勇「ロボが可哀想で仕方ないのですが」
走るなんていつ以来でしょうか。私は現在、歩行者天国となっている商店街内にて通行人とすれ違い追い越し、走り連ねて家路を急いでいるのです。夕暮れの街には帰宅途中のサラリーマンや、自転車に買い物袋を積んでふらふらと人の合間を縫って走行する中年女性で溢れかえっています。
しかし、そんな数多の人間とぶつかる危険性など顧みずに走って家へ向かう緊急事態が私にあった訳ではないのです。ただ、急いで事実を――ある事実を確認したい。そんな焦る気持ちが私を走らせていると言えるでしょう。
商店街を抜けて住宅街を少し進むと見えてくるマンション。その一階である我が家の扉に鍵を差し込み開錠、玄関にて靴を脱ぎ捨てると迷う事無くリビングから接続される優の私室の扉を、毎朝彼女が私を叩き起こす時のように開きました。
瞬間、ベットの上に腰掛けて何かを行っていた優は予期せぬ私の来訪に体をびくんと反応させて、「ひあ」と素っ頓狂な悲鳴を短く上げました。
とはいえ、そんなどこか可愛らしい彼女の驚き方に悶えていられるような心理的余裕など私にはないのです。流石にそれなりの距離を走ったので体力に恵まれていると言えるこの体でも肩で呼吸をするくらいには乱れている私。
開いた扉を杖替わりとするかのように体重を委ね、呼吸を整える私。
そんな血相を欠いた旦那の帰宅に何事かと不安そうな、そしてどこか引きつった気味な表情を浮かべる優に対して抱えていた疑問を投げかけようと口を開く、その瞬間の事でした。
「な、何ですか、それは! とんでもない事になってるじゃないですか!」
驚愕に言葉を失っている優に対して、私は投げかけるべき本題も忘れて指摘します。
優の両手が見る者に痛々しささえ感じさせるような紅色に染まっており、それは端的に言って――おびただしい量の出血でしょうか。患部がどこなのかは分かりませんが、溢れんばかりの滴がぽたぽたと床にも流れ落ちています。
何か刃物を使う作業の最中に私が突如として扉を開けたため、驚いた拍子に深く手を切ってしまったのかもしれない――そう思うと、自分の妻が手から血を溢れさせている状況に対する焦燥感と対応をしなければという使命感、そこに罪悪感が伴って胸中はあっという間に違う緊迫感に塗り替えられてパニック寸前。
それでも「冷静に」という言葉を焦りながら胸中で繰り返す私は「み、見せて下さい!」と室内に入り込んで彼女の方へと歩み寄ります。
しかし――。
「ちょ、ちょ、いいから! 本当に、何でもないから!」
歩み寄る私に対して抵抗し、幹部である手を見られぬよう背を向けて遮る優。衣服にも赤々とした滴は飛散し、モノクロを基調とした可愛らしくも少しシックで大人びた印象のある私服を汚していました。
気が付けば、優は頬を紅潮という意味でも真っ赤に染め上げています。
非は私にあるというのに、何をそんなに忌避するのでしょうか?
「いや、いけませんよ。大惨事ではないですか。私に責任があるのですから、すぐさま手当てしましょう。私がやってあげますから」
「ちょ、やめろって。ってか、ノックせずに入って来てんじゃねーよ。プライバシーとから考えろよ」
優は必死に患部を見せぬようにし、頑なにこちらへと背を盾にした上で首だけを私のほうへと向けて乱暴に言い放ちます。
プライバシーに関して、優と愛衣にだけは言われたくないのですが……。
それでも抵抗する優に対して、早く処置をしたいという思いがある私は手当てをする人間に対して行う所業としては一抹の不安があるものの、腰掛けているベッドに優を押し倒して強引に手首を掴みます。
力の差が歴然の私と優。抵抗できなくなった優は恥ずかしそうに視線を逸らし、それを覆いかぶさる私が見下ろしているというこの状況。
――何だろう、凄く興奮する!
とはいえ、全然ロマンティックなシチュエーションでも何でもないのでそこは作業的に優の両手から滴る真紅の鮮血、その出所を探るのですが――ふと思います。
恥ずかしがったり、抵抗したりしてますけど……これ、痛くないんでしょうか?
そんな疑問が私の中で「これ、血じゃないのでは?」という疑惑となり、まじまじと見つめた優の手の中から紅色の液体を滴らせている原因を発見します。
「あれ……これって、マニキュアでは?」
握られた小瓶から溢れ出る赤い滴。他の男性でもその正体を掴む事は容易でしょうけれど――私にとっては別段、すぐに分かりました。
そんな私の問いかけに、羞恥で煽られて目に涙さえ溜める優は「意地」としての沈黙を数秒設けましたが、観念して首肯しました。
随分と状況が掴めませんが、とりあえずがっしりと掴んでいた優の腕を解放すると私はベッドから身を引きます。そんな行動に呼応して半身を起こす優は涙目で私を恨めしそうに見つめ、状況が掴めないながらもこの胸中に、先ほどまで感じていたのとは別の罪悪感を宿してきました。
いやはや、どうなっているのか。
とりあえず、部屋を出て優の着替えたいという意思を尊重。ダイニングのテーブルにて椅子に腰掛けて待つ事数分で、着るものを考えるのも面倒だったのか薄ピンク色のパジャマに身を包んだ優が不貞腐れた表情で部屋から出てきました。
「えーっと、あの……どこから話したらいいやら、って感じですけど。とりあえず、まずはどうしてマニキュアを? 普通は出かける前に塗るものだと思いますけれど、優はもう水着を買いに行って帰って来てるんですよね?」
私の言葉に対して不機嫌そうな表情を崩さず、向かい合うように座ると溜め息を吐き出す優。手は乾いたマニキュアで真っ赤に染められており、彼女が虚ろな目をしたりしたらホラー映画の登場人物さながらといった感じです。
「練習だよ、練習」
「れ、練習?」
予想だにしない回答に私は思わず、復唱するように問い返してしまいます。
「俺ってば、二十年近くも男として生きてきたわけだからな。マニキュアの塗り方なんて分からない。だから、練習してんだよ。失敗するかもんしねーのに出かける前に練習出来ねーだろ?」
優の言葉に「練習する必要性」を納得した私。
しかし、憧れていた女性の衣服やアクセサリー類などに関しては欲望をきちんと消化しているはずの優。入れ替わりを果たして三か月も経っているのですから、マニキュアを今更練習しているというのも変な話だとおもうのですけれど……。
そんな私の思考を読み取ったのか、優は続けます。
「練習して一向に上手くならねーんだよ。この歳だから会社の人間に『どうやって塗るの?』なんて聞くのも抵抗があるし、ネットとかも使えねーから調べられないんだよ」
優が半ば自虐気味に語った言葉。
確かに練習を未だに行っている理由としても整合性があります。情報を集められないまま一人で練習したって、間違った方法を繰り返せば上達はありえません。しかも、マニキュアはある程度のコツを知っていないと割れたり、ムラが出たりと失敗の幅もそれなりにあるのです。
とはいえ――。
「だったら私に聞けばいいじゃないですか。女性のファッションにはうるさい私ですから、出来ないはずがないでしょう? 二十年ほど、私は女性だったのですよ?」
自前の重低音でとんでもない台詞を強く主張するも、ゆっくりと首を横に振る優。
「いや、お前さんには教わりたくないから部屋でこっそりやってんだよ」
「どうしてです?」
私がそう間髪入れずに問い返すと、嘆息して頭を抱える優。
「女性として、男性にマニキュアの塗り方を教えてもらうってのはかなり抵抗あるだろ。ないなら、素直にお前さんを頼ってるよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てた優。
しかし、私は腑に落ちません。
「とはいえ、カリスマと呼ばれる美の達人にはオカマ――つまり、元々は男性だった人間がいるわけじゃないですか。そういった人間の事を鑑みれば、あまりに気にする事ではないような気もしますが」
「いやいや、そういう人種だったら俺は一向に構わねーけどなぁ……だって、心が乙女じゃんかよ。ただ、お前さんは内外共に完全な男じゃねーかよ」
優の指摘に対して、素直に喜びが胸中を満たしていく感覚。
性別のらしさ、というのは私のような境遇だと口にされるだけでやはり嬉しいもので、体が入れ替わっても尚その感覚は消えていないのです。
……まぁ、そんな喜びは置いておくとして、閑話休題。
「まぁ、事情は分かりました。しかし、この三か月間ずっとマニキュアの練習をしてことごとく失敗してきたのですか?」
私の問いかけに気まずそうな表情を浮かべた優はポリポリと真っ赤に染まった指で頬を掻いて羞恥の体現としました。
「いや、流石にそういうわけじゃねーよ。お前さんが仕事に行ってる週末、俺が一人の時に気が向いたら練習してた。普段、外出する時はつけ爪で対応してたんだけどな」
「そうだったんですね」
「気付いてねーのかよ!」
「生爪かと思ってました」
不服そうな、しかし呆れも入り混じった胸中を湛えた優の表情。
とはいえ――。
「そんな方に男は目が行かないのですよ。そもそも、私はつけ爪の感覚が気に入らなかったのでマニキュアを塗ってましたが、使用していたのも女性として振舞うための、という意味合いが大きくてですね。男性の私が『理想の女性像』として身を繕っていた頃の感覚だって、爪なんか面倒だしどーでもいいって感じでしたよ」
唖然とした表情で「あり得ないな」と呟く優。
しかし、それは女性の感覚なのです。
綺麗に爪が装飾されていて男性的な喜びはどう伴うというのでしょうか?
髪型が可愛い。
これは男女共に、女性を見る場合に適用される感覚でしょう。
服装が可愛い。
これも男女共に、女性を見る場合に適用される感覚でしょう。
指先が可愛い。
――いやいや、意味分かんないですよ。
この辺り、女性の自己満足的な部分ではないのかなと男性を代表して私は述べたいのですよね。
……まぁ、代表している割には、男性としての歴が三か月なんですけれど。
――しかしそれはさておき、結局はこうも言えるのではないでしょうか。
「優に問題がなければつけ爪のままでいいんじゃないですか? 剥がし方を誤ると爪に負担が掛るそうですが、気を付ければ楽なのではと私は思ってしまいますけれど」
私は諭すように言いましたが、優の表情は全然腑に落ちていません。
うーん。何やら、こだわりがあるようですね。
「……俺としては『マニキュアを塗る』という行いが憧れなんだよ。マニキュアの小瓶って、見てるだけで幸福な気持ちになってだなぁ。男の体の頃にはプラモの塗料と間違えたって言い訳で購入しようかと思ったくらいだ」
「何だか、コスメ的な着色をされるロボが可哀想で仕方ないのですが、要するに自分で着色する事にこだわりがあるのですね。そして、マニキュアの小瓶という持ち物の時点で価値がある――と?」
「そういう事だな」
優の言葉に「なるほど」と呟いて腕組みをし、考え込む私。
そういえば私、男性になって「これがしたかった」なんて行動に身を投じた事があったでしょうか。只野君と友人になる、というのは悲願として達成されましたが――優のように性別に伴う行い。
そんなものに勤しんだ事なんてあってでしょうか?
「うーん、そういう意味では今度、電柱におしっこ引っかけておきますか」
「どう思考したらそんな言葉が出てくるんだよ」
「とはいえ、ですよ――大体の事情は分かりました。優が私の教えを請うのが嫌だという気持ちは分かりますが、それでもマニキュア一つまともに塗れない妻に陰ながらやきもきする日々は願い下げです」
そう言って、私は立ち上がると「何だよ?」と訝しげにこちらを見つめる優の視線を一瞥しつつ立ち上がると、彼女の隣に座りました。
「さきほどの真っ赤なマニキュアは零れてなくなってしまったようですが、他にまだ持っているなら私が教えましょう。折角、女性になったのですから正しい塗り方を覚えて自己満足的な――じゃなかった、素敵な女性としてのお洒落を楽しめるようになって頂きたいのです」
拒否されるかな、という予感もあったのですが、思案顔を浮かべた優は腕組みをしながら首を左右に傾げ――そして渋々、小さな声で私から視線を逸らしつつ「お願いします」と言いました。
そんな彼女の依頼を快く引き受けた私は、自分が過去に何気なく行ってきた基礎を説明して優に伝えました。まずは除光液で真っ赤に染まった優の大失敗と取り消します。そして、ムラなく割れずに長持ちするマニキュアの塗り方を説明する中で、私が塗ってあげた爪を優はキラキラした瞳で眺め、蛍光灯から降り注ぐ光の反射で光沢を得る手先のお洒落を楽しんでいました。
そして、「ありがとう」と、この鼓動が激しく脈打つくらいに素敵な笑顔を浮かべてお礼を言われる私。表情を明るくする彼女を見つめ、些細な部分にお洒落の気遣いを忍ばせる意味――それを知ったと同時に、自惚れではありますが「自分の妻は何と可愛らしいのか!」と身悶えしそうになりました。
でもいいのです、私達――ナルシスト夫婦ですから。
優の表情を見つめていると、私も何だか自然に笑みがこぼれてしまいます。
ですので、慌ててここまで帰宅して優に問いかけたかった「真奈と夕映に会ったというのは本当ですか?」なんて質問は、私の中でちょっとどうでもよくなってました。




