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息を潜め、コルホネンの出方を待っていたエルヴィーラの耳に、突如爆発音が聞こえてきた。
それは、魔法の炸裂した音だ。
エルヴィーラは、はっと顔を上げて音のした方向を見やる。
一瞬だけ逡巡したが、すぐに馬の腹を蹴って走り出した。
その後を、魔術師たちがついてくる。
(もし罠を張るならば、もっと違う誘き寄せ方をするはずだ。あれは魔法の炸裂音。おそらく誰かがこの近辺で緊急事態に遭遇し、魔法を使った可能性が高い)
エルヴィーラはそう判断し動き出したのだ。
(先ほど我々は、壁蝕の前にもかかわらず魔物に遭遇している。恐ろしいことだが、この周辺には他にも魔物が潜んでいる可能性があるということだ。もし魔物が潜んでいると仮定すれば、無辜の我が領民が、魔物と遭遇して魔法を使った可能性も否めない。もしそうならば、何としても助けなければならない)
エルヴィーラは、そんな思いを胸に風のように森の中を走り抜ける。
魔法の炸裂音はなおも続いた。
(近いな)
そう思った直後、爆音が聞こえなくなる。
エルヴィーラは、嫌な予感を覚えた。
(まさか間に合わなかったのか?)
胸騒ぎを感じつつもひたすら馬を駆る。
ほどなくして、エルヴィーラの視界に衝撃的な光景が飛び込んできた。
それは、ウァプラの群れが人間をむさぼり食っている光景だ。
辺りには血の臭いが立ち込め、千切れた手足が大地に転がっている。
かろうじて原型をとどめている顔半分は、見知った人間のものだった。
「コルホネン…」
エルヴィーラは目を見開き、呆然と呟く。
(やはり杞憂だったか。人が魔物を操れるはずもない。やはりあれは偶然に過ぎなかったのだな…)
あまりにも出来過ぎたタイミングであったがゆえ、エルヴィーラはコルホネンは魔物を操る術を持っていたのかもしれないと懸念していた。
だが、魔物に食われているコルホネンを見て、それが杞憂であったことに安心感を覚える。
(そうだ、人間にそんなことができるはずもない)
エルヴィーラは、内心では安堵しつつも表情を引き締めると声を張り上げた。
「下位の火界魔法の使用を許可する。必要以上固まって行動するな。魔法具の発動があった場合は、すぐさま魔法の使用を中止して離脱せよ」
一度言葉を切ってから、エルヴィーラは剣を引き抜く。
「ウァプラを殲滅する。一匹たりとも討ち漏らしてはならぬ!」
エルヴィーラの鋭い号令で、魔術師たちが一斉に動き出した。
魔術師の一人が、周囲の人間との距離を確認してから火界八位魔法を唱える。
「シャムバ」
周りの魔術師たちの表情は、警戒するように硬かった。
襲い掛かるかもしれない痛みに備えつつ、剣でウァプラに応戦している。
だが、予想に反して魔法具の発動気配はなかった。
魔術師たちだけでなく、エルヴィーラの表情にも安堵の色が浮かんだ。
そして、その後に皆も続く。
「シャムバ」
あちこちで火界八位魔法が使用され、ウァプラの群れを狩りはじめた。
東壁魔術師団の強さは圧倒的で、ウァプラはどんどん狩られていく。
かなわぬと悟ったのか、ウァプラは反転し逃げようとしはじめた。だが、エルヴィーラたちはその背中を追いはじめる。
(本来ならばこの状況で深追いはしたくないが、しかし、ここはキッティラよりも内地。ここで魔物を討ち漏らせば、町に被害が及ぶことになる)
魔術師たちもそれを承知しているため、追捕の手は厳しかった。
それに、ウァプラを追いかけるエルヴィーラにはもう一つ気になることがあった。
先ほどエルヴィーラたちがウァプラと交戦し、魔法を使っていた最中に、そう遠くない場所で魔法の炸裂音が聞こえていたのだ。
最初こそ空耳かもしれないと思っていたのだが、ウァプラとの交戦中に数度遠くで音が聞こえていたため今は確信にかわっていた。
(この近くで交戦している者がまだ他にもいる。まずい状況だな…)
エルヴィーラの胸の内に焦燥感がせり上がってくる。
そんな思いをよそに、ウァプラは近くで交戦している周辺にいる仲間と合流しようとでもしているのか、魔法の炸裂音がしていた方向へと逃げはじめた。
(させるか)
エルヴィーラは、馬の腹をけって猛然と走り出す。
だが――――。
ウァプラは鬱蒼と木が茂った森を抜け、少し開けた場所に飛び出すと、今度は羽を使って空を飛びはじめた。
「逃がしてはならぬ! 攻撃せよ!」
弓を持つものが矢を射かけるが、ウァプラは攻撃をかわしながら逃げていく。
エルヴィーラたちは、逃げ出すウァプラを必死に追いかけはじめた。
ウィルヘルミナは、周囲の生徒たちを見回した。
生徒たちは皆怯えを滲ませており、なんとか気持ちを奮い立たせて気丈に振舞おうとしているのだが成功してはいない。
(まずいな、みんな平静を失ってる。無理もねえよな。急に魔物の群れの目の前に放り出されることになったんだから…。まださっきの恐怖から立ち直れてねえんだ。これじゃあいざって時にまともに戦えねえ)
一年生たちは一応敵を迎え撃つ体勢を整えることができているが、二年生や三年生は、今にもへたり座り込みそうだった。
まだ魔物は出現していないというのに、すでにがたがたと震え、何かきっかけがあればすぐにでも恐慌状態に陥りそうな状態だ。
(この状態じゃ、たぶん魔物が出てきた瞬間に陣形はめちゃくちゃになるな。それだったら、いっそさっきみたいに腰でも抜かしててくれたほうがましだ。勝手に逃げ惑われでもしたら目も当てられねえからな…)
ウィルヘルミナの脳裏をそんな懸念がよぎる。
(もしもの時は、生徒が散り散りに逃げださないように手を打たなきゃまずいかもしれねーな)
そう考えているうちに、周囲が急に騒がしくなった。
「来たぞ! ウァプラだ!」
フェリクスの声に視線をめぐらせると、ウァプラが空を飛んでくる姿が目に映る。
ウィルヘルミナは、すぐさま気持ちを切り替えて剣を構えた。
「サビナ」
魔法を唱えて、剣に雷を纏わせる。
そして、一人だけ走り出しウァプラ目掛けて突っ込んでいった。
一行から突出していち早く前線に立ち、ウィルヘルミナは見事な剣捌きで向かってくるウァプラを次々に倒していく。
そんなウィルヘルミナに一拍遅れて、イヴァールもまた生徒たちを守るようにしてウァプラの前に立ちふさがった。
イヴァールとウィルヘルミナの力は圧倒的で、襲い掛かるウァプラを一撃のもとに倒していく。
二人の姿を見た生徒たちは心強さを覚え、安堵の気配が広がった。
ペテル、ヨルマ、そして一年生たちも奮闘を開始する。
ウィルヘルミナとイヴァールが討ち漏らした魔物の攻撃を地界魔法で防ぎ、隙を縫って攻撃をしていった。
だが――――。
どういうわけか、魔物の数が減る気配はかった。
むしろ、何かに呼び集められているかのように、どんどんその数を増やしていく。
ウィルヘルミナは、その異変をいち早く察知していた。
(なんだ? さっきよりも群れの数が多い感じがするな…。随分魔物を狩ったはずなのに、なんで減らねえんだ? これじゃキリがねえ)
どれだけ倒しても、魔物の数は減る気配が全くない。
その事実に違和感を覚えていた。
その上、生徒たちを守りながらの攻撃のため、動ける範囲が制限されて鈍り、本来の能力が発揮しきれない。
ウィルヘルミナの中に、次第に焦燥感が募りはじめた。
そうしているうちに、ウァプラに混じって他の魔物までもが現れはじめる。
オロバス、ハルファス、オセ、サレオス、エリゴル――――。
魔物の数も種類も、どんどんと爆発的に増えていった。
(まずいぞこれ。壁際だってこんな数は一度に現れねえよ。何なんだ? いったい何が起こってんだよ!?)
焦燥感を覚えているのは、ウィルヘルミナだけではない。
ベルンハートやフェリクスなど生徒たちはもとより、ペテルさえもがその表情に焦りの色をにじませていた。
イヴァールだけは相変わらずの無表情だが、しかし、額にはうっすらと汗を滲ませている。
上級生の生徒たちにいたっては、顔を真っ青にして腰を抜かし、ひきつった顔でへたりこんでいた。
怯えた生徒が、過呼吸を起こしかけていたその時の事だ――――。
突如、辺りにたくさんの馬蹄の音が鳴り響く。
森の中から、突然騎馬の一団が颯爽と出現した。
驚く一行を尻目に、騎馬の魔術師たちは統率された機敏な動きで生徒たちの周囲をぐるりと囲んでいく。
そして、一糸乱れぬ機敏な動作で周囲の魔物を狩りはじめた。
新手の出現にウィルヘルミナも一瞬驚いた表情をしたが、しかし、すぐに人間であることに気づくとホッと安堵の息を漏らす。
(よくわかんねーけど、助かったな)
突然現れた加勢に、皆が胸をなでおろしていた。
だが、安堵の息をついたのもつかの間、フェリクスは、その騎馬集団の中に見知った人物の姿を見つけてすぐに驚きの声を上げる。
「母上!? どうしてここに!?」
突然現れた魔術師たちの指揮を執っていたのは、エルヴィーラだった。
エルヴィーラは、馬上からちらりとフェリクスを一瞥する。
「ベイルマンに名を連ねるものがいったい何をしている。不甲斐ないぞフェリクス! イッカ! 休んでいる場合ではない。さっさと剣をとって戦え。一匹でも多く魔物を狩るのだ!」
厳しい表情で鋭く言い放つなり、エルヴィーラは剣をふった。
向かってきた鳥型の魔物ハルファスを、一刀のもとに両断する。
鋭い眼光で剣を振り下ろすエルヴィーラの姿を見たウィルヘルミナは、思わず表情を強張らせた。
(こっわ! 前にフェリクスが東壁当主の母親のことを『恐ろしい』って言ってたけど、あれはガチのやつだな)
エルヴィーラは、魔物に囲まれる息子を前にして、心配するどころか不甲斐ないと叱り飛ばしている。
世間一般の母親像からは、かなりかけ離れていることが一目瞭然だ。
ウィルヘルミナは首をめぐらし、憐れむようにフェリクスを見た。
(オレ…なんか人ごとに思えねえわ…。もしオレが今のフェリクスの状況だったとしたら、絶対に爺さんに同じこと言われて怒鳴られるに決まってるもん)
確かにフェリクスもイッカも疲れが顔に出てはいるのだが、それは想定外の連戦と、魔物の多さによるもの。決して休んでいたわけではないのだ。
それを怠けていると叱り飛ばされ、さっさと戦えと尻を叩かれるのだからたまったものではない。
(フェリクスの母ちゃん鬼だな)
ウィルヘルミナは、まるで鬼神のごとく敵を屠っていくエルヴィーラを横目で一瞥した。
思いがけず現れたエルヴィーラに叱り飛ばされたフェリクスとイッカはというと、顔色を真っ青に変えながらも背筋をピンと伸ばした。
まるで鞭でも打たれたかのように、必死に魔物と戦いはじめる。
そんな二人を、ウィルヘルミナは気の毒そうに見た。
(フェリクス、イッカ、骨は拾ってやるぞ)
内心でそんなことを思われているとはつゆとも知らず、フェリクスとイッカは、必死の形相で魔物に攻撃をはじめた。




