勇「酔狂な人物が車内にいる」
車内では猛り狂ったような叫び声と、猛獣の唸るような怒号が鳴り響いていました。
とはいえそんな酔狂な人物が車内にいるという事ではなく、夕映が車内の音楽にどうぞと持参してくれたCDを再生すると、その内容はどのトラックもデスメタルと呼ばれるジャンル。キャーキャー叫んだと思うと、この歌い手さんの喉は大丈夫なのかと思うような獣みたいな唸り声が車内を満たし、今にもヘッドバンギングを行いそうに体をうずうずと動かしている夕映を、真奈が少し引き攣った表情と共にジト目で見つめる構図が生まれています。
「いやぁ、やっぱりこのバンドは最高だなぁ。完全にイッちゃってるというか、もう喉を壊さんばかりに狂気をスクリームしてる。ねぇ、真奈!」
「しゅ、シュークリーム? よく分からないけど……えーっと、あ、あぁ。そうだね」
同意を求められた真奈は明らかに共感を示していないイントネーションと表情で首肯し、そんな言葉に夕映は「だよね、だよねー」と更に興奮のボルテージを上げていきます。
助手席に夕映、後部座席であり私の真後ろとなる位置に座っているのが真奈という状態で三浦さんの車を先導する形で海へと発進した私達。
そんな最中、私と真奈がずっと抱いているのは一つです。
「夕映とは食事くらいしかプライベートでは一緒に行動しなかったのだけれど……案外、ギャップを抱えているというか。攻撃的な趣味なのだね」
後部座席から耳打ちするように身を乗り出して小声で話し掛けてくる真奈。
夕映に気取られぬように視線は眼前に固定したまま、私は答えます。
「そうですねぇ。まぁ、こういう華奢な子がデスメタルやスプラッターものの映画を好んでいるというのは定石的なギャップなのかも知れませんが……目の前で見せられると驚きますね」
「感覚としては、痩せの大食いって感じだね」
「俊敏なデブという感覚にも近いですけどね」
私と真奈はそのように言葉を交わすと嘆息し、微笑みを浮かべました。
こういう一面が見られるというのも仕事から離れたプライベート、そして旅の醍醐味でしょうか。驚きはしましたが、相手の知らぬ部分が開示されたという事実が嬉しいというのは事実です。
――などと、そんな夕映の話題もそこそこに真奈は「そういえば」と言って話題を提起します。
「まさか、あの男が今回の海行きに参加する事になるとは思わなかったね。正直、踵を返して帰宅しようかと思ったくらいだよ」
「あの男――あぁ、三浦さんですね」
一瞬、誰の事か分からなかったのですが、よく考えれば男性は私と三浦さんだけでしたね。
「そうですよ。その三浦さん? 前に一度会った事があるんですけど、危険人物過ぎますって」
突如、メタルの世界にトリップしていた夕映も会話に混じり、真奈の意見に同意しました。
うーん。あの集合場所でも感じましたが三浦さん、どうもこの二人に明確な嫌悪を抱かれている様子。となると、彼の事を以前から知っていたという事になり、その事実は夕映によってついさっき開示されましたね。
「三浦さんとはどこかでそもそも会っていたんですか? 面識がある事に驚いたのですけれど」
「あぁ、あの男には水着を買いに行った日に初めて会ったのだよ。優に遭遇して、お互いこの時期に海へ行くなんて奇遇だなどと語ったりしていたんだよ。あの時はまさか一緒に行くとは思っていなかったけれどね。そんな最中に現れた優の連れがあの三浦という男だったのだけれど……」
「今考えてみれば勇さんの事だったんでしょうけど、『彼に似合う水着』を見つけたとか言って優の所に走って来て、その手にはブーメランパンツが握られてたんだよね」
「そ、それは随分と奇特な行動に出たものですね、三浦さん」
三浦さんがあの日、水着を買いに勇と愛衣の集まりに参加していた事実――優からは聞かされていなかったので初耳でした。
しかし、私の水着を?
ちょっと、それは知りたくなかったですね……。
今日のどのタイミングで差し出してくるんでしょうか?
言い知れない悪寒に襲われて身震いする私。
「しかし、あの時は君と優が友人とは思わなかったけれど――今となってはその事実で考える事があるんだよ」
同性に水着を選ばれていたという事実に戦慄する私を他所に、真奈は唐突に切り出しました。
今日、明かされた私と優の――関係性。
彼女らからしてみればあまりに出来過ぎた偶然。同じ名前の人間が一つの職場にて擦れ違うように出入りし、その両者に面識があったという――奇異な、事実。
「いつだったか優は『特異な事情』で私達と共に過ごした職場を辞めたと語っていたんだよ。その時は彼女が触れないでほしいと言ったから、友人として追及は自粛したのだけれど――もしかしたら君は彼女と面識がある人間という事で、その事情が何なのか知ってるんじゃないかと思ってね」
先ほどまでの真奈にしては珍しい引き気味だったり、普段見かけない表情とは打って変わってデフォルトの――淡々とした、真面目な語り口調。
友人を想うが故に追求しなかった彼女の――友人を想うが故の追求。
「何故、そう思うんですか?」
明確な回答はせずに、少し意地悪な質問を投げかけます。
私と優はあくまで面識があるだけ。
優しさに満ちた、残酷な嘘は貫かなければなりません。
バレるわけには、いかない――。
「勇が職場に入ってきたタイミングがまるで優の空いた枠を埋めるかのようで……欠員を補うように君を斡旋したように思えたんだよ。あくまで私の印象だけれどね。彼女はそういう子だと思うから――だから、どうしたって君と優に面識があるという事実が私には特殊な因果であるように思えて仕方ないんだよ。面識があると知ってからは、そんな事で頭が一杯になってしまってね……知らないなら仕方ないけれど、知っているなら教えてほしい。優は大切な友人だから、彼女の身に――何が起こっているのか、教えてほしい」
いつものように平坦なイントネーションで語った真奈。
ですが、何故でしょう――そこに途方もない感情が織り込まれているように感じるのは?
圧縮されたファイルを解凍したかのように、受け取った言葉から溢れ出した感情が胸中で具現されて……私は思いました。
私が何かを語る事を期待してこちらへ視線を送る真奈と、そして夕映。
こんなにも自分を思ってくれている友人を騙してまで守りたい自分の体裁とは、何なのだろうか、と――ふと、私の中で脳裏をよぎる思考。流れるデスメタル。
……シリアスなムードにこのBGMは如何なものかと思いますが。
それはさておき。
今日、優と私の間に存在していた面識によって真っ先に真奈が感じたのは、自分にとって大事な友人が抱えている悩みを知っている可能性のある人物が、こんなにも身近にいたという事。
それに気付けば、聞かずにはいられない。
今、「優」は――どうなっているのか?
真っ先に、その思考に辿り着くくらいに心配しているという事。
一方――そんな事実を隠蔽して、夕映に対するちょっとした後ろめたさを守っている私。仮にそれを夕映に怒られたとしても、それは私の過ち。受け入れるべき姿勢を見せ、伝えれば人間はきっと理解してくれる……それを、優と一緒に学んだのではないですか。
なら、そんな事実を――語っても、いいのではないでしょうか?
でも――いえ。
何より、こんなイベントへ今の感覚を持っていくべきなのかという自問自答。懐柔されていく私の恐怖心、抵抗は彼女らの友人としての熱望に少しずつ溶け、湾曲し――そして、私の隠蔽は瓦解を迎えます。
「もし優、そして僕にどんな事情があっても――受け入れられますか?」
ぽつりと漏らした、私の予防線的で卑怯な質問。
それに対して、
「勿論だよ。勇さんと、優の事なら何だって」
「そうだね。受け止められるさ」
快活に返事をしてくれる二人。
なら、もういいのでしょうかね。
優が三浦さんに行ったように――全てを開示しても。
そう決心をすると、私は少しの間を置いて決心に突き動かされるまま口を開きました。
「僕が新人とは思えないくらいに仕事をこなし、初出勤の日に真奈と夕映の自己紹介を受けずに名前を知っていて――そして、いつだったか優があなた達に対して敬称を省いて会話してしまった事もあったでしょう。そんな全ては、ある現象によるものなのです」
「……現象?」
「どんなものなんだい?」
口々に疑問を口にし、その表情は懐疑的なものを受かべている真奈と夕映。
言い知れない緊張、恐怖心、羞恥心を同居させて混沌とした胸中は瞬間――私に言葉を紡ぐ勇気の減退を促します。
しかし――そんなカミングアウトの勇気は、友人を想う二人の女性から十分に貰いました。
恐れる事はないのです、何一つ。
「僕――いえ、私にとってあなた方は数か月程度の友人ではありませんし、初出勤の時点で私はベテランです。そんな理由、その現象は端的に言って――私と『優』が入れ替わっているからに、他ならないのです」
「……入れ替わり?」
「それってどういう意味なの?」
「ですから、中身……つまり精神が私と優で入れ替わってしまってるんですよ」
あまりに非現実的な告白。
呼んだのは瞬間的な静寂――の後、圧倒的な驚愕でした。
「えーーーーーーーーーーーーっ!」
「えーーーーーーーーーーーーっ!」
同時に綺麗なハモリで驚きを口にし、叫ぶ真奈と夕映。
口をあんぐりと開き、目を見開いて表情も堂々たる驚愕を描く夕映。対してこんな状況でも冷静な真奈……と思っていたのですが、バックミラーで確認すると彼女も同じ表情を浮かべていました。
真奈……あれだけ確信を突いておきながら、全く予感すらしていなかったのでしょうか。驚き方がキャラ崩壊しています。とはいえ……まぁ、入れ替わりなんて非科学的な現象を予測する方が難しいですし、今だって彼女らの中で納得には達していないのかも知れないですから。
「ち、ちょ、ちょっと、入れ替わり? そ、それって、どどど、どういう事なの?」
舌がもつれて上手く話せない夕映は、劣悪な滑舌ながら問いかけてきました。
一方、入れ替わりの事実によって驚愕までは夕映と同じ態度だった真奈は普段の無表情に戻り、腕組みをして「なるほど」と納得を口にしています。
「驚くべき事実だし信じがたいけれど、それなら辻褄が合う部分が多々あるね」
「いや、何で納得してんの真奈。まずは勇さんが――いや、入れ替わ、ちが、えーっと、あー、何から聞いていったらいいのか分かんないよ」
「落ち着くんだ、夕映。とりあえず順番に聞いていこう」
真奈に宥められて「そ、そうだね」と言って、深呼吸をしつつ乱れた胸中を落ち着かせる夕映。しかし彼女の足は貧乏ゆすりを始め、妙に落ち着かない様子。
うーん、今までカミングアウトした人の中でこんなリアクションの人はいなかったものですから、ちょっと驚きですね。父がびっくり仰天して家を飛び出しましたけど、あれは少々特殊ですから。何と言っても家族ですし。
「とりあえず、私達の知っている『優』がその男性の体に入っている。そして、三浦さんの車に乗っている彼女の中に元々の『勇』の精神が入ってしまった――そういう事だね?」
「流石は真奈、理解が早いですね」
私は彼女の対応の冷静さ、飲み込みの速さに助けられた思いでした。今までの疑問が全て吹き飛ぶ回答に非現実的であるという引っかかりは真奈の中にはないのかも知れません。正直、真奈も夕映のような反応だったりしたら、私だけでは収拾がつけられなかったでしょうし。
「つまり優は男性に、元々の勇は女性に、か……。それって元に戻らないのかい? そういった事だって私達に相談してくれれば、力になれなくても――そう、君達が私達を欺くような真似をする必要なんてなかっただろうに」
入れ替わったとしたら、それは戻らないのか――そんな定石的な質問を投げかけてきた真奈に対して「やはりか」と思う私。その質問はやはり、私達の障害へと直結するのでやはり、そこの開示も避けては通れない。
などと思考していたのですが――しかし、夕映はその質問の域まで達していないようでした。
「ちょ、ちょっと待ってよ! おかしいよ。だって、勇さんはまだ本当に『優』だって証拠を提示してないんだよ。入れ替わり? 何言ってるの? 真奈も辻褄が合うからって簡単に信じすぎだよ。正直、私達をからかってるんじゃないかって思ってるよ、私は。だって、そうじゃない。だって、そんな事あるわけないし。だって、だって」
明らかに取り乱した様子の夕映。
今までカミングアウトした人間が平然と入れ替わりを受け止めただけで、世の中には取り乱す人、理解出来ない人だっている――いや、寧ろその方が多いという事の現れでしょうか?
私は夕映へ視線を向ける事が辛くなり、車の進むべき進行方向へと視線を逃がしました。
「夕映、とりあえず話を聞こう」
「だって――だって!」
「夕映!」
言葉を連ねる度に乱し、会話もままならなくなる夕映に対して強い口調で彼女を制した真奈。
正直、真奈の叱咤するような口調は初めて聞きましたが――凄い迫力です。
怒られていない私まで心臓を鷲掴みにされたような感覚で、カミングアウトとは別の意味でドキドキしてしまいました。
真奈に強く遮られて言葉を噤んだ夕映は、しゅんとした表情で俯きました。
「とりあえず……順番に語りますね」
そして、私は語り始めました。
自分が、性同一性障害である事。そして、それ故に中学校時代は苦しみろくに登校せずに卒業して、高校には進学できなかった事。それから紆余曲折を経て真奈と夕映のいるあの職場に入り、社会復帰の一歩とした事。
最後に――ある日「勇」という同じ性同一性障害の人物とぶつかり、私は彼女が所有していた男性の肉体に入れ替わり、そこからちょっとした不和を乗り越えて正式に結ばれ、夫婦となって今に至るという事。
だから、入れ替わりは隠蔽する必要があった、と。
入れ替わりが露呈すれば、自動的に性同一性障害もバレる事になるから。
「やっぱり、性同一性障害だという事……私達には言えなかったかい?」
声を低くして、少し問題への触れ方を決めかねている迷いのある口調で真奈は言いました。
私が優であった時、その障害をカミングアウト出来なかったのか……そういう意味なのでしょうけれど、同時に「そう出来なかった辛さ」を想像した上での問いかけと解釈出来る真奈の語り口調。
「そうですね。真奈と夕映が受け入れてくれるだろうという信頼はありましたけど……言わなくても私達はきっと友人です。カミングアウトに伴う恐怖を一種の賭けだと感じてしまっている私としては、友人に対して一か八かみたいなカミングアウトを行う事には抵抗がありましたし……すいません。本当は言いたかったんです。でも」
私の尻切れとなった言葉。
でも――という言葉の続きを「いいよ」と優しいイントネーションを伴った真奈の言葉が埋めてくれた時、やはり信頼に足る友人なのだと確信したのでした。
ほっと、胸を撫で下ろし、得られた理解に満たされる感覚。
しかし――。
隣で貧乏ゆすりを更に加速させている夕映。
……どうしたのでしょうか?
「で? で? 結局、優の中身は男性でしたって事ですね。そうですよね? それは分かりました。理解しましたですよ。でも、そうじゃねーでしょうよ。証拠は? 証拠、証拠、証拠は! それに関して答えるべきじゃねーですか? 証拠を出しやがれですよ? 入れ替わったって、証を!」
夕映の妙に苛立ったような口調に、私のみならず真奈でさえも「ん?」と怪訝そうな表情を浮かべて私達の視線は彼女の方へと集まり、伴った懐疑心を共感するように互いに顔を見合わせます。
あれ、夕映ってこんな乱暴な口調で話す事ありましたっけ?
とはいえ――。
確かに彼女の様子は少々おかしい――のですが、私の胸中は真奈に認めてもらえたという安堵で若干、軽くなっていたのです。なので、安心を得ていたがために……冗談めかして彼女の問いに回答してしまったのです。
私は、この事を夕映に怒られるのを忌避していたはずなのに。
「えーっと、そうですねぇ。私は入れ替わる前にはじゃれついて夕映の小さな胸を何度も触ったりしてましたー。なんて……こんな感じでいいんですかねぇ?」
私のへらへらとした口調。
それに対して蔑視と激怒の入り混じった表情、そして同様の感情を湛えた視線を夕映がこちらに送り、刹那――彼女の中で感情が爆発したのでした。
「――はぁ? お前、ふざけくさってんじゃねーですよ!」
そう、ドスの効いた声で脅し文句のように語った夕映は、ハンドルを握る私の首を唐突に締め上げてきまして、コントロールのあやふやになった車が蛇行運転の形をとって道路上をあやふやに走行します。
「ちょ、ちょっと、危ないですって、本当に!」
直線となった車道の上で誤った走行を繰り広げる後ろ姿――優たちにはどう見えているのでしょうね。




