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ナルシスト夫婦の適材適所  作者: あさままさA
【6】ナルシスト夫婦の夏季休暇
64/71

勇「周囲の視線――たまりませんねぇ!」

 海の家での食事を終えた後、酒気を帯びた夕映と愛衣が再び泳ぎに出ると言うので「酔いが醒めたからにしなさい」と忠告したのですが、「兄貴の言う事なんか聞かなくていーですよ」と反論してきた夕映。


私はその言葉に対して「貴方達の身を案じて――」と言葉を発しかけて瞬間、口を噤んでしまいました。


 兄貴、と夕映は言ったのです。


 何だか不思議な気がするような――とはいえ、いつものように男性らしいと称される事に喜びを感じる性同一性障害の私としてはイレギュラー的に、妙に喜べない奇妙な感覚。


 確かに私は男性です。女性の体を有していた頃にだって、精神は男性のつもりでした。超絶可愛らしい女の子の見た目をしておきながらも、小学校時代は「うんこ」で大爆笑出来るくらいに悪ガキだったつもりはあります。


 ですから、男性扱いに歓喜が伴うのは当然――であるはずなのに、夕映の言葉が私から引き出した感情はそんなものではなかったのです。


 呆気に取られて言葉を失った私の隙を突いて「ほらほら、論破してやったですよ。愛衣ちゃん」と我が妹の手を引き、波打ち際まで導く夕映。手を引かれるままに歩き出した愛衣はこちらを向いて、どこか申し訳なさそうに「ごめんね、おねーちゃん」と口が動いたように私は思ったのです。


 兄と呼ぶ事に親しめない故の「お姉ちゃん」ならぬ――「おねーちゃん」という、ある意味でニックネーム的な呼称が夕映からもたらされた感覚と対比して私の中で鮮明となります。


 なるほど――私は夕映から元の友人としての扱いを受けていない事に、衝撃を受けていたのですね。


 今日までの日々で夕映が私に向けた扱いはあくまで新人の「勇」で……敬語を取っ払う事が出来なかったり、敬称を省けない他所他所しさの由縁は何かと聞かれれば当然、出会って数か月の壁だと言い切れるのでしょう。


 しかし――私が彼女のよく知る「優」である事を知った今、夕映から向けられる対応は「どのユウ」に向けたものとなるのでしょう?。


 無論、過去の私が彼女に行った対応を踏まえれば苛立たれるのは当然なのですけれど――過去の「優」として、そして現在の「勇」としての両方。その二つの顔を失い、完全に夕映と壁を作ってしまったのではないかと――そう、感じたのです。


 兄貴、その呼称で「女性と認識されていた過去の『優』」に戻れない事を自覚し――そして正体不明の男性「勇」だったこの数か月間のような関係にもまた、戻れない現実。


 私はもう真奈を含めた彼女達にとって、第三の「ユウ」として認識されているのです。


 私達はもう、元には戻れないのでしょうか?

 同僚だった「優」のようにも、そして――ついこの間までの「勇」としても。


 そんな感情を胸に、私は真奈からイルカの浮き輪を借りて海面へと浮かばせ、それに覆いかぶさって水面を漂う事に。じりじりと背中を焼き付ける太陽の暑さも、海水がもたらすひんやりとした爽快感に中和され、心地よい両極端の温度差が楽しい状況。


 ちなみに持ち主である真奈は至極、酒に弱いらしくパラソルの下で三浦さんの隣、寝転がって酔いが醒めるのを待つべく「うんうん」と唸りながら優の介抱を受けています。この状況に対して、夕映は苦言を呈したのですが三浦さんの「僕は男にしか興味がないから大丈夫だよ」という発言で引き攣った表情を浮かべつつも「気持ち悪いのに無害ってすげーですね」と妙に感心したような口調で語っていました。


 うーん、何でしょうね。


 私、海に来てから誰かと遊んだという事もなく――いえ、女性陣とビーチバレーには興じましたが、味方はいませんでしたし。後に参戦した三浦さんも味方というよりは第三勢力。オイシイ所は全部持っていきましたし……楽しんでいるでしょうか、私。


 楽しんでいいのか――という気持ちも無意識に私は夕映を思う事で感じているのかも知れませんけれど。


 そんな訳でイルカの背びれに捕まり、海面をぷかぷかと浮かんでいるのです。


 嘆息し、顔を上げて直視を本能的に忌避してしまう太陽を無理やりに睨みます。

 砂浜には快活に盛り上がる空気との相乗効果によって、そのテンションのボルテージを比例させて上げ、騒ぐ人々の声。


 あんな風にはならなかった――それは私のツケが回ったのですけれど。


 それでも、

 それでも――、



 あんなリア充っぽい騒ぎ方――してみたいじゃないですかっ!



 砂浜の方を見つめればバーベキューに興じる人達の中、その一人が抱えた串焼きの肉を片手に奇妙なポーズを取り、その光景にお腹がよじれんばかりに笑い転げている周囲の人間。明らかにこういった場所以外で見かければ面白くなさそうな一発芸のように思えますが、こういった場所だとどんな低級ギャグでも爆笑必死、腹筋崩壊の空気感。


 まぁ、真奈はあの後もダジャレを連ねて盛大に滑りまくってましたけどね。


 ……ひょっとして、滑り倒したから寝込んでいるのでしょうか?


 何だか、真奈といい夕映といい……妙にギャップを見せつけられる一日ですねぇ。


     ○


 それから――私は陽が傾くまで海面でぷかぷかしてました。夕陽が朱光を湛えて地平線に半身を埋め、その暖かな輝きを海面にキラキラと散りばめると流石に私もそうしてウジウジしているのに飽きてきたので、手をオールのようにして進行方向を砂浜に定めて引き返して行きます。


 砂浜まで辿り着くと、楽になったと半身を起こしていた真奈にイルカを返却。


 優に対して「すまないね。折角の海だというのに介抱させて」と言うと、彼女は嘆息して「別にいいけど、ギャグが滑ったからってヤケ酒はどうかと思うぜ?」と揶揄するように言いました。


 ……真奈、そんなに飲んでたんですね。


 一方、身を横たえて読書に勤しんでいる三浦さんの傍らには文庫本が五冊ほど積まれています。


 こんな所で読書というのがそもそもおかしいですが、読むペースもなかなかに早いですね。頭の良さは確かだと優も言ってましたけど、そういう人種は読むスピードも早いんですかね。


 頭のおかしさも確かのようですけれど。


 ――と、そんな最中、真奈は「あぁ、そうだ」と言って語り始めます。


「私のせいで随分と時間を使わせてしまったしね。まだ、愛衣ちゃんと夕映は返ってきてないみたいだし勇――折角だから優とそこらを歩いてきたらどうかな?」


 まだ酒にダウンした余韻が残っているのか拙い語り口調で言った真奈。


 彼女は私達が夫婦でありながら、海でほとんど時間を共有していない――その事実に気付き、何とかならないものかと配慮してくれていたのでしょう。加えて優を連れ去る愛衣の存在や、自分がダウンした事で優に手を掛けた……それに、少なからず責任を感じているのでしょう。


 そして、もしくは――私の胸中を?


「とはいえ……真奈、大丈夫なのですか?」


 私は真奈の頼りない口調に配慮して問いかけます。

 すると、力ないながらも笑みを浮かべた真奈は「大丈夫さ」と言います。


「もう随分と楽になったし、体を激しく動かさなければ問題ない。それに、この三浦という男は信頼できる人物だよ。ゆっくりと横になりながら彼の様子を窺っていたけれど時折本から視線を逸らして見つめる通行人、その吟味している水着姿の人間は皆、男性なのだよ。だから、大丈夫さ」


 何故か、三浦さんが隣にいる事に対する安全性に関しても明言してきた真奈。


「いやぁ、光栄な事だね」

「褒めてねーと思うけどな」


 引き攣った表情で呆れたように語った優。


 あまりこれ以上、遠慮するのも良くないかと思い私は「それじゃあ、お言葉に甘えます」と言って、介抱に勤しんでいた優を連れ出し歩き出すは砂浜の上。


 真横から差し込む夕陽は水平線へと身を埋め、発する残滓のような輝きに私達は目を細めつつ並んで歩いて行きます。水平線とは反対側、その空はすでに夜の支配が復権しており、等級に甘んじた星々の輝きがまだ茫漠とした夜空の中にあって宝石のように輝いていました。


 そんな風景にあって――肩に触れんばかりの髪が風に弄び、それを遮るように手を当てる仕草が夕焼けに染められて美しく見える優。パーカーを上に羽織っているものの、すれ違う男達の視線を釘付けにする端正な容姿、恵まれた体型。そんな彼女の隣に歩くこの私は、その妻の旦那だなんて。


 そう――コレですよ、コレ!


 周囲から向けられる羨望の眼差しが溜まりませんね。マイク片手にインタビューを行い、「何あの人、めっちゃ美人とか思いました?」「あの人彼氏? うらやましいなぁなどと思いましたか?」みたいな意見を収集しに行きたくなる優越感。


 あぁ、海に来て一番の至福かも知れない周囲の視線。

 ――たまりませんねぇ!


 などと、ちょっとムードぶち壊しの妄想はさておき、私は会話の入り口としての言葉を捻り出す事に。


「それにしても今日は随分と大変でしたね。優、真奈の介抱で午後は潰れちゃいましたしねぇ」


 私がそう嘆息交じりに語ると、「クスクス」と笑いだしながら優は語ります。


「でも、そんな介抱をしている時に真奈は言ってたぜ」

「何と?」

「俺はやっぱり『あの優』とは違う――そして、勇はやっぱり『あの優』だ、だとさ」

「そうですかね?」

「さあな、そうなんじゃねーの?」


 面白がるように語る優。


 人間の本質は良い意味でも、悪い意味でも変わらない――という事でしょうか。そういう思考もあってか、真奈は随分と私達の入れ替わりをすんなりと受け入れてくれました。


 真奈と夕映、人間としては別個の存在といえ――どんな差異があるんでしょうね?


 それを思えば――。


 私は立ち止まり、水平線へと沈んでいく夕陽に目を細めて視線を送ります。


 そんな私の挙動に呼応するが如く、同じように並び建つ優。周囲の人々は陽が沈むペースに比例するかのように帰宅のために片づけを進めています。昼間よりも随分と静かになった砂浜の上、私は優に胸中を語ってみる事としました。


「今までが上手くいっていただけで、カミングアウトの全てが成功するとは限らないんですよ。世の中は差別的な思想を経て、この性同一性障害を随分と許容してきました。最早、この障害を知らない人間も少ない世の中で、そんな自分をカミングアウトする事に対する理解はずっと得やすくなっています。そう、なっているからこそ、慢心していたのかも知れません……誰にだって受け入れられると、私達が今までに恐怖も忘れて『理解されない事』に対して伝えれば伝わると――そんな風に」

「いや、お前さんの場合、問題は性同一性障害の部分ではなく、過去の行動だろ。体を触ったり、そういうなんて言うのか……セクハラだろ?」

「ま、まぁ、そうなんですけど」


 私は持ち込んだシリアスな空気をいとも簡単に壊された事による拍子抜けで頬を人差し指でポリポリと掻きつつ、羞恥を体現してしまいます。


 とはいえ――言いたいのは、そういう事ではないのです。


「確かに、真奈の望んでいた事ではありましたが、その開示がどれだけの破壊力を持っているのかは分かったものではないのです。主観を脱する事が出来て慰安買ったんです。そんな物騒な爆弾のような真実を最近の風潮というか、そう――只野君に容易く受け入れられた前例で軽く見ていた私は、深く考えずに彼女らへと開示したんですよ。夕映の気持ちを考えずに」

「考えてたんなら、海に着いてからも夕映に貧乳とか言うなよ」

「せ、正論ですけど、そこはスルーして下さい! 真面目な話をしているのです! それに、あの時は夕映にも多少は問題がありました!」


 私が強い口調で優に対して主張すると、その勢いに驚いたような表情を浮かべつつ「わ、分かった、分かった」といさめるような言葉を口にする優。


「それで――ですよ。私は感じたのです。『過去の優』としても『今日までの私』としても受け入れてもらえていない現状――夕映と元の友人には戻れないのでしょうか?」


 情けなくも、力無い口調で語る私。


 しかし嫌われ、もう口も利けなくなって、それで終わり。

 ――そんな単純で物理的な思考で、友人との距離感を決めたくはない。

 誰かとの繋がりを、終わらせたくはない。


 繋がっていたものが離れた時、元に戻ろうとする反動――それこそが、目に見えない友情というものの証明だと思うのです。


「元に戻る、か……そりゃまた皮肉な。というか、その過去と今日までの勇に戻れないのはきっと夕映が――いや、俺が言う事じゃねーか」


 何かを言いかけ、口を噤んだ優。


 夕映の事情を何か知っているのでしょうか……と思っていた時、瞬間――触れた私と優の手。それを機会としたように私の手に指を絡ませ、しっかりと握った優。


 いつだったか、両親へのカミングアウトの際に行った私の彼女に対する細やかな力添え、そのお返しのように――しっかりと。


 不安が消え去るような暖かな、心を満たす感覚――でも、きっと違うのです。私と優の心にある感情を全て混ぜて、二分したようなそれは共有――そして、共感。


 すぐ隣に感じる優しく、時に厳しくも、やはり愛おしい存在に背負いこんだ荷物を半分委ねたような感覚は、打ち震えて泣き出しそうなくらいに嬉しくて。


 なかなか言葉にならない、その間を優が埋めます。


「偽って生きる事が正解だとしても、それが真理だとは思いたくない――確か、お前さんの言葉だったっけな。それに俺は、


『逃げられるのなら、逃げてもいいと思うけど――逃げられないなら、逃げちゃ駄目だ。へこませるだけの真実だとしても、傷付ける言葉だとしても――へこんででも受け入れてもらわなければならない真実であって、傷付けてでも受け止めさせなきゃならない言葉でもある』


 なんて風にも言ったか。なら、お前さんにとって真奈と夕映に開示するという事は避けられない事であり、へこませてでも――或いはへこんででも受け入れさせるべき言葉だったんだろ。あんまり多くは言わねーけど、きっと夕映の事は大丈夫だと思う」

「そうですかね?」


 頼りなさそうに問い返す私に、微笑みを返す優。


「そうだとも。夕映が他人を心の底から嫌い、軽蔑するような奴じゃない。それは俺にも何となく分かる。だから、何度も夕映には事実を開示したっていいはずだと俺は言ってきたんだからな。そして、お前さんは本気で誰かから嫌われるような奴じゃない。それは俺が一番よく知ってる。言わないだとか、秘密にしておくって事が正義だって言えば、人間は幾らだって物事を遠回しに出来るけれど――それをせずにきちんとお前さんはカミングアウトした。えーっと、何だ……その、俺に告白してきた時もお前さん、案外とハッキリ、ビシッと語ってたもんな。そういう土壇場で発揮できる勇気を見てるとさ、



 何だか――勇と結婚出来てよかったって本気で思うよ」



 そう語り、優は私の額に背伸びをして、キスをしました。


 瞬間――この世の中の全てから隔絶されたような空間、時空を彷徨っているような途方もない感覚が私の脳内を席巻しました。渦巻く混沌とした靄の全てを切り裂く希望の光――そんな暖かな輝きに似た途方もない幸福感によって、私の不安感はいとも簡単に撲滅させられたのです。

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