10 最初の一歩1
母屋に戻ったアシュリーは、ハウスメイド長のロザリーに心配されながら食事をした。そして疲れた体を引きずり、ふらふらと寝室へ向かった。
(気づかないうちに『瘴気』と口にしていたのね……)
失態である。けれど黒狼が生きていたことは素直に嬉しい。ずっと眠ったままだとのことだけれど大丈夫なのか――。
「えっ、アシュリー様?」
階段を上ろうと手すりに手をかけたところで、偶然にもジャンヌと行き会った。ジャンヌは反射的に見下げるような笑みを浮かべたが、アシュリーはちょうど頭を下げたところだったので視界に入らなかった。
てっきり黒狼について追及されると思い、
「あの、今ちょっと疲れているんです。魔獣について聞くのはまたにしてもらえませんか?」
協力すると言ったのに申し訳ない。そんな思いをこめて口にすると、ジャンヌが目を見開き、そして苦々し気に言った。
「魔獣については、アシュリー様が自分から話すまでこちらからは追求するな、とクライド様に固く申し付けられているので聞きません」
(本当に?)
驚いた。やはりクライドは優しい人なのだ。アシュリーを気遣ってくれる。勇者の子孫だからと勝手に恐がっているのを、心底申し訳なく思った。
ジャンヌがまた笑みを浮かべて続ける。
「私が聞きたいのは別のことです」
「なんでしょう?」
「クライド様のことです」
「――はい」
なんだろう。クライドについてなら、アシュリーよりもジャンヌやハンクの方がよほど詳しいだろうに。
戸惑うアシュリーに、ジャンヌは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「あなたが婚約者であることは知っています。ですが私はこの魔力でクライド様のお役に立てます。あなたは何か、クライド様のお役に立てるものがあるんですか?」
(役に立つもの?)
なぜジャンヌにこんなことを聞かれるのかわからない。だが自分の『役に立つもの』といえば――。
「私はジャンプが得意ですよ。けっこう上まで飛べます」
前世の名残かもしれない。ぴょんぴょんとその場で飛ぶ真似をして見せた。ちょっと楽しい。
実家でははしたないと母に怒られたけれど、ここでは大丈夫のはずだ。
「ジャンプ……?」
想像の範囲外の答えだったのだろう。ジャンヌがぽかんとなった。アシュリーは頷いた。
「はい。ジャンプです」
「……それが何かクライド様のお役に立つのですか?」
「いいえ」
首を横に振る。
「立たないと思います」
だってジャンプだし。
「……そうですか」
ジャンヌは拍子抜けした顔をしていたが、我に返ったようにまたも口元に笑みを浮かべた。おかしそうに笑いながら、じろじろとわざとらしくアシュリーの全身を見回す。
けれど――。
(疲れたわ……)
ただでさえクライドに密着されて秘密を暴かれ、精神的に疲れているところに渾身のジャンプまでしたから疲労困憊である。
(早く寝室に戻りたい)
そんなことで頭がいっぱいで、ジャンヌの、
「クライド様がお選びになったご令嬢というから、どんなお綺麗な方かと楽しみにしていたのです。でも拍子抜けでしたわ。あら、私ったら失礼なことを。アシュリー様がお綺麗でないとかそういうことを申し上げているのではないのですよ。誤解なさらないでくださいね――」
と楽しそうに話す声は頭に入ってこない。
「――それでは、また後ほど。アシュリー様」
そこでハッと我に返った。しまった。疲労のあまりぼーっとしていてジャンヌの話を聞いていなかった。
焦るアシュリーの様子からダメージを受けたと勘違いしたようだ。ジャンヌが勝ち誇った顔で、アシュリーの横を通り過ぎていく。
だが――。
(あれ?)
通り過ぎざま、アシュリーは見た。ジャンヌの豊かな金髪の間から見え隠れする、金のイヤリング。ただの丸い形かと思ったら、ちょっと違う。全体的には丸いのだが、上に二本長い耳のようなものが突き出しているように見えた。そう、あれは――ウサギの形ではないか。
(ひょっとしてウサギが好きなのかしら?)
普段なら喜ぶところだが、なにぶん今は早く眠りたい。
(後で聞いてみよう)
寝室に戻ったアシュリーはベッドで丸くなると、すぐさま眠りに落ちた。
三時間ほどぐっすり眠ったら元気が復活した。厩舎へ向かうため、アシュリーは再び寝室を出た。
(もう一度、黒狼様の姿が見たい)
何せ憧れの戦士だったのだ。気が逸り、ドレスの裾を持ち上げて小走りで廊下を進む。
勢いよく階段を下りた先にクライドの姿があった。動揺し固まるアシュリーに、クライドが笑顔で聞いた。
「体は休まった?」
「……はい」
「じゃあ、行こうか」
この感じからすると、アシュリーがくるのをここでわざわざ待っていたのだろう。どうして? まさかアシュリーが逃げないように捕まえにきたのか。恐怖が足元から這い上がる。
クライドはアシュリーの顔色を読んだのか苦笑した。
「厩舎には結界が張ってある。一緒に行かないとアシュリーは入れないから」
(そうだったわ)
なんて勘違いだ。恥ずかしい。反省するアシュリーに、クライドが明るく笑った。
「それと、やっぱり婚約者だしね。少しでも一緒にいた方がいいと思って」
(ひい――!!)
楽しそうな口調に恐怖が募る。
一階の廊下を進むクライドの後を、のろのろとついていく。居間の前を過ぎたところでジャンヌから言われたことを思い出した。
『魔獣については、アシュリー様が自分から話すまでこちらからは追求するな、とクライド様に固く申し付けられているので聞きません』――と。
(そうよ。いい方なのよね。そもそも最初に王宮で会った時だって助けてもらったんだもの)
恐がっているのは本当にアシュリー側の事情だけなのだ。クライドには全く関係ないことなのに申し訳ない、と心底思う。前日の夕食の席で「慣れるように努力する」と自分から言ったことも思い出した。
そうだ。クライドの言うとおり婚約者なのだ。前世とは違う。今はただの伯爵令嬢なのだから。
(よし。宣言どおりクライド様に慣れよう)
アシュリーは決意した。
でもいきなりは無理である。厩舎で後ろに寄り添われた時、冷や汗が止まらなかった。今思い出しても身震いが出るほどだ。
(何事も一歩ずつよ。少しずつ少しずつ慣れていけばいいんだから)
だからまずは、クライドにもっと近づくことから始めよう。
激しい動悸のする心臓を押さえて顔を上げる。そして全身に力をこめ、二メートルほど前を歩くクライドに向かって大きく一歩を踏み出した。




