勇「頬にビンタを拝借した」
――まちに待った海行きの当日、早朝の六時です。
盆という事で混みがちな道路事情を考慮して、朝早くからの出発という事にしたのですけれど、こういった所が日本の企業は気が効いているというか、あのレンタカーの営業所は二十四時間営業らしく私達のような車の行き来が少ない朝の内に走り出したい顧客にきちんと配慮をしているのですね。流石です。
という訳で、私は先に家を出て車を受領しに行きます。集合場所となっている駅で優と落ち合う方が真奈達の目には自然に映るかと思いましたので。
夏、この季節になると太陽が空に浮かんでいる時間は随分と長くなり、朝であるのにすでに白んだ空が青みがかり、外界には薄暗さを全く感じさせない陽の光が隅々まで鮮明に照らしています。そのまま時間の流れに伴って日差しを強め、今日はきっと真夏日になるのだろうと予測させます。
そんな日差しを普段嫌っている私も今日に限っては、とびっきりに灼けた太陽の下を駆け巡りたい躍動する心がありますけれどね。
妙に高揚した気分を抱えてレンタカーの営業所にて車を借りる私。前回とは異なり、きちんと運転をこなせる私は堂々とお店を後にし、駅へと向かいます。もともと、機械系統に強いスキルの派生なのか運転の余裕綽々とこなせる私。運転免許取得のためにお金と時間を積まずに済んだという点では、この体に付与されていた最大級のメリットとさえ言えるかも知れませんね。
しかし考えてみれば優がどうやって免許を取ったのか不思議で仕方ないですけれど。どうやって実技を通過したのでしょうか?
まぁ、それはいつか聞くとしますか。
付近の駐車場に車を停め、集合場所たる駅へと向かう私。始発で旅行に向かうのであろう人々が改札からホームへと吸い込まれていく姿の中にあって、立ち止まってこちらへと視線を送っている二人の人物。
真奈と夕映でした。
手を振ってアピールする夕映に対して同じように返し、私は少し早歩きで歩み寄ります。
「二人とも、おはようございます」
私が軽く頭を下げつつ挨拶をすると、
「うん、おはよう」
「おはようございますー」
と、口々に返事をくれる真奈と夕映。
周囲を見渡す限り、他にはまだ誰も来ていないようですね。例えば、三浦さんと真奈はお互い、一緒に海へ行く認識がないのですから、集合場所を駅前と定めていたとしても一纏まりで待っているという事にはならないでしょう。
そういう配慮だったのですが、誰の姿も見えません。
うーん。それにしても二人とも、今日はお出かけという事で普段見ないような……そう、私が「優」だった時代にもお目にかかった事のないようなファッションでバッチリ、キメてますね。
「いやぁ、真奈は随分とイメージとはギャップを感じる服装ですねぇ」
緩いラインを描くブラウスにショートパンツを合わせた、普段から聡明そうだとかクールビューティーな印象を前提とし、捉えてしまう真奈の印象を良い意味でぶち壊しにするこの季節を体現したような服装。一つに纏めた長い髪もスポーティな印象に溶け込んで絶妙だと思いますね。
「……おかしいかな?」
視線を逸らし、困ったような表情とそれに伴うイントネーションで語る真奈。
真奈がこういった表情というのも珍しいですねぇ……私が女性の体で彼女らと接していた時には見られかった一面です。
「いえいえ、そんな事はないですよ。よく似合ってます」
「そうかい。それはよかった」
自分の服装にある程度の懸念があったのか、私の語った肯定に胸をほっと撫で下ろし微笑みを浮かべる真奈。
「ちょっとー。私にも何かコメントとかないんですかー」
そう語ると、頬を風船のように膨らませて不服を湛えた視線で私を見つめる夕映。
キャミソールに七分丈のジーンズを合わせ、健康的な印象を与える服装の中、頭上に乗せるよう掛けられたサングラスが夕映の幼い印象のおかげでどこかアウトローなイメージをデフォルメ化しているようです。
個人的にはこの、七分丈って素晴らしいと思うんですよねぇ。
「何だか、夕映の幼いイメージから考えると随分とギャップを感じるというか……そう。歳相応というか、精神年齢不相応というか。もっと少女のような服装で来るかと思いきや、案外大人びてますねぇ」
「ちょっとー! 案外ってどういう意味ですかー、それ!」
不服そうな口調で意義を申し立てる夕映。
その表情は漫画的表現が許されるならばきっと、釣り目になって歯がギザギザになっている事でしょう。そんな風に思わせる気迫を感じたものの、彼女の服装だって真奈に負けず劣らずに素敵だと思います。
と、そんな会話をしていた時――。
「あれ? 真奈と夕映じゃないですか。どうしたんですか、こんな所で」
突然の呼びかけ――頭上に疑問符でも浮かびそうな胸中に真奈と夕映は名前を呼ばれた僅かな驚きを忍ばせながら、私達は一斉に声のする方を向きました。
そんな視線の先にいたのは考えてみれば当然ながら、優でした。
とはいえ、私が驚いてしまったのは優の存在というより、その口調です。
そういえば当然の話ですけれど優も私も、同じ口調で話さなければならないという状況が起こってしまったんですね。まぁ私ってば、真奈と夕映の前で入れ替わり後も特にキャラクターを変える事なく接してましたしね。
今日は夏らしくマキシワンピースに麦わら帽子という、真奈と夕映に比べると少し大人しめな印象の服装。
余談ですが、私が家を出る時に感想を求められたもので、素直に男性的感想として「つまらない」と答え、頬にビンタを拝借したのは私達夫婦の間ではよくある事です。
まぁ、それはさておき。
優のわざとらしく驚いたイントネーションが発した言葉が伝染したかのように、驚愕の表情を浮かべる夕映。そして、表情を崩さないながらも何となく雰囲気でそれなりに驚きを感じていると思われる真奈。
「え、えぇ! どうして優がここにいるの?」
素っ頓狂な叫びと共に優を指差し、驚愕を口にする夕映。
夕映の驚きも無理はありません。今日、私の友人が合流するという事実しか知らず、まさかその人物が優だったなんて、思いもしなかったでしょうから。
対して優も同様に――といっても、事情を知っている私からすれば三文芝居の下手くそな驚きを湛えた表情で目を見開き、夕映と真奈を目視する優。
「ちょ、ちょっと勇さん。今日、合流する予定の知り合いって……真奈と夕映だったんですか!」
語るイントネーションも大根役者そのものな優。
私が引き合わせる事になっている人間が真奈と夕映だという事は知らなかった設定ですから驚く必要がある優。気になるのは棒読みな優の演技力ですが、入れ替わりという事実を知らない夕映と真奈にとって、目の前の優は本人でしかないのですから――不信感は抱かれてもそこから核心を突かれる事はないでしょう。
「あれ? 優さん、この二人を知っているんですか?」
私も優と同様に無知を装ってびっくりしたとでも言わんばかりの口調で語ります。
無論、私達に面識があったなど真奈と夕映は知らないのでこのようなリアクションが自然でしょう。
「だって、私がつい最近まで勤めていた職場の同僚ですからね。真奈と夕映、寧ろあなた達がこの勇さんと知り合いだったなんて知らなかったですよ」
「いやぁ、私も驚きだけどねー。勇さんが今日、合流するって言ってた人が、まさか優だなんて。でも、勇さんに関してはいつだったっけ……ファミレスに行った時に話したじゃない? 私達の職場に優と同じ名前の人が入ってきたって」
夕映がそう語ると、優はわざとらしく古典的に手をポンと叩き「あぁ」と想起を口にしました。
「そういえば言ってたなぁ。夕映が最近、気になっ――」
「――いやいや、そこまで思い出さなくていいから!」
慌てて言葉を遮り、背伸びをして優の口を手で塞ぐ夕映。
――ん?
何でしょう、この夕映の反応は。あの日……つまり、入れ替わった優が初めて彼女らと接触した日に何かあったのでしょうか?
そのようにきゃっきゃと騒ぐ夕映と優、そんな光景に呆れ交じりの嘆息をする真奈。
「夕映も自分で言わせたようなものだけれどね……。とはいえ、優と知り合いというのは驚いたよ。優が辞めた後、彼女の知り合いで、しかも同じ名前の『勇』があの職場に入ってくるとは……妙な事もあるものだね」
不意打ちのように突如、私の回答しづらい部分を的確に言葉として発してくる真奈。
まぁ、その指摘は予測済みですから驚くべき事ではないですけどね。
「そうなんですよねぇ。偶然ってあるんですねぇ」
とりあえず奇異な現実に驚いている風な演技をする私。
「それで――いつ彼女と知り合ったんだい?」
何気ない真奈の一言がやけに冷たく、無機質で不気味な響きのように私の鼓膜を通過し、悪寒を得たように私は震えあがる思いを抱きます。
うーん。これから一泊の遠出など果たして成立するのでしょうか?
一方で優と夕映は気楽なもので「勇さんとはどんな関係なの?」などと問いかけ、「何でもありませんよ」と返す私の妻。ちょっと嘘でもその言葉は寂しく響きますが、関係性は友人レベルで留めておいた方が妙な拗れを生みませんもんね。
――と、現実逃避したい気持ちもそこそこにして真奈の問いかけに答えを示さなければ。
「え、えーっと。確か、五月頃の事だったでしょうかね」
私の言葉に真奈は手で顎に触れ思案顔。
そんな彼女が思考し、言葉を発するべく口を開くまでの時間が途轍もなく重苦しい現状……何でこんな事になってるんでしょうか?
というか、そのまま事実を語って五月と言いましたけど変な矛盾とかないですかね……。こういった細かい部分にも回答を用意しておくべきでしたか。
「ふむ。優が仕事を辞め、君が入ってきたのとぴったりとは言わないまでも、時期は重なるね」
「そ、そうですかね?」
「そうだとも」
私が嫌な汗をかきつつ応対していた最中、真奈は「それでは」と次の質問を投げかけようとしていました。どんな質問が投げかけられるかは分かりませんかれど、質疑応答の回数を重ねれば重ねるほど私は詰められていき、最終的には王手を打たれるかも知れない。
そんな風に高鳴る心拍数を伴わせて、緊張に身を抱かれている――瞬間でした。
「――うえぇ、出たぁ!」
そんな素っ頓狂な悲鳴にも似た叫びを、引き攣った表情と共に漏らす夕映。
出たって……何が出たんでしょう?
その言葉に呼応するように私と真奈は夕映を見つめ、そして彼女が視線を送る先へと顔を向けた途端、でした。
あの真奈でさえもが、若干ではありますが表情をしかめたのです。
畏怖ようであり、警戒でもありつつ、ひたすらな嫌悪。
そんなものが入り混じった表情を湛え、見つめる先。
緊迫していたこんな状況を打破し、しかも真奈にそんな表情をさせる存在……一体、誰なのでしょうか?
その答えは――視線の先の、人物でした。
「やぁ、優。それに勇くん。今日は絶好の海日和だねぇ」
そこにいたのは「海日和」と語っておきながらも、どこへ営業に向かわせても恥ずかしくないようなビシっとキマったスーツの着こなしでこちらへと歩み寄ってくると三浦さん。そして、そんな彼が伴わせた真奈と夕映の蔑視、そんな劣悪な空気感を孕んだ輪の中に入っていく気まずさを湛えた表情を浮かべる愛衣でした。
何だか反応がおかしいですね。
この二人、三浦さんを知っているのでしょうか?
面識などないと思うのですが……まぁ、一度でも会った事があれば三浦さんの変態性に悲鳴を上げたくなる夕映の気持ちは分かります。しかし、面識がないのなら、真夏にスーツ姿の男を見ただけで流石にこの反応にはならないとは思いますが……。
と、その瞬間――私の懐疑心を加速させる一言。
「ぶ、ぶ、ぶ、ブーメランパンツの男だぁぁあああああああああああああああ!」
そう絶叫した夕映の言葉。
ぶ、ブーメランパンツ?
何の事なのでしょう……。
詳細の分からない認識をされている三浦さんの登場によりもやもやとした疑問を抱える事になりつつも――とりあえずは全員集合。
海へ出発……出来るんですかねぇ?




