21 黒狼の話
クライドは微笑んだまま黒狼を見つめた。やっと目覚めてくれた。やっとだ。
身じろぎもせず立っていた黒狼が、やがて口を開けた。
『お前、あの時の王族の子供だな。クライドといったか』
「ああ」
魔獣はこうして心の中に直接語りかけてくるのだ、と思い出した。
「ああ、そうだよ」
もう一度ゆっくり答えると、黒狼が小さく頷いた。
『大きくなったな』
思わず苦笑した。まるで年上の知り合いのようなことを言う。確かに何百歳も年上だけれど。
それよりクライドは気になっていることを聞いた。
「体は大丈夫なのか?」
『なんとかな』
「水を持ってくるよ。食べ物は何がいい?」
『何もいらない』
何も? いぶかしげに黒狼を見ると、
『寿命はとっくに尽きている。いくら魔族でも六百年は生きられない。それでもこうして生きながらえているのは、ずっと眠っていたからだ』
必要最低限の体力で生きながらえていたということか。やはりか。凛と立ってはいるものの、体は痩せ細ってあばら骨が浮いている。
ではこうして目覚めてしまっては逆に駄目なのではないか。そう思い、心臓が縮み上がるような思いがした。早くしないと。
「子供だった俺を助けてくれた時の、お前の言葉の詳しい意味を知りたい」
魔王様の魂の許へいきたい。だが今のままではただ死ぬだけだ。そこまでたどり着けない、という――。
クライドは黒狼をまっすぐ見つめた。あの時は大きく見えたが、今はそうでもない。
黒狼も物言わず見つめ返してきたが、クライドの覚悟を悟ったのか、やがて口を開いた。
『――生前の魔王様から聞いたことがある。魔王様と死後も共にいたいのなら、自分が命を終える時にある場所にいないといけない。その場所で死ねば、死後魔王様の魂が導いてくれる、と。だが俺の今の魔力では、とてもそこまでたどり着けない』
「それは俺が力添えする。腐っても勇者の子孫だ」
クライドは勢い込んで言った。自信はある。
けれど黒狼の顔つきは晴れない。
『――問題はその場所なんだ。自分の命が尽きる時にいないといけない場所。それは魔王様がお生まれになった場所だ。魔国の領土内だったどこかだが、俺にはその場所がどうしても思い出せない』
声に悲痛な響きが満ちた。
『どれだけ考えても、どうしてもわからない。……こんな俺に、魔王様の許へいく資格はない』
黒い顔が力なくうなだれた。クライドは黒狼が自分の意志で眠り続けていた意味を悟った。自責の念からだったのか。
(そうだったのか……)
愕然とした。
(魔王が生まれた場所?)
そんなことクライドも知らない。というより知る者はいないだろう。
(なんてことだ)
心の内に絶望が込み上げた。
せっかく黒狼が目覚めたというのに。このままみすみす死なせてしまうなら、サージェント家を継いだ意味もないじゃないか。
「誰か知っている者はいないのか? もしくは文献か何かに――!」
口にしながら、そんなものはないと頭の片隅でわかっていた。黒狼も承知したように言う。
『魔族なら大抵の者は知っていたはずだ。だが俺以外、みな死に絶えた。それに魔族には明確な文字なんてものはない。全て口伝えだからな。だから文献なんてものも残っていない』
「そんな……」
クライドは頭を抱えてその場に座り込んだ。全身から力が抜けていく。今までも自分の非力さを悔しく思ったことは数えきれないほどある。けれど今、それを一番痛感していた。
「――ごめん」
恩返しなんてできないんだ。クライドはかすれた声で呻いた。
* * *
ごめん、と言ったまま目の前で座りこみ呻き声をあげるクライドを、黒狼は見つめた。
(悪いな)
心から悪いな、と思う。
黒狼はずっと眠っていたけれど、その間ずっと意識がなかったわけではない。体は寝ていても、意識はたまに覚醒していた。
だから今から十四年前、魔力の暴走でクライドが死にかけた時も、すぐに目覚めて助けることができたのだ。
黒狼は魔族だが、今さら勇者の子孫に復讐したいなどとは考えていない。もちろん魔王が命を落とした直後はそう思ったが、今は違う。
一つには元々魔国が他の国へ侵略するのをよく思っていなかったこともあるし、魔王が死ぬ時に勇者が苦しませず一思いに心臓を貫いたこともある。それに仲間はもう誰もいない。
さらに黒狼が一人きりでさまよっていた北の山中で、トルファの王子に命を助けられたことも。だからあの時、子供だったクライドを助けたのだ。金の髪に緑色の目、整った顔立ち。クライドはあの時の王子を彷彿とさせた。
このサージェント家の厩舎で孤独に眠り続けながら、必死で魔王が生まれた場所を思い出そうとした。だがどうしても思い出せない。
そんなことも思い出せない自分は、魔王の魂のところへ行く資格がないのだ。心の中で悲痛な叫び声を上げ、そのたびに自分を責める。
こんな自分はこのままここで、勇者の子孫が作った国の中で、一人でひっそりと命を終えるのがお似合いなのだろう。
誰か魔族の生き残りがいれば、その場所を教えてもらえるのに――。心からそう思う。
だがそれは無理だと知っている。魔族はもうどこにもいないのだから。
この厩舎にきて四百年、黒狼の周囲は驚くほど静かだった。
たまに、ふとした拍子に覚醒するだけだが、いつでも静寂に満ちていた。
大抵は誰もいない。いたとしてもここの当主が適当に掃除をしていたり、黒狼の様子を遠くからうかがっていただけだからだ。
自分の存在はただの面倒で厄介ごとなのだ、とわかっていた。黒狼に生きていてほしいと願う者は一人もいない。とても孤独で寂しかった。魔王の生まれた場所も思い出せず、ひたすら自分を責めるばかりだった。
黒狼の周りが少しだけ騒がしくなったのは、今から四年前のことだ。クライドがサージェント家を継ぎ、二人の魔術師がやってきた時だ。
彼らはなんとか黒狼を起こそうと様々なことをした。トルファ国だけでなく他の国の覚醒魔法や起床魔法を試された。苦かったり甘かったりする薬を口に入れられたり、毛をかき分けて塗られたりした。
「頼む。起きてくれ。頼むよ」
クライドは必死に頼んできた。
それから四年の間に、焦れたような声は悲壮なものに変わっていった。
黒狼の命があとわずかだということを感じ取ったのかもしれない。
一度あの時の状況を再現しようとしたのだろう。クライドが一人きりですべての魔力を発散させたこともある。それでも黒狼は動かなかった。
歴代の当主よりよほど尽くしてくれた。厄介で面倒なものとして放っておかれた今までとは違い、体も洗ってくれたし、爪も切ってくれた。寒い時にはボイラーを焚き、熱い時には氷水に足をひたしてくれた。
それでも全く進展のない状況に、三人とも疲れてきたのだろう。魔術師たちはよく口喧嘩をするようになり、クライドの顔は疲れていった。
それが一変したのは、つい最近だ。
ふんわりとした黒髪の小柄な女性がきてからだ。ふるふると震えるさまは、まるで小動物、下等魔族を思い出す。そのせいか、目の前で身をひるがえされて、思わず覚醒して鼻を動かしてしまった。
しかも続けて体の毛を丁寧にブラッシングされて、黒狼は驚いた。その小動物のような女性が自分の横に座り込み、嬉々としてブラシをかけていたのだ。
そこに魔術師たちも加わり体中を念入りにブラッシングされて、久しぶりにとても気持ちがよかった。魔国時代、黒ゴリラにブラッシングしてもらったことを思い出した。
(この女、何者だ?)
意識を集中した。けれど改めて確認しても、やはり人間の匂いしかしない。なんだ人間か、と落胆し、そりゃそうだ、と思ってまた眠った。
と思ったら風呂に入れられて、びっくりして意識を取り戻した。
黒狼は風呂が大好きなのだ。温かい湯につかるのは至福の時である。体全部を湯につけて、後頭部に優しく湯をかけられた。本当にとろけるような気持ちだった。思わず鼻がぴくぴくと動いてしまったほどに。
いい気持ちでいたら男魔術師に顔に湯をかけられたが、まあいい。
さらに野菜料理ときた。なぜこの女は黒狼が野菜を好きだと知っているのか。それでもポトフにカボチャスープに炒め物など。これまでも冷たい生肉は口に入れられたことがあるが、この芳醇な匂い。目の前で嗅がされてはたまらない。
さらにアーティチョークを口に入れられて、思わず耳が動いていた。
さらにカボチャスープ。なんなんだ、こいつら。眠っている者に無理やり食べさせてはいけないんだぞ。それでも好物なのだ。ごくんと飲み込んでしまった。
「食べましたよ! 黒狼がカボチャスープを!」
女魔術師が歓声を上げる。いつもきつい顔をしてきつい物言いをしていた女と同一人物とは思えない。
男魔術師も扇子を手に笑顔で踊っている。最近はずっと顔をしかめていたのに、今は顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
そしてクライドだ。疲れ切っていた体にすっかり生気が戻っている。それにこの小動物のような女を見る目。愛しさに満ちている。そう素直に告げればいいものを、意地悪をして逃げられている。それでもとても大事に思っていることがわかる。肝心の女には伝わっているかは謎だが。
何より「黒狼様」と親しげに呼びかけてくるこの女は何者なのだ。
黒狼の好きなものをピンポイントで当ててくる。だが黒狼に人間の知り合いなどいないから、たまたまの偶然なのだろう。
それによく黒狼を見て頬を染めている。クライド相手にしてやればいいのに、と思っている。
馬房内に流れる空気が違う。前とは違い、とても温かい。
冷たい静寂に満ちていたのに、今は明るい声が飛び交っている。
そして、黒狼は目を覚ました。魔王の生まれた場所を知っている魔族はもういないとわかっていても――。




