2 婚約
アシュリーが魔族の黒ウサギだった前世を思い出したのは、ちょうど十歳になった時だ。その時にはすでにこのトルファ国の歴史も習っていたから、自分が死んだ後の魔国がどうなったかも理解した。
「およそ六百年前、高い山脈で隔てられた東の小国、魔国の魔王は次々と近隣諸国に攻め入りました。その勢いはすさまじく、たくさんの国が滅ぼされ、魔国に吸収されていきました。そしてついに魔王はこのトルファ国にまで手を伸ばしたのです!」
子供相手に劇口調で話す教師の前で、アシュリーは違う事を考えていた。
(さすが魔王様。側近の魔族たちもすごく強かったし。まあ戦いに駆り出された私はすぐに死んだけど)
平和に草を食べていただけの黒ウサギは戦闘力皆無だった。
「そこへ一人の勇者様が立ち上がりました。たなびく金の髪に緑色の目をした強く気高い勇者様は、死闘の末に魔王を討ちとったのです! トルファに平和が訪れました! 勇者様はトルファの王女と結婚し、そして代々、このトルファは勇者様の子孫が治められているのです!」
拍手喝采。そして「ラララー。勇者様はー素晴らしいー」と勇者を褒め称える歌が続く。
トルファ国民なら誰でも知っている国民歌だ。
高い山脈で隔てられていた当時の魔国は、今やすべてトルファ国の領土となっている。
攻め入った魔国側が悪いともちろんわかっている。だが勇者の部下に殺された黒ウサギは、素直に勇者を称える気にはなれない。
(何だか複雑)
喜色満面で勇者を称える歌をうたう教師の横で、アシュリーは小さな声で後を追って歌った。
――(懐かしい夢)
昼寝から目覚めたアシュリーは、ぐうっと伸びをした。ソファーでうたた寝をしていたせいで体の節々が痛い。
天気のいい昼下がり、ウォルレット家の居間では、母と妹が興奮した顔で新しいドレスの生地を選んでいる。
天井からシャンデリアが垂れ下がり、窓から入る日差しにきらめいている。居間の隅には石造りの大きな暖炉が備え付けられているが、今の時期は暖かいので使っていない。
王宮での拝謁から三日が経った。そこへ、
「喜べ! アシュリーの婚約が決まったぞ!」
父が満面の笑みで飛び込んできた。
「お相手は何とサージェント侯爵だ!」
「「「ええ――!?」」」
アシュリーと母と妹は同時に叫んだ。
サージェント侯爵の名を、若い女性の間で知らない者はいない。
サージェント家は十二代続く由緒正しき家柄で、名高い魔術師を何人も輩出してきた名門だ。四年前に亡くなった前侯爵には男児がおらず、親戚に当たる今の若き当主に爵位を譲った。
財と地位と美貌を兼ね備えた二十一歳の侯爵は人気絶大で、結婚相手として喉から手が出るほどの優良物件なのだ。しかし光に吸い寄せられる虫のようにフラフラと寄っていく女性たちを、笑顔で断り続けていると聞いた。
「何と侯爵からの申し入れだぞ! 私の狩り仲間である王室長官が話を取り持ってくれてね。向こうはすぐにでも婚約を取り交わしたいそうだ。明後日、事務弁護士と一緒に侯爵がうちへいらっしゃると手紙が届いたよ。いや、めでたい!」
なぜに王室長官? とふと思ったが、体の底から湧き出る喜びに一瞬で消え失せた。
だってすごい事だ。まさか、あのサージェント侯爵から婚約を申し込まれるなんて。奇跡のようじゃないか。
「まあまあ! アシュリーったらすごいじゃないの! 内緒にしていたようだけど、王宮での拝謁でカエルのように転びかけたとカダン伯爵の奥様から聞いたのよ。この子は嫁にいけるのかと本気で心配したけど。まさかのサージェント侯爵! さすが私の娘だわ!」
「お姉様、すごいじゃない! いっつも暗い部屋の中で布団にくるまってゴロゴロしているだけだと思ってたけど! すごいわ、尊敬する!」
王宮での事も普段の生態もばれていたのかと、ちょっと遠くを見た。
元々アシュリーが王妃に拝謁を賜れるとわかった時の、家族の期待のかけようもすごかった。
拝謁を賜るには、前もって本人の名や父親の身分などを記した書面を、紹介者を介して王室長官宛てに届けておく必要がある。そうして初めて「可」か「否」かの返事が届くのだ。
五十年ほど前までは、拝謁できるのは上流階級の者たちだけだった。けれど今は中流階級の者たちにも許されている。
親同士で子供の結婚相手を決めていただけの昔とは違う。舞踏会や晩餐会などの出会いの場に数多く出席し、恋愛結婚も多い時代になった。だからこそ子供も親も社交界における意気込みはすごい。
(でもねえ……)
興味もやる気も覇気もないアシュリーには応えられそうもない。特に王宮で転びかけてからは、なおさらだ。
四歳下の妹はアシュリーと違って積極的な性格だから、そっちに期待をかけて欲しいものだ。それか二歳上の他国へ留学中の兄が、上級貴族の妻をもらうかしてくれないものか。
そんな事を考えていたのに――。
(本当にすごい。まさに奇跡だわ)
思わず万歳をしながらジャンプした。前世がウサギだったせいか、ジャンプ力には自信がある。
淑女にあるまじき行為だと怒られてしまうとハッとしたが、家族は皆ガッツポーズで居間を飛び回っていた。
それから二日経ち、サージェント侯爵が訪れる日がやってきた。
昨日は一日かけてメイドたちと一緒に家中を磨き上げた。人手が足りず、アシュリー達も駆り出されたのだ。
ぴかぴかになった客用の応接間。敷かれたアイビーの蔦模様が細かく織り込まれた絨毯は、母が貴族御用達の卸売りから買った自慢の一品だ。そこで、
「クライド・ウォン・サージェントです。二度目ですね、アシュリー嬢」
噂通り見目麗しい侯爵がソファーに座りながら足を組み、にっこりと微笑んだ。
(この方は……!)
見とれる両親の横で、アシュリーは驚いた。何とサージェント侯爵は王宮で助けてくれた青年だった。
「あの、この間はどうもありがとうございました!」
「いいえ。もう気にしないでいいよ」
(何て幸運。すごいわ! 神様ありがとう)
前世の魔族は神に深く感謝した。
背もたれの部分と肘置きに真鍮製の飾りがついたソファーには、アシュリーの隣に母が座っている。父はその斜め横に置かれた一人用のソファーで、差し出された書類を眺めていた。
向かい合うクライドの横には小太りの事務弁護士、その後ろには助手が立っている。
婚姻資金や持参金などについての話し合いの後、何枚もの契約書や書類にサインし、印を押す。
これで婚約成立だ。
父が満面の笑みを浮かべた。
「いや、このたびはありがとうございます。サージェント侯爵がアシュリーを一目で気に入ってくれたそうで」
「――ええ、もちろんです」
何だろう、今の間は。だがアシュリーは今幸せなので、気にしない事にした。
「いやー、アシュリーもこの頃めっきり綺麗になりましたからな。いや、サージェント侯爵が気に入られるのも無理はない。アハハハ」
「そうですわね。めっきり女らしくなりましたわ。何せ元々私に似て美人ですから。オホホホ」
アシュリーが言うのも何だが、両親はかなりおめでたい性格をしている。
「――ええ、まさにその通りですね」
爽やかな笑みを浮かべるクライドだが、やはり何だろう、この間は。ちょっと気になってきた。




