12 ブラッシングしてみよう
「ブラッシング?」
クライドと魔術師二人の呆気に取られた声が、見事にはもった。信じられないという顔で続ける。
「凶暴で恐ろしい魔獣を? ブラッシング?」
「はい。丁寧に優しく」
アシュリーは頷いた。六百年前、黒狼は手先が器用な黒ゴリラによく全身の毛をといてもらっていた。気持ちよさそうに目を細めていた姿を思い出す。きっと黒狼は好きなはずだ。
満足げに頷くと、ジャンヌの鋭い声がした。
「アシュリー様、ふざけているんですか! 伝説の魔獣なんですよ? そこらを走っている犬じゃないんです!」
「わかってます」
アシュリーは顔をしかめた。何せ黒ウサギの憧れだったのだから。
「魔獣をブラッシング……」
対照的にハンクは面白そうな笑みを浮かべた。クライドは眉根を寄せて考えていたが、
「よし、そうしてみよう」
ジャンヌが目を剥く。
「お待ちください、クライド様! そんなことあまりにもふざけ過ぎています!」
「わかってるよ。でもこの四年間なんの進展もなかったんだ。今はアシュリーの言うとおりにしてみよう」
ジャンヌが悔しそうに唇を噛みしめた。
「よし。じゃあ早速――」
「あっ、ちょっと待ってください!」
思いついたアシュリーはクライドの言葉を止めた。皆が注目する中、アシュリーはゆっくりと黒狼の前へ進み出る。丸まって目を閉じる黒狼は六百年前と同じ顔つきだ。
(黒狼様。私です。黒ウサギです)
心の中で話しかけてみた。高等魔族は人間の言葉をこうして理解する、と聞いたことがある。
(目覚めてくださいませんか? お話がしたいんです)
もしかしたら起きてくれるかもと期待して、懸命に訴えるも、黒狼はぴくりとも反応しない。三角の耳もふさふさの尻尾も力なく垂れたままだ。
(やっぱり無理よね……)
しょせん何の力もない黒ウサギには無理な話だったのだ。
落胆しつつ視線を横に向けると、馬房の端でこちらを見つめるジャンヌとハンクの姿があった。唖然としている彼らに、アシュリーは残念だという思いをこめて告げた。
「すみません。無理でした」
「――何がですか!?」
突然黒狼の前に行ったかと思えば、そこで黙って突っ立ち、挙句の果てに寂しそうな顔で「無理でした」と告げられても、なんのことか理解できないだろう。
(あれ、クライド様はどこにいったの?)
頭を抱える魔術師二人の姿だけで、クライドがいない。
「ここだよ」
不意に真横から声がして、アシュリーは勢いよく飛び退った。
「そんなに嫌がらなくても」
クライドが苦笑した。しかし嫌なのだ。理屈ではない。一歩ずつ慣れようと思っているのだから、無暗に近づかないでほしい。そんな訴えが表情に出ていたのか、
「いきなり黒狼の前に行ったら危ないだろう。眠っているとはいえ、何が起きるかわからないんだから」
するとアシュリーを心配して近づいたのだ。
そうだ。クライドは優しい人なのだ。アシュリーを守ってくれようとしたのだからありがたいことだ。
(早く慣れよう)
アシュリーの反応に楽しそうに笑っているクライドの前で、再び決意を固めた。
復活したハンクが中庭の洗い場から、道具の入った大きな革袋を持ってきた。その中を探りながらアシュリーに聞く。
「ブラシの毛はどんなのがいいんすか? 固め? ものすごく固め?」
「……柔らかいのはないんですか?」
(どうして固め一択なのかしら?)
不思議に思いながら、アシュリーはハンクの許へ向かった。
残されたクライドは見た。アシュリーが黒狼の前から身をひるがえした瞬間、黒狼の鼻がかすかに動いたのを。
四百年間眠ったままの魔獣が初めて反応したのを――。
「では固めのブラシで行いたいと思います」
オークの柄に豚の毛がついた獣毛ブラシを持ち、アシュリーは言った。
「了解です」
同じくブラシを持ちワクワクした顔のハンクと、仏頂面のジャンヌとが並ぶ。
黒狼はおよそ体長150センチ、体重が40キロほどとのことだ。
六百年前はもっと筋骨隆々だったけれど、今はかなりやせ細ってしまっている。四百年何も食べていないとのことだから当たり前か。お腹のあたりはあばら骨が浮いている。胸が痛くなった。
それでも憧れの戦士だった黒狼に、生まれ変わってから触れられるなんて想像もしていなかった。感動に胸が高鳴る。
ブラシを手に、いそいそと黒狼の横に座り込もうとすると、呆れたクライドの声がした。
「だから近づいたら危ないと言っただろう。離れたところで指示だけ出してくれればいいから」
「でも……!」
「でも――、何?」
「……自分でしてみたいんです」
「ブラッシングを? 自分で? へえ。じゃあ俺が近くにいてもいいよね。婚約者に何かあったら大変だから守らないといけない」
クライドの立場からしたらそうだろうが、そんなことを言われては今すぐ遠くへ逃げたくなる。
(我慢よ、我慢。慣れるんだから)
アシュリーが必死に耐えているのがわかったのか、クライドが苦笑した。
「わかったよ。じゃあ、ジャンヌにアシュリーの側にいてもらう。頼むよ、ジャンヌ」
「いいんですか!?」
嬉しくて思わず大声を上げていた。というより正直、クライド以外なら誰でもいい。
顔を輝かせるアシュリーの前で、てっきりジャンヌは嫌な顔をするかと思ったらそうではなく。ただギョッとした顔をして、「――はい」と渋々頷いた。
アシュリーは黒狼の横にしゃがみこんだ。毛の流れにそってブラシをかけていく。体は痩せてしまっているけれど、毛は変わらずふさふさしていた。まさにモフモフである。
ずっと眠っているとのことだが、ジャンヌたちがこまめに体を洗っているのだろう。ブラシの通りもいいし、ノミもいない。
(ジャンヌさんたち、偉いわ。それにまさか黒狼様にこうやって触れられる日がこようとは。ああ、生きていてよかった)
恐ろしい魔獣に嬉々としてブラシをかけるアシュリーに、ジャンヌが眉根を寄せて聞く。
「魔獣が恐くないんですか?」
「はい。恐くありません」
むしろ大好きだ。
笑顔で答えると、ジャンヌは納得いかないと言うように鼻を鳴らした。そして思い出したように再び嫌な笑みを張りつかせた。
「先にも言いましたが、まさかクライド様がアシュリー様をお選びになるなんて思いもしませんでした。クライド様ならもっと条件が上の女性といくらでも婚約できるんですから」
「そうですよね」
全くそのとおりである。むしろそうしてくれた方がよかったのに、とさえ思う。だがそれよりアシュリーには聞きたいことがあるのだ。
さらりと嫌味をかわされて複雑そうな顔をするジャンヌに聞いた。
「ジャンヌさんはウサギが好きなんですか?」
長い髪で隠れたイヤリングをもう一度確かめようとした。ジャンヌがギョッとした顔で、慌てて耳元を隠す。
「まさか! 好きではありません!」
「そうなんですか……」
やや狼狽しているようには見えるけれど、はっきりと否定されてしまった。
(同士だと思ったのに)
残念だ。肩を落とすアシュリーに、ジャンヌが目を見開き忌々し気に視線を背けた。
三人がかりで丁寧にブラシをかけているから、無駄に黒狼の毛がツヤツヤしてきた。太くてコシのある獣毛一本一本が暉くようだ。それでも目覚めるどころか一切反応はない。
アシュリーはがっくりとしてつぶやいた。
「魔獣は目覚めないですね」
(好きだと思ったんだけど)
魔国で毛をといていた黒ゴリラには、黒狼は歯をむき出しにしたとてもいい笑顔を見せていたから。
「駄目みたいだな」
とクライドの声がした。言葉は厳しいけれど口調はそうでもない。不思議に思っていると、クライドがにっこりと笑ってアシュリーに聞いた。
「次は? 何をすればいい?」
「次……」
そうだわ。次の方法を考えないと。黒狼を目覚めさせないといけない。このまま死なせてしまうなんて絶対に嫌だ。
懸命に頭を絞る。そして、
「そうですね。お風呂に入れるのはどうでしょう?」




