勇「優を差し置いて何故この人が」
私が人生で初めて運転する車、その助手席に乗せた人間が三浦さんになってしまいました。別に彼を嫌っているとか、そういう事ではないのですが――しかし、大切な伴侶たる優を差し置いて何故この人が……そうは思ってしまいましたね。
「姿形はあの『勇』ですし、三浦さん。助手席に座ってさぞかし満足な事でしょうね」
私は慣れてきた運転の片手間といった感じで、三浦さんを揶揄するように言いました。
正直、車の乗り方を習って数時間。初めての長距離走行が豪雨という悪天候、悪環境なのですが――しかし、そこは私のメカ系統に対する適応力が働いたのか、簡単にマスターしてしまったのです。ですので、割と余裕もあって三浦さんに話掛けたのですが、
「何を言うんだい。君はずぶ濡れと聞いて随分と期待していたのだよ。優は嘘を言っていたのか……裏切られた気分だよ」
三浦さんはさぞかし残念そうに語るとウインドウの向こう、激しい雨風が不鮮明にする景色を見つめます。
……どうして私がずぶ濡れ前提なのかという事には何となく合点がいってます。私がまさか車で来ると思っていない優からしてみれば、傘を一本も持っていないと発言する私はずぶ濡れであって然るべきでしょう。
しかし、私がずぶ濡れである事を期待するのは如何なものでしょうか……もう少し私、妻の友人たるこの三浦さんという男性に警戒心を働かせた方がいいのでしょうか?
「あぁ、安心してくれたらいいよ。僕としては『勇』くんの方は体しか興味がないからね。君達夫婦に好意を半分ずつ向けていると思ってくれれば」
思い出したようにこちらを向き、全く安心する理由にならない補足を行う三浦さん。
そんな事を言ってしまえばあの日、優の女性としての外見から友人である「勇」を見抜いた三浦さんの美談がくすんでしまうのでは……まぁ、もう何かどうでもいい感じもしますけれど。三浦さんはそれで吹っ切れて、随分と明るくなりましたし。
と、そんな私達の会話を聞いていたのか――。
「夫婦って――僕にとってはどっちが『勇』くんなのか分からないけれど、君たちは結婚しているのかい?」
先ほどから隣に座って会話の進んでいなかった二人。円滑に言葉を交える私の方に対して詳細を問いかけるべく突如、言葉を発したのは只野くんでした。
優が正体を公開しても構わないと言っていたので今回、只野くんと引き合わせたのでしたが……しかし、心の準備は必要だったでしょうか。優はウインドウにもたれかかるようにして視線を、その不鮮明な外界に預けています。
そんな彼女を一瞥して、よそ見はいけないと前方にきちんと視線を固定すると私は咳払いを鳴らして答えます。
「そうです。只野君の隣に座る『優』と、私は結婚――といっても挙式もしていなければ、婚姻届もまだ出していませんので婚約段階ですがそういう関係であり、正式なものへと発展するのも間違いないでしょう」
私はそんな言葉を皮きりに次々と説明を始めていきました。
まず、私が只野くんとの過去を共有していなかった理由。それが、優との入れ替わりによってこの体に只野くんと過ごした学校生活を把握した記憶がなかった事。
その事実によって驚愕を露わにしつつも「全てに納得がいくよ」と言った只野くんは意外にも入れ替わりの事実に深い言及をせず、「そんな事が現実にあるんだねぇ」と言いました。
ちなみに、優が自分にとってかつての同級生であった事――それに関しては、迎えに来て私が電話している時に「その相手はえらく機械音痴なのだな」と思ったらしく、そういった印象を抱えた人物に「只野」と名を呼ばれた時点で、気付いたと彼は言いました。
なので、説明自体はそれほど詰まる事無く――寧ろ。
「それにしても凄いねぇ! 入れ替わりかぁ……ライトノベルや漫画の世界みたいだ。そういう不思議な現象がこの世の中にあるってだけでワクワクするねぇ。何だろう……それこそ、ドゥーニャちゃんが入れ替わって学生生活を送るあの作品みたいに」
只野くんはそんな引用を、作家故の好奇心がもたらした興奮で熱っぽく語ったものの――言葉を連ねる最中で気付いたのか、唐突に語りを打ち切ってしまいます。
そう――彼にとっては、まだデリケートな部分だと認識されているのです。
アニメの、しかも「あの作品」の話は。
「ご、ごめんね。そうか、勇くんがどうもアニメに対して寛容だと思ったのは、入れ替わりによって別人だったからなんだね。つまり……その優さんは、あの時のままってことだよね。失言だった。許して!」
只野くんが両手を重ねて優の方を向いて頭を下げているのが、バックミラーにちらりと移りました。私は運転に意識を裂きつつも、気になる動向を耳のみで追います。
僅かにアスファルトを覆う雨水の層をタイヤが切り裂き、豪快な飛沫の音を奏でて車は道路上を駆け抜けて行く。
そんな最中にあって――「謝るのは俺の方だ」と言葉をぽつりと、優は漏らしました。
「俺は覚えてるよ。お前さんがアニメ研究会に所属しててさ、クラスの連中は揶揄してたじゃないか。直接ではなくとも、遠まわしに伝わるくらいの明度で気味の悪い趣味だって。でも、お前さんはそんな趣味を隠す事無く堂々としてた。そんなお前さんの趣味を否定した俺の方が謝るべきなんだ。でも……その前に知っていて欲しいんだよ」
そこで優は一旦、言葉を区切り――しかし、決意を伴わせると口にします。
「俺はそんな姿勢の人間に惹かれる人種なんだよ。そんなお前に、一人の『女性』として――惹かれちまうような『男』だったんだよ」
優の静かな語り、その確信に触れる言葉で瞬間――息を飲むのは、只野くん。
彼が作家である事が由縁しているのか……それは分かりませんが随分と頭の回転は速く、想像力が広範囲に及ぶ人間であるのは確からしく、簡単に真実に触れてしまったです。
――何故、性同一性障害をテーマにした作品を忌避したのか?
――何故、入れ替わってしまったのに、戻ろうとしないのか?
全ての伏線が回収され、全ての謎が払拭された。
そんな只野くんの胸中に虚無感が生まれて、対応に困惑するのは当然でしょう。
そっと、視線を配ってみれば、優は依然としてウインドウの向こうに視線を預けたまま、もたれかかったまま。
しかし――只野くんは「謝らなくていい」と言いました。
「僕がそれに気付けなくて、優さんもそれを語れなかったのなら――それは仕方ない事だよ。終わり良ければ全て良しなんて言葉じゃないけれど、それでも僕の趣味が気味が悪いだなんて言う人もいる中、惹かれるだなんて……最高の褒め言葉だよ」
只野君は照れたようにそう語って「だから気にしないで」と笑みを浮かべ、優も遅れて「そう言ってくれるんだな」と語り――その数年に及ぶわだかまりの最後をお互い、「ありがとう」の言葉で締めくくりました。
「一件落着といった所だね」
三浦さんの言葉に私は微笑みを浮かべ、
「そうですね」
と同意して、優の方にまた視線を配ります。
そこには只野君ときちんと向き合って、僅かな微笑みさえ湛える優の姿がありました。そんな光景を見れば私が夕映に事実を開示してもこのように元の鞘に納まるのではないかな、などと思ってしまいます。
そんな思考の最中、只野君は「あーあ、それにしても」と不意に語り始めます。
「こんな可愛らしい女の人に好きだったなんて言われても、結局は人妻って事だもんね。残念だなぁ……こんなだったら学生時代に――なんて後悔はちょっと、気遣いのない言葉だね。でも――本当に綺麗だよ、今の優さん。こんな素敵な女性に好意を抱かれていた事実は、僕のこれからの人生にとって最高の思い出であり、誇りだよ」
さらりと、臆する事無く語る只野くん。
「ば、馬鹿かよ……突然、何言ってんだよ。そ、そん、な……綺麗とか、勇のやつにも言われた事ねーのに」
演技じみた部分のない只野くんの何気ない褒舌に取り乱す優。わざわざ後ろを振り返らなくっても分かります。きっと赤面して、視線を逸らして、でもそんななんじゃいけないと思って只野くんの方へチラチラと視線を送っている。
そんなパニックを、私は旦那としてよく知ってますからね。
「とはいえ――勇くん、女性を『綺麗だ』と褒める事は大切だと思うけどね。ホモにこんな事を言われるようでは駄目だと思うけれど?」
「三浦さん、強くなりましたね。自覚的に武器として同性愛を扱うなんて」
「にしても、彼。臆面もなく女性を褒めるね。意外、と言えば失礼かな」
「いや、私も可愛いとは言うんですよ。綺麗っていうのは言った事……ないかもですけど」
「きちんと言葉にしないと優に逃げられてしまうよ? それに、それがきっかけで君達が仮に破局してしまえば二人とも僕と付き合うしかなくなってしまうじゃないか」
「何でそんな選択肢しか残されてないんですか……」
私と三浦さんがそんなふざけた掛け合いを行い、後部座席では赤面して脳内をオーバーヒートさせている優と平然とした表情で佇む只野君。
降りやまない雨のカーテンを走り連ね、奇妙な関係渦巻く私達を乗せた車が隣街からホームと言える我々の街へと突入した頃には遠く見える空、その雲の隙間から朱色の斜光がもたらした輝きが漏れており――明日はきっといい天気だろうな、などと思ってしまうのでした。




