15 ウサギについて2
アシュリーが視線を向けると、ちょうどクライドが黒狼をたらいから出しているところだった。
続いてハンクが、広げた大きなタオルでガシガシと黒い狼を拭いている。腹から尻尾、耳の後ろまで、丁寧なのか雑なのかわからない手つきで遠慮なく拭きまくっている。
六百年前、湯から上がった黒狼は月明かりの下、全身を豪快に震わせて水滴を飛ばしていたのに。
(でも一度起きたということは、自分の意思で眠っているのよね)
どうしてなのだろう。
考え込んでいると、不意にジャンヌに聞かれた。
「アシュリー様はクッキーがお好きなんですか?」
「はい。好きですよ」
「そうですか。いえ、とても美味しそうに食べていたので……」
ジャンヌが顔を背けた。なんだか歯切れが悪いし、元気もない。
心配になって聞いた。
「大丈夫ですか?」
「えっ、大丈夫です。なんでもありません」
いつもしっかりした受け答えをしていたのに、今はなぜかうろたえているように見える。
「本当に大丈夫ですか?」
もう一度聞いた。アシュリーが心底心配しているとわかったのだろう。ジャンヌはうつむいて震え始めた。なんだか葛藤しているように見える。
「ジャンヌさん、大丈夫じゃないですよ? そうだ。これをどうぞ」
アシュリーはメイド作の人参クッキーを差し出した。先ほど追加でさらに三枚もらい、これが最後の一枚である。
「食べたら元気になりますよ。人参クッキー、美味しいですよね。私、大好きです」
ジャンヌが顔を上げた。泣きそうな表情をしている。
「……人参クッキーだから好きなんですか? 人参だから?」
「えっ? まあ、そうですね……」
令嬢なのに人参が好きなんてどうなんだろう。そんなことを思ったら不安から語尾が小さくなってしまった。
実家ではよく母から「また茹でた人参を食べているの? 馬じゃないんだから、もっといいものを食べればいいのに」と呆れたように言われたものだ。
「馬じゃなくてウサギだし」と小さく言い返したら、地獄耳の母はちゃんと聞き取っていた。「どっちも似たようなものでしょう」ときっぱり言われ、一緒なんだ!? と衝撃を受けたものだ。
遠い目をして思い出していると、ジャンヌがつぶやいた。
「そうなんですか。人参だから好きなんですね……」
そして突然、両手で勢いよく自分の頬を叩いた。乾いた大きな音が馬房中に響く。アシュリーも驚いたが、ハンクとクライドもびっくりしたらしい。急いで近寄ってきた。
「ジャンヌ、何をしてるんだよ!?」
それには答えず、ジャンヌは真っ赤になった頬を床にすりつけんばかりに言った。
「アシュリー様、私、お菓子作りが結構得意なんです。もし、万が一ですけど、クライド様に人参クッキーを作ったら……余ったのを食べます?」
「はい、食べます!」
即答すると、ジャンヌが力なく頷いた。まるで抜け殻のようにこれまでの勢いがなくなっている。
やがて苦悶の泣き顔で頭を下げた。
「アシュリー様、今まで申し訳ありませんでした。ごめんなさい……!」
「何がですか?」
謝られることをされた覚えはない。
アシュリーが本気でわかっていないと知ったジャンヌとハンクが目を見張る。その後ろでクライドが楽しそうに笑った。
* * *
ジャンヌはクライドが好きだった。四年前に王宮から、クライドの護衛兼魔獣の世話役としてサージェント家に派遣されて以来、ずっと憧れていた。
当然だ。他に類を見ないほどの美貌に、魔力も身体能力も高ければ頭もいい。けれどそれに驕ることなく人当たりもいい。誰にでも優しく接する。そんなクライドに夢中にならないわけがない。
だがそんなクライドよりも、ジャンヌには好きなものがあった。
そう――ウサギである。
ふわふわの体にピンと立つ長い二本の耳。つぶらな瞳に丸いころんとした尻尾。小さな鼻をひくひくとさせて二本足で立ち上がったり、体を丸めてふるふると震えていたりするのだ。
(こんな可愛いものはこの世の中に他にないわ!!)
子供の頃からそう思っている。けれど誰にも言ったことはない。サバサバ系の美女である――と自分で思っている――ジャンヌが、ウサギ好きだなんて似合わない。だから内緒だ。
それでもウサギ熱は冷めず、こっそりとウサギの形をしたイヤリングをつけてみたり、下着にウサギを刺繍したり、部屋にウサギの絵を何枚も飾ったりしている。
もちろん誰にもばれないようにイヤリングは髪で隠し、刺繍は見えないところにあしらい、絵はその上から違う絵を飾ったりしている。
だからアシュリーに「ウサギが好きなんですか?」と聞かれた時は、心臓が口から飛び出るかと思った。
「まさか! 好きではありません!」ときっぱり否定した。
その時だ。「そうなんですか……」しゅんとうなだれるアシュリーの姿が、何かに似ているように思えたのは――。
(いいえ。そんなわけないわ)
気のせいだ。ずっと魔獣の世話をしているから疲れているだけだ。
そう。まさか憎き恋敵ともいえるアシュリーが、まさかだ。
クライドが婚約者だと連れてきたアシュリーが、ジャンヌは嫌いだ。クライドがどんどんアシュリーを気に入っているのがわかるし、アシュリーはまんざらでもないはずなのに嫌がっているふりをしている。怯えて逃げて行くのだ。
そんなわけない。だって相手は女性なら誰でも目を輝かせるクライドだ。本心から嫌な女性なんているわけがない。それなのに――。
(嫌な女)
そう思ったから盛大に嫌味を言ったし、嫌な態度もとった。
ところがアシュリーには効いている様子がない。目の前で嫌味を言われてなぜあれほど華麗にスルーできるのか、ジャンヌにはわからない。
だからアシュリーを観察した。どこか突っ込むところがあったら、余すことなく突っ込んでやろうと思った。
結果、突っ込みどころは実にたくさんあったわけだが、アシュリーが魔獣のために親身になっている姿に感化もされた。そしてアシュリーの仕草や行動が何かに似ているのに気がついたのだ。そう。まるで――。
(いいえ、そんなわけないわ!)
心の中で全力で否定する。そんなわけないのだ。相手は伯爵令嬢だ。変な行動をしていたり、変なことを言っていたとしても貴族のお嬢様なのだ。
だからクライドに不用意に近づかれて全身をふるふると震わせていても、好物だという人参クッキーを小さな口で素早く食べていても、そんなわけはない。だってそれではまるでウサ――。
(いいえ、そんなわけないわ―――!!)
ジャンヌは実家でウサギを六羽飼っている。まさにウサギ愛だ。今は母親に世話を任せているけれど、休みの日には実家に飛んで帰る。そして思う存分ウサギたちを愛でる。まさに至福の時間だ。
今はウサギたちに触れられなくてとても寂しい。触れるものといえば魔獣くらいだ。目をとじて黒いふさふさした毛を触りながら、これはウサギだと自分に言い聞かせたこともある。思えなかったけれど。
ウサギに会えなくて寂しいだけなのだ。寂しいからこうして変なことを考えてしまうのだ。
だからこそアシュリーが何かに似ているなんて、決して認めるわけにはいかない。認めてしまったらジャンヌのアイデンティティーとも言うべき、自分を構築しているものが壊れてしまう。
それなのに魔獣を風呂に入れている間、人参クッキーを食べているアシュリーを見つめていたら、ハンクがそっと寄ってきた。
「なあ、アシュリー様ってなんか小動物っぽくないか?」
動揺して、アシュリーに聞こえないように急いで否定した。
「何を馬鹿なことを言ってるのよ。そんなわけないでしょう」
頼むからそれ以上言わないで。そんな願いをこめて返したが、全く伝わっていなかったようだ。ハンクはへらへらと笑いながら続けた。
「いや、絶対にそうだって。イタチ? タヌキかな? いや、違うなーー」
「ちょっと、やめ――!」
「あれだ。ウサギだ!」
なんたる直球。一切の誤魔化しもできないストレートな言葉だ。
結果、ジャンヌはブチ切れた。
「ハンク、あんた馬鹿なんじゃないの!! 何をふざけたことを言うのよ! 私がどれだけ我慢して考えないように〇×△!!」
興奮し過ぎて最後は言葉にならなかった。
「な、なんだよ? 俺、そんなに怒られるようなこと言ったか?」
ぽかんとしていたが許すわけにはいかない。なんたることを言うのだ。これではアシュリーがもうウサギにしか見えないではないか。
ジャンヌはクライドが好きなのだ。だからクライドの婚約者であるアシュリーは大嫌いなのだ。そのはずなのに――。
アシュリーが目を見開いてジャンヌたちを見つめている。突然喧嘩をしだしたから驚いているのだろう。それでも人参クッキーはかじり続けたままだ。無意識なのか。貴族令嬢なのに。それほどクッキーが好きなのか。
「アシュリー様はクッキーがお好きなんですか?」
そう聞いたら、人参が好きなのだ、との答えが返ってきた。どこか遠い目をしているが、そんなものはもう視界に入らない。
(人参が好き! 人参が好きなの!?)
もう駄目だ。自分をごまかせない。
そう悟ったジャンヌはこれまでの自分を戒める意味をこめて、全力で自分の頬を叩いた。ジャンヌは魔術師だが騎士道精神も持ち合わせている。悪いことをしたら自分を罰せよ、だ。
ひりひりと痛む頬を抱えて、
「アシュリー様、今まで申し訳ありませんでした! ごめんなさい……!」
床に頭をついて誠心誠意謝った。
許されなくても仕方ない。あれほど嫌な態度を取り続けたのだから。そう覚悟していたのに、
「何がですか?」
と、きょとんとした顔で返された。
(えっ? この顔は本気よね? 今まで私が嫌味を言っていたことが本気でわかっていなかったの?)
なんて大きな方なのだ。脱帽した。この方は他の女性とは器が違う。さすがウサギにちょっと似ている人だ。
そしてその夜、ジャンヌはキッチンメイドから台所を借りた。小麦粉を丁寧にふるいにかけ、卵とバターと砂糖を混ぜる。そこへ人参を細かくすりおろしたものを混ぜて、オレンジ色の生地を平たく伸ばす。
作っているのはもちろん人参クッキーだ。
生地を一つ一つウサギの形にしながら、そういえばお菓子作りは久しぶりだな、と思った。
アシュリーに言ったとおり、ジャンヌの趣味の一つであり、結構得意なのだ。それでも今まで魔獣を目覚めさせることにいっぱいいっぱいで、こんなことをする心の余裕がなかった気がする。
(喜んでくれるといいけど)
クライド様にも少しおすそわけしよう。そしてハンクには絶対にあげない。
そんなことを考えながら、ジャンヌはせっせとクッキーを焼いた。




