16 一歩後退?
今日は朝から快晴である。厩舎の吹き抜けになった中庭にはたっぷりの日射しが下りてきていた。
黒狼のいる奥の馬房にも窓がいくつもあるが、外から見られることを警戒してか、天井近くの窓も全て鎧戸が下りている。そのため馬房の中は一日中、オイルランプが灯されていた。
オレンジ色の温かみのある明かりの下、うずくまる黒狼はただまどろんでいるだけのようにも見える。朝がくれば起きて活動するのだろうと――。
「次はどうすればいい?」
クライドに聞かれてアシュリーは考えた。
「そうですね。好きな食べ物を目の前に置いてみるとか。美味しそうな匂いで目を覚ますかもしれません」
黒狼は食べることも好きだったから。
ハンクが、うーんと唸りながら答える。
「さすがに食べないとやばいんじゃないかと思って、これまでにも何度も餌をやってみたんですよ。高級な鹿肉からそのへんにいたネズミの肉まで。でも目を覚ますどころか反応すらしなかったっすね」
「口を開けさせて小さな肉片を放りこんでみたこともありましたが駄目でした。一口も食べませんでした」
ジャンヌも顔を曇らせて続けた。ハンクが思い出したように明るく笑った。
「捕まえたウサギをやったこともありましたけど駄目でしたね。そういや、あの時のジャンヌの怒りようったらなかったな。なんであんなに怒ったんだよ?」
「あの時のことは一生かかっても絶対に許さないわ。絶対にね!」
「……俺、そこまで怒られることしたか?」
納得できないと眉根を寄せるハンクの前で、アシュリーも何度も頷いた。もちろんジャンヌの言葉に対して、である。その後ろでクライドが笑っている。
アシュリーは気を取り直して言った。
「でも黒狼様が好きなのはお肉ではありません。野菜をあげましょう」
「……狼なのに野菜ですか?」
「肉食獣じゃないんですか」
ジャンヌとハンクが目を見張る。「野菜です」とアシュリーは頷いた。
黒狼は野菜が好きなベジタリアンだった。芽キャベツ、ラディッシュ、アーティチョーク。塩をかけて美味しそうにバリバリかじっていたものだ。
人参も好きだったと聞く。野菜だけであれほど筋骨隆々とした体を維持し、なおかつ強い黒狼。黒ウサギはなぜ自分とこれほど違うのか、と巣穴の中で真剣に考えたものだ。
「肉じゃないのか……」
さすがのクライドも呆然としている。動物ではなく魔族なのだから、人間の常識で考えてはいけない。
「よし。野菜をやってみよう」
クライドの言葉で、我に返ったジャンヌとハンクが厩舎を飛び出し畑に向かった。
アシュリーも後をついていこうとして、クライドに呼び止められた。
「黒狼についてだけど」
「……はい」
馬房に二人きりだ。緊張が増す。
二人きりになった瞬間顔がこわばったアシュリーを見て、クライドが笑った。
「緊張している?」
「えっ? あ、いえ。そんな……」
「婚約者の俺に慣れようと頑張ってくれているんだっけ?」
「はい。――いいえ! それは友達の話ですよ?」
焦ってしまう。
「そうだったね。間違えたよ」
楽しそうに笑うクライドに、恐る恐る聞いてみた。
「あの、クライドが子供の時に黒狼様は一度目覚めたんですよね?」
「そうだね」
「では、それと同じことをしてみてはどうですか?」
そうすれば再び目を覚ますのではないか。
だがクライドは真剣な顔で言った。
「そうすると誰か死ぬかもしれないから無理なんだ」
(死ぬ!?)
恐ろしい。まさかそんな危機的な状況だったなんて。
(さすが勇者の子孫だわ……)
平和に草を食べていただけの黒ウサギとも、のほほんと生きてきたアシュリーとも全く違う。
知らぬ間に顔が引きつっていたらしい。クライドが苦笑した。
「でも死にそうだっただけで、誰も死ななかったから大丈夫だよ。――ああ、ちょっとごめん」
そう言うなり、クライドが近づいてきて腰をかがめた。アシュリーが着ているドレスのスカート部分の裾を軽くはたく。
(ひいっ!)
クライドの頭が自分の足のところ、すぐ真下にある。恥ずかしいのと恐ろしいのとで思わず高速で後ずさってしまった。クライドが爽やかな笑みを浮かべる。
「裾が汚れていたから」
「……ありがとうございます」
わざわざ綺麗にしてくれたのだ。
(いい人だわ)
それはよくわかっている。だから頑張って慣れようとも思っている。
けれどだからこそ、ゆっくりと自分のペースで慣れていきたい。こうやって突然近づかれると、どうしても前世の記憶から恐さが先に立ってしまうのだ。
「あの、本当に申し訳ないお願いなんですが、私に近寄る時はそう言ってからにしてもらえませんか?」
申し訳なさを込めて頼む。
クライドが目を見張り、すぐに首を傾げてみせた。
「それは俺だけ? ジャンヌやハンクは言わなくても平気なのか?」
「はい! ……ああっ、いえ、それはその――!」
思わず肯定してしまった。うろたえるアシュリーに、クライドが真面目な顔で頷いた。
「わかったよ。アシュリーに近づく時は、事前にそう言ってからにする」
(いい人だわ!)
婚約者からのこんな理不尽なお願いを聞いてくれるなんて、やはり優しい人だ。ありがたさを噛みしめていると、クライドの笑いを含んだ声が降ってきた。
「事前に言えば、いつでもどこまででも近づいていいわけだからね」
(墓穴を掘ったわ……!)
どうしてこうなるのか。少しずつ慣れようとしているだけなのに。
おそらく魂の抜けたような顔をしていたのだろう。クライドが面白そうに笑い、後ろに下がってアシュリーから距離をとった。
そこへ、
「野菜を持ってきましたよー」
畑で収穫した野菜を抱えたジャンヌとハンクが戻ってきた。
天の助けである。これ以上ない満面の笑みで駆け寄るアシュリーに、ジャンヌがとろけるような笑みを浮かべた。
どっしりとしたカボチャに、色濃いブロッコリー。何層にもなった表面が艶めくアーティチョーク。キャベツのような形のカーヴォロに、丸々としたジャガイモ、玉ねぎ、セロリ。
立派に育った野菜たちに、アシュリーは嬉しくなった。
(美味しそう。これで黒狼様が反応してくれるといいけど)
「さっそくキッチンメイドに頼んで料理してもらおう」
とクライドが言った。




