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ウィルヘルミナたちから離れたイヴァールとエルヴィーラは、周囲に人の気配がなくなると話しをはじめた。
「ベイルマン辺境伯爵、時間もございませんので手短にお話いたします。先ほど神獣が言っていた『ネズミ』についてですが、もう少し泳がせていただくわけには参りませんか」
イヴァールの言葉を聞き、エルヴィーラの目がきらりと光る。
「あの男を見逃せと?」
二人の間で『ネズミ』の名前は明らかにされてはいないが、お互い誰を指しているのか認識したうえで話は進んでいた。
エルヴィーラは、イヴァールの返事を待つことなくすぐに首を横に振る。
「それは難しい話だ。コルホネンが死んだ今、緋の竜に繋がる糸口はあの男――――ヨルマが握っている。ここでむざむざ奴を取り逃がすわけにはいかぬ」
エルヴィーラは『ネズミ』を『ヨルマ』と断定した。
それはイヴァールも承知の事実だったが、しかし、イヴァールは何故か驚いた表情に変わる。
なぜならイヴァールが掴んでいなかった事実を不意打ちに知らされたからだ。
「コルホネンが死んだのですか?」
問い返す目に、エルヴィーラは頷く。
「先ほどこの目で死亡を確認した。コルホネンは魔物に食われていた」
「魔物に…?」
「そうだ、しかも魔物について一点看過できぬ出来事があった。実は、魔物が壁蝕の始まる前に領内に出現していたのだ」
イヴァールはエルヴィーラに向ける目をすっと細める。
「それは本当ですか」
「本当だ。先ほどの大量発生といい、今この東壁ではとてつもない何かが起こりはじめている。その件を精査するためにも、一度大規模な壁の点検を行うべきだと思っている。もしかしたら、どこかに穴が開いているのかもしれないからな」
「穴? つまり、壁にほころびが生じていると仰るのですか」
「そう考えなければ説明がつかぬだろう。魔物が壁蝕の前に出現するなど、他にどんな理由があるというのだ」
極めて低い可能性だが、もし前回の壁蝕の時期に打ち漏らした魔物がいたと仮定したとしても、この時期まで魔物が生き残っている可能性は絶対にない。
魔物は貪欲に人を襲うため、すぐにその存在位置が知れる。
だから打ち漏らされた魔物はすぐに狩られ、長い期間壁の内側で生きていることはないのだ。
壁を越えてくる魔物は知能が低い。隠れ潜んで次の壁蝕を待つような知恵を持つ魔物など存在しないのだ。
その事実から、エルヴィーラは壁の方に問題があると考えたのだ。
「確かにそうですが…」
イヴァールは視線を伏せ考え込む。
「私はここ数年の間、何度も北の壁際に足を運ぶ機会がありましたが、そのような予兆はありませんでした。私には、壁にほころびが生じているとは思えません」
「では、今回の件にどう説明をつけるのだ。壁蝕の前に魔物が出現したのは事実だ。しかも、これだけ壁から離れた場所に、先ほどのような大量な魔物まで出現した。通常ならそんなことがあり得るはずがない。きっと壁に穴が開いていて、そこから魔物が大量に侵入しているに違いない」
そう言い切ったエルヴィーラを見て、イヴァールは一度口を引き結んだ。
顎をつまんで再び考えを巡らせはじめる。
「確かに説明のつかぬことではありますが…。では、例えば壁に穴が開いていると仮定しましょう。とすると、魔物は壁蝕の前にトゥオネラへ自由に侵入できるわけですが、しかし、この時期にあれだけの大量の魔物が、こんなにも内地まで侵入することを、はたして見落とすものでしょうか? 穴が開いた時期の推測についてはひとまず置いておくとして、今は幸いにも壁蝕が始まる時期と重なっています。そのため、二週間前には討伐隊の配置がほぼ終わっていたはずです。その包囲網を突破した挙句、誰にも見つかることなくこんな内地まで侵入することなど、到底できるはずもありません。侵入した時点ですぐに存在が発覚し、狩られるはずです」
その意見には、エルヴィーラも黙り込んだ。
イヴァールの言う通り、あれほど大量の魔物が、壁からこれだけの距離を移動する様子を、誰にも目撃されず行うことは不可能だ。
ここまでの長い移動距離の間、魔物が人間を襲わぬはずがない。移動の行程でたくさんの人間が犠牲になってあたりまえで、もしそうなればすぐに魔物の存在は知られ、狩られることになるはずなのだ。つまり、それらの報告もエルヴィーラに上がっていてしかるべき。
にもかかわらず、そんな情報は今まで一度もなかったのだ。
状況は明らかに矛盾していた。
なぜ魔物が壁蝕の前に出現したのか。
内地までどうやって侵入してきたのか。
その疑問に、納得のいく説明をすることはできない。
二人は深刻な表情で黙り込んだ。
エルヴィーラは、重くのしかかった沈黙を振り払うかのように顔を上げる。
「この件についてはまだ判断材料が少なすぎる。現状ではこれ以上の結論は出まい。今は不毛な話し合いを続けるより一度話を戻そう」
エルヴィーラは、改めてイヴァールにたずねた。
「クーセラ卿はヨルマを泳がせたいようだが、それは、いったいどういう意図があっての事か」
イヴァールは、まっすぐエルヴィーラを見据えると口を開く。
「実は、我々はラーファエルを追っております」
「ラーファエル!?」
それはエルヴィーラも知った名だった。
驚き冷めやらぬエルヴィーラに、イヴァールは続ける。
「すでにご承知の事かもしれませんが、ラーファエルはカルヴァイネン辺境伯爵が長年追っているいわくつきの男です。おそらく、緋の竜の件もラーファエルが裏で糸を引いている。他の事件でもラーファエルの関与が疑われるものも多く、我々はラーファエルの捜索に全力を尽くしているのです。ヨルマは、そのラーファエルと繋がっています。ラーファエルの居場所を突き止めるためにも、今はヨルマを泳がせていただきたいのです」
エルヴィーラは、表情を引き締め考え込んだ。
やがて厳しい表情で口を開く。
「カルヴァイネン卿がラーファエルを追っていることは私も承知している。六年前の例の事件にもラーファエルが関与している疑いがあるそうだな」
その言葉で、イヴァールの目がかすかに揺らぐ。
『六年前の事件』とは、ウィルヘルミナの両親と祖母の命が奪われたあの痛ましい事件の事だ。
イヴァールの胸中には、事件にまつわる記憶が蘇っているのだろう。いつも表情を覆っている徹底した無表情の仮面が、この時ばかりは剥がれ落ちかけていた。青い目の中には、消すことのできぬ怒りの炎が揺らめいている。
だが、すぐにその怒りをやり過ごすように細く息を吐き出すと、イヴァールは無表情に戻ってうなずいた。
「はいその通りです」
エルヴィーラは、イヴァールの内心を慮ったのか、痛ましそうにかすかに眉根を寄せている。
だが、その思いを言葉には出すことなく淡々と続けた。
「私も、ラーファエルは緋の竜の中核を担う人物と目星をつけている。むろんその行方を追ってもいる。だが、一向に消息を掴むことはできていない。その神出鬼没のラーファエルが、ヨルマと繋がっているというのか…。それが事実なら、確かに現時点でヨルマを捕らえるのは尚早かもしれぬ。して、ラーファエルはどこにいるのだ? この東壁にいるのか?」
イヴァールは首を横に振る。
「そこまではまだ把握できておりません。何しろ神出鬼没の男ですから…。ですが、糸口はヨルマにあります。ラーファエルにたどり着くためには、ヨルマの動向を探る必要があるのです」
エルヴィーラは、口を引き結び目を細めた。内心では、ヨルマの拘束と、ラーファエルの追跡とを秤にかけている。
やがて諦めたような息を小さく吐き出した。
「わかった、敵の全貌を掴むためには、確かにヨルマを泳がせる必要があるな。今はニルス=アクラスだけで手を打つとしよう」
「ご配慮、痛み入ります」
イヴァールは、恭しく膝を折る。
エルヴィーラは、首を垂れたイヴァールの頭をじっと見下ろした。
「だが、一つだけ貴殿に心にとめておいていただきたいことがある」
その言葉に、イヴァールが顔を上げる。
「実は、私の娘イリーナが行方不明になっている。コルホネンに捕らえられた可能性が高い。ニルス=アクラスがその辺りの事情を知っていればよいが、奴はコルホネンと接触していた形跡がない。つまりニルス=アクラスがイリーナの消息を知っている可能性は薄いのだ。だからコルホネンが死亡した今、奴と繋がっていたヨルマからイリーナの情報を引き出したかった」
イヴァールは、目を見張った。
エルヴィーラは、言い終えるなりぐっと口を引き結ぶ。
その目の奥には、娘を思いやる母親としての思いと、東壁当主としての責務とがせめぎ合い葛藤するさまが見て取れた。
しかし、再びイヴァールを見下ろしたその目からは葛藤の色は払拭されている。
「しかし、だからといって私情を優先させるつもりはない。クーセラ卿の意見は正しい。ただ知っておいてほしかっただけだ。おそらくイリーナは、まだこのキッティラ近辺にいるはずだ。その事実だけでも心にとめておいてほしい」
垣間見せたイリーナを心配する親心に無理やり蓋をすると、エルヴィーラは東壁当主という立場に戻っていた。
強い眼差しで、片ひざを折っているイヴァールを見下ろす。
「こちらでもあの男には間者を張り付かせてもらう。そちらが手に入れた情報は、その都度我々にも報告してくれ。こちらの情報もノルドグレン卿にお渡しする」
イヴァールは、もう一度恭しく首を垂れた。
「かしこまりました。連絡手段についてはこちらで手配いたします。そして、これは厚かましいお願いではありますが、今共有しました情報はベイルマン辺境伯爵の胸の内にとどめておいていただきたく存じます」
イヴァールは、この件は他言無用、情報漏洩がないようにとくぎを刺しているのだ。
内通者の存在を危惧しての言葉だったが、聞きようによっては東壁の体制を信頼していないと言っているようなものであり、無礼な話であった。
だが、エルヴィーラは不満を見せることなく了承する。
「無論だ。敵の魔の手が、そこかしこに潜んでいることを私も承知している。貴殿の憂慮も頷ける。情報は慎重に取り扱おう。私自身も、つい先日ノルドグレン卿から教会内に潜む敵パウルス枢機卿の存在について知らされたばかりである事だしな。それにしても恐ろしいことだな。敵はトゥルク王国の中枢だけでなく、すでに教会上層部にまで食い込んでいるのか。かなり深刻な状況だ」
イヴァールは深刻な表情でうなずいた。
「敵は、すでに何十年も前から準備をしていたようです。一筋縄ではいかぬ相手です」
「そうか…」
エルヴィーラは顎をつまんで考え込む。
やがて、おもむろに口を開いた。
「実は、つい先日我々も新しい情報を手にした。もしかしたらすでにそちらも承知している情報かもしれぬが…」
そう前置いて続ける。
「緋の竜が誘拐した人間の運搬に使っている闇経路が、例の薬の流通にも使われている形跡がある。サジーの販売、流通に緋の竜が噛んでいる可能性が高くなった」
イヴァールは、やはりといった顔で目を細めた。
「確かにこちらの調査でもそれを裏付ける報告が上がっています。ラーファエルについての調査で、奴が薬の製造部門に関与している線が浮かんできているのです」
イヴァールの言葉に、エルヴィーラは再び眉間に深いしわを刻んだ。
「ラーファエルはサジーの件にも噛んでいるのか…。いったいラーファエルは何者なのだ。あの男は今どこにいる? 誘拐に麻薬の販売。奴らは、一連の事件でいったい何を成そうとしているのだ。あやつらの動きを見る限り、王国の乗っ取りが目的とは思えぬ。私にはただ秩序を乱し、世を混乱させようとしているようにしか思えないのだ。いったいそれが何の利になるというのだ」
エルヴィーラの独り言のようなつぶやきに、イヴァールは相変わらず無表情を張り付けている。
あるいは、それらの問いにイヴァールは何らかの予測を持っているのかもしれないが、しかし、イヴァールはその問いには何も答えず、二人の間に沈黙が下りた
やがてイヴァールは顔を上げ、気持ちを切り替えると淡々と口を開いた。
「サジーについてですが、最近西壁の自由都市ナーンタリにおいて売買が活発に行われている形跡があります。これは私の個人的な見解ですが、ナーンタリに教会とサジーを繋ぐ糸口があるのではないかと考えております」
「ナーンタリか…。あそこは次期教皇候補の一人、エーミル大司教の支持基盤がある都市だな」
イヴァールは頷いてあとを続けた。
「エーミル大司教はナーンタリの参事会員。そして、自由都市商工業組合とのつながりも深い人物です。しかも、エーミル大司教はトゥルク王国との繋がりも疑われております。きな臭い人物であることは間違いありません。今のところエーミル大司教と緋の竜を関連づけるような証拠はありませんが、情報を精査した結果、疑いを持つことは予断には当たらないという結論に至りました」
「なるほどな…」
イヴァールは、エーミルが緋の竜に関係している可能性が高いと言っているのだ。その意見には、エルヴィーラも賛成だった。
そう考えれば、一連の動きに納得のいくことが多い。
「では、こちらもカルヴァイネン卿と連絡を取り、至急エーミル大司教の周辺調査に着手する。むろん情報の取り扱いには細心の注意を払おう」
「よろしくお願い申し上げます」
イヴァールが慇懃に首を垂れると、二人の話は終わった。そのままウィルヘルミナたちの元へと歩き出す。
その道すがら、不意にエルヴィーラが口を開いた。
「そういえば、ウィルヘルミナ嬢は息災でお過ごしか?」
唐突にふられたその話題に、イヴァールは珍しく動揺を見せる。
とっさに取り繕うこともできず、まん丸に見開いた眼でエルヴィーラを振り返った。
すると、してやったりとばかりに悪戯っぽく笑うエルヴィーラと視線が合う。
イヴァールは、エルヴィーラのその態度から全てを悟ると、これまた珍しく敗北を認めたように深いため息を吐き出した。
エルヴィーラが、面白そうにくつくつと喉を鳴らす。
「お元気そうで何よりだ」
イヴァールは頭痛を覚えたように額を抑え、首を左右に振った。
「あの姿はどうぞお忘れください。いずれきちんと正してまいりますゆえ」
エルヴィーラが楽しげに声を上げる。
「クーセラ卿のそのようなお姿を目にできるとは、思ってもみなかったな。貴重な体験をさせていただいた。実に愉快な方だなウィルヘルミナ嬢は」
「どうぞそれ以上はご勘弁を。私の不徳の致すところでございます」
家庭教師としての自分の立場を思い出し、情けないほど落ち込んだ様子のイヴァールを見て、エルヴィーラは気の毒に思ったのかようやく矛を収めた。
「そのように仰るものではありませんよ。私は彼女に好感を抱きました。彼女は、自然体で人を引き付ける魅力を持っている。それは、上に立つものとして一番必要な才能です。真っ直ぐなよい子ではありませんか。ご自身の逆境を悲観するわけでもなく、あのように立派に進んでおられる。何より、他人の事を思いやることができるのは素晴らしいことだ」
「どうかそのようにお褒めになるのはやめてください。本人が聞けば額面通りに受け取り、増長するだけですので。この状況ゆえ、今すぐにあの態度を改めさせることは無理ですが、今後必ず立場をわきまえた立ち振る舞いを叩き込んで見せますゆえ、どうぞこの度の事はお忘れください」
普段はひた隠している腹の内を、めずらしく吐き出したイヴァールを見て、エルヴィーラはまたしても声をあげて笑った。
だが、笑いを収めると真顔に戻る。
「ところで、ウィルヘルミナ嬢をヨルマと接触させて問題はないのか? これは推測だが、ウィルヘルミナ嬢にヨルマが敵であることを知らせてはいないのだろう?」
一連のウィルヘルミナの態度から、エルヴィーラはそう察していた。
だが、ヨルマは危険な男だ。
ウィルヘルミナにも知らせておくべきではないかと言っているのだ。
「その辺りはご心配なく。こちらが不自然な態度をとって、逆にウィルヘルミナ様に目をつけられる方が厄介です。確かにウィルヘルミナ様に、ヨルマの事をはっきりと申し上げてあるわけではありませんが、敵の存在については臭わせてあります。たぶん、そこから真実を導き出すのはそう難しくないはずです。本当ははっきりと名前を教えてもよいのですが…あの通り演技のできる方でもありませんし、あの方には余計な情報を与えず自然に任せておくのが一番と判断したのです。それに、もし仮に、ヨルマと相まみえる事態に陥ったとしても、ヨルマ程度の男、あの方の敵ではありませんよ」
自信をもって返す様に、エルヴィーラは感心する。
「なるほど信頼していらっしゃるのですね」
「はい」
イヴァールがはっきりとうなずくさまを見てエルヴィーラは微笑みを浮かべた。
「いらぬ心配でしたな。ですが、こちら側としても陰ながらできる限りの援助をさせていただきましょう。ウィルヘルミナ嬢は、今後の北壁に絶対に必要なお方であるゆえ」
二人は、次期北壁当主としてのウィルヘルミナの存在をはっきりと意識していた。
もっとも、当人が知れば頭ごなしに否定し、必死に辞退を申し出るに違いない未来図であったが、しかしこの時ウィルヘルミナはこの場にはいない。
おかげで、イヴァールとエルヴィーラの脳裏では、ウィルヘルミナが北壁当主の座に収まっている姿が、もはや確定事項として描かれていた。
「ウィルヘルミナ嬢の統治の腕前、今後じっくりと拝見させていただきましょう」
イヴァールも、めずらしく微笑みを浮かべてうなずく。
まだ訪れてはいない未来を、二人は希望をもって想像していた。




