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ウィルヘルミナは、意識を失ったニルス=アクラスに近づいて見下ろす。
「まさか…死んでねえよな…」
地面に横たわるニルス=アクラスをのぞき込み、恐る恐るといった様子で呼吸を確かめた。
生きていることを確認するとホッと息をつく。
(びびらせんなよ、死んだかと思った。あー焦った)
ウィルヘルミナは、イルマリネンを振り返った。
「なあイル、お前こいつに何をしたんだ?」
「この者の魔力を一時的に枯渇させておいた」
ウィルヘルミナは片眉を跳ね上げる。
「魔力を枯渇させる? そんなことできんのか?」
「できるぞ。だいたい一週間くらいは下位の魔法も使えないはずだ」
イルマリネンは両腕を組み、得意げな表情になった。
『どうだ、凄いだろう。褒めてくれ』と言わんばかりのイルマリネンの態度に、ウィルヘルミナはひきつった表情を浮かべ半眼になる。
(確かに凄いし、助かったんだけど…。なんだろう、素直にほめたくねー)
ウィルヘルミナが視線を彷徨わせ、感謝の言葉を告げるべきかどうか悩んでいると、イルマリネンがずいと顔を近づけてきた。
「どうだ、私は頼りになるだろう」
満面の笑顔で、念を押すかのように問いかけてくる。
ウィルヘルミナは背をのけぞらせ、顔を遠ざけた。
「ま…まーな」
心底嫌そうに渋々ながらもそう答えると、イルマリネンはそうだろうとうなずく。
「では褒美をくれ」
「は? 褒美? なんだよそれ。オレはお前にやるようなもの、なんも持ってねーよ」
「大丈夫だ。ある」
イルマリネンは、にっこりと非の打ちどころのない笑みを浮かべた。
その笑顔が、ウィルヘルミナにはどうも胡散臭く感じられて、何だか嫌な予感がしてならない。
「…あるって…何が…?」
恐る恐るといった体で聞き返すと、イルマリネンがウィルヘルミナの手を取った。
「正式な契約をしよう。お前と血の契約を結びたいのだ」
「はぁ!? 血の契約!? 冗談じゃねーよ、やだかんな、オレはぜってーやだっ! だいたいなんでオレがお前とそんなもん結ばなきゃなんねーんだよ。そもそもオレは、お前と契約を結ぶと言った覚えはねえ。今のこの契約はお前が無理やり勝手に結んだものだ。オレには関係ねえ」
ウィルヘルミナは腕を振り払おうとしたが、イルマリネンは掴んだまま放さない。
イルマリネンは不服そうに眼を細めた。
「お前はひどいな、私を利用するだけ利用しておいてそんなことを言うのか」
痛いところを突かれ、ウィルヘルミナはぐっと言葉を詰まらせる。
空いている方の手で髪をかき上げながらため息を吐き出した。
「確かに、お前のおかげで助かったよ。今回の事もそうだけど、ベルの件でも助かってる。お前には感謝してる」
「だったら――――」
「ちょっと待て、話は最後まで聞け」
ウィルヘルミナはイルマリネンの言葉をさえぎる。
「でも、それとこれは別問題だから。さっきも言った通り、そもそもオレは、お前と契約を結ぶなんて言った覚えはねえ。この契約は、お前が勝手にしたものだ。オレは、そこからして納得できていねえ」
そう言ってから、ウィルヘルミナは隙をついて力づくで腕を振り払い、両腕を組んでイルマリネンを睨みつけた。
「だから、お前には感謝してるけど、これ以上わけのわかんねえ契約をするつもりはねえから。だいたい血の契約ってなんだよ? めっちゃ物騒でヤな響きがすんだけど」
ウィルヘルミナは眉根を寄せ、恐ろしげに両手で自分の体を抱きしめる。
すると、エルヴィーラが横から口をはさんできた。
「血の契約とは、通常の神獣契約よりもずっと繋がりの強い神獣契約の事だ。人間側に様々な恩恵をもたらすことになる。代表的な利点は、人間側が神獣に提供する魔力量を減らせることだな。神獣の力を行使するための負担を減らすことができるのだ。あとは血の契約を結んだ契約者の血縁――――つまり子孫とも契約を継続することができるようになる。むろん継承に当たっては、神獣側の承認も必要だがな」
横から聞こえたその声に、ウィルヘルミナはハッと我に返った。
(やっっっべ!!)
イルマリネンが相手だったこともあり、つい油断してしまい、素の状態で返していたことにようやく気が付いたのだ。
ウィルヘルミナは、こぼれ落ちそうなほどに目を見張り、愕然とした表情のまま固まってエルヴィーラを凝視する。
そんなウィルヘルミナの表情を見たエルヴィーラは、一度面食らった表情で眼を瞬かせてから、思わずといった様子で苦笑した。
ウィルヘルミナの心情を、その表情から悟ったのだ。
ベルンハートはというと、やれやれとばかりの呆れ気味にウィルヘルミナを見ており、イヴァールに至っては、無表情ではあるのだが、どこかどす黒い怒りの気配を滲ませている。
イヴァールは、ウィルヘルミナの先ほどまでの口調をいまだ快く思っていないのだ。
様々な感情が交錯する中、フェリクスが動き出しウィルヘルミナの肩に手を置く。苦笑を浮かべながらエルヴィーラを見上げた。
「母上、普段のレイフは、このように嘘もつけない気さくな男ですが、わきまえるべき時はきちんとわきまえることのできる男です。人柄は私が保証します。そして魔術も剣技もずばぬけて素晴らしい。文句なしの一流の腕の持ち主です」
フェリクスが『男』と断言したことで、エルヴィーラは複雑な表情を浮かべた。わずかに首をかしげてしばし考え込む。
エルヴィーラは、これまでレイフ・ギルデンはウィルヘルミナ・ノルドグレンの仮の姿であると思い込んでいた。
しかし、契約している神獣がノーンハスヤではなく未知の人型の神獣であったという事実と、北壁の令嬢にあるまじき言葉遣いをしている現実とを突きつけられ、自分の思い違いであったのであろうかと迷いはじめていた。
ラウリ・ノルドグレンの実直さを知っているエルヴィーラは、ラウリが孫娘にこのような言葉遣いをすることを許すはずがないことも知っていた。
しかし――――。
エルヴィーラは、しばし思考を止めてイヴァールを一瞥した。
教会に所属しているイヴァールが、ラウリの腹心であることをエルヴィーラは承知している。
そして、イヴァールがウィルヘルミナを睨んでいるという事実にも着目した。
(いつも鉄壁の冷静沈着さを誇るイヴァール・クーセラが、こうも分かりやすく気色ばみ、『レイフ・ギルデン』を睨みつけているのだから、知己という事は間違いないのであろう。それに眼帯も神獣眼を隠すためのものであるはずだ。やはりレイフ・ギルデンはウィルヘルミナ・ノルドグレンに違いないはず)
エルヴィーラはそう結論付け、再び視線をウィルヘルミナへと移した。
「実に面白いな」
あの堅物で有名なラウリの血縁であるとは到底思えず、エルヴィーラは思わず声を上げて笑う。
常に冷静沈着でめったに表情を変えないことでも有名な、イヴァールの鉄仮面すらも簡単にはぎ取ってしまったという驚きも、その笑いには含まれていた。
(何? なんで急に笑い出したんだ? 面白いってオレが? いや全然面白くねーだろ。笑わせるようなことをした覚えも全くねーぞ)
ウィルヘルミナは、つい先ほどまでどうやってこの場を誤魔化そうかと追い詰められたような表情で固まっていたのだが、笑われたことで心境が変わり、不思議そうに首をかしげる。
何故笑われているのか、まるで理解できず、怪訝な表情でエルヴィーラを見上げていた。
エルヴィーラは、笑いを収めると視線をめぐらしニルス=アクラスに向ける。
「レイフ、君の神獣はかなり優秀なようだ。王家に巣食う怪僧ニルス=アクラスをこうも簡単に無力化することができるのだから。しかも、これだけの実力を持つ神獣を召喚しておきながら、魔力不足を起こしていないことにも脱帽する」
ウィルヘルミナは、神獣召喚をしながら、今も変わらず生徒たちを守るための地界魔法を維持していた。
エルヴィーラは、そのことを言っているのだ。
エルヴィーラは、呆然と立ち尽くしている部下たちに、ニルス=アクラスを拘束するように指示を出す。
魔術師たちがニルス=アクラスを拘束しはじめたことを確認してから、再びウィルヘルミナに視線を戻した。
「それに、神獣側から人間に対して血の契約を希望されるという話も聞いたことがない。さらには、その契約を断る人間が居ようとは思いもよらなかった」
そこで一度言葉を切ってから、まっすぐウィルヘルミナを見つめる。
「欲がないな、君は」
(前にもベルに同じこと言われたことがあるな。別にそういうわけじゃねーんだけど…)
ウィルヘルミナは、困ったように後頭部を掻く。
「欲がないわけではないのです。ただ、欲の方向性が違うというかなんというか…。契約を断ったのは、ただ単に面倒なことが嫌だっただけで、たぶんベイルマン辺境伯爵が想像しているような話ではありません」
口調を『レイフ』に戻してそう言った。
(だってこの人は、イルがどんだけぶっ飛んでる奴か知らねーんだもんな。こいつまごうことなきサイコパスだから。イルのことをもっと知ったら、この人だって絶対に断るはず)
急に顔色を悪くしておびえるような表情に変わったウィルヘルミナを見て、エルヴィーラは首を捻る。
「そうだろうか、私の想像は、あながち間違いではないと思うが。まあいい、この場は君の意見を尊重しておこう。とはいえ、老婆心ながら一つ忠告をしておきたい。せっかくの神獣からの申し出を断るのは、いささかもったいないのではないか。確かに君の魔力量は常人には計り知れぬ量で、君自身は必要性を感じていないのかもしれない。だが、これだけ力のある神獣から契約を持ちかけられるようなことは、この先ないと思う。契約しておくべきではないか?」
その言葉に、ウィルヘルミナは顔を青ざめさせて激しく首を横に振った。
(何言ってんだよこの人!? オレはぜってーにやだかんな!!)
「わ、私のような若輩者には過ぎた契約でございます。もっと精進してから改めて契約したいと思います」
ひきつった笑いを浮かべながら答える。
すると、イルマリネンが不思議そうに首を傾げた。
「精進する必要などないぞ。私は、今のお前と契約したいと思っているのだからな」
ウィルヘルミナはすぐさまイルマリネンを振り返り、ギッと睨みつける。
(お前は余計なこと言うな!!)
「その話は、また日を改めて致しましょう」
レイフの仮面を被っているが故、口調こそ丁寧だったが、しかし言外に圧力をかけていた。
イルマリネンは、苦笑しつつため息を吐き出す。
「いつもお前は私の思い通りには動いてくれないな。まあ、そこがよいのだが…。いいだろう。今回はお前の望み通り、私が退いてやる。だがこれは貸しだ。次はちゃんと返してもらうぞ」
そう言って、不敵に笑った。
ウィルヘルミナは、自らも嘘くさい笑顔を浮かべ、イルマリネンの言葉を辛辣な表情で受け止める。
(ざけんな。次だって全力で逃げるに決まってんだろ。オレは、絶対にお前の思い通りになんてならねえんだよ!!)
笑顔だというのに、ウィルヘルミナの額には太い青筋が浮かんでいた。
「さて、用件は済んだことですし、一度退場願いましょうか。私も魔力切れを起こしたくはありませんので」
口調は相変わらず『レイフ仕様』のままで丁寧だったが、その内容は全く丁寧とは言えない。
要は、さっさと帰れと言っているのだ。
イルマリネンは、またしてもため息を吐き出した。
「仕方がない、契約者の意見は尊重しよう」
『契約者』の部分をわざとらしく強調し、恩に着せるように言う。
(このやろう、さっきの話、まるで聞いてねえな。オレは契約に納得してねえっつってんのに)
「私は帰る。が、その前に一つ言っておくことがある。たいした害はないので放置してあるが、一匹ネズミが混じっているぞ。今後仲間と合流する可能性があるので、念頭に置いておくといい。まあ、お前の敵にはならん程度の雑魚だがな」
そう言って、イルマリネンはウィルヘルミナが作ったドーム型の地界魔法を一瞥した。
(ん? ネズミ? 仲間と合流って?)
考え込んでいるうちに、イルマリネンは突然姿を消す。
(って、おい!! 言い逃げかよ!? ネズミが仲間と合流するってどういう意味だよ!? ちゃんと説明してから帰れよな!! マジ自分勝手な奴!!)
ウィルヘルミナは納得がいかない様子だったが、イヴァールはその言葉の意味をすぐに理解していた。
イヴァールは目を細めてドーム型の土壁を見やる。
エルヴィーラもまたイルマリネンの言葉から何かを察し、鋭い視線を土壁に向けていた。




