それでも、
「上手くいって本当によかったです……」
本心をつぶやくと、「そうだね」とクライドが笑った。おそらくアシュリーの心のモヤモヤには気づいていない。
どう言葉にしようか考えていると、ハンクとジャンヌが懐かしむように空を見上げた。
「今頃、黒狼もこの空を見ていますかね」
寂しそうな声だ。アシュリーは二人を見て、元気づけるため笑顔で頷いた。
「見ていますよ。きっと満足そうな顔で」
希望が叶った、満ち足りた顔で。
アシュリーも空を見上げようとすると、クライドと目が合った。緑色の目がゆっくりと細まる。アシュリーも素直に笑い返した。




