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ウィルヘルミナが作ったドーム型地界魔法の内側では、ペテルが怯える生徒たちを宥めていた。
真っ暗闇では生徒たちが増々怯えるかもしれないと、ペテルは荷物の中からランプの魔法具を見つけ出して明かりをともす。
漆黒の闇に塗りこめられていた土壁の内部を、ペテルの持つランプの明かりがほんのりと照らし出した。
「大丈夫だ。ここは安全だ。もう何も心配はいらない」
ペテルが穏やかな口調でそう語りかけると、ヨルマも真似をして声をかける。
「そうですよ、安心してください。我々は必ず助かりますからね」
ヨルマは、見事に教師の仮面を張り付けていた。
内心ではかなり苛立っているのだが、それをおくびにも出さない。ペテルの言葉をなぞるようにして、上っ面だけの空々しい奇麗な言葉ばかりを並べ立てた。
だが、皮肉にもその甲斐あって生徒たちは徐々に落ち着いていく。
ペテルは、落ち着きを取り戻した生徒たちを集めると、その場に座らせた。
ヨルマもペテルに倣い、口先だけは優しく声をかけているのだが、しかし、意識は見えるはずのない土壁の外側へと向けていた。
(くそ、コルホネンの役立たずが。エルヴィーラ・ベイルマンは壁に誘導するようにと指示してあったというのに、よりにもよって、ベルンハートの一行に合流させるとは何たる失態だ。見つけたらこの手で縊り殺してやる)
まだコルホネンの死を知らないヨルマは、この時そんなことを考えていた。
本来なら、ヨルマはこの場所で密かにニルス=アクラスの援護を行う予定だった。
それは、ベルンハートとウィルヘルミナを殺すための援護だ。
魔物を使って一行を混乱に陥れ、ベルンハートとウィルヘルミナをうまく引き離し、混乱に紛れてベルンハートを殺害。
さらに、ニルス=アクラスの持っている魔法具や呪術、毒薬などを使ってウィルヘルミナを弱らせ、殺す予定であったのだ。
しかし、想定外のエルヴィーラの出現と、ウィルヘルミナが作り出したこの地界魔法とによって、その作戦の実行が難しくなっていた。
(エルヴィーラ・ベイルマンと東壁魔術師団が居ては、用意した魔物の数が足りなくなるのは必至。このままでは、せっかく準備した罠が全部無駄になってしまう。これも全てコルホネンのせいだ。あいつがこんな失態をひきおこしたりするから…。くそっ、ニルス=アクラスは何をしているのだ。せめてあいつがもっと早くに行動に起こしておけば、こんな事態は回避できたというのに!)
ヨルマは、焦燥感を覚えながら奥歯を噛む。
(くそ…絶対にこのままでは終われぬ。何とかして外に出て、ベルンハートだけでも殺さなければ…。だがどうやって…)
パウルス達とも相談の結果、イヴァールのラハティ教会学校への移動の目的がはっきりしない現状では、不安要素は排除しておくべきという結論に至っていた。そのためベルンハート殺害の優先度は高くなっているのだ。
ヨルマはすでに一度パルタモでベルンハートの殺害に失敗している。このうえ再度失敗するようなことになれば、パウルスやラーファエルからの叱責と糾弾は免れない。
それは、ヨルマにとってとてつもない屈辱だった。
その場面を想像しただけで身を焦がすような怒りと焦燥とを覚えたが、しかしその感情を見事に覆い隠す。
表面的には生徒を落ち着かせるための奇麗な言葉を並べ立て、しかし、その目は鋭く土壁を睨みつけていた。
土壁の外側では、東壁の精鋭たちが魔物を狩っていた。
ウィルヘルミナは、自らが地界魔法で作ったドーム型の土壁のそばに立ち、地界魔法を維持している。
ウィルヘルミナの側には、エルヴィーラが残っていた。
ベルンハートもまたウィルヘルミナの側にたたずみ、さらにその隣には、疲労の色の濃いフェリクスとイッカが地面に片膝をついた状態でいた。ベルンハートたち三人は、一時的な休息をとっているのだ。
エルヴィーラが、馬上からそんなフェリクスをちらりと一瞥する。
「フェリクス、精進が足りぬぞ。この程度の事でそのざまとは不甲斐ない」
エルヴィーラの言葉に、フェリクスは勢いよく顔を上げた。
「まだやれます! 見ていてください!」
フェリクスは肩を上下させ、荒い息のもとそう言い返すと、流れ出る汗を手の甲で拭いつつ立ち上がる。
ウィルヘルミナは、信じられないという表情に変わり、エルヴィーラを凝視した。
(おいおい、明らかにへばってるだろ。この状況でそんな風に煽ったら、フェリクスは無茶して怪我するに決まってる。正気かこの母親)
ウィルヘルミナは、勢いのまま飛び出そうとするフェリクスの腕をとっさに掴んだ。
「フェリクス様、もう少し頭を冷やしたほうがよろしいですよ。そんなに熱くなったまま魔物の群れに向かっていっては、かえって怪我の元です」
フェリクスは、はじかれたようにウィルヘルミナを振り返って睨みつける。
「私なら大丈夫だ! まだやれる!」
むきになって言い返すフェリクスを見て、ウィルヘルミナは頭痛を覚えた。
(だからそのやる気が危ないんだって…)
ウィルヘルミナは、強引に腕を引っ張ってエルヴィーラの死角に移動し、フェリクスを引き寄せ、こっそりと耳打ちする。
「だから、少し落ち着けって。お前今、空回りしてっからな。そんな状態で突っ込んでったってろくなことにならねえぞ。もっと冷静に状況判断しろよ。ちょっと煽られたぐらいでそうカッカするな。そんなんじゃ母ちゃんにいいところ見せられねえぞ」
「べ、別にそういうわけではない」
フェリクスは不服そうに言い返したが、しかし説得力はあまりなかった。
「ふーん、ならそういうことにしておいてやってもいいけど、とにかく一旦落ち着けよ、な?」
フェリクスは押し黙り、ちらりとエルヴィーラを見る。
エルヴィーラの視線はすでにフェリクスを離れていた。その双眸は魔物たちの群れへと向けられている。
それを見たフェリクスは、がっかりしたようなため息を吐き出した。
ウィルヘルミナは、そんなフェリクスの背中を慰めるように叩く。
「そう落ち込むなよ。お前は十分よくやった。幸い今は東壁魔術師団のおかげで形勢はこちっが有利になってる。お前が無理しなきゃならねえような状況じゃねえよ。だから今は少しだけ休め、な?」
諭すように声をかけると、フェリクスはやや落ち込みながらも素直に頷き、やがて視線を魔術師たちへと向けた。その戦いぶりを刻み込むように、じっと見つめる。
ウィルヘルミナは、そんなフェリクスを見て小さく笑った。
(ようやく頭が冷えたか。よかった。実際、フェリクスもイッカもベルも、みんなよくやってるよ。正直言って、ここまで魔物と渡り合えるとは思っていなかったもんな。想像していた以上の働きぶりだった。ただ、フェリクスの母ちゃんの求めるものが高すぎるだけなんだよな。うちの爺さんと同じで、理想が高すぎんだよ)
ウィルヘルミナは肩をすくめつつエルヴィーラを見る。
エルヴィーラは厳しい表情で陣頭指揮を執り、的確に指示をとばしていた。
さらに、必要に迫られた時は自らも魔法を駆使して援護をしている。
それは、ウィルヘルミナも脱帽するほど見事な手腕だった。
(さすがだな。よく連携が取れてる。みんな無駄な動きが一つもねえ。おかげで魔物の数もどんどん減ってる)
劣勢だったはずの状況は、あっという間にひっくり返されている。
魔物が狩り終わるのも、もはや時間の問題だった。
だが――――。
(うーん、けどなんか変な感じなんだよな…どうもしっくりこねえ。このまま終わるような気がしねえんだよな)
ウィルヘルミナは、漠然とした違和感のようなものを覚え、考え込むようにして首を捻る。
(考えてみると、そもそもここは内地で、いくら壁蝕だからって、こんな大量の魔物が出没すること自体がおかしい。腑に落ちねえことだらけなんだよな…。もしかしたら、この状況はあらかじめ周到に用意されてる可能性もある。やっぱ油断は禁物だよな。用心するに越したことはねえ)
そう考え至り、ウィルヘルミナはベルンハートの前に移動して、背中に庇うようにして立った。
「レイフ、どうした? 何かあったのか?」
ベルンハートが怪訝な表情を浮かべて問いかけるが、ウィルヘルミナは首を横に振り、曖昧に濁す。
これはただの直感に過ぎず、今の時点で説明するのは難しかった。
ただ、やはり不穏な気配が漂っているのは事実で、どこか居心地の悪い焦燥感に似た何かがせりあがってくるのを覚える。
ウィルヘルミナは周囲に鋭い視線を彷徨わせた。
(オレってこういう嫌な予感に限って当たるんだよな。やっぱ絶対何かあるぞこれ…)
そんなことを考えたその時の事、無風状態だった周辺に、異変が起き始めていた。
遠くで木々がざわめき、風がざわざわと梢を打ち鳴らしはじまる。
突然巻き起こった風は、ウィルヘルミナたちに向かって吹きよせてきた。
その直後―――――。
ウィルヘルミナの鼻腔が、かすかな香りを嗅ぎ取る。それはかぐわしい花のような香りだった。
(なんだ…? なんで花の匂いが……? っ!?)
ウィルヘルミナはそこまで考えて、はじかれた様に顔を上げる。
そして、周囲で戦う魔術師たちに向かってすぐさま声を張り上げた。
「呼吸に注意しろ!! 薬だ!! 何か薬が使われているぞ!!」
その声に反応して、魔術師たちはすぐさま口元を覆う。
その刹那、辺り一帯を吹き渡った風にのって、バラに似た花の香りが漂いはじめた。
エルヴィーラも口元を抑え、険しい表情でつぶやく。
「眠り薬か」
ウィルヘルミナは反射的に風界魔法を唱えた。
「ニシュムバ」
自らの頭上を狙って風界魔法を放つ。
八位魔法だが、効果は絶大だった。練度の高いウィルヘルミナの魔法が、すさまじい威力を発揮する。
鋭い風の刀が、大型の魔物もろとも辺り一帯の木々を薙ぎ払い、薬の混じった空気をかき混ぜ吹き飛ばした。
薬によって引き起こされる毒や麻痺、睡眠などは、聖界魔法では根治できない。
魔法使用者の練度によって、ある程度効果を薄める働きは期待できるのだが、完全な解毒はできないのだ。
そのため、風界魔法を使って周囲に漂う薬を散らしたのだ。
ウィルヘルミナの魔法を見て、エルヴィーラは驚いた表情でウィルヘルミナを振り返る。
「今の風界魔法はかなり練度の高い魔法だ。しかも地界魔法を維持した状態で、これだけ威力のある風界魔法を使えるとは…恐れいった。その年で、よくぞここまで精進したものだ」
エルヴィーラは称賛したが、ウィルヘルミナの耳にその称賛は届いていなかった。
目は暗い森の奥に定められている。薬をまいた犯人を捜しているのだ。
(まずいな、この場にいる全員が薬を吸ってる。オレは薬に耐性があるからいいけど、他の人たちはわからねえ。早く敵を見つけて決着つけねえと)
そんなウィルヘルミナの心配を察したのか、エルヴィーラが口を開いた。
「心配には及ばぬ。我々は薬に対しての耐性がある。簡単に意識を失うようなことはない。とはいえこの状況はよくないな」
エルヴィーラもまた、鋭い眼差しを森の奥に潜む敵に向けた。
そして、魔法を唱える。
「タルウィ」
ウィルヘルミナは、怪訝な表情をエルヴィーラに向けた。
(なんだ? 魔法か? けど、聞いたことねえ精霊の名前だな…)
ベルンハートも同じ思いを抱いたようで、似たような表情を浮かべてエルヴィーラを見上げる。
イヴァールの耳にもその名は届いており、無表情のまま少し離れた位置からちらりとエルヴィーラを振り返っていた。
その一方で、それとは対照的にフェリクスは驚愕の表情を浮かべている。おそらくフェリクスは、その魔法が何であるのか知っているのだ。
反応の異なる一同の視線がエルヴィーラに集まる中、突如としてエルヴィーラの頭上に渦が巻き、空いた虚空から巨大な生き物が現れた。




