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14 ウサギについて1 

 ハンクが、黒狼の首を支える役目をクライドから代わっている。アシュリーはそれを見ながら、


(もしかして私、クライド様に少し慣れたのかしら?)


 と思った。さっき思わずクライドに笑い返していたからだ。


(よし。この調子だわ)


 自分は確実に進歩していると思えたアシュリーは、さらにそろそろとクライドのところへ近づいた。近づいたといっても一定の距離は保っているけれど。限界ぎりぎりのところだ。

 アシュリーが自分から近づいてきたことに驚いたのか、クライドが小さく目を見張った。


「どうかした?」


 それでもなんでもない口調で聞いてくる。

 黒狼の体を拭くための大きなタオルを持ってきたジャンヌが、ちらりとアシュリーを見た。


(次の一歩。次の一歩を進もう)


 アシュリーは心の中で繰り返した。

 次の一歩とは――そう。クライドとのにこやかな対話である。

 アシュリーは唾を飲み込んだ。さっきは進歩していると思えたのに心臓がバクバクいっている。クライドにじっと見つめられているせいか頭の中が真っ白になった。


(あれ、何を言えばいいの?)


 混乱しながら考える。


(やっぱり挨拶から? 「こんにちは」とか? でもずっと一緒にここにいるのに、今さらそんなことを言ったらおかしいわよね。えーっと、「ご機嫌いかがですか?」とか? いやいや、おかしいでしょう)


 近づいてきたと思ったら、黙り込んで何やら苦悩している様子のアシュリーに、クライドが面白そうな笑みを浮かべた。


(どうしよう。考えつかない)


 焦った頭の片隅で、自分も少しは本音でしゃべった方がいいのかもしれない、とちらりと思った。


「あの、なんと言いますか」

「うん?」

「その――私の友達の話なんです」


 それでも、かろうじて理性は残っていた。


「友達?」

「はい。友達が、その、ある人に慣れたいらしいのです」

「へえ。ある人って?」

「婚約者です」


 クライドが目を見張った。そしてすぐに、「そう」と元の笑顔に戻った。


「そうなんです。それで慣れようとしているのですが、どうも上手くいかないみたいで、婚約者の方に申し訳ないと思っているみたいで……」

「友達はどうして婚約者が苦手なの?」

「えっと……それはわかりません」

「――そうか。じゃあ自分のペースで、ゆっくり慣れていけばいいんじゃないかな」


 優しい言葉だ。嬉しくなったアシュリーは笑顔で頷いた。


「そうですよね! そうします!」


(言ってみてよかったわ!)


 友達の話として伝えてしまったけれど、それでもクライドとにこやかに対話ができた。小さな一歩だが、アシュリーにとっては大進歩である。


(そうよ。優しい方なんだから、こうして少しずつ少しずつ慣れていけばいいんだわ)


 喜びにひたるアシュリーに、クライドが考えこむように顎に手を当てて言った。


「それなら他にも慣れる方法があるよ。ショック療法のようなものだけどね」

「ショック療法?」

「そう。なかなか馬に乗れない者がいるとするだろう。そうしたら無理やりにでも乗せて、とにかく一周走らせてみるんだ。そうするといつの間にか馬に乗れるようになっていた、というやつだね」

「ああ。聞いたことがあります」


(あれ? でも、そうするとこの場合は――)


「いっそ婚約者に抱きしめられてみたら? すぐに慣れるかもしれない」


(ひい――っ!!)


 恐怖が足元からのぼってきた。考えただけで背筋がぞわぞわする。


「む、無理だと思います」


 なんとか言葉を絞りだす。クライドは楽しそうに笑って言い募る。


「そう? いい方法だと思うけど」

「絶対に無理です」


 そんなことをされたら失神する自信がある。


「そうかな。してみようか?」

「えっ……と、友達の話ですよ……?」

「もちろん知ってるよ」


 クライドは確信的な笑みを浮かべたままだ。

 どうしよう。恐い。アシュリーはそろそろと後ずさった。


 アシュリーが怯えていることに気づいたのか、クライドが苦笑して言った。


「忘れてた。ハウスメイドが差し入れにとクッキーを焼いてくれたんだ。そこの道具箱の上にある小さな袋に入ってるよ」

「これですか?」


 ジャンヌが茶色い紙袋を手に取る。


「そう。皆で食べてくれ」

「ありがとうございます」


 ジャンヌが逡巡しつつ、アシュリーにそっとクッキーを手渡す。

 アシュリーはもらった三枚のクッキーの匂いをさっそく嗅いだ。小さめだが、しっかりと厚みのあるクッキーだ。いい焼き色がついている。けれど少しオレンジっぽい色をしているように思う。それにこの、ほのかに鼻をくすぐる匂いは――。


 アシュリーは顔を輝かせて、そのクッキーを口に入れた。


 * * *


 嬉しそうな顔で無心にクッキーを咀嚼するアシュリーを、クライドは微笑ましく見つめた。

 そして魔獣の首を支えているハンクの横に片膝をついた。先ほど鼻が動いてからは一度も反応しない。そろそろ潮時だろうな、と思いながら、


「代わるよ。ハンクもクッキーを食べてきたらいい」

「ありがとうございます! クライド様は食べないんすか?」

「俺はいいよ。アシュリーにやってくれ。きっと好きな味だろうから」


 ハンクはぴんときたようだ。


「じゃああのクッキーは、クライド様がメイドにこの味で作ってくれとわざわざ頼んだんですね?」


 察しがいい。

 優しい甘さの中にすりおろした人参の風味がするキャロットクッキー。人参が好物のアシュリーは好きだろう、と思ったのだ。


 婚約者への愛っすね、と笑うハンクに、クライドは苦笑した。

 前日に夕食の席で、アシュリーが美味しそうに人参スープを飲んでいたからだ。

 そして今も目を細めて人参クッキーを食べている。小さな口で少しずつ、しかし食べる速度は速い。


 夕食時でも思ったが、令嬢だからマナーはいいし食べ方も綺麗だ。ただ好きなものを前にすると無心になってしまうらしい。今もそうだ。まるで小動物のように見える。前はイタチかタヌキかと口にしたけれど――。


(違うな。リス、ネズミ……いや、ウサギか?)


 二本の耳の生えたウサギ。それに似ている気がする。普段はそうでもないけれど、こうして好物を口にしている時などなぜかそう見えるのだ。


(なんでだろうな。人参が好きだからか?)


 それに反省することもある。先ほどは少ししゃべり過ぎた。黒狼が昔目覚めたことをまだ話すつもりはなかったのに、アシュリーがえらく真剣な顔で聞いてきたからだ。

 いつもは目が合うとすぐに顔をそらすのに、震えながらもクライドの目をまっすぐ見て話してきた。だからだ。


(果たしてこれが、吉と出るか凶と出るか)


 目を閉じたままの黒狼の顔を見て思った。

 それにさっきアシュリーが口にしたこと。友達の話として誤魔化していたけれど、すぐにわかった。あれはアシュリー本人の話だ。


(やはり俺を苦手にしていたのか)


 納得したと同時に衝撃も受けた。まさか女性からそんなことを言われるとは思わなかったし、それによって自分がショックを受けるとも思わなかった。そのせいで普段は抑えている意地悪い感情も出してしまったくらいだ。


 それでも新たに疑問も湧く。クライドを苦手にする理由はなんだ。全く思い当たらない。アシュリーもそこは絶対に口にしなかったが。


(今夜にでもウォルレット家に使いを出すか)


 アシュリーが魔獣について知っている理由。それはアシュリーの実家であるウォルレット家の先祖が、魔族と関わりがあったのではないか、とクライドは考えている。


 黒狼が北の山中で二百年間ひっそりと生きていたのだ。だからその時、黒狼と同じように生き残っていた魔族がいて、それと関わりがあったのではないか、と。

 そしてその時に先祖が書き残したものがウォルレット家に伝わっていて、それを見たアシュリーが瘴気や魔獣について知っていたのではないか。


 もちろんそれでは瘴気の匂いについてなど細かいところは説明できない。だがそれ以外に考えられる理由も思いつかない。


(それでも黒狼は反応した)


 前にアシュリーが黒狼の前で体をひるがえした時も、だ。


(光が見えてきた)


 気分が高揚する。

 これで黒狼に子供の頃の恩返しができるかもしれない。


(アシュリーのおかげだな)


 特に気に入って婚約者に選んだわけではない。本当にたまたまだ。それでも今はもう離したくない。

 魔獣のことに関しても、そしてアシュリー本人に関しても。

 見ていると面白いのだ。反応が普通と違って飽きない。それに仕草や行動が微笑ましくもある。見ていると疲れが吹き飛ぶ。知らず知らずのうちに笑っている自分に気づく。


「なんかクライド様、楽しそうですね」


 ハンクがクッキーをかじりながら言った。


「そうか?」

「そうですよ。でもジャンヌをアシュリー様の側にいさせて大丈夫なんすか? ジャンヌはクライド様に憧れているんですよ。あいつ気が強いし、アシュリー様に対しても結構きつい態度をとってますし。……あれ? でも今日は少しおとなしい気がしますね。なんでだろう?」


 ハンクは首を傾げながら、少し離れたところにいるジャンヌの方に寄って行った。そして人参クッキーを笑顔で食べるアシュリーを見つめるジャンヌに、そっと何かをささやいた。


(余計なことを言わないといいが)


 不安は的中し、ジャンヌがハンクにぶちぎれている。

 やっぱりか。小さくため息を吐き、ハンクの言葉を思いだした。「ジャンヌがアシュリーにきつい態度をとる――」と。


(大丈夫だよ)


 確信を込めて微笑んだ。


(ジャンヌはウサギが好きだから)


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