29 フルト島へ送ろう5
厩舎の奥の馬房にて、床に描かれた魔法陣が光っている。その中心で、黒狼も同じく光に包まれて宙に浮いていた。
クライドは口の中で転がすように呪文を唱え続けていた。端整な顔には大粒の汗が浮かんでいる。偽の結界を張りながら転移魔法を使うのは容易ではない。
黒狼も自身の持てる魔力を最大限に発してはいるが、すでに寿命を過ぎた体だ。クライドの負担は大きい。
それでも安堵の部分が大きい。これでようやく恩返しができる、と。
この文明が発達した時代、魔法は万能ではない。黒狼をフルト島へ送るのにどれほど頑張っても半日はかかる。
どれだけ時間が経っただろう。
『――だろうか?』
集中していたので黒狼の声を聞き逃した。ハッとして聞き返した。
「えっ? 何か言ったか?」
『魔術師たちは大丈夫だろうか? あと、あの執事も』
「大丈夫だよ」
クライドはハンクとジャンヌを信頼している。フェルナンはいわずもがな、だ。きっとちゃんと足止めをしてくれているはずだ。
『黒ウサギは?』
ふんわりした髪のアシュリーを思い出し、クライドの顔にフッと笑みが浮かんだ。
「フェルナンが一緒だから心配ない」
それは確信している。
しかし弟たちと魔術師長はなぜこのタイミングでここへきたのか。あの抜け目のない国王の命だとは思うが、よく偽の結界を張る前に気づいたものだ。偶然か?
だが偶然でないとしたら――。
(転移魔法はもうすぐ完成する。どうかそれまで邪魔のないように)
それだけを願いながら、クライドは呪文を唱え続けた。
「……!?」
神経を研ぎ澄ましていたせいか、厩舎の外の気配を感じて驚いた。そんな、まさか。背中を冷たいものがつたう。
『どうした?』
クライドのただならぬ状態に気づいたのだろう。黒狼が鋭い口調で聞く。
クライドはゆっくりと答えた。
「兄上がここにきた」
* * *
フェルナンと魔術師長の二人を見送ったアシュリーは、急いで厩舎へと戻った。
すると厩舎の前に十人ほどの兵士が集まっている。ギョッとして慌てて大木の陰に隠れ、落ち着けと自分に言い聞かせた。クライドが、兵士には結界は破れないから中には入れないと言っていたじゃないか。
恐る恐る覗くと、兵士たちの中心に一人の男性の姿があった。後ろを向いているので顔は見えないけれど、豪奢な金のマントを羽織っている。赤い縁取りがされていて、隅にはトルファ王家の紋章が刺繍されている。それに見事な金髪。
(まさか……ね?)
クライドの弟二人はハンクとジャンヌが足止めしているはずである。それに後ろ姿だけれど、目の前の彼はクライドよりもっと年上に見える。
(金髪なんて大勢いるわ)
込み上げる嫌な考えを急いで打ち消した。
今は王妃の誕生日パーティーの真っ最中のはずだ。伴侶がいない王族のパーティーなんてあり得ない。
頭の中から追い出すようにぶんぶんと首を横に振ると、ちょうど彼が振り向いた。
(嘘……)
アシュリーは固まったように動けなくなった。
鮮やかな緑色の目はクライドのそれと同じ色だ。そして何より似顔絵で見た顔そのものだ。
「国王陛下……?」
国王までここにきていたのか。かすれた声でつぶやいた瞬間、目が合った。笑顔を向けられて、木の陰から顔だけ出して覗いていたアシュリーは固まった。
国王が近づいてきた。
「やあ、君がアシュリー嬢だね? 初めまして」
「は、はい! 初めまして、陛下」
慌てて木の陰から飛び出し、深々とお辞儀した。心臓がバクバクいっている。
「楽にしてくれ。なんといっても、もうすぐ私の義妹になるのだから」
「……ありがたきお言葉です」
アシュリーは緊張のあまり頭を上げられない。国王が笑った。
「そんなに固くならないでくれ。今までどんな女性にも見向きもしなかった弟が、一体どんな女性を選んだのか、とても興味があったんだ」
「お、畏れ多いお言葉です……」
「謙虚だねえ。クライドとは大違いだ」
アシュリーはゆっくりと顔を上げ、ちらりと厩舎に視線をやった。
転移魔法はまだ終わっていないはずだ。今、国王に乗り込まれては全てが無に帰す。ここはなんとしても自分が足止めをしなければ。
アシュリーはこくんと唾を飲み込み、笑う国王を見つめた。
「あの、どういったご用件でしょうか……?」
「それより弟たちと魔術師長はどこにいる? 先にきているはずだが。ああ、ひょっとしてもう厩舎の中にいるのか?」
さっさと厩舎に入ろうと身をひるがえしたので、アシュリーは慌てて「いえ!」と声を上げて国王を止めた。
「中にはおりません」
「ほう。では、どこにいる?」
「えっ……あの、わかりません」
フェルナンは魔術師長をどこに連れていったのかわからないし、ハンクとジャンヌも弟たちが待つ応接室へ行くと言っていたけれど、今もそこにいるのかわからない。
国王が興味深そうな顔でアシュリーを見た。
(時間を稼がなくては)
黒狼のために。
「あの! クライド様は、国王陛下の前ではどういった感じなのですか?」
足止めになっているのかわからないけれど、これが精一杯だ。
けれど国王は面白そうに笑いながら、足を止めて答えた。
「そうだな。いつもニコニコと笑っているな」
「仲がよろしいんですね」
意外である。それでもなんだか嬉しくなって微笑むと、国王も笑った。
「愛想笑いというやつだな。腹の中では全く別のことを考えているだろう。その証拠に、私にかける言葉は実に辛辣なんだ」
「……そうなんですか」
「このサージェント家を継いでからというもの、ちっとも王宮に顔を見せなくてね。寂しい限りだよ」
なんと答えていいかわからず迷っていると、逆に聞かれた。
「君の前ではクライドはどんな感じなのかな?」
「……そうですね。私の前でもいつも笑っている気がします」
からかうような笑みだったり、優しい笑みだったり、面白そうな笑みだったり、種類は色々だけれど。
「へえ」
国王が興味深そうな笑みを浮かべる。ふとその笑い方が、誰かに似ていると思った。
「二人でどういう会話をするんだい? 私とだと話が壊滅的に弾まなくてね。私はなんとか広げようと思って頑張るのに、クライドがすぐに切ってくるんだよ。困ったものだ」
(会話……)
うーんと考えて、
「私とでも弾むという感じではないですね」
ただし切っているのはアシュリーの方だけれど。
「そうなのか」と国王が目を見張り、明るく笑った。
「私に対する態度とアシュリー嬢に対する態度が一緒ということは、私は自分で思っているよりクライドに好かれているらしい。よかったよ」
(そうか。陛下はクライド様に似ているんだわ)
どこまで本当なのかわからない、人をくったような話運びが。
さすが兄弟だと感心して見上げるアシュリーに、国王が聞く。
「それで、我が弟は今何をしようとしているのかな?」
「えっ……」
アシュリーは絶句した。
(嘘! ばれているの?)
狼狽しつつも、なんとか誤魔化さないとと思った。
「な、何もしておりません。陛下」
声が裏返ってしまった。嘘が下手だと母に呆れられたことを思い出す。しかし今はそれどころではないのだ。
「ほ、本当です!」
自分でも泣きたくなるほど嘘が下手だ。国王はじっとアシュリーを見つめている。
「信じられないな」
大きく息を吐いた。
「国王である私に嘘をつく気か?」
冷たい声だ。背筋がゾッとした。相手はこの国で一番偉い方なのだ。それでも、それでも黒狼をちゃんと送り届けてあげたい。クライドは今そのために頑張っている。だからアシュリーも頑張って国王を引き留めなくてはいけないのだ。
「陛下!」
気がつくと大声を出していた。
「ク、クライド様が今何をしているかは申し上げられませんが、でもクライド様はとても頑張っておられます。自分の目的のために。でもそれは他の者のためでもあって。私もそれに協力したいのです。とても大事な人なんです」
「その大事な者のためなら私に嘘をついてもいいと?」
アシュリーは顔を上げて叫んだ。
「私は今、嘘をついておりません!」
国王が目を見張った。アシュリーは大きく息を吸った。あまりの緊張に息が苦しい。国王が黙ってアシュリーを見つめている。
その時だ。背後で厩舎の扉が開く音がした。急いで振り向くと同時に、
「アシュリー」
と聞きたかった声がした。
ああ、クライドだ。いつもの笑顔を見て泣きたくなるほどホッとした。




