25 フルト島へ送ろう1
翌朝、アシュリーは早起きして寝室を出た。黒狼と一緒にいられるのももう少しだ。せめて少しの時間でも一緒にいたい。
本当は夜も厩舎にいたいけれど、普段と違うことをしてサージェント家の使用人たちにおかしいと思われてはいけない。何よりも黒狼をきちんとフルト島へ送り届けることが第一だ、とクライドに言われて頷いた。素直にそのとおりだと思った。
それでも気が逸り足早に階段を駆け下りると、そこにクライドの姿があった。驚くアシュリーに「おはよう」と微笑む。どうやらアシュリーの考えはお見通しだったようだ。
厩舎へ向かうと、ハンクとジャンヌが石けんで丁寧に黒狼の体を洗っていた。二人は厩舎の二階で寝泊まりしているので、世話の開始時刻が早い。
アシュリーは、痩せた体を泡だらけにしておとなしく体を洗われている黒狼に、
「おはようございます、黒狼様」
顔を輝かせて挨拶した。
アシュリーを見とめた黒狼が軽く頷く。その拍子に頭から泡の混じった水が垂れてきたようだ。それが目に入り、黒狼は慌ててブルブルと顔を左右に振った。
そのせいで泡と水滴をまともに浴びたハンクとジャンヌが悲鳴を上げる。
「うわっ!」
「ちょっと何をしているのよ!」
頭や腕を泡だらけにしたジャンヌが抗議し、黒狼が『すまん』とうなだれた。
クライドが笑ってたらいに入った綺麗な水を運び、アシュリーも慌ててタオルを取りに走った。
それからもフルト島へいく日まで、アシュリーたちは黒狼と一緒に過ごした。
すでに食べ物や飲み物をわずかしか受け付けない黒狼に、とっておきの塩入り葡萄酒を少量作り、特上カボチャを一つだけとろとろに煮込んでスープにした。黒狼はゆっくりと美味しそうに舐めていた。
黒い毛を丁寧にブラッシングし、お風呂も沸かした。黒狼は気持ちよさそうに首まで湯につかり、目を細めていた。
世話をしながらも別れを思い、ジャンヌは時に涙ぐんでいた。それをハンクがからかい、ジャンヌが大声で怒る。
ハンクはヘラヘラと笑っていたけれど、厩舎の裏でこっそりと泣いていたことをアシュリーは知っている。
クライドはそんな光景を見て微笑んでいた。
アシュリーもだ。別れは確かに悲しいけれど、それよりも黒狼を望みどおり送ってあげられることの方が嬉しい。
ハウスメイドたちに頼んでいた特注のマントや帽子、靴下が届いた。アシュリーはジャンヌたちと楽しく黒狼に着せた。おしゃれをした黒狼はとても似合っていた。
「素敵ですよ、黒狼様! 最高です!」
全角度から見ようと、アシュリーは顔を輝かせて黒狼の周りをぐるぐると回った。
「いいじゃないっすか。やっぱ俺の頼んだ帽子がいい味を出しているんすよね」
「ええ。本当に似合ってるわ。でも私の頼んだ靴下がいいのよ。クライド様、どうですか?」
ジャンヌが聞き、クライドが笑顔で頷いた。
「最初はどうなることかと思ったけど、思いのほか似合っているな。特にマントがいい」
皆に褒められ、黒狼は姿見に映った自分の姿をまんざらではなさそうな顔で眺めていた。
――そして黒狼をフルト島へ送る日がやってきた。
前日の夜から魔法陣の準備をし、身を清めたクライドが陣の中央に立つ。
ハンクとジャンヌはそれぞれ陣の東と西の端に位置どった。さすがに緊張した面持ちで、ハンクが聞く。
「王妃様の誕生日パーティーは今日の正午からですよね? もうすぐ始まりますね」
「ああ。昼から明日の朝までだ。豪勢なもんだろう。黒狼を無事に送り届けたら、俺も遅れて参加するよ」
国王たちに怪しまれないように、クライドは今日のパーティーを参加可能にしているからである。
そして開始少し前に、クライドは急遽用事ができたため少し遅れる。用事が終わり次第駆けつける、と伝える使者もすでに送ってある。
黒狼を誰にも知られることなくフルト島へ送るためだ。
パーティーの開始時刻と同じに偽の結界を張り、魔法陣を発動させて黒狼を送る。そうすればたとえ直系王族たちが異変に気づいたとしても、王妃の誕生日パーティーの最中では動きづらい。それにそれからこのサージェント家へ急行したとしても、到着した頃には転移魔法はすでに終わっている、という計算である。
(お別れだわ)
黒狼はもうすぐ命を終える。望みどおり敬愛する魔王の許へいけるとはわかっていても、それでも悲しいし寂しい。もっと生きて一緒にいられたらいいのに。
けれどそれはアシュリーのわがままかもしれない。黒狼はもう充分生きた。一人きりで。
(せめて笑顔で送ろう)
アシュリーは腰をかがめて、隣に立つ黒狼に抱きついた。
黒狼が驚いたように目を白黒させた。ふさふさの毛をなでながら、アシュリーは頑張って笑みを浮かべた。
「お元気で。黒狼様」
『ああ。といっても、じきに命は尽きるがな』
そうである。
「……すみません」
『いいんだ。世話になった。お前こそ元気でな。クライドと仲良くしてやれ』
「えっ?」
思わず聞き返す。黒狼はそれ以上言わず笑っていた。魔法陣の中央でクライドが苦笑している。
『じゃあな』
「……はい」
見守るアシュリーの前をゆっくりと横切り、ハンクとジャンヌの許へいった。それぞれに体をすりつける。ハンクが泣きそうな顔で黒狼を抱きしめ、ジャンヌは涙を浮かべて頭をなでた。
黒狼が陣の中央にいるクライドの許へ歩いていく。クライドと目を合わせ、双方ともにかすかに目を細めて頷く。それだけで十分のようだった。
「いこうか」
クライドの声に、
『ああ』
黒狼が答えた。
「やるぞ」
ハンクとジャンヌが真剣な顔で頷く。
太陽が真上に上った。
クライドとハンク、そしてジャンヌが同時に両手を合わせて小さく呪文をつぶやく。目くらましのための、偽の結界を張るのだ。黒狼が消えたことを気づかれないように、瘴気と黒狼の魔力をただよわせるものらしい。
「瘴気が出せるんですか!?」
人間なのに。驚くアシュリーに、クライドが首を左右に振った。
「瘴気自体は無理だよ。瘴気のような気配をただよわせるだけだ」
「すごいですね」
すご過ぎる。素直に驚くアシュリーに、クライドが楽しそうに笑っていたことを思い出した。
正直アシュリーにはよくわからない。元の結界ですら瘴気の匂いがなくなったな、としか感じられないからだ。
アシュリーは食い入るように見つめた。
クライドたちの表情から、どうやら偽の結界が張れたのだとわかった。
そして今度は魔法陣が白く浮かび上がった。まるで光の渦が瞬いているようだ。中央にいるクライドと黒狼の姿が光って見える。
(無事にたどり着けますように)
アシュリーは両手を胸の前で合わせて祈った。
その時だ。厩舎の扉を叩く音が小さく聞こえた。
クライドたちの顔色が変わる。厩舎にはここにいる以外の者は誰も入れない。ということは叩かれているのは厩舎の入口の扉なのだ。その音がこの奥の馬房で聞こえるということは、かなり激しく入口の扉が叩かれているということになる。
「――私がいきます」
ジャンヌが張り詰めた口調で言い、緑色の扉を開けて中庭を通り、入口へと向かう。そして押し殺した声で、
「どなたですか?」
「フェルナンです。ジャンヌ様ですか?」
執事のフェルナンだ。前代の当主の頃からここに勤めている。
厩舎の中へは入らないが、入口までくるのを許されているほどクライドに信頼されている、と前にサージェント家のメイドたちから聞いたことがある。
クライドも、「前代の当主も俺も、フェルナンに『王家から預かっているものがある』とだけ伝えた。それが魔獣とまでは言っていない。だがフェルナンはその正体を察しているように思う」と言っていた。
ただ賢い人なので、察していても言葉にも態度にもそれを出さない。
だからこそ今回のことも、クライドは事前にフェルナンにだけ簡単に説明していた。
「急ぎの用件なのです。早急にクライド様をお願いいたします」
扉の外から聞こえる声は、抑えてはいるもののかなり切羽詰まっている。アシュリーは嫌な予感がした。だって、いつも落ち着いた態度と穏やかな笑みを崩さない人なのに。
「どうした?」
異変を察したクライドが扉越しに鋭く問う。フェルナンがめずらしく早口で訴えた。
「大変です。クライド様の弟君たちが先ほどお見えになりまして、至急クライド様にお会いしたいとおっしゃっております……!」




