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名前を呼ぶと、すぐさまイルマリネンは姿を現した。
先ほどのエルヴィーラによるタルウィ召喚の状況とは全く違い、イルマリネンは小さなつむじ風とともに突然ウィルヘルミナの前に現れる。
(やっぱ違うんだよなー。いつ呼んでも、イルはさっきの神獣みたいにカッコいい登場の仕方はしねーんだよな。格が違うのかな。それとも、イルがウソついてるのか? …なんか不安になってきた。だいたいイルの場合、自己申告で神獣だって言ってるだけだし…もしかしてやっぱオレ、こいつに担がれてんのかな?)
この期に及んで『神獣って話は嘘でした』などと言いだされたらシャレにならないとウィルヘルミナは戦々恐々となる。
しかし、そんな空気など微塵も気にすることなく、イルマリネンはウィルヘルミナをのぞきこんだ。
「どうした、人前で私を呼び出すなどめずらしいな。何かあったのか」
そう声をかけてから、周囲に剣呑な視線を彷徨わせる。
「それにしても、今日は随分と周りが騒々しいようだが、こいつらを始末でもすればいいのか?」
「な!? ちょっと待て。勝手に物騒な話を進めんな!」
反射的に素で言い返してしまってから失言にハッと気づき、ウィルヘルミナはまずいという表情で慌てて口元を覆った。
(まずい、ついいつもの調子でしゃべっちまった)
その側で、ベルンハートが頭痛を覚えたかのように額を抑えている。
東壁魔術師たちと一緒になって、ニルス=アクラスに攻撃を加えていたイヴァールも、呆れたような半眼になってウィルヘルミナを一度だけ振り返った。
イヴァールは、トーヴェからの報告でウィルヘルミナが神獣契約を済ませていることを知っていた。そのためそれほど驚いた様子はない。
ただ、ウィルヘルミナの軽率な言動には心底呆れかえっていた。
イヴァールは頭痛を逃がすように頭を振り、小さくため息を吐き出すと、すぐに諦めた様子で視線をニルス=アクラスに戻して攻撃しはじめる。
ニルス=アクラスは、何か特殊な呪術を用いているのか、イヴァールの桁違いな魔法をもってしても守りを突破することができず、膠着状態に陥っていた。
周囲が緊迫した状況の中、ウィルヘルミナはというと、恐る恐るといった様子でエルヴィーラを見た。
案の定エルヴィーラは驚いた顔でウィルヘルミナを見下ろしている。
(やべー、やっちまった。くそ、イルのせいだ)
イルマリネンをギロリと睨みつけてから、ウィルヘルミナは体裁を整えた。
「その…ゴホン、えー申し訳ありません。失礼いたしました。ええと、実はこの者が私の契約している神獣です」
(頼むぞ、これ以上変なこと言うなよな、イル!)
ウィルヘルミナは、視線でイルマリネンを脅す。
だが、イルマリネンは意味が分からないとった様子で首をかしげていた。
「どうした、どこか具合でも悪いのかウィ――――」
イルマリネンが言いかけたその刹那――――。
ウィルヘルミナはゴスッとイルマリネンのみぞおちに肘を入れ、強制的に黙らせる。
(余計なこと言うんじゃねえっつってんだろ!)
腹を押さえてうなだれるイルマリネンに、ウィルヘルミナは般若の形相で無言の圧をかけた。
それを見ていたベルンハートが、さらに深いため息を吐き出す。
(てめ、ベル! オレは悪くねーだろ! お前どっちの味方なんだよ!?)
素早い動きでベルンハートを振り返り、今度はベルンハートを睨みつけた。
ウィルヘルミナの地を知っているフェリクスは、色々と誤魔化そうと必死になっているウィルヘルミナを見て苦笑する。
「無理に取り繕わなくても大丈夫だぞレイフ、母上には私から説明してある。レイフとベルンハートは主従ではなく友人なのだとな。それにしても、お前の契約した神獣は人型なのだな」
フェリクスは感慨深い表情で、不服そうに腹をさするイルマリネンの顔を見上げていた。
エルヴィーラの驚きもまた、フェリクスと同じ理由であったのだが、ウィルヘルミナだけは一人ずれた懸念を抱いたままだった。
(なんかオレ自信なくなってきた…。イルの奴、本当に神獣なんだろうな。嘘ついてねえだろうな)
そんなウィルヘルミナをよそに、フェリクスは感心したようにつぶやく。
「神獣眼か…、人型であってもやはり神獣の目は黒いのだな…」
タルウィの目も漆黒だった。
イルマリネンの目もまた夜空のような美しい漆黒をしており、その目を見上げたまま、フェリクスは呆けたように立ち尽くす。
すると、イルマリネンは不快気に眉を顰め、冷たい眼差しをフェリクスに向けた。
見られていることを、心底嫌そうに顔をしかめている。
不愉快そうに歪めたその視線を、そのままぐるりと周囲に滑らせ、周りの人間を威圧するように見回した。
「こいつらはなんなのだ? いったい何を望んで私を呼んだのだレイフ・ギルデン」
イルマリネンは『レイフ・ギルデン』と呼んだ部分だけ口調を変えている。しぶしぶそう呼んでいる気配はぬぐえない。
ウィルヘルミナはため息をついてからイルマリネンを見上げた。
「力を貸してほしいから呼んだ」
「どんな力を貸してほしいのだ」
「えーとそれは…」
一瞬だけ迷うように視線を彷徨わせたが、すぐにイルマリネンに戻して続ける。
「あそこにいる奴を…できるなら捕まえたい」
そう言って、ニルス=アクラスを指さした。
ウィルヘルミナには、どうしても『殺す』という言葉は使えなかった。
たとえどんなに難しい状況であっても、それは最後まで使いたくない手段だ。
「あいつが呪術を使っているせいで近づけないんだ」
するとイルマリネンは、事も無げにうなずいた。
「なるほど、あの男が使っている奇妙な術を無効化して捕まえろということか。わかった」
ウィルヘルミナは、驚いた様子でイルマリネンを見上げる。
「できるのか?」
「造作もない事だ」
イルマリネンは、ニルス=アクラスに向けて片手を上げた。
聞き取れないような小さな声でイルマリネンが何かをつぶやくと、ニルス=アクラスの足元に見たこともない魔法陣が幾つも浮かび上がる。
すると、それまで何の揺らぎも見せなかったニルス=アクラスに変化が現れた。フードを被っているため表情までは読めないが、かなり動揺している様子だ。
イルマリネンの手によって可視化され、浮かび上がったいくつもの魔法陣は、目を焼くようにひときわ鮮烈に輝く。
そして、イルマリネンがあげていた手を固く握りしめると、一拍おいてガラスが砕け散るかのようにして魔法陣が消え失せた。
同時に、魔術師を焼き尽くさんとしていた消えない炎も消え失せる。
炎にさいなまれていた魔術師の側にいた者が、ハッと我に返り、慌てて聖界魔法で治療しはじめた。
イルマリネンの力を見せつけられた一同の間には、稲妻のような衝撃が走る。
それは、魔術師たちはおろか、エルヴィーラも、イヴァールも、ニルス=アクラスまでもが例外ではなかった。
全員が驚きに立ち尽くす中、イルマリネンはゆっくりと動き出す。
「あとは捕まえるだけだな」
事も無げに言い放ち、真っ直ぐニルス=アクラスへと歩み寄った。
ニルス=アクラスは、恐怖からか一歩あとじさる。
そして、死に物狂いで魔法を唱え始めた。
「オクトラリアッハ」
「アム・ムト」
「クルセドラ」
火界三位魔法、闇界二位魔法、風界四位魔法。
どれもこれも、受ければひとたまりもない一流の攻撃魔法ばかりだ。
しかし、イルマリネンはその魔法をよけることなく全て浴びたが、体に傷一つ負うことはない。
まるで、頬にかかった一筋の髪を鬱陶しがるかのように首を横に振り、攻撃を微風でも感じるかの如くに受け止めた。
そして、呆然と立ち尽くすニルス=アクラスの前で立ち止まり口を開く。
「そう怯えることはない。生け捕りと言われているからな、殺しはしない」
言いながら、ピンと伸ばした人差し指を下におろすような動作をした。
その刹那、ニルス=アクラスの体が、何かに押しつぶされるかのように地面に突っ伏す。
同時に、ゴキリと鈍い音が聞こえた。
「がはっ!!」
ニルス=アクラスは、咳込みながら血を吐き出す。
それを見たウィルヘルミナが慌てた。
「な!? イル!? ちょ、何やってんだよ!?」
イルマリネンは、首をかしげながら振り返る。
「捕まえるのだろう? 無駄な抵抗ができなくなるようにしているだけだ。こいつが使う技は異質で、お前に害を与えかねないからな」
「まてまてまて、年寄りに乱暴すんなよ。普通に捕まえればいいだろ!?」
イルマリネンは、不服そうに片眉を上げた。
「年寄り? これはその枠に当てはまるものなのか? これは奇術の類で命をゆがめている存在だぞ。本来なら死んでいるはずの命を、理に逆らってつなぎとめ、あさましくも長らえているだけのゆがんだ命だ」
すると、這いつくばるニルス=アクラスが低く笑い、その目を暗くきらめかせた。
「お前ほどの神獣が、何故おとなしく人間に従っている。しかも相手は年端もゆかぬ子供。なにゆえ殺さぬのだ?」
しゃがれた声で、ニルス=アクラスがイルマリネンに問いかける。
イルマリネンは、心底嫌そうに眉を顰めた。
「お前にこたえてやる義理はない。黙るがいい」
イルマリネンが、軽く人差し指をはじく。
すると、またしてもニルス=アクラスが血を吐き苦しんだ。
「お前の魂は濁り過ぎている。お前のように醜くあさましいものは、存在するだけで不愉快だ。殺さないでやることを感謝するがいい」
イルマリネンがそう言い放つと、ニルス=アクラスの体が一瞬だけ輝いた。
その光が消えると同時に、ニルス=アクラスは力なく体を大地に投げ出す。
ニルス=アクラスは気を失っていた。




